カプチーノ






 蒼天の下、街は動き出し始めている。地下鉄の音、仕事へ向かう人の群れ、店舗のシャッターを開ける音。全てが一日の始まりを示し、爽やかな朝日に照らされる都市は躍動を開始する。
 石畳の上を歩き、シュミットはいつものカフェへと向かう。マンションの近くのこのオープンカフェで朝食を取るのは数年来の習慣で、毎朝同じ時刻に同じ席で同じ物を頼むのが彼の日課だった。この日もいつもより少し早いことを除けば全く平常通りの朝だった。
 シュミットはいつもの席へ座り、顔なじみのウエイターに軽く手を上げて挨拶すると、向こうも軽く会釈して店の中に消えた。暫くの後彼は、銀の丸盆にいつものメニューを載せてやってきた。そしてシュミットの前に並べられたのは、クリームを添えたシフォンケーキの載った皿と、ブルマンのブラックコーヒーだ。一礼して下がろうとするウエイターに一声かけて、シュミットはもう一つ注文する。

「あと五分位したら、カプチーノを持ってきてくれないか」

 それは彼の連れの分で、ほぼ毎朝のように来ているその相手のこともウエイターは知っている。かしこまりましたと頷くと、ウエイターは空になった盆を片手に踵を返した。その後姿を視界の隅に見ながら、シュミットは隣の椅子に置いてあった鞄を取り、中から小さな箱を取り出す。シンプルな包みのそれはこれからやって来るであろう彼の連れに、……恋人に贈るつもりの物だった。それと言うのもその相手は、全く自分のことに頓着しないらしく、着ているものはそこそこに良い物なのだが、何故だか腕時計がやけに安物で、シュミットには気になってたまらなかったのだ。もっと良い物にしたらどうだと言ってもまるで気にせず、そこらの露天ででも売っていそうな物をつけている。別に特別思い入れがあるようでもないようだし、扱いもぞんざいだ。しかも電池交換を自分でやってしまうと云うのだから驚きである。いや、むしろ呆れた。そしてふとシュミットは代わりの腕時計を贈ろうと思ったのである。
 運ばれてきたカプチーノは手付かずでシュミットの向かいの席に置いてある。時刻はAM7時48分。珍しく今日はいつもより遅い。通りの方を振り返るが、心待ちにする相手の姿は未だ見えない。
 シュミットは箱をカプチーノの横に置き、椅子に座り直す。この間見つけたメタリックシルバーの腕時計には密かにある悪戯が仕組まれている。ブルガリなんて知らないだろうな、と思いながら文字盤を裏返した時にふと思いついたのだ。そしてシュミットは馴染みの時計修理屋に頼んで、電池交換のために蓋を外した時に気が付くよう、その内側に名前を刻んでもらったのだ。ただし、相手の名前ではなく、自分の名前を。それを見つけたときの相手の様子を思い浮かべて、思わず微笑みが漏れる。それを押し隠すようにしてシュミットは再度通りの方を見回し、落胆の溜息をつくと誰ともなしに呟いたのだった。

「遅いな、エーリッヒ……」

 そのとき、遠くのビルの屋上から一斉に鳩が飛び立った。





 先年の暮れに一人の議員がジョギング中に射殺されるというショッキングな事件が起こった。犯人はイスラム原理主義の過激派で、その議員の決定した対外政策を逆恨みしての犯行だった。  犯人逮捕と同時に世間の感心は煩雑な日常へと薄れていったが、必ずしも動機のある者と実行犯が同じであるとは限らないということを人々は知らない。計画が成功さえすれば、自らやってもいない犯行を認める者など幾らでもいる。そしてその計画遂行者は多額の報酬と共にどこかへと消えるのだ。そしてここにその事件の真犯人がいた。
 彼の現在の名前はエーリッヒ・クレーメンス・ルーデンドルフ。古書屋の従業員で生まれはハンブルグ、……ということになっている。白銀の髪に浅黒い肌、すらりとした長身で端正な貌をしている。だが表情に乏しいその貌は生気に欠け、人を近寄らせない雰囲気を纏っていた。普段は一般人を装っているが、一度何かが起こったらすぐにでも豹変することができるのは身についた習慣と訓練の賜物である。そしてまた、こうして群衆に溶け込むことができるのも同じ理由からだった。
 あの事件から一ヶ月半が経ったこの日も、彼はいつもと同じようにそ知らぬ顔で仕事に行く途中であった。事件後すぐに彼との連絡役である初老の紳士――通称プリッグ――が渡した偽の未分証明書と共にこの街へやって来た。新しいアパート、多少の現金、未分証明書、住民票、運転免許証にパスポート。もちろん、アパートには生活に必要な最低限の用意はすでに整っていて、一般の銀行には振り込みも済ませられており、当面の仕事も用意されていた。それはいつものことだが、今回普段と少し違ったのは、暫く大きな仕事はしないために長期にわたってできる仕事が必要だったことだ。
 エーリッヒは本来誰かと組んで仕事はしない。彼は優秀な暗殺者だが、相棒は持たないことにしている。そして彼を使う組織の方もそれを良くわかっているので、常にエーリッヒに接するのはプリッグ一人だけだった。そのプリッグもただの連絡役にすぎず、上から与えられた情報をエーリッヒに伝えるだけで、計画をする者も武器を用意する者も他にいるらしい。だがそれはエーリッヒの知ったことではないし、知るべきことでもない。この世界で生きるために必要なのは悪戯に好奇心を持たないことだ。与えられた仕事を完璧にこなす。それ以外のことは何もせず、何も知らない方がいい。標的のことも、依頼人のことも、金の動く先も……。
 幸いと云うか、エーリッヒは元々そんなことに興味は無い。今回も一時凍結させたスイス銀行の自分の講座から、当座の資金はすでにプリッグの用意した銀行に移してある。時折小口の仕事をする以外には半年ぐらいは潜っているつもりだった。
 良い仕事をするには立て続けに大きな仕事をしないことである。伝説的な殺し屋であるブランカやオールドギース、白狼などが良い例だ。要はほとぼりが冷めるまでジッとしていろということである。故にエーリッヒは長期休暇を取ることにしたのだった。





 その日エーリッヒは仕事に向かうため石畳の通りを歩いていた。彼のために用意された仕事は古書屋の従業員だった。ほんの小さな古書屋だが、店主である老人は無口で、何も訊こうとはしない。ひょっとしたら何処かで組織と繋がりがあるのかもしれないが、そんなことはどうでも良かった。エーリッヒにとって大切なのは、普通を装って生活することのできる仕事で、内容や給料ではない。目立たず、ひっそりとしていること。それが第一だ。そのための仕事、そのための通勤……。
 エーリッヒの通う古書屋はショッピングモールの中にある。そこまで自動車で通ってもいいのだが、あえてエーリッヒは地下鉄を利用していた。車は好きだし、免許も偽造してあるが、少しでも警察の目のつくような可能性のあることは避けておきたい。それに地下鉄ならば人ごみに紛れることも可能だ。そうしてこの日もエーリッヒは通い慣れた道をいつもの歩調で歩いていた。と、その彼の足元に何かの紙切れが飛んできた。どうも道沿いにあるオープンカフェの伝票らしい。この場合それを拾うか拾わないか、どちらの方がより目立たず且つ自然であるか……。そしてエーリッヒの優秀な頭脳は、それを拾い上げることを選択した。

「……あ、済みません」

 顔を上げるとエーリッヒと同い年くらいの男が寄って来るところだった。どうも彼が落とした物らしい。無言で伝票を渡すと彼は礼を言って席に戻って行った。
 ああ、あの男か、とエーリッヒはすぐにまた歩き出した。仕事柄目に入るものは何でも見て覚えておくのが癖で、そのエーリッヒの記憶によれば今の男は毎朝そこのオープンカフェの同じ席に着いて新聞を広げている人物だ。その日はただそれだけのことで済み、エーリッヒもそんなことすぐに記憶の隅に押しやってしまった。だが意外にもその記憶はすぐに掘り起こされることになる。次の日、エーリッヒがいつもの通りを歩いていると、昨日の男が声をかけてきたのだ。

「おはようございます。昨日はどうも……」

 思わず足を止めたエーリッヒに彼はにこやかに話しかけてくる。ここで無視するのは不自然と判断したエーリッヒは、薦められるままに男の向かいの席に着いた。幸い仕事は9時からで、今はまだ8時にもなっていないだろう。別に早く行くことはないのだが、何かあったときのために余裕を持って行動するのが鉄則だ。それに、この仕事は早過ぎて困るということはないのだし……。そうして大人しく話を聞くエーリッヒに、彼は嬉しそうに話し続けた。
 それ以来エーリッヒは時折朝の時間をそのカフェで過ごすようになった。男の名前はシュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハというらしい。この近くに住むビジネスマンで、やはりエーリッヒと同い歳らしい。驚いたことにその歳ですでに部長の地位を得ていると言う。仕立ての良いスーツを軽く着こなす様は洒落ていて、都会の人間らしい雰囲気を持っている。話し振りも闊達で何よりたいそうな美青年だ。紫がかった青い眸を縁取る頭髪と同じ色の黒い睫毛は、エーリッヒなど邪魔ではないかと思ってしまうほどに長い。背はさほど高くはないが、長い手脚はいっそ優美だ。さぞや女受けがいいことだろうに。そんなことを考えているエーリッヒをよそに、彼は実はかなり前から自分の前を通る人物に気が付いていたと言った。

「足の速い男だと感心してたんだ」

「………………」

 言われてみれば早かったかもしれない、とエーリッヒは思い直す。今度からもう少し速度を落とそうとも。

「良かったら今度夕食でも一緒にしないか?」

 ちょっと首を傾げてこちらを覗うように問うシュミットにただエーリッヒは頷いて見せた。知り合いを一人ぐらい作っておいた方が何かと役に立つだろうと判断したからだ。深入りさえしなければ問題は無い。
 だが、付き合いが多くなり親しくなるにつれてどうもシュミットが友人以上の好意をエーリッヒに対して抱いているらしいことに気が付いた。それは多分エーリッヒの思い過ごしでも自惚れでもないだろう。時折見せるシュミットの切なそうな表情や、何か言いた気に開きかけては閉ざす口唇が如実にそれを物語っている。だがそれを知っていてもエーリッヒは無視し続けた。彼に男を好む性癖は無いし、それは目立つだろう。選ぶ相手を誤ったかと考え始めた頃、久し振りの依頼が持ち込まれた。
 売り物と同じくらい古い造りの古書屋の扉にかかったカウベルが、カランと乾いた音を立てた。古書の箱にパラフィン紙を貼っていたエーリッヒが目を上げると、二ヶ月振りに見るプリッグがこちらにやって来るところだった。

「……"ランボオの初版は手に入りますか?"」

「…………"書簡集でしたらどうにかできます"」

 彼は被っていた帽子の鍔をちょいと持ち上げて挨拶をする、とすぐに出ていった。その会話は二人の間で決められていた合言葉であった。プリッグが"ランボオの"と言ったら"仕事がある"という意味。もし"キャロルの"と言ったらば"姿を消せ"で、"ポオの"と言ったら"組織からの呼び出し"である。それに対するエーリッヒの返答は、"書簡集"ならば"承諾"、"無い"ならば"否"である。そしてプリッグは帽子の鍔を触った。ならば近いうちに連絡が入ることだろう。……それがいつのことかはわからないが。
 数日後、古書屋にエーリッヒ宛の小包が届いた。それはジュラルミン製の小さなアタッシュケースで、中には銃が納められていた。それはエーリッヒの愛用の銃で、この間プリッグを通して修繕に出していた物だ。ワルサーという種類のその銃をエーリッヒが愛用するのは多分、初めて人を殺したのがその種類の銃だったせいだろう。そのせいか手にしっくりするような気がするのだ。そして銃と一緒に入っていたのは携帯電話。電源を入れるとすでにメモリーに指示が入っていた。
 エーリッヒは指示を聞くとすぐにメモリーを消去した。それらをケースにすべて元通りに仕舞うと、何事も無かったかのように仕事に戻る。ただ問題なのは、今夜のシュミットとの約束だ。先週から決めていたことで、彼はかなり楽しみにしている。それを反故にする事自体はそんなに大した問題ではない。いや、時間的には彼と食事をしてからでも充分余裕があるのだが、プリッグは指示でできることならアリバイを、それが無理ならば時間まで誰にも怪しまれてはならないと言ってきた。約束を反故にして不審がられては困るし、新しくアリバイを作る暇は無い。ならばいっそ彼にアリバイを証明してもらうべきか。……そうするか、とエーリッヒは胸の内で呟いたのだった。
 その店はイタリアンレストランで、味はシュミットが勧めただけあって悪くなかった。シュミットは始終嬉しそうに何か喋っていたが、あまりエーリッヒの耳には入ってこなかった。大事なのは今夜の仕事。それまでにどうするか……。
 エーリッヒは顔を上げる。目の前でシュミットが何、と問うように小首を傾げている。

「……シュミット、お前この後はどうする?」

「いや、別に予定は無いけど」

 そうか、とエーリッヒは呟く。このケースさえ怪しまれなければ問題は無かろう。そう判断し、もう一度顔を上げた。

「……それなら、お前の家に行っても?」

 カチャッ、とフォークと食器が触れ合う微かな音がしてシュミットが驚いた様子でエーリッヒを見つめる。瞬きを繰り返す彼に首を傾げて見せると、はっとした様にあわてて、

「あ、ああ。かまわない」

「……それは良かった」

 何処か狼狽した風のあるシュミットは少しの間、何事も無かったように食事を続けるエーリッヒを見つめていた。





 シュミットの住むマンションはごく近いところにあった。鉄筋コンクリートのスタイリッシュな高級マンションは、シュミットの雰囲気によく合っている。だからといって嫌味が無いのは住んでいる者のセンスの良さゆえだろうか。どのみち、エーリッヒにはどうでもいいことだった。

「コートはそこにかけておいてくれ。楽にしてていいから……」

 そう言い残してシュミットはいそいそと何処かに消える。エーリッヒは目立たぬようにコート掛けの下にケースを置き、シュミットの消えた方に向かう。そこは居間で、すでに上着を脱いだシュミットがキッチンへと続くカウンターのところに立ってグラスを出していた。

「飲むだろう。何が良い?」

「……スコッチ」

 慣れた手つきでシュミットはグラスを差し出す。それを呷り、二人はスコッチの壜を持ってソファに座る。エーリッヒの向かいに座ったシュミットもスコッチをチビチビやりながら談笑に興じる。と言うよりむしろ彼が一方的に喋っているのだ。それはいつものことなので、今更気にするようなことではない。それよりも大事なのは時間だ。エーリッヒはいつも以上に饒舌なシュミットの言葉が途切れるのを待ってグラスを置いた。

「……一つ訊きたいことがあるんだが」

 癖なのか小首を傾げながらシュミットは何かと問う。その彼の眸をわざと覗き込みながら、

「……お前、私の事が好きなのか?」

「―――――――」

 シュミットは大きく目を見開いて口を開閉させた。だが結局何も言わずに俯いてしまった。普段の彼らしくないその行動は、つまり図星ということだろう。見れば微かに耳が朱い。

「……そう、か」

 軽く息を吐き出してからエーリッヒは立ち上がる。顔を上げたシュミットの隣へ座り、ごく自然にシュミットの肩を抱いて口付けた。

「わっ……」

 小さく声を上げてシュミットは慌てて身を引く。驚いているようだが、嫌がっている様子は無い。もう一度エーリッヒが顔を寄せると身体を竦ませはしたが拒絶はせず、ただ目を伏せていた。それはつまり肯定だろう。口唇を軽く吸い、それから手を取って指先に口付ける。

「…………寝室へ……」

 耳元で囁かれたエーリッヒの言葉に頷いて、シュミットは立ち上がる。何も言わず、ただ素直に寝室へ向かう後姿は奇妙に頼りない。微かに俯いているせいか、細い頸が露わになっている。北欧系らしいほっそりとした白い頸……。締めたくなる首というのは、きっと彼のようなのだろう。
 シュミットはベッドの前で立ち止まり、困ったような表情でエーリッヒを見上げる。怯えにも似たその表情にわざと微笑みかけてやると、シュミットは驚いたように瞬いた。

「……どうした?」

「あ、いや。……お前が笑うの、初めて見た」

 そう言われてみればそうかもしれないと苦笑しながらエーリッヒは手を伸ばす。大人しく腕の中におさまったシュミットは緊張しているのか動作が鈍い。それでもかまわない。要は無条件で信頼を寄せてくれる相手があればいいのだから。男を抱くのは初めてだが、やり方を知らないわけではない。ならばどうにかなるだろう。後は……。
 一通り愛撫を済ませ、エーリッヒは一度身体を離す。何だろうかと不安そうなシュミットの額に口付けてから、

「…………着けるから、ちょっと待て……」

 何故か朱くなって大人しくなったシュミットに背を向ける。何気無い動作を装って、毎朝正確に合わせてくる腕時計を見て確かめる。……一時間半後には確実にここを出なければならない。上を向いて息を吐くと、エーリッヒは振り返った。





 ……一時間ほど後、エーリッヒは密かにシュミットのマンションを抜け出した。慣れないことで疲れているシュミットに気遣いを装ってハルシオン入りの水割りを飲ませ、確実に寝入ったのを確かめてから家を抜け出してきた。ロビーを避け、階段で駐車場から外へ出る。鍵は失敬してきた物があるので簡単だった。そこから拝借したシュミットの車で指定された場所の近くまで行き、あとは徒歩でその場所が見える所まで行く。もちろんワルサーは懐の中だ。指定の時間ピッタリに約束の場所を覗うと、向こうから車のヘッドライトが近付いて来るのが見えた……。





 朝方シュミットはふと目を覚ました。よく眠っていたはずなのに頭が重く、スッキリとしない。どうしたことかと考えて、昨夜のことを思い出した。重い瞼をどうにか開き、数度の瞬きの後恐る恐る辺りを覗った。そして目の前の人物の寝顔を発見して安堵の溜息をついた。良かった、想うあまりの夢でも妄想でもなかった、と。
 安堵すると同時に睡魔が再び鎌首をもたげてきた。それに逆らうことなくシュミットは再び眠りに落ちたのだった。





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