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シュミットが初めてエーリッヒの存在に気がついたのは年の初めのことだった。今の会社に入ってからずっと習慣にしているカフェでの朝食のとき、見なれぬ男に気がついたのだ。いいかげん何年も同じ場所で同じ風景を見ていればいつもと違う様子に敏感になる。新年が明けてからのことなのですぐに気がついた。
初めはえらく足の早い男だとただそう思った。軍人かモデルみたいに歩くのが早い。真っ直ぐ前を見て、律動的な歩調でシュミットの前を通り過ぎて行くのだ。面白い奴だ、というのがシュミットの正直な感想だった。それがどうしたことかその内気になって仕方なくなってきた。まさか、と思っていたが口をきくようになってはっきりと悟った。どうも自分はこの男に惹かれているらしい、と。そんな十代の子供じゃあるまいし、と初めの内は自分を笑い飛ばしていたが、その内そういうわけにもいかなくなった。完璧に惚れてしまっているらしい。どうしたものかと一人で悩んでいたら、そういうことになってしまった。
あの無表情、無感動、無愛想、無関心を絵に描いたようなエーリッヒが何を考えてのことなのかシュミットにはさっぱり分からなかったが、初めに行動を起こしたのは向こうの方だった。そうしてさんざん遊んできたシュミットが一人で悩んでいる内にあっさりと肯定されてしまった。エーリッヒにとってはあまりシュミットが男であるとかそういうことは気にならないらしい。と言うより、どうでもいいらしいのだ。何しろ無口で感情の起伏に乏しい男であるから、いきなりの行動には驚いた。だがそれは本来シュミットも望んでいたことだから非常に結構なのだが……。
一つ気になることがある。それはシュミットが未だにエーリッヒに何も言われたことが無いことだ。好きだとも嫌いだとも本当に何も言われていない。ほとんど会う度に寝ているから単に遊ばれているのかとも思ったが、だからと云って他に誰かと付き合っている様子はないし、男専門というわけでも無さそうだ。ぶっきらぼうで無愛想で、いつも何を考えているかわからないこんな男の何処がそんなにいいのだか自分でも不思議だが、惚れているのだから仕方がない。愛想の悪さはいっそ見上げたものだが、それでも暫く付き合ってみるとだんだん彼についてわかるようにもなってきた。
例えば無表情でもこちらを見ていないときは気のない証拠で、そのかわり興味を引かれたときはジッと対象物を見つめる。背中を触られるのが嫌いで、煙草は吸わない。コロンもつけないし、整髪料も無香料のものだ。香りのするものは嫌い、ということだろう。趣味は悪くないが、服などには全くの無頓着。古書屋の仕事は知人の紹介で、店主も無口。冗談はほとんど通じず、テレビも観ない。前にシュミットの家に二人でいるとき何となくテレビをつけたが、バラエティー番組をエーリッヒが真顔で観ていたときは非常に可笑しかった。しかも音楽も聴かなければ映画も観ない。酒も博打も興味が無く、食事も生きるために食べているタイプ。全くもって何が楽しくて生きているのだかわからない。すらりと長身の、顔だってシュミットが惚れるくらいだから悪くはないのに、ガールフレンドどころか友達がいる様子もない。一言で云えば謎だらけな男なのだ。
もしかしたらそこに惚れたのかもな、とシュミットは思う。孤独を漂わせる雰囲気はシュミットには無いもので、あそこまで世間と隔絶できる姿勢は羨ましくもある。時折見せる細かな心遣いも非常に嬉しい。セックスも上手いし、一緒にいて沈黙が嫌ではない。表情に乏しいながらふとしたことで微かに笑うのがどうしようもなく好きでたまらない。おかげで最近ではエーリッヒが何も言わないことなどどうでもよくなってきてしまった。刹那的と言われても仕方がないが、それでもいいではないか。あの謎めいたような雰囲気が好きなのだから……。
ある日のこと、珍しくこの日はエーリッヒのアパートにシュミットがやって来ていた。いつもは大概エーリッヒがシュミットのマンションに行くので本当にこういったことは少ない。随分前にシュミットがどうしてもエーリッヒのアパートを見たいと言うから連れて来てやったら、呆れたように、
―――これは禅か何かでも取り入れているのか?
と言って溜息をついた。どうやら彼にはエーリッヒの生活がいまいち理解できないらしい。確かにシュミットの家と較べてみればここは狭いし、家具もほとんどない。いつでも高飛びできるように身の回りには何も置かないのは当然のことだ。ベッドに電話、冷蔵庫と乾燥機付きの洗濯機。テレビは一応あるが、つけたことはほとんど無い。あとはテーブルが一つに椅子がニ脚、パソコンとその周辺危機が一そろいあって、他は本が数冊。『サロメ』に『白鯨』、『夏の葬列』……。それがエーリッヒの家財道具の全てだった。
そもそもキッチンセットにテーブルなどはついているし、自分で料理などはしない。できないわけではなく、外で済ませているからだ。クローゼットは備え付けで、服などは仕事上すぐに処分してしまうし、食器は使わないからあるのはせいぜいグラスぐらい。生活するだけならば他に一体何が必要だと言うのか。エーリッヒにしてみれば花瓶やビデオ、オーディオセットなど全く必要ない。本など読んだら捨ててしまうし、服や靴をあんなに持っていて何の意味があるのだか。
「シンプルと言うより、殺風景だな」
とシュミットは嘘寒そうに言った。それは本当のことなので否定はしないが、それ以来シュミットはあまりここには来ない。今日ここに来たのは単に夕食に行ったレストランからはここの方が近かったからだ。
「相変わらず寒そうな部屋だな」
開口一番のシュミットの科白はエーリッヒに向けられたわけではない。そのくせ服はあっさりと自分で脱ぐのだからよく分からない。ひとにピッタリくっついていたかと思うと、全裸のままシャワー室へ歩いていく。いまいち計り知れない奴、というのがエーリッヒのシュミットに対する正直な感想だった。
暗い部屋の中、エーリッヒはベッドで静かに眠るシュミットを見下ろす。相変わらず長い睫毛が頬に影を落とし、艶やかな口唇は微かに微笑みの形のまま閉じられている。この間一緒にフランスのリゾート地へ行ったせいで、秀麗な顔に日焼けの跡が覗える。エーリッヒは元から浅黒いのでわかりにくいが、北欧系らしい白皙の肌の持ち主であるシュミットはよく目立っていた。
何でそんなところへ行ったかと云えば、プリッグの持ってきた仕事ゆえであった。それはごく簡単な仕事で、エーリッヒほどの腕の持ち主ならば造作も無い。だがことが国外となると考えてしまう。パスポートや何やらは当然プリッグが用意してくれるが、何かと面倒でもあるし、エーリッヒには友人知人の類は一切居ないと信じ込んでいるシュミットがどう思うか……。いっそシュミットを同伴させてしまおうか、と思い立ったのはそのときだ。仕事で行くと言うのは容易いし、不自然ではない。彼にも仕事があるから断られる可能性が高いが、それで困ることは無い。ならば、と誘ってみたらばシュミットは日程もきかずにその場で承諾したのだった。
「お前一人で行ってもつまらないだろうから、一緒に行ってやるよ」
というのがシュミットの有難いご返事だった。そして一週間ほど向こうで過ごすこととなった。
その間エーリッヒはシュミットに"ランボオの初版を買い付けに来た"と言い通し、彼も全くそれを疑わなかった。それどころか、
「お前ほどリゾート地の似合わない奴はいないな」
だの、
「お前がサングラスかけると年季の入った悪人みたいだ」
などと言っては一人で笑っていた。……つまりは場所にそぐわず、悪戯に目立ってしまっているということなのだろうから、行動を控えると何食わぬ顔でシュミットはそれについてくる。買い物でも海にでも行ってくればいいいと言えば、
「女が群がってきて面倒臭い」
などと悪態をつく。そのくせ、
「あんまり暇だから浮気でもしてこようか……」
などと言うから好きにしろと答えれば枕が飛んでくる始末。幸いエーリッヒの"仕事"については何の疑問も抱いていないようなので、そこだけは楽だった。
ただ気になるのはプリッグの様子だ。その名の通り神経質な感のあるあの老人は、帰国後会ったときに露骨にシュミットのことを訊いたきた。
「一人で行ったのではないのだな」
「……知り合いと観光を装って行くことにした」
そのエーリッヒの科白にふん、と鼻を鳴らす。
「お前の口から観光なんて言葉が出るとは思わなかったな」
……実はほとんど外出せずに部屋で抱き合っていたなどと一々こいつに教えてやる義理は無いので、エーリッヒは黙っていた。それをどう取ったのか知らないが、
「深入りはするな」
とだけ言い残してプリッグは去って行った。言われなくともわかっているとその時は胸の内で吐き捨てたが、それはつまりシュミットの存在が危うく映っていると云うことか。あれから一ヶ月近く経つ。ほとんどホテルで過ごしたにも関わらず、日焼けの跡が覗えるシュミットの頬を指先で撫ぜながら、エーリッヒは誰とも無しに呟いた。
「…………そろそろ潮時か……」
その日エーリッヒは通い慣れた道を遥か見下ろすことのできるビルの屋上に立っていた。早朝のことであるから朝日が眩しく、近辺で一番高いビルの屋上を見上げる者は居ない。昨夜遅くにプリッグからここへ来るように指示された。そろそろ大きな仕事につきたいと思っていたから丁度良い、と呼び出しに応じたのだが、珍しくプリッグは約束の時間よりも遅れている。時間に煩いあの老人のことだから、遅刻などこれが初めてのことだ。もう半時間近く待っているが、プリッグは姿を現さない。屋上の淵に立っていつものカフェの方を見る。そろそろシュミットが現れる時間だろう。今日は行けないかもしれないなと漠然と考えていると、屋上のドアを開く音がエーリッヒの耳に届いた。
「……遅かったな」
思った通りやって来たのはプリッグで、手に重そうな鞄を下げている。それを見て微かにエーリッヒは眉を顰めた。今までに何度も見てきたその鞄。それは中に分解したライフルが収まっているはずだ。そんなものをどうして……。
エーリッヒの警戒が伝わったのかプリッグはそれを足元に置いて背筋を伸ばした。エーリッヒと同じ感情に乏しい緑の目でこちらを見据える。
「仕事だ」
「……聞いてないな」
だがエーリッヒの言葉などまるで聞く耳持たずにプリッグは鞄を差し出す。取り合えず警戒したままそれを受け取り中を開くと、やはり入っていたのは分解されたライフル。どう云うことかと無言で問うと、プリッグはエーリッヒと並んでビルの淵に立ち、眼下に広がる街並みから一つのオープンカフェを指差した。
「あそこに毎朝食事を取りに男が来る。ある企業の部長でCADの全権を受け持つ主任でもある。……誰のことだか分かるな?」
エーリッヒは鋭くプリッグを睨みつける。分かるも何も、シュミット以外に思いつく相手などいない。だがその眼光にもたじろがず、プリッグは軽蔑したようにエーリッヒを見る。
「一般人には深入りしないのがこの世界の常識だろう。お前らしくも無い……」
「………………」
「……このことは私以外知る者はいない。お前は良い仕事をする。手放すのは惜しい」
要は組織に始末されない代わりに、そして裏切らないという忠誠の証しに、シュミットを殺せと言っているのだ。これは多分エーリッヒに対する戒め。いや、間違いなくそうなのだ。そしてそういうことがまかり通る世界にエーリッヒは住んでいるのだ。シュミットなどと一緒に居たことの方がおかしいのだ。
「………………」
エーリッヒは無言で鞄を打ち放しのコンクリートの上に置き、ライフルを組み立て始める。ここからシュミットを射殺することなどエーリッヒにとっては造作も無い。風も無く視界を遮る物も無ければ、標的は少なくとも30分はその席を動かないこと、誰よりをエーリッヒが一番よく知っている。これほど狙い易い相手はいない。そして黙々と銃を組み立てるエーリッヒの横からプリッグが退がる。エーリッヒの気を散らさぬよう、邪魔が入らぬように背後に気を配る。そしてエーリッヒが組み立て終わった銃を持ち、コンクリートに膝をついた。50cmくらいの高さの石の柵に肘をつき、銃床を肩に当ててライフルを構える。スコープを覗き込むとすでにいつもの席に座ったシュミットの姿がすぐに見つかった。彼は何やら小さな箱を手にしている。掌に収まるくらいの白い箱だ。
「………………」
エーリッヒは銃を構え直す。汗ばむ手が滑らぬようにもう一度トリガーに右手の指を掛け直す。その間にもスコープの中でシュミットはキョロキョロと辺りを覗う。そこへエーリッヒも馴染みのウエイターがやって来て、シュミットの前の席にカップを置いて行く。それは多分、カプチーノ。先に来た方が後から来る相手の分を頼んでおくのが二人の習慣だった。雨の日は店の中の一番通り沿いの方のテーブルに着く。そうしてほとんどの場合シュミットが先に来て、エーリッヒを待っている。
エーリッヒはシュミットを注視している。そうなどとは露知らず、シュミットは何度も通りのいつもエーリッヒがやって来る方を振り返る。そしてエーリッヒの姿が見えないと知ると落胆したように息をつくのがよく見えた。腕時計を見、それから彼は手にしていた箱をそっと向かいの席のカップの横に置いた。そして微かに楽しそうに微笑む。それはつまり、多分エーリッヒへの贈り物なのだろう。
「………………」
エーリッヒは身体から力を抜き、空を仰いだ。
「……どうした?」
威圧的なプリッグの声がするが、エーリッヒは取り合わずに立ち上がった。……全てが莫迦莫迦しくなっていた。こんな所で銃を構えている自分も、狙われているとも知らずにエーリッヒを待つシュミットも、全て何もかもが。
「…………この事は未だ誰にも言ってないんだったな」
「……そうだ」
エーリッヒはゆっくりと振り返る。苛立った風のプリッグは、何だかひどく滑稽だった。
「早く……」
何か言いかけたプリッグの声の代わりに、空気の抜けるような音がした。それからプリッグの身体がスローモーションのように後ろに倒れる。額の中心に小さな穴の空いたプリッグは、もう二度と動かない。だがいつもの癖でエーリッヒはそのプリッグの額と胸にもう一発ずつ鉛の玉を打ち込んだ。それはエーリッヒの愛用のワルサーから発射されたもので、消音機がついているためにほとんど音はしなかった。
エーリッヒは一度柵に寄ってシュミットの待つカフェの方を見る。彼を殺してまで自分には生きている価値が無いと判断した。ただそれだけのことなのだ。それから空を仰ぎ見、初めて人を殺したのと同じ種類の銃を顎の下にあてがった。
見上げた空は蒼く、吸い込まれそうな色をしていた。
―――ああ、もう秋だな……
そう思いながら引き金を引いた。
エーリッヒの身体が地面に倒れると、驚いたように鳩が一斉に飛び立っていった。
小さく、だが重い溜息をつくと、シュミットは手を伸ばして向かいの席のカップの横に置いてあった箱を取った。それを元通り鞄の中に仕舞い、ウエイターを呼ぶ。手付かずのエーリッヒの分も一緒に払い、席を立つ。どうしたことかエーリッヒは今朝は来なかった。いつもならすでにカプチーノを飲み終えてそろそろ出ようという時間になっても、彼は来なかった。携帯に連絡が入るわけでもないし、どうしたのだろうか。今日に限ってこれだから困る。おかげで遅刻だ。
シュミットは通りに出てからもう一度、カフェのいつもの席を見る。ウエイターがテーブルの上を拭いているのが見えるだけで、もちろんエーリッヒの姿は無い。わかっているけれども名残惜しく、淋しい印象が拭えない。それでもシュミットは一つ頭を振ると歩き出した。後で古書屋の方に行ってみよう。それで駄目なら携帯と自宅の方に電話をして、訪ねて行ってみるのもいいだろう。
そうしてシュミットは歩き出す。いつもと違うのは、少し時間が遅いのと、エーリッヒがいないこと。はたして後で何と言ってやろうか、どうやって時計を渡そうか……。そんなことを考えながらシュミットは道を急いだ。
〔終幕〕
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