pathos&logos
その話をエーリッヒが持ちかけてきたのは夏の夕暮れ時だった。いつもの張りついたような無表情であまりにさらっと言うものだから思わず聞き逃してしまいそうになったが、慌てて問い直すと彼は面倒そうでもなくもう一度それを口にした。
「……もし暇ならば一緒にフランスへ行かないか? 仕事のついでだが、それでもいいなら」
そしてシュミットも良く知った有名な高級リゾート地の名前を口にする。その口調は余りにも素っ気無く、『腹が減ったから飯でも食いに行こう』と言うのと同じ抑揚の無さだったが、シュミットに与えた感激は余人の量り知るところではない。なにしろあのエーリッヒが、わざわざ自分から旅行に誘うだなんて、エリザベス女王が仏教に帰依するほどの天文学的確率しか無いというのに!!
だがシュミットはその踊り出したいほどの喜びをあえて表現するほど可愛らしくはなく、小さく息をすると脚を組み直し、
「…………フランスか。大学の時以来だな……。どうせお前一人で行ってもつまらないだろうから、一緒に行ってやるよ」
その言葉に何故かエーリッヒはそっぽを向いてただ一言、
「……そうか」
と呟いただけであった。
眼下に広がる林とその先のビーチを見下ろして、シュミットは短く口笛を鳴らした。果たしてあのエーリッヒがどういった気を利かせたものか、着いたホテルは五ツ星の一流ホテル。良くまあ予約が取れたものだが、そんなことはこの際どうでもいい。壁の半分ほどもある出窓は開放的で、シュミットの気分もそれに順じてしまいそうだった。いやいや、そもそもそのつもりで来たのだから申し分は無い。後は……。
シュミットは寝室に入り隣の壁を軽く叩く。先刻からベッドの上で荷物を整理していたエーリッヒが怪訝そうにシュミットを見た。
「……何をしている?」
「いや、壁の厚みはどんなものかと……」
その言葉を聞くとすぐにエーリッヒは目を逸らした。そのひとの言葉を無視するかのような態度にムッとしたのか、シュミットがすぐさまベッドを乗り越えてエーリッヒの傍らにやって来た。
「……何だ?」
また文句を言われるのかとエーリッヒは煩わしそうだが、しかしその予想は見事に外れた。すぐ隣までやって来るとシュミットはいきなり腕をエーリッヒの首に回し、口唇を寄せてきたのだ。
「ん……」
差し入れられたシュミットの舌は積極的にエーリッヒの舌を追う。口蓋を舐められてエーリッヒは目を細めた。これは力ずくで離した方が良いと判断し、エーリッヒは無理矢理シュミットを自分から引き剥がす。そもそも基礎体力からして違いすぎるほど違うから、それは容易かった。
「おい、何だよ、無遠慮だな」
シュミットはそう悪態をつくが、エーリッヒにしてみればそれはこっちの科白である。だが一々そんなことを口にするエーリッヒではなく、ただ軽蔑したような目でシュミットを見下ろした。しかしもちろんそんなことでへこたれるシュミットではない。彼はベッドに腰を下ろすとゆったりと長い脚を組み、
「そんな目で見るなよ。どうせ夕食にはまだ早いんだから、その前に少し運動でもしていこう」
……確かに、夕日が落ち始める時刻とは云え夕食にはまだ早い。だからといってそんなことを平然と口にするシュミットの気も知れたものではないが、こうと決めたら意地でもそうするのが彼の性質であることもエーリッヒは重々承知していた。おかげでエーリッヒは到着早々体力を消耗する羽目となったのだった。
広い海は碧く、太陽は夏らしい陽射しを照りつける。浜辺に寝そべった人々は夏を思う存分楽しんでいるようであったが、シュミットの心は晴れなかった。それというのもエーリッヒのせいである、とシュミットは思っている。昨日の到着で何故こうも不機嫌なのかというと、全てはエーリッヒがシュミットを蔑ろにするせいであった。
「あの莫迦……」
一人シュミットが毒付いたのはホテルの部屋の中だった。もちろんエーリッヒは居ない。朝から仕事に出て行ってしまったのだ。もともと仕事のついでということだったのであまり文句は言えないが、それにしてもとシュミットは思う。昨夜だって疲れた、眠い、明日は仕事、と言って結局夕食後は何もせずにさっさと先に眠ってしまった。仕方ない、明日もあると諦めれば、今日は朝から遅くまで出かけるという。面白くなくてわざと浮気でもしようかと言えば、好きにしろ、である。まったく、デリカシーのかけらも無い。おかげで朝から暇になってしまったシュミットは先ほどまで一人、一階のプールバーで飲んでいたが、ギャラリーが煩くてすぐに部屋に戻ってきてしまった。仕方なくテレビをつけてぼーっとそれを眺めているが、これではわざわざフランスくんだりまで来た意味が無いではないか。あの無愛想、無遠慮、無感動のエーリッヒが旅行に誘うなんておかしいと思ったのだ。これでは喜び勇んで付いて来た自分が莫迦みたいではないか。何も女みたいにエスコートしろとは言わない。でももう少しぐらい気を使ってくれてもいいではないか。第一、あいつは何のために自分を誘ったのだろう。少しは開放的な気分で楽しむためのセックスを思う存分するため、ではないのだろうか。百歩譲っても、もう少しくらい恋人らしくしてみたいのに。
シュミットにとっての恋人関係とは、現在の状況とはかけ離れている。お互いが信頼と愛情を持ち、ある程度の尊敬もあって、付き合うものではないだろうか。しかしエーリッヒはどこかシュミットを莫迦にしているというか、軽蔑しているような面もあるし、男同士だからしかないのかもしれないがちっとも優しくなどない。どこかへ行こうと言っても、食事くらいにしか付き合ってくれないし、ましてや向こうから誘ってくるなんて稀だ。だからこっちがあれこれ誘ったり提案したりするのに、お前は我儘だとかぬかしやがる。
そんなことを考えていたらシュミットは段々腹がたってきてしまった。
「あの莫迦……」
忌々しげに呟いて、シュミットは窓の外を睨んだのだった。
夜半過ぎにエーリッヒが部屋に戻ると、すでに部屋の電気は消えていた。当然だろうとそのまま寝室に向かうと、意外にもシュミットはまだ起きていた。窓際のソファーに深く座り、こちらを睨むシュミットはどうもご機嫌斜めらしい。
「……酔ってるのか?」
それは暗がりでも仄かに朱が差しているのがわかるシュミット顔を見ての発言だったが、どうも相手はそれが気に入らなかったようで、つまらなさそうに手にしていたグラスをテーブルに置く。
「俺がこの程度で酔うわけ無いだろう。……それより、仕事は済んだのか?」
今日の分は、と答えるとエーリッヒはスーツの上着をベッドに放った。今まで培われてきた勘で、下手に動くのはみだりにシュミットの機嫌を損ねるだけだとわかっている。だが、それにしても一体何をこんなに怒っているのだろうか。エーリッヒにはさっぱりわからないのだが、ときどきシュミットはこうして一人で不機嫌になる。そして大概抱いてやると機嫌を直すのだから更に良くわからない。単純なのか複雑なのか、計り知れない男である。今夜はなるべく早く寝たいのだが、仕方がない……。
相手に気付かれないように小さく溜息をつくと、エーリッヒはシュミットの傍に寄った。
「……シュミット」
長身を屈めて肩を抱き、唇を寄せる。簡単に目を瞑ったシュミットの口唇を軽く吸ってから本格的に唇を合わせる。シュミットはキスが好きなので、これには時間をかけるのが常だった。首を撫でながら口付けを深めていくと、シュミットも気分が乗ってきたのか舌を使い始め、エーリッヒのそれをついばむようにした。
「……っ!」
エーリッヒは唇に痛覚を覚えてシュミットを突き放した。驚いてシュミットを見下ろしながら口に手をやるが、幸い血は出ていないようだ。
「……惜しい、後ちょっとだったのに」
シュミットは目を細めてクスクスと笑う。完全に酔っているのか、眸が蕩けている。
「……何のつもりだ?」
「何のつもり? それはこっちの科白だね」
大仰に肩を竦めるジェスチャーをして見せて、シュミットはエーリッヒを睨み上げる。
「お前、俺のこと何だと思ってるんだ?」
正直に答えるわけにいかず、エーリッヒは沈黙する。それをどう取ったのか、シュミットはビシッとエーリッヒの方を指差して、
「仕事が忙しいのはわかるが、もう少しやり方はあるだろうが。仮にも恋人に何だ、あの態度は!?」
恋人? と思わず口にしかけてエーリッヒはかろうじて言葉を飲み込んだ。それはつまり、そういうことか……?
「何か言えよ、ほら」
ムスッとしたまま袖を引くシュミットをエーリッヒは見下ろす。子供じみた我が侭にどう答えるのが最良であるか短い間に思考して、エーリッヒはもう一度身を屈めると今度は音を立ててシュミットに口付けた。それから虚を突かれて瞬くシュミットにすかさず、
「……悪かった。多分明日は大丈夫だろうから、好きなだけ付き合ってやる」
「………………」
「……嫌か?」
「……わかったよ」
シュミットは言うと、小さく何度も頷いたのだった。
次の日シュミットは太陽がとっくに南中してしまった頃になって、ようやくエーリッヒに起こされて目が覚めた。昨晩一緒のベッドに入ったことまでは覚えているが、その後は泥のように眠ってしまったらしい。しまった、惜しいことをした、と舌打ちしながら辺りを見回すと、うんざりしたようなエーリッヒの顔が目に入った。どうやら何度もシュミットを起こそうと試みたが、今になってやっとそれに成功したらしい。その憮然とした表情に急かされて身を起こすシュミットの頭は、ものの見事に子泣き爺を内蔵していた。
「……二日酔いか」
質問ではなく断定しておいてエーリッヒは何かを差し出す。こうなることなどわかっていたのか、それはアスピリンとミネラルウォーターの壜だった。それを無意味に頷いて受け取り、口に含む。アスピリンを飲んでから、水を飲み干す。咽喉が冷えて気持ち良い。それからやっと立ちあがると、シュミットはひとまずバスルームへ入る。シャワーでも浴びてさっぱりしたかったのと、長く醜態を晒して居たくなかったからだ。
大して飲んだつもりは無いが、酒の種類が悪かったのか。それでも初めに思ったほどひどくは無さそうだ。せっかく今日は二人で居られるのだから、二日酔いで動けませんでした、ではつまらない。アスピリンも飲んだことだし、暫くすれば良くなるだろう。そんなことを考えながら時間をかけて心身共にリフレッシュを済ませると、漸くシュミットはバスルームを出た。
「エーリ?」
バスローブのまま寝室を見るがエーリッヒの姿は無い。ならばリビングの方かと跣のまま部屋を横切る。白いドアをそっと開けて隣の部屋を覗き込むと、案の定エーリッヒの後姿が見えた。
エーリッヒ、と呼びかけてシュミットは口を噤んだ。気配に気付いたのかエーリッヒが振り返り、指を唇に当てて静かにするよう示したからだ。どうやら彼は電話中であったらしい。いつの頃からか持ち始めた携帯電話を耳に当て、低い声で何か会話している。それもどうやらフランス語であるらしいところを見ると、相手は仕事の取引相手か……。そう気付くとシュミットは思わずムッとした。今日は一緒に居てくれるのではなかったのだろうか。もちろん仕事があるならばそれを優先するのが大人の常識だし、そんなことはシュミットとて充分わかってはいたが、いかんせん頭ではわかっていても承服しかねることはある。しかもエーリッヒときたらまるで仕事が入ってくることがわかっていたかのようにすでに着替えているではないか。先ほどは気付かなかったが、ネクタイまで締めている。それが気に入らなく、そしてちょっとした悪戯と嫌がらせの気分でシュミットはいきなり電話中のエーリッヒに口付けた。
「………………」
よせ、と言うようにエーリッヒは邪険にシュミットを手で払いのけようとする。だがシュミットも意固地になっていたのでそれは逆効果だった。ムッとすると云うよりもむしろ腹の立ったシュミットは更に口付けを続ける。頬から耳元、首筋へと口唇を移動し、ネクタイを緩めて鎖骨の辺りにも口付ける。それで少し何か言ってくれようものならシュミットもすぐに止めたのだが、エーリッヒは迷惑そうな表情で電話を続けながら犬でも払うように手であっちへ行けと示しただけであったから面白くなかった。その仕草に腹の底からムカムカとした何かが胸まで込み上げるのを感じると、その場にシュミットは膝をつき、エーリッヒのズボンのベルトに手をかけた。
流石のエーリッヒもこのシュミットの行動には驚いた。何を思ったのかシュミットはいきなりエーリッヒの下半身に顔を埋めたのだ。突然のことだったのでさしものエーリッヒも身を引く余裕がなく、シュミットの温かな口腔の感触に一瞬身を竦ませる。昼日中にこんな所で立ったまま、しかも電話中にである。思わず殴りつけてやりたい衝動に駆られたがどうにかそれを堪えると、できるだけ平静を装ってエーリッヒはプリッグからの電話を切った。人が来たからとでも後で言い訳しておけばいい。それよりも問題はシュミットの方だ。彼は完全にエーリッヒのことを無視して口淫を続ける。仕方なくそのシュミットの髪に手をやり、エーリッヒは深く息を吐いて身体の緊張を解いた。
エーリッヒの様子が変わったのはすぐにわかったが、もう後には引けずシュミットは何も見ぬように目を閉じた。思いのほか舌触りのいいエーリッヒ自身はすでに張り詰めてきている。てっきり何か言われると思っていたのに、予想外にもエーリッヒは黙ってただシュミットの髪を梳いている。その手つきは優しく、穏やかである。ならばもう構わないとシュミットは更に行為にのめっていった。
暫くして漸くエーリッヒが達すると、シュミットも顔を離す。余すところなく吸い尽くすようにしてエーリッヒの吐き出したものを飲み下し、シュミットは絨毯の上に座り込む。放心したような表情で口唇の端にこぼれた雫を指先ですくいあげ、口に含む。その指を離し、口唇を舐めた様子は妖艶と言うよりも無邪気に、そして無知に見えた。
「…………気は済んだか?」
服装を整えたエーリッヒの第一声は先ほどの手つきと打って変わって、冷酷ですらあった。抑揚に欠ける口調が更に拍車をかける。それに対し、シュミットはただ鋭くエーリッヒを睨みつけた。
エーリッヒは眩しい物を見るように目を細め、シュミットを見やった。彼のこの挑むような苛烈な視線は嫌いではない。光りでも散らした様に凛と輝く眸は眩しいほどに生気を湛えてエーリッヒを射抜く。抉り出して水にでも浸したら、さぞや美しかろう。そんな衝動に駆られて伸ばしたエーリッヒの手を払いのけると、シュミットは足音も高らかにリビングを出ていった。その後姿全てが彼の心中を示していたが、あえてエーリッヒはゆっくりとその後を追った。
勢いよく閉じられたドアを開け寝室に入るが、シュミットの姿は無い。ならばバスルームかとドアノブに手をかけるが、内側から鍵がかかっていて空しく回転するばかり。仕方なくドアに寄り、ノックを繰り返しながら、
「……約束を反故にして悪いが、仕事が入った。昨日ほど遅くはならないと思う」
だが、ドアの内側からの反応は無い。
「……これが済めば明日からは暇になるから、好きなだけ一緒に居てやる。それでいいだろう」
しかしやはり反応は無く、空しくエーリッヒの声はドアに跳ね返るばかり。ならばとエーリッヒはドアを一度強く叩き、
「……起こしても起きなかったのはお前だからな」
それだけ言ってさっさと踵を返し、用意を済ますとバスルームになど一瞥もくれずに部屋を後にした。怒っていたわけではない。それほどエーリッヒはシュミットのことを想ってはいないのだ。だが怒っているように見せることは必要だと判断した。それだけのことだった。
そうしてエーリッヒが部屋を出た後もシュミットは一人バスルームに篭っていた。エーリッヒの言葉を聞いた後暫くはドアに身を寄せて耳をそばだてていたが、本当にエーリッヒが出ていってしまったとわかると何故だか急に気持ちが暗くなってきた。多分二日酔いのため体調が悪かったせいだろうが、落ち込み始めると底は見えない。とにかく水でも浴びて気を落ち着かせようとしてみたが、徒労に終わった。火照ってしまった身体は冷えて落ち着いてくれたが、それだけだった。せっかく二人旅行に来ておいて何をしているのだか。
自分でまいた種だが、先ほどの行為で慣れた身体は反応を示している。だからといって、恋人と旅行に来ておいて自慰をするというのは空しいどころか情けないことこの上ない。今更誰かその辺の女と遊ぶ気にもなれないし、ならばやはりこうして水でも浴びて気が萎えるのを待つしかあるまい。
「こんな筈じゃなかったのに……」
シュミットは大きく息をついた。今日は二人でのんびりするつもりだった。エーリッヒは暑いのが好きではないらしいので、部屋で涼しくなるまでゆっくりしている予定だった。それから食事にでも出ようと思っていたのに、この様である。あの態度は大人気無かったかもしれないと今になって反省してみるがもう遅い。確かに寝過ごしたのはシュミットが悪いし、エーリッヒの仕事を優先させるのは当然のことだ。なのに、何をやっているのだか……。
ナーバスになったままシュミットは何度も溜息をついた。これならばいっそ、付いて来ないほうがよかったのだろうか。だが待てよ、とシュミットは首を傾げた。そもそもエーリッヒは何だってシュミットを誘ったのだろうか。仕事で一日中どこかへ行き、暑いのは嫌いで海にも観光にも興味は無い。そんなエーリッヒの誘いだからてっきり、何処か見知らぬ土地で人目を気にせずくつろごうということなのだと思ったのだが、どうも違ったらしい。実際今日で滞在三日目になるが、一度しか寝ていない。キスだって数えるほどだし、よくよく考えてみるとほとんど喋ってもいないような気がする。……もともと寡黙な奴ではあるが。
「ああ、もう、莫迦莫迦しい……」
うだうだ考えることに飽きてシュミットは浴槽を出た。適当に身体を拭き、バスローブを羽織っただけでベッドに入る。ぶり返してきた鈍痛に横になりたくなったのだ。それでも相変わらず考えることは少なく、自然とエーリッヒのことになった。果たして仕事は上手くいったのか、電話の相手は怒らなかったのか、今日はいつ頃帰ってくるのか……。
ランボオと言えば有名な詩人であるが、その初版本を買い付けにわざわざフランスくんだりまで来るとはエーリッヒもご苦労なことである。貴重な本であることはわかるが、それが一体どのくらいするのかシュミットには皆目見当もつかない。エーリッヒ曰く、わずか百冊程度しか市場に出回ってない非常に貴重な本だそうだが、どんな高値がつくのだろうか。あまりエーリッヒは本好きというタイプには見えないのだが、交渉相手はどう思ったことだろう。うとうとしながら思い返すと、エーリッヒの部屋にあった本はわずか3冊だった。確か、『サロメ』と『白鯨』、それに『夏の葬列』。他には雑誌はおろか、新聞さえも見当たらない殺風景な部屋。あそこよりもむしろエーリッヒの職場の古書屋の方がシュミットは好きだった。
第一次大戦前に建てられたという古ぼけた、だが磨き込まれて味のある店の奥で、伊達である細いメタルフレームの眼鏡をかけて、年を経た本を紐解くエーリッヒの姿がシュミットは好きだった。常に無い穏やかさを感じる優しい空気を纏って見えるエーリッヒの姿は、一枚の絵のようでもあった。普段の冷徹とも思えるほどの無感情さとかけ離れたその柔らかな空気は何処から来るのか。ひょっとしたらそれは意外にエーリッヒの本質かもしれないとシュミットは思う。断定はできないが、時折見せるエーリッヒの優しさは根拠になりはしないだろうか。今日だってあの髪を撫でてくれた仕草は驚くほど優しかった。昨夜の口付けも優しかったし、無愛想な割に結構気がきく。初めて寝た次の日、少し発熱してしまったシュミットに、夜になってだがシャーベットを買ってきてくれたこともあった。労わりを口にしたりするタイプではないが、シュミットに触れるときはいつも優しかったような気もする。ひょっとしたらその辺に惚れてしまったのかもしれない。
……惚れてしまった、とシュミットが考えた辺りで、瞼の裏に別の光景が浮かび上がってきた。それはエーリッヒの勤める古書屋の向かいにあるブティックの映像だ。そこに勤める若い女店員。彼女はどうやらエーリッヒに気があるらしい。朝の挨拶に託けて、アプローチをしてきた場面に何度か遭遇したことがある。シュミットはすぐにピンと来たが、果たしてあの朴念仁のエーリッヒは気がついているのだろうか。そんなことを考えているうちに、いつしかシュミットは柔らかな眠りに引き込まれていったのだった……。
すでに日も落ちた頃になって、エーリッヒはやっとホテルへ帰ることができた。仕事は上手くゆき、問題は何もない。そもそも大して難しい仕事ではなかった。タイミングを計るのに時間を食ってしまったが、それももう終わったことだ。残るはシュミットのだけなのだが、それを思い出したとたんにエーリッヒは思わずげんなりした。
シュミットは一見冷静そうに見えて意外に感情的な部分がある。それは多分親しい人間に対してのみなのだろうが、そこがエーリッヒには煩わしい。あそこまで剥き出しの感情をぶつけられては疲れてしまう。そのくせ気まぐれで嫌に素っ気無くなったりすることもしばしばある。非常に予測の立てずらい人格なのだ。はっきり言ってあの性格は苦手だ。だがそれでも尚こうして一緒に居てしまうのはどういうわけだか当のエーリッヒにもよくわからない。どのみちこの後色々ややこしくなるのは確かだろうな、と憮然としたままエーリッヒは部屋のドアを開けたのだった。
リビングに人影は無く、エーリッヒは上着をソファーの背にかけてから部屋の明かりをつけた。シュミットは何処かにでも出かけているのかと思いながら寝室の扉を開く。ネクタイを緩めながら部屋へ入ると、片方のベッドに横たわった人影が見えた。
「………………」
足音を殺して近寄ると、窓から入る淡い光に照らされたシュミットの秀麗な寝顔が見えた。どうも彼は何処かに出かけるでも怒り続けるでもなく、ずっとこの部屋で寝こけていたらしい。てっきり腹を立てているかどうかしていると思っていたエーリッヒは、拍子抜けしてしまった。どうもあれこれ考えただけ無駄だったらしい。段々阿保らしくなってきてエーリッヒはベッドの端に腰を下ろした。締めたくなるような細い首を晒して眠るシュミットの横顔を見下ろす。生乾きらしい髪に触れた指先が冷たい。風邪をひいてしまうということは念頭に無いのだろうか。
「……シュミット、起きろ」
肩に手をかけてゆすると、シュミットはすぐに顔を顰めた。あまり深く眠っていたわけではないらしい。もう一度同じように声をかけると、シュミットは目を擦りながらエーリッヒの方を見上げた。
「……起きたか?」
元々シュミットは寝起きは良い方なので、今朝のようなことの方がずっと珍しい。ひとまず簡単に起きてくれたことに胸を撫で下ろしたエーリッヒに、今だ夢見心地な声でシュミットは妙なことを言ってきた。
「……なぁ、知ってるか? お前の店の前にあるブティックの店員、あれはお前に気があるぞ」
一瞬何のことかわからずにエーリッヒは首を捻った。だがすぐにある人物の顔を思い浮かべると、
「……知ってる」
話し掛けてもいないのにしょっちゅう何か言ってくるあの女かとわかった。そういえばシュミットもよくそんな場面に居合わせた。煩いので無視しているが、諦めた様子は無い。
「気付いてたのか?」
シュミットは身を起こすとエーリッヒを見つめた。寝起きらしい表情はいつもよりずっと無防備だ。今ならばきっと頸を折るのも容易かろう。だがエーリッヒはわざとシュミットから目を逸らし、カーテンの曳かれていない窓の外を見やって言った。
「……興味が無い」
「興味が無いって、お前な……」
困惑したような、呆れたようなシュミットの声に振り返る。
「……何故だ? お前が居るのに?」
自信はあったが、やはりこの言葉はシュミットに効いたらしい。彼は何故だか上を見たり口をもごもごさせたりした挙句、取り合えずエーリッヒに抱きついてきた。
「……エーリッヒ」
猫みたいに頬を摺り寄せて嬉しいと感情表現するシュミットの背を撫でてやる。実はこのとき二人の間には非常に大きな誤解が存在するのだが、それを教えてやるほどエーリッヒは親切でも正直でもない。それにああいった甘ったるい感じの女は嫌いであるから、あながち総てが嘘というわけでもないし。
そうしていると不意にシュミットが小さくエーリッヒを呼んだ。どうせまた抱けとか、キスしろとか言うのだろうと高をくくって何かと無言で促す。だが予想に反してシュミットはこう言った。
「……腹減った」
……シュミットはよく、ひとのことをデリカシーが無いだとか他人の心情を察しないだとか雰囲気がわからないだとかと言うが、お前に言われたくないとこのとき激しくエーリッヒは思ったのだった。
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