恋雨月






 古の昔、花薫る都に一人の美しい姫がいた。父は内裏に勤める中将、母は時の大納言縁の者。住みたる邸も広く、何不自由無く育った彼女は殊未姫と言った。
 姫が生まれたのは今から15年の昔。風薫る5月のことである。稀なる美貌の利発な少女は父母の溺愛のもと健やかに育った。特に父親の溺愛振りは界隈でも有名であった。数年の後に嫡男たる弟が生まれても父親の姫に対する溺愛振りは変わる事無く、また兄弟の仲も非常に良かったのでそれこそ絵に描いたように幸せな家族であった。
 姫に弟が生まれたのは殊未が8歳のときであった。それまで一家の総領として教育を受けてきた姫はことのほか気が強く、また並外れて聡明であったために本来武人たる父親は彼女を嫡子として育てていた。おかげで姫というより嫡男といった様子の殊未は、流石に暫くの間戸惑っていたようである。しかし頭の良い彼女であるから、直ぐにその環境を受け入れた。家を継ぐ必要は無くなったが、それでも自分が自分であることには何も変わりがない、と。そうして姉という自分の立場を受け入れた彼女と弟は、仲の良い兄弟として育ったのである。





   それはある春めいた穏やかな日のことであった。本来姫たる者は邸の奥に居て、年頃にもなれば父親にさえ早々には素顔を見せないのがしきたりであるが、殊未は違った。本日も武道より縁側で書を読んでいるのが好きな弟を無理矢理鍛えてやったところである。そなたはゆくゆくは我が家名を背負って立つ身なるぞ、と幾ら言っても弟は引っ込み思案でいけない。本人もそれは思っているらしいが、行動が思考に伴っていなければどうにもならないのだ。故に姫は心を鬼にして弟を鍛える。弟もどうにか姉についてゆこうと頑張るのだが、力の差は歴然であった。それでもめげないところがこの兄弟はよく似ている。姉上が兄上だったら良かったのですが、と弟も良く言ったし、父母も冗談半分にそう言った。

「しかし、現実的に私は姉であり、そなたは男子である。これはどうにもならない」

「はい」

 こうして仲の良い兄弟の鍛錬は続くのだった。
 暫くの後漸く弟を解放した姫は着替えを済ませ、新緑の繁りはじめた庭を散歩していた。そこかしこで小者や下女が仕事に精を出している。姫は気さくに彼らの労をねぎらいながら庭を進んだ。時折父の気に入りの絵師や木匠が集まって何やら話し合いをしている所を見かけた。父は一件無骨に見えて案外芸術に煩い。笛も琵琶も人並み以上にあやつれるし、書画骨董の類いにも煩い。幼い頃からそれらのことを武道と同じ様に学んできた姫には、彼らは良い話し相手だった。そうして暫く行くうちに、白木蓮の下で絵筆をとる若い男に行き会った。見慣れぬ相手であったので姫の好奇心は刺激され、未だこちらに気付かぬ若者の背にそっと歩み寄った。

「良い絵が描けそうか?」

 急に掛けられた姫の声に若者は驚いた様子で振り返った。そうしてやはり驚きを隠せぬ口調ではい、と答える。その慌て振りが可笑しくて姫は素直に笑った。それにつられて若者も笑う。穏やかそうな容貌の精悍だが優しげな若者である。彼は随分と背が高いので、見上げるように姫は言った。

「父上の新しい絵師か?」

「はい。では、やはり殊未姫さまでしたか。これはご無礼をいたしました。私は中将さまに目を掛けていただきまして、昨日よりこのお屋敷にお部屋を頂きました、瑛莉と申します絵師にございます」

 そうして瑛莉は深々と一礼する。姿勢正しく目元涼やかだが、声音と物腰が極めて優しい。なるほどこの礼儀正しさが父上の気に入ったのだな、と姫は思った。

「父上は若い才能を開かせるのが趣味のようなお方だ。頑張って精進するがよい。それにここに来たのも何かの縁だ。これからも懇意にたのむぞ」

 そう言って姫が暇を告げると、もったいないお言葉、と若者はもう一度深く礼をした。面白い男だと周りに誰もいなくなってから姫は小さく笑った。年の頃は20歳か少し上か。

「瑛莉、か。気に入った」

 そう呟いて姫はもう一度小さく声を出して笑ったのだった。





 瑛莉は実際面白い若者だった。普段よりいつでも笑顔を絶やさず、謙虚で誰に対しても礼儀正しく物腰が柔らかい。年長者には敬意を払い、何事においてもそつがなかった。口数が多い方ではないが言葉は達者で話は面白かったし、子供が好きらしく殊未姫の弟もすぐに懐いた。姫は良く弟と一緒に瑛莉や他の絵師達の仕事を眺めたが、その中でも瑛莉の才能が抜きん出ていることはすぐにわかった。それでも瑛莉は奢ること無く、自分はまだまだ若輩者と言って先輩たちの言うことをよくきく。

「まだまだ技術が足りませんから」

 瑛莉は微笑って言った。そうして姫が16になる頃には二人はすっかり仲良くなっていた。姫は瑛莉が真剣に絵を描いているのを眺めるのが好きだった。骨ばった男っぽい指先が動くたびに繊細な絵が出来上がってゆく。始めは真っ白だった画面に、見る間に美しい風景が開けていく。その行程や真剣な瑛莉の横顔を眺めるのが殊未は好きだった。時折瑛莉はこちらを見て照れたように微笑む。そんな優しい様子が、特に殊未は好きだった。
 多分自分は瑛莉が好きなのだろうと殊未が自覚したのは16になった次の日のことだ。その日の昼に瑛莉がこっそりと漆塗りの化粧箱をくれた。自分で下絵を描いて友人の細工師に作ってもらったものだそうで、もちろん殊未のために作ったのだ。礼を言うと瑛莉は照れたように笑い、父上さまには秘密ですよと言った。何故かと問えば、私のような者と姫が懇意にしすぎるのはきっと快くないでしょうから、と寂しそうに言う。その時殊未はそんなことはないと言ったが、本当はそうなのかもしれない。だから瑛莉のくれた化粧箱は父の目の届かない場所にしまってある。大事に大事に、しかし不自然には見えないように。そうして二人は時折目線で笑い合った。多分瑛莉は殊未のことを憎からず想ってくれているだろう。そうだといいのだがと思う姫であった。
 ある夏の日、姫は母に呼ばれた。若かりし頃都一の美女と謳われた心優しき母は、娘と同じ色の紫青の眸を姫に向けた。今まで烈女と言われてもおかしくは無かったほど活発で男勝りな姫がこのところ妙に大人しい。いや、弟を鍛えたり自らも鍛錬に励んだりと生活は変わらないのだが、それでも幼かった面影が今では薄れているような気がする。そんな母の気も知らず、背筋を伸ばした姫は何用ですかと穏やかに問う。その口調が誰かに似ている気がしたのはきっと思い違いではないだろう。母はふっと溜息をつき、

「父上がお呼びです。大事なお話だそうですから、着替えてからいらっしゃい」

「大事な話、ですか?」

 訝かる娘にそうです、と答えて、母は姫を促した。殊未は首をかしげながらも一礼して退出した。その後姿は最早童女ではなく、美しい娘のそれだった。
 その日瑛莉は池のほとりで数日後の蛍狩りのために下見を兼ねて散歩をしていた。夕闇が迫りつつあり、大分気温も落ち着いてきた。蛍狩りの日は家人にも酒やご馳走が振舞われ、中将さまや奥さまである北の方も、庭に組まれた低い櫓で蛍を鑑賞する。瑛莉はできるだけ近い場所で蛍を観察したいがために、こうして良い場所はないかと探しているところだ。それはもちろん絵のためで、上手くできたら姫に差し上げようと瑛莉は思っていた。
 瑛莉は気の強い聡明な姫が好きだった。初めて見たときあまりの美しさと、それを全く気にかけていないような理知的な口調に感嘆した。武道を嗜んでいるせいか痛いほどに真っ直ぐな視線が相手の心を見透かすようで、心根の正しい人なのだとすぐに知れた。論理的な思考を持ち、あるべき自分の姿を決して見失わない。強いひとなのだと思った。それでも姫は微笑むと大層可愛らしく、瑛莉が殊未に恋慕の情を抱くようになるのに時間はかからなかった。それでも瑛莉は自分の立場や身分をわきまえていたので、思い上がった行動など何があってもしたりはしない。姫もどうやら自分のことを悪く思ってはいないようなので、それだけで瑛莉は満足だった。
 草を分け歩く音に瑛莉はふと振り返った。暮れゆく赤い空の下、誰かがこちらへやってくる。それが誰かわかると、瑛莉はいつもどおり微笑んだ。

「これは姫さま、どういたしました?」

 いつもと違う格好の殊未は何故か怒ったような硬い表情で瑛莉を見る。普段の軽装ではなく、きちんと着物を着た姫は一段と美しかった。
 殊未は瑛莉をじっと見つめる。紅をささない愛らしい口唇は一文字に結ばれていた。艶やかな髪が涼しげな色合いの着物に映えて美しい。暑さ以外のために紅潮した頬は童女のようで可愛らしかった。そうしてなかなか口を利かない殊未に瑛莉は小首を傾げてもう一度どうしたのかと問うた。

「……お前、私のことは好きか?」

 突然殊未はそんなことを言った。その言葉の意味がわからずに目を丸くする瑛莉に苛立ったように殊未はどうなのだと問う。

「好きなのか、と訊いておる」

 ますます怒ったように殊未は問う。ほとんど詰問に近いが、その口調ではなく質問の意味が瑛莉を戸惑わせた。普通の女性はそんなことを口にしたりはしない。十やそこらの子供ならばともかく、妙齢のしかも名家の姫が口にする質問ではない。だが殊未が他の娘たちと違っていることは瑛莉も良く知っている。だからこそこの人を好きになったのだ。

「どうなのだ、それとも嫌いなのか」

 待ちきれない様子で殊未は言った。自分が理不尽なことを言っているのは充分承知していたが、それでも彼女は声を抑えられなかった。瑛莉はそんな姫の眸を見て眩しそうに淡い水色の目を細めた。

「好きですよ」

 瑛莉は意を決して言った。この場合誤魔化しや嘘は通じないだろう。射るような殊未の眸を見ればわかる。だが殊未はさらに怒ったような表情をして、

「ならば私と死ぬる覚悟はあるか?」

 瑛莉に姫の真意はわからなかったが、そうしなければ殊未が悲しんでしまうような気がしてただ静かに頷いた。すると姫は気丈にも口唇を噛み、ゆっくりと瑛莉に細い身を寄せた。そして戸惑う瑛莉の胸に顔を埋める。

「……父上が、先ほど私の輿入れ先が決まったと言った」

「姫…………」

 恐る恐る瑛莉は姫の肩に触れる。幾ら武道を嗜もうと、その肩は細く瑛莉の手の中に簡単に収まった。

「相手は私よりも18も年上だ。今まで一度とて言葉を交わしたことも、顔を見たことも無い」

 そんなところには行きたくない、と殊未は怒りを込めて言い捨てる。しかしそれが世の習いであり、名のある家に生まれた娘の運命であることは姫も充分承知している。それでもあえて憤りを吐き出す姫を瑛莉はゆるく抱きしめた。身体に腕を添えるだけの包容だが、それが二人の身分の差である。本来なら面と向かって言葉を交わすことすら許されないのだ。だから強く抱きしめるなどしてはならない。髪に触れるなどしてはならないのだ……。

「嫁になど行きたくない。……私は、お前と一緒にいたい」

「はい……」

 殊未は瑛莉の腕の中で顔をあげる。その眸は濡れてはいなかった。

「だから、私と一緒に逃げよう」

 殊未は強く瑛莉の着物を掴んだ。強い視線が瑛莉を射る。死んでくれとは言わない、私と一緒に来て欲しい、と殊未は言う。吸い込まれそうな紫青の眸。暮れかかる天の色だと瑛莉は思った。

「それが駄目なら、もう私のことはかまわないでくれ……」

 忘れて欲しい、ということだろう。殊未は悲しそうに自分を見下ろす相手の名を呟き、瑛莉は愛しい相手を強く抱きしめたのだった……。





 山間の小さな村に若い夫婦が越してきたのは秋も終わりのことだった。二人は高台の大きな楠の側に居を構え、中睦まじく暮していた。夫は木匠として働き、妻は10日に2、3度山裾の寺で下働きをした。そのうち妻が読み書きができることがわかり、寺の和尚に頼まれて子供に勉学を教える手助けをするようになった。何やら訳の有りそうな夫婦であったが、村人の尊敬を集める和尚が詮索しないよう戒めたので、彼らに対する風当たりは優しかった。そうして月日はすぐに経っていった。
 瑛莉は空を見上げ、汗を拭った。この村に来て以来懇意にしてもらっている村長の屋敷の、邸内にある納屋の屋根を修理していたところだ。もう少しで完成である。これならば日のあるうちに終わるだろうと目星をつけて、瑛莉は一息入れることにした。
 この村に来て早3年が経とうとしている。始めは排他的だった村人とも打ち解けることができたし、仕事も認められるようになった。裕福ではないが慎ましく生きるには困らない程度の収入も得られるようになった。それに殊未が幸せそうであることが何より瑛莉は嬉しかった。
 二人で暮し始めたとき、殊未は今までの生活とのあまりの違いに大分戸惑ったようであった。瑛莉は元々貧乏暮らしをしていたので全く困りはしなかったのだが、米の炊き方すら知らない殊未には何から何まで全てが初めての体験であった。
 瑛莉は本当は殊未には何も心配は掛けさせたくなかったし、面倒なことは全て自分がするつもりだったのだが、相手はそれを聞いてきっぱりと言い切った。

「それでは何の意味も無い。私はお前の妻なのだから、他の家の妻女がすることは私もする。至らぬことも多いだろうが、そのときは容赦なく言うように」

 そうして慣れぬ手つきで縫い物をしたり掃除をする殊未は健気で瑛莉にはたまらなく可愛かった。それも最近は大分慣れたようで、家のことは殊未に任せてある。あの美しい手が水仕事で荒れてしまったりするのは心が痛んだが、そんなことを口にしようものなら逆に殊未にどやされてしまうことは明白であったので、瑛莉は黙っていた。駆け落ちして以来瑛莉は絵を描くことはできなくなったが、それでも殊未がいる限り彼はこの上なく幸せであったのだ。
 夕方瑛莉が帰宅すると、殊未が夕餉の支度をして待っていた。初めの頃は悪戦苦闘したが今では慣れたもので、質素だが懸命に考えた食事を用意して瑛莉の帰りを待っている。

「お帰り」

 そう言って殊未はたらいに水を張って持ってくる。それで手足を洗い、瑛莉は板の間の定位置に着いた。そうして夕餉を済ませ、暫しの後二人は床に着いた。
 最近殊未は子供が欲しいと言い出すようになった。寺で読み書きを教えていて、しょっちゅう子供に接しているせいだろう。今までは瑛莉が気をつけていたせいもあり、二人の間に子供はいなかった。

「貴方はまだ若いから」

 と瑛莉は今までそう言って殊未を宥めてきたが、そろそろ限界かもしれない。昨年15でお嫁に行った村長の娘が、先日男の子を産んだことはすぐに殊未の耳にも入るだろう。そうしたらきっと殊未は無言で瑛莉をじっと見つめるだろう。それから甘えたり怒ったり拗ねたりして瑛莉にねだるのだ。しかし瑛莉には無条件にそうすることができない理由がある。本当は瑛莉も子供の一人や二人は欲しいと思う。殊未の子供であるから、さぞや可愛いだろうとも思うのだ。しかし、家族が増えればその分殊未に負担がかかるわけで、それを思うと瑛莉は自分の不甲斐無さを実感するしかなかった。
 もっと自分に甲斐性があれば、と瑛莉はよく思った。それは考えても仕方の無いことなのだが、さりとて考えずにはいられない。本当は瑛莉が絵を描ければ暮しはもっと楽になるのだが、そこから足がついては元も子もない。都にいた当時瑛莉はそれなりの評価を得ていたので、彼の絵は決して安くは無い値段で売れるはずだ。しかし殊未の父親である中将は、娘が絵師ごときと駆け落ちしたと知って怒り狂ったであろうし、最早絵の世界には戻れまい。それが瑛莉が最愛の姫を手に入れる代わりに支払った代償である。ならば安いものだ。
 それに、と瑛莉は考える。もし万が一、二人の居場所が中将に知れて殊未が連れ戻された場合、子供がいては事態がもっと悪くなるかもしれない。幾ら孫とは言え、娘をたぶらかし傷物にした憎い男の子供など見たくも無いかもしれない。そうしたら殊未の立場さえ危うくなるかもしれない。それだけは絶対に避けたい。だから瑛莉は子供を作ることを躊躇うのだ。それに二人で暮していてもこれだけ幸せなのだから、それでいいではないかと。そうして時は過ぎゆき、1年が巡ったのだった。





   絵が描けないというのは、どんな気持ちだろうか。ふとした瞬間に殊未はよくそう思った。殊未は自分ではあまり絵を描いたりすることは無い。それでも父のおかげで幼い頃から色々と書画骨董、歌や音楽のことをよく学んだから、できないわけではない。しかし殊未にとってそれらは知識の類いであってそれに生きようとか生涯の友としようと思ったことは一度も無かった。だから瑛莉の気持ちの全てを推し量ることはできないのだ。
 瑛莉は父が目をかけた絵師の中でも指折りの才能の持ち主だった。それは絵に特に造詣の深いわけではない殊未にもよくわかった。彼が描き出す絵には生命が溢れていた。特に花や鳥、虫や獣の絵には見る者を引き込むような魔力があったと言っても良い。瑛莉はもしかしたら天才の部類に入る絵師なのかもしれない。昔まだ屋敷にいた頃、いつか姫の絵姿を描かせて頂きたいとよく言っていた。いつかな、と殊未は約束したまま、瑛莉は筆を折った。二人で都を逃げ出して以来瑛莉は絵筆に触れることすらしなくなった。もっとも、筆を持ったところで今の貧乏暮しでは高価な紙や画材などを買うことはできないので、描こうと思っても精々襖か障子に筆を走らせるしかない。しかし瑛莉は最早自分が絵師であったことすら忘れてしまったかのように暮している。朝は日の出と共に起きて仕事へ出、木匠として生計を立てている。もともと指先が器用で意匠の才があり、屋敷に来る以前から木匠の術を友人から学んでいたらしい。おかげで職に関して困るということはなかった。それでも毎日木匠の仕事があるわけではなく、時折は畑仕事を手伝ったりする。刈り入れのときなどはほとんど毎日村長の田圃へ出かけて手間賃を稼いでいた。彼は元々口数は少ないが人当たりが良く、誠実で懸命に働くので村長のお気に入りになったらしい。そうして汗水たらして働き、金を稼ぐということは大変尊いことだと殊未は思う。だがその反面あたらせっかくの才能を自分のために放棄させてしまったことを悔やまずにはいられない。瑛莉が屋敷にいたのはわずか1年程度。そのときに描き上げた絵は多く見積もっても精々数十枚。そのうち評価の対象となるのは果たして何枚ほどだろうか。これからというときだったのに、さぞや瑛莉も悔しかろう。
 そう思うと殊未は自分とそして父に対して憤りを感じずにはいられない。瑛莉に絵を諦めさせず、もっと上手くやることはできなかったのかと自問を繰り返す。本当は駆け落ちなどすべきではなかったのだろうか。確かに現在殊未は幸せであるが、自らの生きる道とした絵を瑛莉に捨てさせてまで手に入れるべきものだったろうか。瑛莉は本当に幸せなのだろうか。
 だがその考え以上に強いのは、やはり父への怒りだ。かの人も所詮はその程度の人間だったと思い知らされた。
 幼い頃より殊未は父を尊敬して生きてきた。帝の覚えめでたき中将。政治を知り、情を知る傑物と人々から尊敬を集め、それに恥じない働きをしていたと殊未も思う。芸術を愛し、見聞も広く、これと認めた相手には身分の上下無く手を差し伸べ、才能を世に示そうと尽力を惜しまない。そんな父は殊未にとって誇りでもあり、生涯の目標であった。だから幼い弟によく父上のような人間になれと言い聞かせたものだ。しかしそれは誤りであったと思う。所詮父も人の子、自分の欲望や世間の風聞には勝てなかったのだ。 
 あの日、父に呼ばれた夏の日、それは露見した。父は殊未に結婚の話を持ち出した。相手は帝の外戚で、父と同じ様な歳の見たことも無い男。名前ぐらいは聞いたことがあるが、それだけの人物だった。
 お前もそろそろ妙齢、来年にも輿入れと先方は希望してくださっている。父は神妙な表情で殊未に言う。お前も名家の息女とあらば、幼子のような行動は慎み、尊き人物の良き伴侶となれるよう努力いたせ。その言葉に殊未は父を見つめた。歌も詠める、琴も弾ける。文も書ければ香もあわせられる。これ以上何が必要でそんなことを言うのかと問えば、それがいけないと父は言った。妻たるもの主たる夫に口答えなどせず、大人しく屋敷の中で文でもしたためよ、と。その言葉に殊未は絶句した。それは今まで父が殊未に教えてきたことと正反対ではないか。何故今更そんなことをと言えば、今までのは自分の間違いだったとすら言い放った。
 お前を自由に育てすぎたのが間違いだった。娘ならばそれらしく教育せねばならないところを、まるで男子のように育ててしまったが故に、こんなことになったのだ、と。こんなこととは何かと殊未は父を睨みつけて言った。それはお前が良く知っていること、身分卑しい男などと懇意にするのは姫のすることではない。絵師風情と良からぬ噂がたってみよ、お前の将来に傷がつく。父はお前の幸せを、将来を思って言っているのだ。先方もお前を気に入って下すっている、おかしなことにならないうちに覚悟を決めよ……。
 殊未は命令するように自分を見る父を睨み上げた。それは本気の言葉かと問うと、もちろんだと父は言った。なので、殊未は手を付き頭を下げながら、それが本心でございますならば父上のお言葉どおり覚悟を決めさせていただきます、と宣言した。そして殊未はその日のうちに屋敷を後にした。
 何がお前のため、幸せを願ってだ。偉そうに親切ごかして父は言ったが、要するに自分が恥をかきたくないだけではないか。お前のため? 高潔なる者に身分の上下無しと教えたのはどこの誰だ。幸せを願って? 好いた相手と離れて見も知らぬ男に嫁ぐことのどこが幸せだと言うのだ。身分の高い低いがどうした。我が家とてつい100年前は都に住んですらいなかったくせに。大体身分の差などどうとでもなるではないか。瑛莉は確かに市井の庶民。だがまず彼をどこか相応の家の養子に迎えてもらい、それから殊未が嫁ぐなり瑛莉に婿養子になってもらうなりすれば身分の差など無くなってしまう。大納言の大叔父上にでも頼めば何とでもなるではないか。ましてや殊未は一人娘とは言え跡取りは弟がいる。殊未は家名などに興味は無かった。自分は自分、琴を爪弾いていようが、傘を張っていようが殊未が殊未であることに何の代わりも無い。そのことを教えたのは父であるというのに!
 殊未は父を見限った。所詮は世間の風聞を気にするだけの俗物であったと。娘の幸せを建前にして、自分の自尊心が傷つかぬようするだけの人間であったか。恥など本人がそう思わなければ何にもならないような瞞かし。本当に殊未の幸せを願うなら、そんなものに惑わされず、瑛莉と添わせてくれれば良いものを。その上今まで自分が目を掛け育て上げてきた者共を、本心では身分の卑しいと蔑んでいたのだ。そんな男を今まで父と仰ぎ誇りとしてきた自分にも殊未は嫌気がさした。所詮は底の浅い人物、と殊未はその日以来父のことを軽蔑するようになっていた。そして殊未は屋敷を飛び出したのだ。
 その選択が間違っていたとは思わない。だが最善の道であったかどうかは自信が無かった。しかし選んでしまったからには引き返せない。そして現在生活は裕福ではないが、幸福に満ちていると殊未は思う。瑛莉は自分にもっと楽をさせたいと思っているようだが、今のままで充分だ。このまま二人、共に朽ちることができれば。それだけが殊未の願いであった。しかし人生とはままならず、幸福な日々は終わりを告げるのだった。





 白いものが野山を覆いつくす師走のある日、初めての来訪者が瑛莉と殊未の元へやって来た。その人物は瑛莉のかつての仲間で、以前殊未に贈った化粧箱を作成した細工師である。彼は昔二人が都から逃げる際に大変力を貸してくれた恩人でもある。この村のことを勧めてくれたのも彼で、両親が亡くなるまでここに住んでいたのだそうだ。そんな伝手があったからこそまったくの余所者である瑛莉や殊未がこの村に居付くことができたのだ。そのことについてはどんな礼をしても飽き足りぬほどの恩がある。しかし二人がそう言うと先方は畏まるのはよしてくれ、そんなのは柄じゃないと言って照れたように頭を掻いた。これは昔瑛莉に助けてもらったことの恩返しだと言って笑った。何でも昔酒を飲んで喧嘩をし、死にかけていたところを瑛莉に助けてもらったことがあるとか。以来親友の仲なのだそうだ。今回の来訪もたまたまこっちの地方に来ることがあったついでに様子を見ようと立ち寄ったのだと言う。二人はごく少ない友人の来訪を喜び、ささやかながらも酒宴を設け、お互いの無病息災を喜び合った。
 瑛莉の友人は数日の逗留の後、都に戻っていった。二人は殊未が休んだ後も遅くまで毎日何か話し合っていた。積もる話もあるのだろうと殊未は思っていたが、それ以来瑛莉の様子が何だかおかしいような気がする。何か考えるところがあるのか、殊未の居ないところでよく思案に耽っているらしい。怪訝に思って殊未が尋ねてみても、言葉を濁すばかり。それでもいつかは話してくれるだろうと殊未はよけいな詮索を止めた。そして瑛莉が胸の内を明かしてくれたのは、年も改まって一月後のことだった。

「都へ、行こうと思う」

 瑛莉は真摯な眸をして言った。あれからもう5年近く経つ。いい加減ほとぼりも冷めたであろうし、一緒に都へ帰らないかと。
 流石の殊未もその言葉には驚いた。何故急にそんなことをと問うと、どうやらあの友人が訪ねてきたことが発端であるらしかった。友人の細工師は瑛莉に仕事の話を持ち掛けてきたのだ。
 以前殊未に贈った化粧箱の下絵を、瑛莉は何種類か描いて友人に渡した。そして使われなかった他の意匠を瑛莉は好きにしていいと言ったらしい。そこで友人はそれらの幾つかを実際に作り、見本として飾っておいたところ、それが欲しいと言う者が何人も来たのだそうだ。そこで友人はためしにそれらを何個か作って売ると、大層人気が出た。この方法ならば間に別の人間の細工が入るので瑛莉の絵とはわかるまい。ましてや書画と細工物では畑が違う。下絵だけならば着物や塗り物、陶器の類いにも通用するのではないかと友人は考えた。実は彼は常々瑛莉の才能を惜しんでいたので、これ幸いと瑛莉に話を持ち掛けてきたのだ。

「話によると、中将さまはもう捜索を諦めているらしい。ましてや都は広いし、気を付けてさえいれば大丈夫。この仕事が上手くゆけば貴方にも楽をさせてあげられると思う」

 瑛莉は心配そうに殊未を見る。しかし殊未は首を縦には振らなかった。

「都は広いとは言え、いつ何処で誰の目に留まるかもわからない。そんな場所で気をつけるとなると、家から一切外に出られなくなる。お前から絵を奪ってしまったことについては私も悔やまずにはおれない。しかし私は今のままで充分幸せだし、出来れば都には近付きたくも無いのだ」

「けれど、仕事が出来さえすれば暮らしはもっと楽になると思う。金の心配をしなくて済むし、何より貴方が働かなくても平気になる。貴方のように美しく聡明な人が、こんなところで畑を耕しているなど、間違っているのではないか」

 殊未はそれは違うと首を振った。本来人間として正しいのは、美しく着飾り労せず与えられるものを何の疑問も持たずに享受することではない。大地に根ざし、労を惜しまず仕事に励み、得たものを自然に感謝して糧とすることこそ人間本来の姿。また最も尊ぶべき人々である、と。

「それに私は田畑を耕すことは嫌ではない。自分で自分を養うのは当然のこと。働けばその分作物は育つ。第一私の手など、武道を嗜んだせいで昔からまめだらけ。今更思い煩うことは無い」

「しかし私は貴方に着物の一つ、櫛の一つすら買ってあげられないでいる。私は自分が不甲斐無い。貴方に苦労をかけて、せめて家計の心配をしなくてすむようにしたい」

 瑛莉は殊未を懸命に諭したが、巌として彼女は首を縦には振らなかった。櫛などいらぬ、着物など欲しくない。お前が側に居て、腹を空かさぬ程度の蓄えがあり、お互いが健康であるならばそれ以上のものは望まない。自分はそれだけで充分幸せだから、二人で慎ましく生きてゆこう、と。
 二人の意見は完全に割れた。瑛莉は何度も考えたが、それが最善の道だと結論した。しかし殊未は自分のことを思うならそんなことは考えないでくれと言う。二人は何度も話し合い、ときには喧嘩にもなったが、意見は分かれたままだった。そして瑛莉はついに決断した。1年の間だけ、一人都に赴くと。
 殊未は激しくそれに反対した。お前から絵を奪ってしまったことは本当に申し訳ないと思う。だが自分のことを思うなら都になど行くな、側に居てくれと。ときには口論にもなったし、総じて殊未は怒り通した。それでも瑛莉は1年間だけ、成功しようとしまいと1年間だけ、と我を通した。
 瑛莉は自分の不甲斐無さを常に感じていた。殊未は本来ならば姫と呼ばれ、何不自由無く一生をおくるはずであった。それが今では襤褸を纏い、日々の食事にも頭を悩ませている。殊未はああ言ってくれるが、それが辛くないはずは無いのだ。それがいじらしくて瑛莉には堪らない。もっと楽をさせてやりたい、もっと幸せにしてやりたい。その一心で瑛莉は都へゆくことを決意した。全ては殊未を愛するがゆえの決断である。本当は一緒に来て欲しかったが、それだけはと殊未は拒んだ。最終的にはお前など何処へなりと行ってしまえばいいと言って殊未は怒ったが、瑛莉の心は変わらなかった。1年で必ず帰ってくるから、待っていてくれと言って家を後にした。殊未は怒ったまま口もきかずにいたが、出立の朝瑛莉が目を覚ますと、わずかながらも路銀と握り飯が用意してあった。瑛莉は涙が出そうな気持ちで何度もむこうを向いて眠る殊未の背中に頭を下げ、都へと向かった。それが長い別れの始まりであった。





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