■□■ まどろみ □■□






 ようやく見つけた隠れ家は、見通しのいい場所にあり、何より家具付きというのが魅力的なものだった。
 この世の中は金さえあればどうとでもなるもので、いかにもまともな暮らしをしていない人間でも部屋を借りることが出来る。もともとはビジネスホテルか何かだったのだろう機能的だが殺風景な部屋に入ってまずアキラがしたことは、カーテンを全て閉じることだった。

「…………久しぶりにベッドで寝られるな」

 思わずため息が出る。アキラはベッドに腰を下ろすと、暗い室内を見回した。狭い部屋の中に並べられた二つのベッド。窓際にはテーブルと椅子が二脚。壁際の棚に入ったテレビと、小さな冷蔵庫。ステンレスの流し台に小ぶりの食器棚。戸口の傍にはクローゼットとユニットバスの狭いバスルームがあり、それがこの部屋の全てだった。

「……………………」

 同じように部屋を眺めているのはナノだ。表情の窺い知れない眼は部屋にあるものをスキャンしているように思える。彼の眼に映る光景が自分のものと同じであるというのは何だか奇妙で、アキラは目を逸らして立ち上がった。

「少し買い物に行ってくる」

 食料と水と、それから新しい衣服を買ってこなければ。トシマからの脱出以来、ろくに着替えていない。いくら服装に無頓着なアキラでも、いい加減気になって仕方が無かった。何より、こんな薄汚れた格好では悪目立ちしてしまう。内戦が勃発したとはいえ、戦場から遠いこの街ではまだまだ人々の生活水準は高い。
 軽く伸びをしたアキラは未だ戸口に立ったままのナノを振り返った。

「アンタはシャワーでも浴びててくれ。ついでに、その髪も染めた方がいいだろうから」

 ナノは緩やかに小首を傾げた。彼の髪は金に近い淡い茶色で、青い目との組み合わせはやはり珍しいものだ。軍に知られているであろう容貌を少しでも誤魔化すために、髪を黒く染めてみるのは有効だろう。そのためにはまず、髪の汚れを落とさなければ。

「…………わかった」

 言葉の意味を飲み込むようなゆったりとした返事。それでも以前よりずっと声に芯のようなものが感じられる。彼の意思がそこにあることを感じながら目の前を通り過ぎるアキラの腕を、冷たい手が捉えた。瞬間、静電気のような微かな刺激。アキラは足を止めてナノを見上げた。

「大丈夫だ、すぐに戻る」

 頷くアキラにナノはゆっくりと瞬いた。






 ナノは何故かアキラによく触れたがる。トシマにいたときはウィルス同士の反作用を期待してのことだったが、それが結局何ももたらさないとわかった今でも触れたがるのは何故なのだろうか。
 近くにある大型生活用品店とドラッグストアで買い物を終えたアキラは、背後に気を配りながら帰り道を急いでいた。念のため幾度も道を曲がって大回りをしたが、尾行の気配は無かった。どうやら今度こそ本当にしばしの休息が取れそうだ。
 部屋のドアを潜るまで気を許すことなく、アキラは走り出す寸前の速さで歩いた。ドアを閉じて大きく息をつく。帰るべき場所があるというのは、こんなにも疲れるものだったろうか。
 提げていたビニール袋をベッドの脇に置き、ブルゾンを脱いでベッドの上に放り出す。どうやらナノは言われたとおりにシャワーを浴びているようだ。狭いユニットバスながらもきちんとお湯が出ることが今のアキラには何よりありがたい。別に女ではないからどこで服を脱いで水で身体を洗い流そうがかまわないが、それでもきちんとした風呂に入れるというのは嬉しいものだ。
 思いついてベッドに腰を下ろすと、アキラは靴を脱いで裸足になった。灰色のカーペットが裸足の裏に心地よい。かつては白かった靴はすっかり黒ずみ、底は磨り減って汚れている。綺麗に洗いなおしても、寿命は近いだろう。明日になったら今度は靴を買いに行くか、と考えたところでアキラは顔を上げた。
 ベッドの脇に置かれていたビニールから新しい衣服を取り出し、アキラはバスルームへ向かった。ベッドからわずか数歩の距離。クリーム色の無機質なドアをノックし、

「ナノ、タオルと着替え買ってきた。入るぞ」

 返事を待たずにドアを開ける。今更気を使う必要は無いだろう。むしろ、ナノに至ってはそんなこと思いもつかないのではないだろうか。
 ドアを開けると蒸気を含んだ空気がアキラの頬を撫でた。狭いバスルームの中、壁にかかったシャワーヘッドを見上げるように立ったナノの背中が見えた。淡い色の髪は濡れて普段より色濃く見え、白いうなじにかかっている。理想的なカーブを描く背中も白く、極端に痩せ細っていながらも完全なる機能美を惜しげもなく晒していた。
 綺麗だと思った。男に対してその表現は似つかわしくないかもしれないが、それでもアキラはナノの裸体を綺麗だと思った。
 不意にナノが振り返った。やや上気した頬。涼やかな青い目は真っ直ぐアキラに向けられている。

「…………タオルと着替え、買ってきた」

 後ろめたい思いに駆られてアキラは目を逸らす。別に悪いことはしていないはずだが、何故か気恥ずかしくて口調が乱暴になった。男同士でこんなふうになるのは不自然だ。自分にそう言い聞かせてアキラはタオルと着替えをトイレの蓋の上に置いた。この距離ならシャワーもかからないだろう。明日はシャワーカーテンも買ってこよう。わざと事務的なことを考えて意識を切り替えようとするアキラを、ナノの青い視線が追っている。背中に注がれた視線が痛いほどわかるアキラは、務めて平静を装った。

「シャワーが終わったら、軽く髪の水気をふき取ってくれ。そうしたら、染めるから」

 わざと目を合わせないまま出ていこうとしたアキラの手首をナノが掴んだ。普段は凍るように冷たい手が、シャワーに温められたせいかひどく熱く感じられた。その分いつもの刺激はほとんど感じられなかったが、心臓が飛び跳ねる思いでアキラは振り返った。
 思いがけずすぐ近くにナノの顔があった。髪の先から水が滴っている。
何だよと言って邪険に手を振りほどこう。だがアキラの意思に反して腕は動かず、注ぎ込むような薄青い視線に声が出なかった。
 手が引かれる。シャワーはまだ流れ出たまま。心臓が耳の奥で潮騒に似た音を立てている。抗うことも出来ずただ視線を逸らしたアキラの視界の端で、ゆっくりとナノの薄いくちびるが動いた。

「アキラ…………」

 囁くような、それでいてシャワーの音にも掻き消されぬ声。耳に溶ける心地よい声音に、ただアキラはため息を零した。駄目だ、もう、何も考えられない。
 大人しく目を閉じたアキラの身体を、ゆっくりとナノは引き寄せた。






 くちびるが触れ合っている。ついばむような口付け。その度に微かに走る電流に似た刺激。ナノのくちびるはこんなに温かかっただろうか。ゆるやかに忍び込む舌に身を竦ませながら、頭の隅でそんなことをアキラは考えた。
 薄く目を開く。目の前には閉じたナノの瞼。長い睫が閉じられた瞼を縁取り、頬に影を落としている。これほど間近で彼の顔を見たのは初めてのことで、気恥ずかしさからアキラは再び目を閉じた。
 いや、初めてのことではない。以前にも一度だけあったではないか。
 あの朽ち果てた植物園での出来事を思い出してアキラは身体を強張らせた。他人との初めての交合。与えられた苦痛とそれに勝る屈辱。
 アキラの変化を感じ取ったのか、ナノがくちびるを離した。ゆるやかに身を起こすと、落ちかかる髪をかきあげる。恐れにも似た感情を抱いて見上げるアキラの目に、やはりナノは美しく映った。

「アキラ」

 今度こそはっきりと発音して、ナノはそっとアキラを抱き寄せる。触れ合った肌から官能に似た刺激が走り、苦痛に耐えるように顔を伏せてアキラは目を閉じた。シャワーの下に引き寄せられ、髪に湯がかかるのを感じる。服が濡れ、どんどんと重量を増しているだろう。だが何よりも一糸纏わぬ姿のナノに抱きすくめられているという事実がアキラの羞恥心を刺激していた。
 アキラ、と再び囁かれて、力強い手が背中を辿るのを感じた。ナノは顔を上げることを求めているのだろう。受け入れられることを望んでいるのだろう。あの日からずっと彼がアキラの髪に、頬に、手に触れたがったのは、溶け合うことを求めていたのだろうか。
 アキラにはナノの考えることはわからない。きっとナノにもアキラの考えることはわからないだろう。それでもアキラは知っていた。自分がもう彼を恐れていないことを。まだ身体は苦痛に対する恐怖を覚えているが、アキラはそれをおしてでもこの男が欲しいと思った。
 恐る恐る伸ばした手で、ナノの背を抱く。指先に感じる湯の流れ。それが接触による刺激を緩和させている。小さくため息をついて顔を上げると、微かに目を伏せたナノの白い顔が間近にあった。その紫を含んだ青い目には彼に似つかわしくないどこか戸惑ったような光があり、濡れて後ろに撫で付けられた髪と相まってまるでナノではないようだった。

「アキラ…………」

 安堵を含んだような柔らかい呼びかけ。我知らず口元に微笑を浮かべたままアキラは目を閉じた。頬にかかっていたシャワーが途切れ、くちびるが重なる。微かな刺激と、それを凌駕する甘い感情。くちびるを割って忍び込んだ舌がアキラの舌を捉える。いつかのような苦痛は無く、かわりに押し寄せるような快感がアキラの背筋を駆け下りた。
 濡れた服越しに感じるナノの身体が熱かった。白い皮膚の下を確かに血が通っているのだと思い知らされる。忌まわしい赤い液体。それでもそれがナノを構成する一部なのだと思えば愛しさがこみ上げる。自分の身体の中にも同じものが通っているのだと思えば、何が恐ろしくあるだろうか。
 夢中で口付けを受け入れるアキラのシャツの下に、ナノの手が滑り込む。多くの人間の命を奪ったきれいな手。人を殴り、傷つけ、けれど一つの傷跡も残らぬ滑らかな手が胸の上を這い回る。熱い掌がナノの興奮を示すようでアキラは嬉しかった。

「ん……待って、脱ぐから…………」

 繰り返し接触を求めようとするナノの手を押しとどめて、アキラは自らシャツに手をかけた。濡れて重くなったシャツを脱ぎ捨てると、髪をかきあげて挑むようにナノを見つめた。あのときの暴力的な交合を身体は覚えていて、微かに震える脚をアキラは叱咤する。くちびるをひきむすんだアキラの肩を撫でたナノは、陶酔したようにため息をついた。身を屈めてアキラの頬に口付けを落とし、青年期に差し掛かったばかりの胸を愛撫する。くすぐるように胸の突起を撫でられて、腰の奥からざわめくような感覚が沸き起こった。
 肉の薄い脇腹を辿った手が下腹部に達する。布越しにも形を露にし始めたアキラの身体に、薄青い目をナノは細めた。それが喜びなのか不快なのかがわからず、アキラは思わず目を逸らす。ナノの肩越しに見える風景は蒸気に霞み、色の褪せたタイルしか映らない。その数を数えているうちにこの行為は終わってくれるだろうか。つまらぬことを考えたアキラの身体を電流のような刺激が駆け抜けた。
 あっと思わず口をついて声が漏れる。アキラが他のことに気を取られたことを咎めるように、くつろげたジーンズに忍び込んだナノの手が敏感な部分を弄んでいた。

「う…………あっ……」

 長い指先がアキラ自身を刺激する。頬にかかるナノの吐息。くちびるが頬をたどり、髪に口付け、耳殻を舌がなぞった。くちびるで耳朶を食まれて声が漏れる。身体の中心を扱くように、揉みしだくように包み込む手。男の手に高められて掠れた声を上げる自分が恨めしかった。あのときもこんな声を上げていたのだろうか。わからない、思い出せない。
 それでもアキラは声をこらえようとはしなかった。そんなことをしたところで意味が無いことくらい今の彼にもわかる。それに微かに耳元に聞こえるナノの息遣いが、更にアキラを煽っていたのだから。
 ナノの手が腰を滑り降り、下着ごとジーンズをひき下ろした。そのまま床のタイルに膝をついたナノは、思考に靄のかかったアキラを見上げた。彼の手はアキラの優美な腰のラインをなぞり上げた。脚の付け根にくちびるを寄せ、強く吸い上げられる。腰骨に当てられた歯が甘い疼きを呼ぶようで、アキラはナノの頭部を抱きこんで目を閉じた。
 硬い歯の感触がいつかの首筋の傷を思い出させる。白く痕に残った首筋の傷は、一生消えることは無いだろう。だが同じように脚を噛まれたとしても、ここから逃げ出そうとはアキラは思わなかった。あの苦痛のあとに訪れた嵐のような快楽。恐れながらもそれを自分が欲していることをアキラは否定しない。危険な欲望だろうか。そうだとしても、誰に咎める権利があるだろう。
 薄く浮いた筋肉の上を辿っていたナノの舌が、アキラの下生えにたどり着いた。濡れた舌の感触がすぐに彼自身にまとわりつく。驚いたアキラが思わず逃げ腰になるのをナノは許さず、彼の身体を背後の壁に押し付けて自由を奪った。

「あっ、やめ…………」

 初めての行為に羞恥心からか狼狽するアキラを宥めるようにナノは彼の脚を撫でた。内腿の柔らかい部分を撫でさすり、舌の先で先端を愛撫する。そこを口に含むなど到底信じられず、アキラは困り果ててナノの髪をゆるやかに掴んだ。
 ようやく顔を上げたナノは跪いたままアキラを見上げる。

「…………大丈夫」

 宥めるようなナノの声。彼は自分の髪を掴んでいたアキラの手を取ると、そっと指先に口付けを落とした。
 ナノのくちびるは柔らかかった。舌は熱く、指先は器用だった。彼はアキラを昂ぶらせることを喜んでいるのだろうか。アキラは濡れたナノの髪を緩く掴みながら頭の隅で考える。だが先端に押し付けられた舌先が、集中力を奪ってゆく。アキラの下腹部に顔を埋めて跪く男。その姿を見ていることができずにアキラは目を閉じた。
 さっきあれほど口付けを交わしたくちびるが、今は自身を含んでいると思うとアキラは身震いするような愉悦を感じた。口は第二の性器だという。自分もいつか、彼に同じことをしてやりたいと思う日が来るのだろうか。
指がアキラの細長い脚の間を辿って楔の根元を愛撫する。下生えに隠れたまろみを弄び、更に奥を探り出す。

「……うっ、あっ…………」

 腰に血がたまってゆくのが自分でもわかる。脚に上手く力が入らずにアキラは壁に寄りかかった。限界が近く、どうにかしてナノの顔を上げさせようと慌てるが、彼はアキラの焦りなど意に介してはくれない。どころか、アキラをより昂ぶらせるために強く彼自身を吸い上げた。

「あっ…………!」

 悲鳴にも似た声を奥歯を噛んで耐えながら、アキラは身体を震わせた。熱くなりすぎた腰から欲望が迸る。熱くたぎった先端から吐き出されたものを、ナノは吸い上げるようにして飲み下した。最後の残滓まで残さぬように。
 肩で息をしてアキラは目を開く。生理的な涙に濡れた視界では、ナノがゆっくりと身を起こしたところだった。彼は左手で口元をぬぐうと、指先についていた先走りを舐め取った。親指、人差し指、中指…………。
 赤い舌が白い指を舐るのを目の当たりにして、アキラは頬に血が上るのを感じていた。指先を含むくちびるが、つい今しがたの行為を連想させる。僅かに見えたくちびるの内側の赤い肉が艶かしく、アキラは落ちてゆくような強いめまいを感じた。







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