■□■ まなざし □■□






 地下の厨房は昼夜を問わず薄暗かった。それはそうだろう、何しろ地下にあるので窓が無いため、採光性はゼロだ。もともと召使や屋敷僕妖精用の仕事場であるため、傲慢で尊大なブラック家の人々が彼らの労働状況を思いやることなどあるわけがなかった。
 厨房の光源といったら古いガス灯か蝋燭、あとは暖炉くらいなものだ。そのため季節に関係なく暖炉には火が入れられ、煌々と部屋を照らしている。時期によっては明りだけで温度の無い火を入れているが、今は普通の炎だった。
 ここにいると時間の感覚が狂う、とシリウスは盛大なため息をついて長い木のテーブルに肘杖をついた。向かいにはリーマスが座り、その他には誰もいない。まだ午後も過ぎたばかりの時間であるから、誰も戻ってきてはいないのだ。いるとしたらそれはクリーチャーくらいなもので、憤懣やるかたないらしい屋敷僕妖精は夜以外には厨房に近付こうとはしなかった。
 シリウスは退屈そうに目の前の羊皮紙を眺めた。現在二人は騎士団の仕事中である。テーブルに積まれた古い羊皮紙の山は、十数年前に闇の陣営に属していた者のリストと、そのアジトの場所を示した地図である。そこから現在も存命し、ヴォルデモートに忠誠を誓う可能性の高い人物をピックアップし、要注意度の高い順にリストを作る。そして過去の地図から現在も闇の陣営の基地となる可能性のある場所を見つけ、新しい地図に書き写してゆくのだ。まだ表立った行動をしていない闇の陣営に、できるだけ早くから攻勢をかけるためには重要な作業なのである。……なのであるが、どうにもデスクワークの嫌いなシリウスには向かない仕事でもあった。
 シリウスはバタービールの壜を口に運びながら真剣に仕事に打ち込むリーマスを眺めた。二枚の羊皮紙を幾度も行き来する視線は鋭く、シリウスからは淡い色の睫がよく見える。羽ペンを持つ細長い指は労働の痕跡を残し、骨ばっていながらもシリウスのお気に入りだ。昨夜切ってやったばかりの爪は綺麗に整えられており、シリウスの背中に傷を残すことは無かった。
 集中力のなせる業か、それともよくあることだからか、リーマスはシリウスの視線に気付かない。向けられない視線だとか見え隠れする首筋だとかにシリウスが欲情を自覚していたとしても、やはりリーマスは羊皮紙に目を落としたままだ。そんなリーマスというよりも、むしろ自分に呆れてシリウスはため息をついた。昨夜あれほど、それこそ飽きるほど抱き合ったというのに、何故にこんなにも容易に盛ってしまうのだろうか。いや、或いは昨夜の記憶が生々しいからこそ欲情するのか。
 どちらにせよ動物のようだとシリウスは自分でも思う。これは多分、外に出ることができないというストレスのせいも大きいのだろう。そんなものに付き合わされるリーマスはいい迷惑だろうが、目の前に恋人がいてそれなのに盛っちゃいけない道理など無いはずだ。そもそも相手がリーマスでなければ、これほどやたらに欲情することも無いだろう。
 ……それにしても何故にリーマスはこれほどシリウスの劣情を刺激するのだろうか。シリウスはじっと向かいに座ったリーマスを見つめた。
 はっきり言ってリーマスは別段美人ではない。かつてシリウスが付き合ってきた歴代の女たちと比べると、話にならないほど普通の男だ。もともとシリウスは顔より身体を重視するタイプであるので、彼自身は顔の造作で選り好みはしない。しかしシリウスと付き合いたいと思って近寄ってくる女たちは、彼の上等すぎる容姿のためか、揃って高レベルの美女ぞろいであった。それに比べればリーマスの顔立ちなど、まあ整ってはいるが平均的な造作と言える。と言っても学生時代の美脚ぶりは、文句無しのNo.1であったが。
 そう、学生のころのリーマスは何故か恐ろしいほど美しい脚をしていた。その『あんよ』の完璧さたるや、パーツモデルも真っ青なほど。今はその片鱗を残しただけですっかり男の脚になってしまったが、あれほど美しい脚を遊び人のシリウスでさえ他に見たことは無かった。
 それが今ではこれだからな、とシリウスはバタービールの壜を口に運びながら見えるわけの無い足元をテーブルを透かすように眺める。膝やくるぶしが出て筋肉がつき、筋張った鶏がらのようになってしまった。揚げて食ったら美味いかも、という理由では相変わらずおいしそうな脚ではある。その脚が別に嫌いではないし、これはこれで別の色気があっていいとも思う。しかし半面でシリウスは、失われてしまった昔のあの美しさが懐かしくてたまらない。
 学生時代のリーマスは、人狼という病のせいか発育が遅く、極端に体毛の薄い少年だった。男性ホルモンがやたらに少なかったのかもしれないが、とにかく女よりよほど麗しい脚をしていた。いや、脚だけではなく極端に痩せて筋肉が薄かったため、裸になったときの後姿などはやばかった。特に箒の授業などで汗をかいたあとなどは、自室ではなく共同のシャワールームを使う。そんなときに無防備に裸体を晒して歩くリーマスの後姿に、突然前かがみになった同級生を何人もシリウスは見た。どころか、共学にもかかわらず潤いの少ない男供の中には『あの脚なら……』と血迷ったことを考えた奴がいたことをシリウスは知っている。そして当事者のリーマスは自分がそんな危険な存在だなどとは微塵も自覚していなかった。
 そんな微妙な男心を利用して荒稼ぎし、リーマスの逆鱗に触れるという事件を起こしたこともあったが、基本的にはシリウスは無自覚な友人をどうにかして守らねばと、ジェームズと二人して睨みをきかせていたのである。例えば共同のシャワールームでは必ずどちらかが一緒に歩いていたし、リーマスの髪が伸びて少しでも女の子っぽくなると無理にでも散髪に誘った。ホグワーツでは日曜ごとに理容師を校内に呼び寄せてくれていたので、リーマスの髪は常に一定の長さに保たれていた。それでも理容師が多くの白い手袋に魔法をかけて一度に沢山の生徒の髪を整えるとき、細く白いリーマスのうなじに熱い視線を注ぐ輩がいなかったわけではない。そんなときはホグワーツきっての問題児の二人が、心をこめてボディランゲージを叩き込んでやった。
 幸いシャワールームの件は、リーマスが監督生になると片がついた。実技の授業のあとでもリーマスは監督生用の個人バスルームを使うので、他人の目に晒されることが無くなったのだ。ましてやこのころにはすでにリーマスと現在のような関係を築いていたシリウスは、莫迦な男供に対して内心では超優越感なのであった。そして卒業までリーマスは、シリウスたちの気苦労を全く知ることは無かったのである。
 恐らくリーマスは自分がセクシャルな存在だなどとは、露とも思わなかっただろう。身内に抱える病のせいで、極端に自己の身体に自信が無かったせいもあるだろうが、それにしたって暢気なものだ。学生時代のことを思い出してシリウスは一人でむっつりと口をへの字に曲げた。相変わらずリーマスはこちらには目もくれず、仕事に没頭している。今は無造作に伸ばした髪が頬に落ちかかり、無意識の動作でリーマスは鳶色の髪をかきあげた。
 十二年ぶりに再会したリーマスは、すっかり男になっていた。もちろんもともと男であるので、成人男性らしくなっていたと言うのが正しいかもしれない。脱狼薬の発明からか、変身に伴う苦痛が軽減されたおかげで体重が増し、意識的につけられた筋肉が柔らかだった身体の線を覆うようになった。顔つきもすっかり幼さが抜けて男らしくなっていたし、髪は白髪が増え、肌の色もかつての病的な青白さが抜けて健康的になっていた。精神的に余裕ができたあと改めてリーマスをまじまじと見てみたら、すっかり年をとっていてシリウスはややショックを受けた。それはあの赤ん坊だったハリーがジェームズ二号のようになっていたときのものとは異質なもので、同じだけ自分が年を取ったのだと思うとショックだったのであって、リーマスが衰えたというわけではない。むしろシリウスは今のほうが昔よりもずっとリーマスを好きなのだから。
 その証拠に俺は今も欲情してしまっている、とシリウスはぼんやりリーマスを眺める。十数年の時を経たリーマスは、以前にも増してシリウスを惹きつける。彼の目じりに浮かんだ細い笑い皺とか、昔よりも輪郭の浮き上がった鎖骨のラインとか、色気があってシリウスにはとても好ましい。昔よりも奔放で駆け引きが上手くなり、かつてとは別の意味でシリウスを翻弄するのが楽しくてたまらない。普段のそっけなさがかえってベッドの中での艶姿をひきたてて、それがまたいけないのだとシリウスは思うのだ。
 一人で悶々とそんなことを考えていたら、更に欲望が募ってしまい、むっつりとシリウスはくちびるを尖らせた。まずい、物凄くしたい。
 しかしこんないつ誰が戻ってくるともわからない昼日中に、リーマスがうんと言ってくれることなどあるだろうか。昨夜も呆れるほど抱き合ったのに、まだ足りないのかと文句を言われる確率はロンドンの天気予報より当たるだろう。それをどうにかベッドまで持っていくのは至難の業だ。もしかしたらこの仕事が終わるまでは相手にしてももらえないかもしれない。
 一人で必死に考えるシリウスを、不意に顔を上げたリーマスが見た。彼は不思議そうに眼を数度瞬かせると、再び羊皮紙に視線を落としてしまう。一瞬眼の合ったシリウスは内心を見透かされたのではと生きた心地がしなかったが、幾らなんでもたったあれだけで全てを悟るほどリーマスだって読心術には長けていないはずだ。
 思わず心臓をバクバク言わせながら様子を見守るシリウスの目の前で、羊皮紙に目を落としたリーマスは無言のままだ。しかし彼の手にした羽ペンは動きを止めたままで、何故かリーマスは諦めたように小さな息をついた。
 相手の出方を窺うシリウスがじっと見つめていると、再度リーマスは顔を上げた。彼の眼は悪戯っぽい光を湛え、くちびるには微笑が浮かんでいる。その微笑はシリウスの欲目を抜いたとしても艶やかなもので、薄く開いたくちびるの内側に見える赤い肉が濡れて男を誘っていた。艶然と微笑むリーマスに、無意識にゴクリと咽喉を鳴らすと、シリウスは突然席を立った。彼は怒ったようなそれでいて困っているような表情を浮かべたままリーマスの腕を掴んだ。シリウスは照れ隠しからか腕を掴んだまま強引に立ち上がらせようとしたが、リーマスは笑って抗うことは無かった。





〔おわり〕







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