■□■ ミラクル □■□






「きみは奇跡って信じるかい?」

 トイレの扉に背中を預けて床に腰を下ろしたシリウスは、力の無い動作で視線を上げた。昨夜調子にのって大酒をかっ食らったせいで、二人とも酷い二日酔いに悩まされている。おかげで眼を覚ましたのは昼過ぎだったのに、動けるようになるのに何時間もかかってしまった。そしてとうに夕食の時間も過ぎた現在、リーマスはソファに横になり、シリウスは襲い来る吐き気に取り憑かれたトイレの住人になっていた。

「………………あん?」

 何だよやぶから棒に、と思っても、今の状態のシリウスは不機嫌に一言返すのが精一杯。何しろ十年以上もキヨラカ過ぎる生活を強要されていたのだ。ここ十年ですっかりアルコールに慣れたリーマスより具合が悪いのは当然だろう。
 シリウスは頭痛に響かぬようにそろそろと視線を動かして、ソファの陰になったリーマスのほうを見つめた。どうやら動けない暇つぶしに見ているテレビ番組が、古今東西の奇跡をミニドラマ形式で再現した特集番組であるようだ。
 シリウスはアメーバが這うような思考を自覚しつつ、よくわからないと答えた。あればいいとは思う。いや、あったほうがいいとは思うが、実際にそんな場面に遭遇しても偶然だとしか思えない。むしろ、そんなことを訊くリーマスを意外に思った。
 シリウスの抱くリーマスのイメージでは、彼は頑ななまでの現実主義者だ。奇跡などという言葉を口にしようものなら、鼻で嘲笑うか、大人が子供に向ける、微笑ましくもどこか優越感を滲ませた優しげな表情を浮かべるだろう。それが一体どんな心境の変化で『奇跡』なんぞと言い出したのだろうか。あるいはシリウスを嵌める新手の嫌がらせか。
 体調が悪いせいかはたまた普段の生活態度からか、あらぬ疑いをかけられたリーマスは、相変わらずソファの陰になっていて彼がどんな表情を浮かべているのかシリウスには判然としなかった。

「わたしは知ってるよ」

 寝過ぎのせいかいつもより声の掠れたリーマスは平坦な調子で言った。信じるかどうかと訊いておいて『知っている』とは妙な答えだ。

「へえ。どんな?」

 ガス入りのミネラルウォーターを口に運びつつ警戒を悟られぬようにシリウスは言った。するとソファの陰からリーマスの手がにょきっと上げられた。食べても美味しくなさそうな指が一本立てられる。

「ひとつ、ホグワーツに入学できた」

 せいぜい揚げ物にしかできないような指が二本立てられる。

「ふたつ、ハリーは生き残った」

 なるほど、とシリウスは靄のかかった頭でうっかり頷いて頭痛を引き起こした。しかしソファの陰のリーマスは、無言で頭を抱えて悶絶するシリウスなど知る由も無い。

「みっつ、きみは戻ってきた」

 例えそれが大変嬉しいお言葉でも、今のシリウスには床をはいずってソファに近寄ることくらいしかできない。そして相変わらず平坦な調子でリーマスはよっつと呟いた。

「そしてわたしたちは生きている」

 親指だけを折った右手をぎゅっと掴まれて、リーマスは青ざめた顔をゆるゆると上げる。ソファの背もたれに顎を乗せてこちらを見下ろすシリウスと眼が合った。こういうときの目つきはパッドフットとよく似通っていると思う。無精ひげの目立つ彼は、

「リーマス、せっかくの奇跡だからベッドに行ってお祝いしようか」

 くちびるの端を上げてにやりと笑うシリウス。そうだね、と答えつつもリーマスは、

「…………とりあえず、回復してからね」

「そだな…………」

 二人は青いため息をついてささやかな微笑を交わした。




〔おわり〕







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