水の惑星〜said S〜






 神は言われた。

 ―――大いなる葦の大海に浮かぶ蒼き星よ。水の惑星よ。我が愛なる子らよ、目を凝らして見るが良い。我を信じるものはその蒼き銀の水面に全ての真実を見つけるであろう……

 ―――コーリュロイの丘の奇跡





 彼はドアをノックする音に顔を上げると、手にしていた聖典を閉じた。古ぼけた黒皮の表紙に今ではほとんど見えないほど薄くなってしまった金の字で彼の名が記してあるそれは、幼い日にまだ健在であった両親から贈られた物だった。
 無言でドアを開くと、思った通りそこにはエーリッヒが立っていた。名前だけを知っているその男は、彼が開いたドアから当然のように中に入ってきた。

「元気そうだな、シュミット」

「……おかげさまで」

 エーリッヒは振り返りもせずに言うが、いつものことなのでシュミットももう気にしなかった。彼はいつも口数が少なく、シュミットのことを詮索したりしない。時たま思い出したように何かを尋ねることはあっても、曖昧な返事でもすればもうそれ以上重ねて尋ねることは無かった。きっと他人に関する興味が薄いのだろう、とシュミットは思う。それは彼にとっても非常に好ましく、好意的な客であった。
 シュミットはドアを閉じるとゆっくりとした足取りでエーリッヒの傍にやって来た。と言っても狭い部屋なので、移動時間はほとんどかからない。所詮は娼館の中の一室である。贅沢は望めない。
 エーリッヒは机の上の聖典に目をやっていたが、シュミットが近付いて来たのがわかると振り返り、腕を伸ばして細い身体を抱き寄せた。

 そこは開かれた娼館だった。大きな門構えはかつて盛況を極めた貴族の邸宅を買い取ったもので、この都の数ある娼館の中でも指折りの大きさだ。かつての戦によってはその貴族は没落し、娼館は平和な時代の数十倍の客を得た。その戦が終結した今、その繁盛振りは陰りを見せ始めているが、それでも他に比べ客の入りが多いのは確かだった。
 その娼館が扱うのは女だけではなかった。宗教で否定されながらも男を愛する輩は多く、ましてや戦のために多くの孤児が出た結果、少数ではあるが少年や青年も在籍している。その中の一人がシュミットだった。
 光量を落としたランプの火影が寝台に向かう二人の影を壁に大きく映し出している。長身のエーリッヒの腕に抱かれたシュミットは臆することなく彼を見上げる。そのシュミットの顎に手をやって、エーリッヒは口付けた。本来ならば接吻など娼館の者はしないものだが、それはどうやら娼婦に限ったことのようで、男娼であるシュミットは一度としてそれを拒んだことはなかった。
 不思議と甘い香りのするシュミットの肌に唇を落としながら、エーリッヒは彼の着物の中に手を滑り込ませた。もちろんシュミットも心得たもので、邪魔をしないように気を付けながらエーリッヒの着物を脱がせ始める。仕立ての良い絹の服は滑るように精悍なエーリッヒの身体から離れてゆく。かつては自分も纏っていたすべらかな布の感触は、掌に心地良かった。シュミットは相手の服を脱がすと彼を寝台に座らせ、エーリッヒの目の前で自らも着物を脱ぎ捨てた。そうして一糸纏わぬ姿になると、恥らうでもなくシュミットはエーリッヒの反応を待った。彼は観賞するかのように冷めた視線でシュミットの身体を見ている。何か眩しいものを見るように注がれる視線に卑猥な感情は一切無い。何故エーリッヒはそんなことをするのかシュミットにはわからないが、ただ黙って彼の上客の好きなようにさせる。本当は貧弱な自分の身体があまり好きではなかったが、何も言わずに待っていた。
 エーリッヒは一度シュミットを見上げると、その細い腰を抱き寄せた。シュミットは引かれるままに寝台に膝をつき、自分の胸や腹部に口付けるエーリッヒの頭部を抱き込んだ。その硬質な銀の髪を梳きながら、柔らかな口唇が肌の上を這うのを感じていた。もし他の客であったならば快楽など得ないよう努めるのだが、彼だけは特別であった。身体が合う、ということが本当にあるとは、彼と出会うまでさしものシュミットも知らなかった。こんな職業に身を置くのも全てかつての償いだと自分に命じているにもかかわらず、シュミットはエーリッヒとの行為を自分が望んでいることに気がついていた。
 彼は初めて寝たときにエーリッヒとだけ名乗り、職業も何も口にしなかった。

「私はエーリッヒだ。それだけで充分だろう」

 そう言って何処から来るのかさえも言わない。そのくせこの娼館に足を運ぶのは男が好きというわけでも無いのに、他の娼婦ではなくシュミットと寝るためだけなのだから面白い。それでも人気の高いシュミットを一晩買えるのだから、それなりに金持ちではあるのだろう。鍛え上げられ、無駄の全く無い身体や物腰から、ひょっとしたら名のある騎士ではないかともシュミットは考えていたが、それを口に出して尋ねてみたりすることは無かった。

 「っあ、ああ…」

 春を売る者の礼儀として以上にシュミットは声を上げていた。職業上演技ででも喘がねばならないのだが、エーリッヒとする場合はそんな必要はかけらもなかった。男とするのはシュミットが初めてだと言っていたのに、彼は非常に上手かった。そして今もシュミットは得るべきではないと自戒している快感に、どうしても身体が燃え立つのを感じていた。仰向けになり、肘で身体を支えるシュミットの下腹部にエーリッヒが顔を埋めている。末梢神経の集まった器官を口に含まれて、シュミットは奥歯を噛み締めて絶頂をこらえていた。それは拷問よりも辛く、何よりも甘かった。

「エー、リッヒ…だめ、もう……」

 シュミットの声にエーリッヒは顔を上げ、頷くと身体を離した。おかげで急速に冷めゆく身体を寝台から起こし、シュミットは今度は腹這いになって自らの腰をエーリッヒの方に高く差し出した。するとすぐにエーリッヒの指がぬめり気を伴って触れてきた。シュミットが用意しておいた香油を指ですくい、彼の閉じた花蕾に塗り込もうとしているのだ。もともと男を受け入れるようにできていない器官なのだから、何某かの潤滑油は必要だ。本来ならばシュミットが自分ですることだが、エーリッヒはごく当然のように自らの手でそれをした。
 自分の体内に指が侵入してくるのを、シュミットは震えながら耐えた。今すぐにでもどうにかなってしまいそうなのを耐えるのはいつもの事だが、それでもエーリッヒの指が今自分を愛撫しているのだと考えると、頭までがどうにかなってしまいそうだった。彼はエーリッヒの男らしい節くれた長い指が好きだったのだ。それは無いものねだりの一種であると自分でもわかってはいたが、好きなものは仕方が無い。あの指で優しく触れられたならばどんなにか幸せだろうと、薄れゆく思考の中でシュミットはぼんやりと思うのだった。
 何度目かの行為を終えると、エーリッヒは腕にシュミットを抱きながら寝台に横になった。いつものことだが、エーリッヒはひどく優しい。中には強姦まがいな方法を好むようなのもいるというのに、エーリッヒはいつでもシュミットに優しい。ただそれが、単に一度抱いた相手に執着を覚えているだけなのだろうことがわかっているのから、シュミットは悲しかった。だがその反面、自分は愚かだとも思う。何を思おうと、伝わるはずも無ければ伝える気もない。ならば気持ちは押さえ込むべきであって、そんなことを思うのは無駄なのだ。全てを失ったあの時に決めたことではないか…。
 シュミットは薄闇の中で身を起こすと、気だるげに自分の髪を撫でるエーリッヒの方に向き直った。

「…湯浴みなさいますか?」

 薄物を羽織りながら問うと、彼は手を止めてシュミットを見た。

「いや、……面倒臭い」

 眠そうな口調に思わず微笑みが漏れる。ならば、とシュミットは一人寝台から下りると浴室に向かった。暫くして彼は桶に熱い湯を張って戻ってくると、手に持っていた手拭いを中に浸し、固く絞って寝台に戻った。

「今、お拭きしますから」

 言うまでも無くエーリッヒも分かっている。今まで何度もこういうことはあった。そしてエーリッヒは素直に上掛けを捲り、シュミットに身体を拭いてもらうのだった。
 キレイな身体だ、とシュミットはいつも思う。男っぽい身体の線や、陰影の濃い筋肉はけして無駄が無い。日に焼けた浅黒い肌は健康的で彼の魅力の一つでもある。豪奢な礼服よりも、きっと清潔な麻や白絹の方が良く似合うであろう。長い手脚や、広い胸は誰を包みこむためにあるのだろうか。背や腕にある刀痕は、幾度も死線を切り抜けてきた証し。それでも思慮深い、慈悲を失わぬ優しい眸がシュミットは好きだった。初めて寝た夜に、その視線があの人に似ていることに気が付いた。だから戸惑い、その眸に晒されることをシュミットは恐れた。だがそれも初めのうちだけで、すぐに彼に見つめられたいと思うようになった。そして今は、こうして平常と変わらぬように接することができる。

「お前は?」

 エーリッヒがシュミットの手を見ながら言う。このまま寝るか、と訊いているのだ。シュミットは顔を上げるといえ、と呟いた。

「宜しければサッとだけ入浴してまいります」

 エーリッヒは頷き、もういいと手で促した。ならばすぐにでもとシュミットは立ち上がる。不自由な脚で急ぎながら浴室へ向かい、桶と手拭いを片付けてから大急ぎで入浴を済ませた。
 手に客用の薄い衣を持ってシュミットが浴室から出てきたとき、エーリッヒは上半身だけ裸のまま寝台ではなく机の前に立っていた。すでに光量を戻したランプに映し出されたのは、シュミットの聖典だった。それを手にエーリッヒは振り返る。

「…早かったな。もっとゆっくりしていいのに」

「いえ、そういうわけにはまいりませんから…」

 内心冷や汗をかきながら、何気無い動作を装ってエーリッヒから聖典を取り、薄物を渡す。迂闊だった。机の上に置いたまま、すっかり忘れていた。だがシュミットの焦りなど全く気付かぬ様子でエーリッヒは寝台へ戻る。気取られぬように聖典を机の中に仕舞いながら、シュミットは声をかけずにはいられなかった。

「…神道に御興味でも?」

 背中全部を耳にしてエーリッヒの答えを待つシュミットに、彼はつまらなさそうにいや、と答えた。そして手渡された着物に袖を通しながら、

「生憎と、レースの小物と神頼みには餓鬼の頃から縁が無くてな」

 それより、とエーリッヒは言う。もし嫌でなければ耳の掃除でもしてくれないか、と。その口調に思わず安堵の息を漏らしてから、シュミットは承諾を返した。良かった、気付かれていない……。
 寝台の上に横座わりしたシュミットの太腿の上に頭を預けて、エーリッヒが横になっている。危ないから動かないようにというシュミットの言葉を守ってか、エーリッヒは身じろぎ一つしない。ひょっとしたら眠ってしまったのかと思って軽く肩を揺すると、そのシュミットの手を大丈夫とでも言う様にエーリッヒは軽くたたき返した。

「終わりましたよ」

 シュミットの声にエーリッヒは顔を上げる。だがまたすぐにシュミットの膝枕に顔を埋めてしまった。さてどうしたものかと思案するシュミットに、エーリッヒは眠そうな口調で話しかけた。

「……お前、恋人は?」

「いえ、……おりません」

 普通こういう職業をしている者はあまり正直に居るとは言わないだろうと思い直したのか、エーリッヒはわざわざ問い直す。

「いたことは?」

 短い逡巡の後、そのくらいならば構わないかとシュミットは答えた。

「昔はおりましたが、今は…」

「何故?」

 身体を捻ってこちらを見上げるエーリッヒに悲しい微笑を浮かべながらシュミットは言った。

「戦に行ったまま、帰って来ませんでした」

「……そうか」

 つまりはその恋人も男だったのか、とエーリッヒは頬を掻いた。まぁ、これだけの美貌ならばそういうこともあるだろう。ならば……。

「家族はいないのか?」

 だがやはりシュミットは同じ微笑を浮かべる。家族も皆、先の戦で失ったと。

「それは悪いことを訊いた……」

「いえ、大したことではありませんから」

 それよりも、とシュミットは言った。貴方がここに来るよりも、自分がそちらへ出掛けて行った方が良いのではないか、と。毎週エーリッヒが通ってくるよりも、その方が正しいのではないかとシュミットは思う。もしかしたら素性や家を知られたくないのだろうか。だが予想に反してエーリッヒはこう言った。

「いや、あそこじゃ落ち着かん。お前の部屋の方がいい。どうせ大した労力でもないし、第一お前を呼びつけたら、来るだけで疲れてしまうだろうが。その分楽しめないのは御免だ」

 お前は脚が悪いのだから、これで良いのだとシュミットの脚をペチペチ叩く。気遣ってくれていたのかと思うと嬉しくて、シュミットは思わず微笑んだ。この人はこうやって何気無い言葉でシュミットを喜ばすのだ。そのことに本人が気付いていないところがまた面白い。エーリッヒは普段は少しとっつきにくい感じのする人間だが、時折妙なことをする。前に一度シュミットを気絶に追い込んだときなど、後になって寝台の上に手をついて済みませんでした、と謝ったことがあった。また、土産だと銀細工の簪を差し出したはいいが、丁度シュミットが髪を切ってしまった後のことだったので、そのまま無言でシュミットの前を素通りし、窓にかかっているレースのカーテンにそれをさしたこともあった。その他にも、シュミットが仲間の娼婦からもらったお祭りで買ってきたという砂糖のお菓子はいかがかと問うと、甘いですよと注意する暇もなく丸ごと口に入れてしまい、すごい表情をしたこともあった。……時々見た目とそぐわない行動をするのだ、この人は。

「……何を笑ってるんだ?」

 思わず漏れてしまったシュミットの忍び笑いを聞き咎めて、エーリッヒは頭を上げた。よもや自分のこととは思いもよらないのか、何でもありませんとシュミットが真面目くさって言うと、すぐに興味を無くしたようだった。
 それから二人は明かりを消すと寝台に入った。エーリッヒの表情は見えないが、まだシュミットを抱き寄せたままなので眠ってはいないだろう。こうしていると何だか……。
 うとうとしながらそんな埒もないことを考えていると、不意にエーリッヒが声をかけてきた。起きているかと問う声に何かと尋ねると、

「お前は敬虔な信徒なのか?」

「さあ、どうでしょう。……恋人が戦死したときは恨んだこともありますし、仲直りはしましたが敬虔とは言いがたいでしょうね」

 シュミットの言葉に彼の肩を撫でながら、エーリッヒはそうかと呟いた。

「寝てるところを悪かったな」

 それを最後に二人は眠りに落ちたのだった。





 翌朝、従僕の少年に頼んで持ってきてもらった朝食をつつきいながら、エーリッヒはまたシュミットに尋ねた。

「誕生日はいつだ?」
 今回は珍しく色々なことを訊いてくるな、と思いながらシュミットは、

「さあ、いつだったでしょうか……」

 そうはぐらかすとエーリッヒは肩を小さく竦めただけでもう何も言わなかった。他の客ならば適当に答えておくのだが、シュミットはエーリッヒにだけは嘘は言いたくなかった。それがどんなにくだらないことであるか自分でもわかってはいたが、どうしても嫌だったのだ。それに、彼はしつこく尋ねたりはしてこないのだから、いいではないかと。
 シュミットは心のうちを見透かされはしないかと、水差しを取ることを口実にエーリッヒの前を離れた。だが逆にエーリッヒはそのシュミットの背中に向かって話しかけた。

「……もし他に誰か意中の者がいないなら私が身請けしてやるが、どうだ?」

 カチャリ、と玻璃杯と水差しが触れ合う音がした。……今、何と言った? とシュミットはエーリッヒの方を振り返る。彼は頬杖をつきながら蒼い双眸でこちらの方を見つめていた。その視線に慌てて水差しに目を向け直す。彼の言葉は本気だろうか。そんなこと、考えるまでもなく答えは決まっている。……だが、心と頭は違う思考を持っていた。

「……そういうことは、軽々しく口になさらない方がいいですよ」

 私などで良いのでしょうか?

「大変なことになりますから」

 貴方の事がずっと……。

 シュミットは震える手でどうにか玻璃杯に水を注ぐと、エーリッヒの方を振り返った。彼は眉を顰め、シュミットの方を見つめていた。頼むからその眸で見つめないでほしいと願いながらシュミットはエーリッヒに近づき、玻璃杯を彼の前に置く。その動作をエーリッヒは無言で見守っている。だがシュミットがもう何も言わないと悟ると、

「……そうか」

 ただ一言呟いて、もう何も言わなかった。
 エーリッヒが去った後、シュミットは一人寝台の上で寝そべりながら枕を抱き締めていた。エーリッヒはいつも去り際にシュミットを抱き寄せて接吻をしてくれる。名残惜しげにじゃあまたな、と言う彼が狂おしいほどシュミットは好きだった。だが今日はきっとそれもないだろうと思っていた。あのシュミットの科白はどうやら彼の気分を損ねたようで、あの後エーリッヒは始終口をきかなかった。何を言っても答えず、いつも以上にぶっきらぼうで怒っているようにすら見えた。だがどうだろうか。彼はいつも通り口付けてくれた。それどころか、その抱擁はいつもより強く、口付けは激しかった。いつもなら口唇が触れるだけの優しい接吻であるのに、今日に至っては舌を絡めさえし、シュミットは魂を愛撫されるような感覚を覚えた。腰が砕けそうになるシュミットを力強く支えながら、エーリッヒは彼の耳元で囁いた。

 ―――お前は私の事が嫌いなのか?

 そんなことがあるわけはない、むしろその逆だとシュミットは泣き喚きたかった。だがそれは許される行為ではなく、ただ押し黙るのがシュミットには精一杯だった。それを暫く見つめてから小さな落胆のため息を漏らすと、エーリッヒは部屋を去った。何も言わずに……。
 泣きたい、とそう思いながらシュミットは枕に顔を埋めた。だが涙は出てこなかった。彼はあの日以来泣くことも誰かを恋い慕うことも止めたのだから。
 ……彼はかつてこの地にこの人有りと言われた人物のただ一人の息子だった。総じて名門家の嫡男でもあったが、幼い頃の事故がもとで走ることができなくなり、また病弱にもなった。だがそんな彼に人々は優しく、優しい両親と、可愛い妹に囲まれてシュミットは何の不自由もなく幸せに暮らしていた。何しろ彼は脚が悪くとも神童とすら呼ばれたほどの秀才で、そのたぐい稀な美貌もあって、誰からも愛されていた。そして何よりもシュミットは神の道に進み、信仰による穏やかな生活と人のために尽くす人生を望んでいたのだ。
 その夢が破れたのはいつの頃だったろうか。予兆は十四の時に現れていた。彼の家に仕えていたある歳若いが優秀でシュミットも長く憧れていた騎士が、彼に愛を告白したのだ。もちろんシュミットは戸惑った。すでに神学を志していた彼は、それが神の教えに背くことだとわかっていたのだ。もちろん騎士もそれを心得ていて、シュミットにこう言った。

 ―――貴方を煩わせるつもりはありません。ですが、どうか私という男が貴方を狂おしいほどお慕いしているということを知っていてもらいたいのです

 貴方までも地獄に落とすことはできない、と彼は言った。それならば、とシュミットも敬愛する彼の言葉を聞き入れ、そして克己的な関係が始まった。だが、結局シュミットは恋人の腕に抱かれることを選んだ。それは神を裏切る行為であったが、地獄に落ちても構わないとさえシュミットは思ったのだ。その後もシュミットは勉学をおろそかにしたりはせず、また祈りも欠かしたりはしなかった。だが幸せはそう長くは続かず、恋人は戦で敵刃に敗れた。
 シュミットは半狂乱になった。神を罵り、家族の言葉も一切聞かず、全ての意思伝達を断ち切った。何も聞かず、何も言わず、何も見ない……。そうなってしまった息子を哀れみ心配してか、両親はシュミットを故郷から遥か遠く離れた辺境の地にある修道院へと預けた。そこはかつてシュミットが入門を硬く望んでいたところで、本当に神の声が聞こえそうな場所であった。そこでシュミットは長い間かけて自己と信仰心を取り戻した。そして幾年かが経ったある日、シュミットは自分の故郷が戦禍の渦となっていることを知った。
 それは内戦であった。誰を次の王座に据えるかということを発端に、二つの名家が戦争を起こしたのだ。片方は王家ゆかりの親王家で、そこの現当主を王座に据えようと目論んでいた。そしてもう片方は当時の大臣家で、先代王のはとこを王座に据えようとしていたのだ。その先代王のはとこというのはまだ七歳の子供で、その子を傀儡に、国の実権を握るのが大臣の狙いであった。だが彼は争いに敗れた。もとより威圧的で辣腕を振るっては政敵を始末してきた大臣には本当の仲間が少なく、裏切りによって敗れ去ったのだ。そして何よりも彼は民衆に人気が無かった。政治の手腕はあったけれども、彼にとって大事なのは国民よりも国であり、全てが悪政だったとまではいかないが、国民を何度も苦しめたことがあったのだ。……そしてその大臣というのは、シュミットの父親だった。
 その知らせが届くとシュミットはすぐに院長を詰問した。何故今までそのことを教えてくれなかったのかと。もちろんそれは院長の配慮であったのだが、シュミットは皆が止めるのも聞かずに修道院を抜け出し、何とか故郷に戻った。だが彼を待っていたのは廃墟となった懐かしい我が家と、焼け焦げた母と妹の死体だった。暗闇の中変わり果てた家族を前に泣き崩れるシュミットの肩を誰かが叩いた。父上、と言いながら振り返ったシュミットを衝撃が襲った。何が起こったのか分からぬままその場に倒れ伏したシュミットを、強靭な腕が建物の影に引きずり込んだ。それは焼け落ちて廃墟となった大臣の家を物色に来た盗人たちで、シュミットを上手く逃げおおせた召使の一人だとでも思ったらしい。シュミットは病弱故にあまり外に出なかったため顔を知られておらず、また夜であったせいもあってそれと気付かれたわけではなかった。
 彼等はシュミットを殴り倒し建物の影に引きずり込むと、笑いながら彼を輪姦した。男だとかそんなことは彼等にとってはどうでもよかったのだ。ただ自分たちを苦しめ、差別してきた大臣家の者に復讐さえできれば。

 ―――お前等のせいで……!

 そう彼等は口々に言い、下卑た笑いを浮かべながら何度もシュミットを犯した。声を上げることも泣くこともできず、シュミットが大きく見開いた眸で見ていたのは、男達の嘲笑と、崩れ落ちた尖塔に寄りかかるようにして自分を見下ろしていた狂ったような赤い三日月。そうしてシュミットは自分の罪を知ったのだった。
 父は王宮の城門の前にいた。ただ首だけを台の上に載せ、虚ろな目でシュミットの方を見つめていた。首から下は何処に葬られたのかそれとも破棄されたのか、誰に尋ねてもわからなかった。
 シュミットには戻るべき場所も頼るべき親戚もいなかった。いや、親戚はいる。だがその彼等こそが父を裏切り、真っ先に家を襲った張本人で、頼ることなど当然できない。修道院に戻ることも考えたが、それはできなかった。そんなことをしたら、国賊を匿ったと言いがかりをつけられて何某かの罪を着せられる可能性がある。迷惑はかけられない、とシュミットは思った。だがその反面、彼は敵を打とうとは思わなかった。実家の庇護を失って初めて、シュミットは本当に世の中を知ったからだ。まさか自分の幸せが全て、誰かの不幸の上に成り立っていただなんて……。そのくせ神の道に進んで、穏やかで誰かのために尽くす人生を送りたいなどと考えていた自分が恥ずかしくて、シュミットは顔を覆った。そして彼は死ぬまでけして幸せにはなるまいと心に決めた。最下層の身分に身を置いて、何も言わず、何も聞かず、何も欲しない人生を送ろう、と。贅沢をせず、人々のために祈り、誰も好きになどなったりせず、けして自分を哀れんだり泣いたりせず、そして何があろうと自ら命を絶ったりなどしない、と神に誓った。そして現在に至る……。
 だが今、シュミットはその自戒が揺さぶられつつあるのを感じていた。あの人は優しい。それがどんなに残酷なことであるかなど、思いもよらないだろう。
 シュミットは身を起こすと、指を組んで神に祈った。どうかこの想いが溢れ出さないように、エーリッヒには口が裂けても言えない言葉を、シュミットはかわりに神に向かって呟いたのだった。





 ある日の夕刻、ふと気付くとその日はシュミットの二十数回目の誕生日だった。最早誰かが祝ってくれることも、自分で意識することさえもしなくなった誕生日……。ああ、そういえば今日はあの人が来てくれる日だと、シュミットはぼんやり思った。ならば仮面を被らねばなるまい。あの人に全てを告白してしまわないように。
 シュミットは自分の名の刻まれた聖典の前に跪き、神に短い祈りをささげた。その時丁度、娼館の前に一台の馬車が止まり、中からエーリッヒが姿を現した。彼は一度建物を眩しそうに見上げると、赤い美しい花束を持って娼館の門をくぐったのだった。





〔link To side―E〕



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