水の惑星 side―E






 戦があった。長くは無いが、大きな被害と深い傷を人々に残したその内戦は、数年前に終結した。それ以来この国では陰謀と目には見えぬ冷たい戦いが繰り広げられることとなり、王家は長い沈黙を守り続けている。『陰謀は貴族のたしなみ』とは言うけれども、いい加減にしてくれというのが、その戦の功労者である一人の騎士の本音であった。その騎士の名を、エーリッヒと云う……。
 彼はある裕福な騎士階級の家に生まれた。上にいたのは姉だったので、嫡男として教育を受けはしたが、あまり積極的な思考の持ち主ではなかった為にさして期待も落胆もされていなかった。だが、彼は常人には手に入らぬ栄光を手に入れた。それはもちろん本人の才覚によってである。もともと才能はあったし、家柄も悪くは無かったが、それだけではない。彼は戦を終結させた、八翼将と呼ばれる英雄達の中に名を連ねる最年少の騎士となったのだ。それは最高の名誉であり、誰もが彼を褒め称えた。だが本人は大した感慨を抱いてはおらず、むしろ騒がれれば騒がれるほど冷静になっていった。その上、戦が終結したと思ったら今度は仲間同士での権力争いである。莫迦莫迦しいのを通り越して、すでに呆れてしまった。そんなくだらないことに巻き込まれるのは御免だ、とエーリッヒはすぐに王宮やその周辺から退いてしまったのだった。





   それはある小春日和の夜のことだった。エーリッヒはいつもの様に花町を一人で流していた。何てことは無い、単に彼はその日一晩を共にする相手を選ぶためにここへやって来たのだ。本来ならば馬車にでも乗って数人の部下を引き連れてやって来てもおかしくない身分であるのに、彼は一人自分の足で街を見て回っていた。もともと彼は過度の装飾や自己顕示を好まなかった。そんなもの何の意味も無いくだらないものだと幼い頃から思っていたし、宮廷に出入りするようになってからというものその思いは益々強くなった。似合いもしない宝石や貴金属で飾り立てた名門貴族や、気位ばかりが高くて頭の中身は砂糖でしかできていない姫君や夫人たち。彼等が他人であったうちはまだ良かったのだが、功労者として新王の招きに応じ、宮廷入りしてからというものどうしても彼等と無関係ではいられない。こちらがどんなに避けて通ろうとしても、向こうの方からやって来る。何しろ彼は時の人であるから、貴族たちが放っておく筈が無い。彼等はあの手この手でエーリッヒに近付こうと試みた。だが誰もがそれに失敗し、そしてエーリッヒは官職を辞退すると若くして名誉職と放蕩者の名誉を賜ることとなったのだった。だが、それはエーリッヒにとっては実に願ったり叶ったりのことだったのだ。
 彼は実に清々とした。もしあのまま宮廷で官職に着いていたならば、そう遠くないいつの日か、ついに頭の血管が切れて暴挙に出るのは目に見えていた。それこそ冗談ではない。ひょっとしたら大量虐殺くらいはしていたかもしれない。だからやはりこれで良かったのだ。
 中には彼を罵る者も気持ちはわかると言った者も考え直せと心配してくれた者もいた。だが彼はそれら全てを振り切って、自ら官職を退いた。あんな所にいたら、毒に侵されておかしくなってしまう。ならば放蕩者と言われるほうが自分にはよっぽど合っているだろう。だから今は非常に楽で、こうしていられることに自分の選択は正しかったのだと確信していた。が、それでも問題が無いわけではなかった。
 内戦は権力争いの醜い陰謀戦へと姿を変え、そしてその余波はエーリッヒのところまでやってきた。今のところ勢力は三つに分かれているが、そのどれもが彼を仲間に、そうでなければ敵にはならないようにと策略の魔の手を伸ばしてきたのだ。そのどれにも属さず、また敵にまわすこともなくするには、自分を無害な人間に見せねばならない。故にエーリッヒは酒宴や莫迦騒ぎが何より好きというわけでもないのにしょっちゅう花町をうろつき、遊び人を演じなければならなかった。だがそれも醜悪な権力闘争に巻き込まれることに比べれば、碧空と泥沼くらいの差があった。そうしてエーリッヒはこの日も花町を流していたのだった。
 ……その娼館にエーリッヒが足を向けたのは、単なる偶然であった。部下と酒場を回った後、一番近くにあった娼館がたまたまそこであっただけだ。もともと大きな娼館であるから、エーリッヒもその名は何度も耳にしていた。昔から他人にはあまり深入りしない性質のエーリッヒは、それがたとえ遊びの娼婦相手であっても、一所に長く出入りすることは無かったのだ。だからこの日もそろそろ場所を変えてもいいかと思っていた矢先のことであるから、エーリッヒは部下と別れた後何気無くその娼館に足を踏み入れたのだった。
 その娼館はエーリッヒが想像していたものよりも遥かに広く、大きかった。立派な門をくぐり、広い庭を抜けて開かれた扉の中へと踏み込む。中は正面に左右に分かれた大きな階段があり、元が貴族の邸宅だっただけのことはあって、一瞬宮廷にでも踏み込んだかと錯覚してしまった。しかし階段の右手には酒場かと思うような造りがあって、大勢の人間がたむろしている。そしてその逆側では控えの間と思しき造りの場所に、これまた大勢の人間がいた。ただ右と左で違うのは、酒場の方にいるのはすでに客を見付けた者達で、控えの間にいるのは客待ちの者達のようだった。その証拠に、エーリッヒが目を向けるや否やそこにいたほぼ全員がこちらを振り向いた。だが誰一人として駆け寄って来たりはしない。それは多分、この店の営業方針であろう。あまりに馴れ馴れしくされたり、いきなり囲まれたりしたら確かに嫌気が差す。しかもあれだけの人数が一度にそんなことをしたら、嫌気云々よりもむしろ恐怖だろう。と、そのうちに明らかに店の者と思われる黒服の男がゆっくりとした足取りでエーリッヒの方に近寄ってきた。

「いらっしゃいませ。お客さま、こちらは初めてで?」

 いやに歯切れのいい物言いの男は、意外にも店主だと名乗った。長身で長い黒髪を高い位置に結い上げた店主は、エーリッヒとそう大して違わないであろう年齢に見える。彼はエーリッヒの横に立つと、すぐに説明を始めた。
 他の店と大きな違いがあるわけではなく、エーリッヒはその話を半ば聞き流していた。もちろん店主もそんなことはわかっているのだろう。時折丸い黒眼鏡からこちらを覗うような視線を送る。そうしてエーリッヒを値踏みしているのだろう。初めての客だから仕方が無いが、エーリッヒの落ち着いた物腰や華美ではないが仕立ての良い服にある程度目算がつくと、店主と名乗る男はエーリッヒを例の客待ちの集団の中へと促した。
 噂に聞くだけあってなるほど、この店の質はかなり高かった。こちらに愛想を振り撒くどの女も男も、ある程度の水準は越えている。だが残念ながらエーリッヒは今一つ食指を動かされる相手がおらず、しきりにどれがいいかと尋ねてくる店主の声も遠かった。そしてエーリッヒが何気無く階段の方を見たとき、丁度それを下りてくる人物が目に入った。二人連れのその片方は明らかに帰り客で、その男に腰を抱かれているのは髪の長い女のようだった。それを何気無く見ていると、客を見送って振り返ったその女と目が合った。女は今までエーリッヒですらもお目にかかったことが無いほどの美形で、その視線に気付くとただ微笑んで会釈をした。その様は優雅で無駄が無く、エーリッヒはすぐに横に立つ店主に声をかけた。

「あれがいい。一晩いくらだ?」

「シュミットですか? ですがお客様、あれは人気が高いので……」

 お値段の方もと言いかける相手を遮って、金はいくらでもあるとその一端を懐から差し出す。店主は恭しくそれを受け取ると、シュミットというその人物を手招きで呼び寄せた。
 その長身の美人は店主の紹介を受けると改めて深々とお辞儀をした。名字のある娼婦というのも珍しいが、その容姿は近くで見れば見るほど傾城と言ってもさしつかえないほどの美貌であった。

「いかがです?」

 そう問う店主の自慢気な顔は無視して、エーリッヒは右手の人差し指で美人の顎を上向かせる。

「たいそうな美女だな」

「……いえ」

 その女性にしては低すぎる声に、エーリッヒは違和感を覚えた。

「私は女性ではないのですが…」

 そう言って美人は可愛らしい仕草で小さく首を傾げた。

「………………」

 エーリッヒは無言で更に美人を上向かせる。……なるほど、咽喉仏がくっきりと見える。それに声は低いし、女にしては背が高い。だがそれでもこれが本当に男だとはにわかには信じ難く、エーリッヒはその美人を凝視した。彼に男を好む性質は無い。だがこの日は酒が入っていたこともあって、エーリッヒは暫くしてこう言ったのだった。

「……では、確かめてみようか」

 店主が横で恭しく礼をし、エーリッヒはニ階にある一室に案内されたのだった。





 そして実際彼は男だった。絹のような光沢のある真っ直ぐな長い黒髪や、薄化粧をした美しい顔立ちはとても男とは思えなかったが、彼の着物を脱がしてみると確かに肩や腰の線は男のもので、恐ろしく細くはあるが女のそれとはすべてが異質であった。だが彼を抱いてみて一つわかったこともある。どうやら男も悪くは無い、ということだ。あまり嬉しい発見ではないが、高いだけのことはあった。彼は初めに自分は脚が悪いのでと断っていたが、あまりそれは寝台の上では関係無いように思えた。……なるほど、シュミットというのは名字ではなくて名前だったのかとエーリッヒは寝台の上でやっと納得がいった。それでも名前としては珍しくはあるが。

「……いかかがでしたか?」

 エーリッヒの身体を丁寧に拭きながら彼は尋いた。それは多分エーリッヒが男は初めてだと言ったからだろう。その口調に揶揄する調子や妙な期待は無い。エーリッヒは肩を竦めると、

「……思ったよりも良かった」

 その答えに満足したのか、彼は嬉しそうに微笑んだ。
 それからというもの、エーリッヒは週に一回の割合でシュミットの元に足を運ぶようになった。せっかく放蕩者の遊び人を気取るのならば、男相手に現を抜かしていると思われるのも良いだろうと思ったからだ。だがエーリッヒはどうやらあのシュミットという美人が気に入っただけのようでもあった。実際エーリッヒは他の男娼にはまるで興味が無かったし、娼婦の方もあまり目に入らなかった。話をした限りではどうやら彼は二十歳は過ぎているようだが、とてもではないがそうは見えなかった。それに彼の話し方は知的で、ただの男娼とは思えない。物腰や動作には生まれついての貴族のような優雅さがあり、高い教養を感じさせた。だが彼はあまり詮索されることを好まないようで、エーリッヒが何を質問しても必ず最後には曖昧な返事しかしない。言いたくなければそれでも構わないとエーリッヒが思っていたせいもあるが、初めて出会ってからかなりの時間が過ぎても、シュミットの事はほとんど分からなかった。どうせ刹那的な関係なのだし、深入りすることはあるまいと思っていたのだが、しかしそのエーリッヒの思考が覆され、どうやら自分はシュミットにある種の執着を覚えているらしいと気付いたのは、蒸し暑い晩夏のことだった。





 夏の焼けるような陽射しも午後から涌き出てきた厚い雲に遮られ、どうにか一心地がつけるようになった頃、エーリッヒは連銭葦毛の愛馬に跨って数人の部下と共にある廃屋の調査に来ていた。本来ならばそんな仕事をするような身分ではないはずだが、これが世捨て人となったエーリッヒに対する宮廷の蛮人どもの嫌がらせだった。ただ、エーリッヒにしてみれば楽な仕事で同じだけの給料がもらえるならば、何の問題も無いどころかありがたいだけで、全くこたえたりはしていない。そんなことにも気付いていない辺りが、彼等とエーリッヒの世界観の違いを見事に表している。今日だって、もう何年も前に焼け落ちた国賊の屋敷跡をただ見て適当に報告すればそれでいいのだ。これは早く帰れそうだなと、エーリッヒは一人心の内で頷いていた。
 そこはかつてこの国の実質的な最高権力者であった大臣の屋敷の跡だった。内戦で敗れた彼ら一族は屋敷もろとも滅ぼされ、今では国賊とされている。その屋敷は内戦最後の日に暴徒と化した一部の人民と、それを煽動した正規軍によって攻め込まれ、一夜にして全ての栄華を失った。それはもう何年も前の話である。だと云うのに何故エーリッヒがここに来るのか。それはある一つの噂がまことしやかに囁かれているからであった。

―――大臣家の者が一人だけ難を逃れ、その財宝を隠し持って逃げたのだ……

 そんな噂が流れるのには理由が無いわけではなかった。それと言うのも、大臣家の嫡男の死体が見つかっていないのと、正規軍が敷地内に踏み込んだときにはすでに理性を失った群衆によって屋敷に火が放たれており、数億とまで言われた財産のほとんどが焼け跡からは見つからなかったからである。
 だが、とエーリッヒは思う。金品の行方など先に入った群衆が持ち去ったか、焼け落ちてしまったかに決まっているではないか。大体、貧困に喘いでいた人々が宝石や金貨銀貨を前にして無関心でいるわけは無いし、得てして高価な物とは脆いものである。絵画しかり、彫刻しかり、置物しかり……。それに嫡男の方は屋敷が陥ちる何日か前に死亡届が出ている。これは敗戦を予感した大臣の策略だとも考えられるが、その子の在学していた神学校の方からもその旨届け出がなされているのだし、今更復讐しようにも大義名分はあってもそれに付いてゆくような酔狂な人間はいないのだ。恐れることは無い。だが貴族たちはそれでも不安を拭いきれなくて、そしに欲に目もくらんでいるのだろう。おかげでエーリッヒは楽ができるのだから、有り難いものだ。そんなことを考えながら彼は腹心の部下数人と歩を並べていたのだった。

「しかし、本当に生きているのでしょうかな。その嫡男とやらは」

「さて……。生き残ったとしても、案外すでに自害でもしているかも知れぬ。第一、顔も知らない相手をどうやって探せというのだ」

「病弱だか何だか知らんが、肖像画の一つも残ってないとはな」

「ですが、一目見たら忘れられぬほどの美少年だったそうですから……」

「あれから何年経ってると思っているのだ。その子が学校に入ったときは確かに少年であったろうが、今生きているとしたら二十歳はすでに越えているのだぞ。顔だって変わってるかもしれん」

 ……そんな部下達のやり取りを聞きながら、エーリッヒはふとあることを思い出した。それは彼がまだ幼い頃のことであるが、老齢であった国王の即位何十周年目かを記念した式典が行われたとき、エーリッヒはその頃すでに大臣であったこの屋敷の主人であるその夫妻を、遠くからではあるが見たことがあった。
 大臣もなかなかの美男であったが、それよりも彼の年若い夫人の美しさは幼心にエーリッヒも驚かされたほどだ。雪の妖精とまで賞され、近隣の国にまでその名が知られた美女だけあって、子供ですらも見惚れてしまうほどの美貌であった。ただ、残念なことにエーリッヒは彼女がたいそうな美人であったことは覚えているのだが、それがどんな顔であったかについての記憶は朧気であった。

「……とにかく、早く仕事を済ませて帰ろう。どうせその嫡男とやらが生きていたとして、財産があったとしてもだ。よほどの莫迦か変わり者でなければとっくの昔にどこかの国にでも亡命して、どのみちこの国にはもういないだろう。さっさと済ませる方がよっぽど無駄な労力を消費しなくて済む」

 そうエーリッヒが切りをつけるように言うと、部下たちも同意したように頷いたのだった。
 ……おかげでその日、エーリッヒはいつもよりずっと早くにシュミットのいる娼館を訪れることができた。いつもの時間には早いが、何処か食事にでも一緒に行こうかと考えながら店を目指して歩いていると、娼館の前に一台の立派な馬車が止まっていることに気がついた。きっと朝帰りの客を迎えに来たか、でなくばどこかに呼ばれていった娼婦もしくは男娼が帰ってきたところなのだろう。これはまた随分と金のかかった馬車だとうんざりしながら見ていると、中から降りてきたのは何とシュミットだった。
 もしそれが自分と同じくらいの歳の男で、もっと特徴のある容姿ででもあればエーリッヒもまだましだったろう。いや、女でもいい。だが実際シュミットの手を取って降りて来たのはエーリッヒの倍は歳を取っているであろう相手で、その上世界中の不幸を全て背負っているかのような貧相な背の高い細すぎる男であったから最悪だ。しかもその男は自分の権力を示すかのようにこれまた骨と皮のだけの手を差し出し、シュミットにその指輪や宝石で飾り立てた醜悪な手に接吻するよう求めたのだ。
 拒絶しろ、とエーリッヒはそれを遠くから凝視しながら思った。いや、むしろ願ってすらいた。だがシュミットはエーリッヒの思いとは裏腹に、男の手を取るとその桜色の美しい口唇を干からびた指に押し当てた。それを見た瞬間、エーリッヒは全身に鳥肌が立つのを感じた。冷や汗が背中を伝い、腹の底に冷たい炎が燃え上がるのをはっきりと感じた。そしてエーリッヒはシュミットが男娼であることを思い出したのだった。
 馬車が去り、それを見送りながら頭を下げるシュミットにエーリッヒは黙って近付いた。彼ははっとしたように顔を上げると、何故か狼狽した様子でエーリッヒを見つめた。その態度はとてもよそよそしくて、エーリッヒは更に体内の蒼い色の炎が燃え立つのを感じた。それは多分、怒気に近いものであったろう。それを感じ取ったのか、シュミットは怯えたようにエーリッヒを見上げた。

「……行くぞ」

 エーリッヒはそれだけ言うとシュミットの返答も待たずに彼の腕を掴んで店の方に歩き出した。途中でシュミットが転びそうになって、ようやく彼の脚が悪いことを思い出す。それに舌打ちしながらエーリッヒはシュミットの歩調に合わせ、やっと彼の部屋に入ったのだった。

「何か飲み物でも……」

 間を持たせるようにシュミットは言い、木製の小さな机の方に歩み寄る。エーリッヒは何も言わずにただ彼の行動を注視している。その視線が痛くて、シュミットはわざと背を向けたままゆっくりとした動作をとった。今日のことは彼にとって非常に計算外のことだったのだ。本来ならば彼はもっと早く帰れるはずであったし、エーリッヒももっと遅くに来るはずであった。だが実際は今こうして気まずい雰囲気の中、シュミットは一人気を揉んでいる。彼が来る前に湯浴みをして、化粧も直しておきたかった。もちろん前の客の家でも湯は使わせてもらっていたし、化粧もしてきた。だがそれだけでは嫌だったのだ。身体を洗って、服も着替えて、全てを綺麗にしてから会うつもりだった。彼は特別だったから、そうしたかった。だが今のエーリッヒは何故か機嫌が悪いらしく、いつもの優しい彼ではない。その上湯浴みしたいなどと言ったらば、何もせずに怒って帰ってしまうのではないかと考えて、シュミットは口を開くことができずにただ手を動かしていた。その彼の背に、エーリッヒは手を伸ばす。考えごとにすっかり気を取られていたシュミットは、エーリッヒが近付いてきたことに全く気付いていなかったので、驚いて思わず声を上げてしまった。

「わっ……、ちょ、ちょっと待ってください」

 腰を抱くように絡められたエーリッヒの手が、更に着物の裾を割って入ってきたものだからシュミットはあわてて手にしていた水差しと玻璃杯を押しやった。だが、待ってと哀願はするものの、エーリッヒは全く聞く耳持たない。シュミットの髪に鼻先を埋め、二つの手で彼を辱める。指先で犯され、掌で弄ばれては、流石のシュミットも平然とはしていられない。思わず声を上げてしまいそうになるのを必死でこらえながら、何度も待って欲しいと懇願する。だがエーリッヒは矢張り彼の頼みをきいてはくれず、それどころか耳に熱い息を吹きかけながら、シュミットの好きなあの甘い声音で、

「……出せ」

 と囁く。もちろんシュミットが彼の言葉に逆らえないことを承知で……。そしてシュミットが震えながらエーリッヒの手に欲望を吐き出すと、彼は優しく髪を梳きながらまた耳元で、

「……いい子だ」

 そう囁くのだった。その声はどこか嘲笑を含んでいたが、それに気付くほどこのときのシュミットは冷静ではなかった。荒い息を吐きながらどうにか立っているのが精一杯で、それどころではなかったのだ。だからエーリッヒの指が自分の吐き出したものを塗り込んできたときも当然シュミットは抵抗などできず、ましてや彼自身が侵入してきたときなどただ小さく悲鳴を上げることしかできなかった。そうして突き上げられる衝撃にシュミットは机の上に肘をつくと、ただひたすら荒々しいが官能的な行為に耐えるしかなかった。
 暫くして漸く満足すると、エーリッヒは素っ気無くシュミットから身体を離した。するとすぐにシュミットは床にへたり込んでしまった。よほど疲れたらしい。細い肩が激しく上下しているのが見て取れる。だがエーリッヒはあえてそれを無視した。今日の自分がひどく酷薄になっていることにも気付いてはいたが、気付かない振りをした。そして休息を求めるように哀願の眼差しを向けるシュミットをいきなり抱き上げると、放るようにして彼を寝台の上に乗せたのだった。

「待って、エーリッヒ……」

 何か言いかける愛らしい口唇を自分のそれで塞ぎ、エーリッヒは無理にシュミットの着物を剥いだ。おかげで何度か布の裂ける音がしたが、そんなことを一々気にしてはいられない。耳朶をついばみ、胸の突起を甘噛みし、下腹部に顔を埋める。あの男の醜悪な手にどんな風に弄ばれたのか、先刻からシュミットはいつも以上に感じやすく今もただ口に含んだだけだというのにすぐに硬く張り詰めてしまった。

「ま、待って! お願いですから……」

 慌ててシュミットは腰を引き、エーリッヒから離れようともがく。あの魂の抜け殻のような男に抱かれるのは良くて、自分では何故駄目なのかとエーリッヒは腹が立った。それは単なる思い込みの勘違いに過ぎないのだが、シュミットには弁解する余裕も時間も無い。エーリッヒはいきなりシュミットの腕を後ろに回させると、服で縛って抗えぬように封じてしまった。それどころか布の切れ端を無理矢理シュミットの口に押し込み、言葉までも奪ってしまったのだった。こうなってはもうシュミットにはどうすることもできない。腕力でかなうはずなど到底無いのだから、ただ耐えるしかない。そうして大人しくなったシュミットをエーリッヒはうつ伏せにさせる。剥き出しの肩は過ぎるほどに白く、とても同じ男とは思えぬほどに細い。うなじは薄っすらと色づいて、エーリッヒを煽っているかのようだった。もちろんその欲求に耐える必要はなく、エーリッヒはシュミットの肩口に噛み付くように口付けた。その度に小さな赤い跡がつくのが面白く、飽きもせずにエーリッヒは何度もそれを繰り返す。そのまま舌で背中を伝い、浮き出た背骨の一つ一つに口付けた。
 抵抗を止めたシュミットは驚くほどに扱いやすく、人形を抱いているような気をおこさせた。だがその身体が人形でないことは、体温とエーリッヒの与える愛撫に対する反応の一つ一つが物語っていた。
 膝立ちにさせ、身体を前に折り曲げさせて肩で体重を支えるようにさせる。日に焼けぬ白く細い太腿には一筋雫の伝った跡が覗える。それを舌でなぞり上げ、エーリッヒとそうでない者も受け入れてきたのであろう場所を優しく舐め溶かした。その度にとろりと溢れ出てくるのは先ほど放ったエーリッヒのものだ。それを丁寧に舐め取ると、漸くシュミットを仰向かせてエーリッヒは腕の中にその身体を抱いた。驚くほどに細い身体は全く抵抗を見せず、ゆっくりと進入してくる異物にも不思議と反応しなかった。あの男にもこうして抱かれたのかと思うと、エーリッヒは再び腹の底が熱くなるのを感じた。激しく突き上げると壊れそうな身体を一体どんな風に絡めたのか。脆くてすぐにでも砕けてしまいそうな腰を、あの男の上でもエーリッヒとするときと同じように艶かしく振ったのだろうか。蕩けそうな表情で口付けをねだったのだろうか。あの美しい貌を快楽に歪ませた姿を見せたのだろうか。……シュミットの達したときの表情は驚くほどに色めいて艶やかだ。童貞であったならばその表情だけで達してしまうのではないかと思えるほどに。
 尽きぬ妄想と現実の快楽に絶頂を迎えるとエーリッヒは大きく息をつき、シュミットの口を塞ぐ布を取り払い、何度も口唇に接吻を贈ったのだった。





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