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……ふと我に返ってエーリッヒは寝台の方を振り返った。咽喉の渇きを覚えて水でも飲もうと机のところまで来たのだが、一杯水を飲んで溜飲が下がると急に先ほどから何も言わないシュミットのことが気になった。ここからでは寝台からはみ出した彼の足首しか見えない。ひょっとしたら立てないのだろうかと思い立って、水の有無を尋ねてみるが返答は無い。訝しんで寝台の方に取って返すと、そっと様子を覗った。
……しまった、とエーリッヒは自分の血の気が引く音を聞いた。それというのも覗き込んだシュミットがどうやら気絶してしまっているらしいことに気がついたからだ。それも多分、酸欠によって。
エーリッヒは世界が回り出すのを感じて寝台に手をついた。まったく、何をしているのだろうか。そして恐る恐るシュミットを見る。彼は微動だにせず寝台に横たわっている。のけぞった咽喉は白く、腕は後ろに回されたまま。しどけなく開かれた胸が微かに上下していて、どうやら息はちゃんとしているらしいことを証明していた。そして大きく開かれた脚が何よりも目を引いた。エーリッヒによって剥き出しにされた下半身はやはり白く、太腿はしっとりと濡れ、腹部はどちらのものともつかぬ体液で汚されている。その姿に再度エーリッヒは眩暈を起こしかけ、あわててシュミットを寝台の上掛けでくるんだ。あの姿ではまるで、いや、全くもって強姦された者のそれであった。
何てことを、と更にエーリッヒは自己嫌悪に苛まれる。抱き上げた身体は軽く、エーリッヒが何度も口付けた左肩には無数の赤い跡が付き、何かの病気のようにも見える。腕を解き、上向かせたシュミットの貌は涙で汚れていた。さぞや苦しかっただろう。いや、それ以上に恐かったろうに……。
一体何を思ってこんなことをしてしまったのか今のエーリッヒにはわからない。多分嫉妬でもしたのだろうが、それも今になってみると単なるエーリッヒの思い込みに過ぎないのではないか。シュミットにしてみればさっぱりわからなかったろう。彼はこういう職業をしているのだから、エーリッヒ以外の誰と寝ようが全く当たり前のことなのだ。にもかかわらずエーリッヒはくだらない嫉妬心を燃やし、自分よりも年下で遥かに弱い彼を無理矢理服従させ、蹂躙した。今更反省しても遅いのだが、それでもエーリッヒは頭を抱えたのだった。
……ふとシュミットが気付くと、エーリッヒが心配そうにこちらを覗き込んでいた。どうやら眠っていたらしい。彼よりも先に眠ってしまうとは、と自分を叱咤し起き上がろうとするとすぐにエーリッヒが手を貸してくれた。
「……大丈夫か?」
恐る恐る尋いてくるエーリッヒに答えようとしてシュミットは激しく咳込んだ。その彼の背をさすりながらエーリッヒが水の入った玻璃杯を口唇のところに持ってきてくれる。シュミットは素直にそれを一口飲んで落ち着くと、エーリッヒの腕の中におさまった。本来ならば客にそんなことをさせるものではないが、エーリッヒが優しくしてくれることが嬉しくて、シュミットは暫くそうして彼に甘えていた。
エーリッヒの力強い腕に抱かれ胸に頬を寄せる。背や髪を撫でてくれる手つきは優しく、涙を誘う。思わず目を潤ませてすんと鼻を鳴らしたシュミットを珍しく狼狽えた様子でエーリッヒは見下ろした。
「そ、そんなに苦しかったか?」
「……え?」
漸く何かエーリッヒの様子がおかしいことに気がついて、シュミットは彼の腕の中から顔を上げたのだった。
エーリッヒの話を聞いてシュミットは笑った。そんなことは大したこと無いし、慣れているから、と言うシュミットに鼻白んだ様子でエーリッヒは上体を逸らす。それから寝台の上に手をついて済みませんでしたと謝った。別に構わないというシュミットにそれはいかんと言ってエーリッヒは何度も謝り、彼の体調を心配そうに尋ねた。幸いシュミットは疲れている以外どこも悪くは無く、エーリッヒは安堵のため息を漏らす。シュミットにしてみればエーリッヒが普段の優しい彼に戻ったことのほうが嬉しかった。いや、むしろ他の客に嫉妬してくれたことが嬉しくて……。むろんシュミットはそんなことを口にしたりはしない。そのまま暫く部屋で休むと二人は、夕食を取りに街へ出かけたのだった。
付き合いはもう半年以上に及ぶが、二人で食事に出かけたのは初めてのことで、何やらシュミットは始終嬉しそうにしていた。彼は小食な方なので食事に来たことが嬉しいのではないらしい。むしろエーリッヒと一緒に出掛けることが楽しいようだが、本人がそう言ったわけではないので本当のところはどうだかわからない。だがとにかく機嫌を損ねたりしないで良かったと、エーリッヒは内心ホッとしたのだった。
食事を済ませ、残った時間は二人で街をうろつく。駄目にしてしまった着物の代わりを買ってやるため、歓楽街のはずれにある店に入る。そこでシュミットの好きに選ばせている間、エーリッヒはぼんやりとその嬉しそうな彼の様子を見守っていた。シュミットはいつも着ているような女物のように見える着物を必死に選んでいる。それは彼の趣味というのではなく、そういったものを着るようにとあの店主に指示されているのだそうだ。それに薄化粧をするのも仲間の誰かに薦められたからとかで、本人曰く血色が悪いからなのだそうだ。まあ、似合うから構わないのだが。
ふとエーリッヒが視線を逸らすと、壁にかかった赤い外套が目に入った。黒味がかった赤い色の外套で、裾の方に控えめに金糸で刺繍が施されている。これはシュミットに似合いそうだとエーリッヒはそれを手に取った。彼は男にしては珍しく赤い色が似合うから……、とそこまで考えてエーリッヒは今がまだ夏であることを思い出した。ならば寒くなったらまた買ってやるかと思い直し、エーリッヒは外套を元の場所に戻すと、自分を待つシュミットの元へ向かったのだった。
着物はシュミットの店の方に届けるよう言い付け、二人はまた夜の街を歩き出した。面白いのはやはり道行く男たちがシュミットのことを振り返ることだろう。髪を切って以来少しは男っぽくなったが、それでもこの暗さではそうは見えなかった。それが面白くてエーリッヒはわざとシュミットの腰を抱く。彼は恥ずかしそうにしていたが、嫌がりはしなかった。そのまま暫く街を歩き、他に何でも買ってやると言ってもシュミットはなかなか首を縦に振らない。お詫びだからと言って肩を抱くと、漸く彼はそれじゃあと呟いて数冊の本を所望した。結局この日に買った物は着物を一着と本が数冊、それにシュミットの好物の甘い物を幾つかだけだった。
結局その日は館に着くとエーリッヒは再度シュミットを抱いた。というのも彼がそうするように言ったからだ。後悔と罪悪感に打ちひしがれるエーリッヒとしては今日はこのまま帰るつもりだったのだが、酒が入っていることもあり、少し休むつもりでシュミットの部屋へ行ったのだ。だが酒が入るとどうも気が強くなるらしいシュミットのいつもより強い勢いに押され、泊まっていくことになった。彼に言わせるとエーリッヒはシュミットを買っているのだから、何をしようと構わないのだそうだが、そういうわけにもいかないだろう。しかしシュミットはそれでいいのだと言って泣きそうになる。それで慌ててエーリッヒは彼の言う通りにしたのだった。
夜半に目が覚めてエーリッヒは身を起こした。口をゆすぎたいと思い立ち、洗面所に向かう。ぬるい水で口をすすぎ、ついでに顔も洗う。おかげでさっぱりとしてエーリッヒは壁によりかかった。思うにどうもエーリッヒが涙に弱いことをシュミットは見抜いているのではないだろうか。それというのも彼が女兄弟にはさまれて育ったせいであるが、普通は男に泣かれたところで何とも思わない。自分より弱い者を泣かせてはならないという幼い頃の親の教えが今になっても効力を発揮しているのだが、それにしてもシュミットは男なのにと自分で呆れてしまう。第一姉や妹のどこが弱かったのか未だにエーリッヒには納得がいかないのだが、この際はそれいいとしよう。問題はシュミットだ。どうも自分はあの顔に弱いらしいとエーリッヒは思う。昔から面食いだとは思っていたが、よもやここまで……。
そこまで考えてエーリッヒは頭を振った。莫迦莫迦しいと思ったのだ。ひょっとしたら彼に惚れているのかもしれないとも思ったが、すぐに思考を止めた。そんなこと考えたところでどうにもなりはしないのだから。
エーリッヒが複雑な心境で部屋へ戻ると、シュミットが寝台の上に身を起こしてこちらを見ているのに気がついた。
「どうした?」
彼の着ていた薄物を拾い上げ、肩にかけてやりながら尋ねると、シュミットは何故だか淋しそうに笑った。その彼が着物に袖を通すのを待つためにエーリッヒは寝台の端に腰を下ろした。夏とはいえ全裸で寝るのは身体にあまり良く無いだろう。エーリッヒはともかく、シュミットは身体が強いわけではないようだし……。そんなことを考えていると、背中にシュミットが額を預けてきた。
「……どうした?」
首を捻って後ろを覗うが返答は無い。ただシュミットが後ろから腕を回してエーリッヒの胸を抱きしめる。細い腕でしっかりと抱きつき、エーリッヒの背中に頬を寄せたのがわかる。それからぽつりと、
「……行ってしまわれたのかと思いました…………」
微かに震える声にエーリッヒは振り返る。わずかに目を潤ませたシュミットを抱き寄せて口付けると、彼のほうが強くエーリッヒの口唇を吸ったのだった。
……一つ思うことがある。それはごく簡単なことで、それでも今までずっと考えないようにしてきたことだ。つまり、どうやら自分はシュミットに惚れているらしいということだ。それは確信でもあった。傍からはそうは見えないだろうが、これでもエーリッヒは彼なりにシュミットを愛している……つもりだ。それに多分シュミットも満更ではないだろう。エーリッヒは今までに何度もひょっとしたら惚れられているのではないかと思うような場面を体験してきた。行為の後のシュミットの恥らったような表情がエーリッヒは好きだったが、それもその一つではないかと思っていた。他にも、行為よりもただの抱擁や接吻を欲するのはそのせいではないかとも思っていた。だが、である。先日このほどものの見事に、エーリッヒは振られてしまった。場面が悪かったか、それとも言い方が悪かったか……。いや、とエーリッヒは頭を振る。そうではない。言い方云々ではなく、本当に振られたのだ。しかもエーリッヒのことが好きだとかそうでないとかの問題ではなく、相手にもされていなかった節がある。
―――そういうことは、軽々しく口になさらない方がいいですよ
軽々しく口にしたつもりは無かった。
―――大変なことになりますから……
とっくになっている、とエーリッヒは毒づいた。そもそも同性での婚姻や恋愛を国教は認めていないのだから、それだけでも充分大変なことだ。その上エーリッヒは今や名のある名家の長である。両親は健在だが、その名を知らしめたのはエーリッヒだからそういうことになるだろう。しかもエーリッヒには結婚願望が全くと言っていいほど無い。それというのも全ては彼の家に君臨する女たちの影響のたまものなのだが、当人たちは無責任にもエーリッヒに早く結婚しろ、後継ぎを作れと言う。両親はこの時代には珍しい恋愛結婚で、しかも二人の間には身分差があった。ところが上手い具合に二人はその障害を乗り越えてくれたものだから、姉が生まれてしまった。そして姉は母親にそっくりで美人で気が強く、弟をいじめるのが大好きで、そのくせ親は男は女に優しくなければならぬとエーリッヒに説いた。それだけならまだしも次に妹が生まれ、しかも彼女もまた母にそっくりであったものだからエーリッヒの運命は決まったようなものだった。
もし仮にエーリッヒが結婚するとしよう。だがその場合は一体どんな相手を選べばいいのだろうか。どちらかと言うとエーリッヒは大人しい女が好きなつもりだ。その割には今まで付き合ってきた女のほとんどが気が強かったが、それはいいとして仮に大人しい女と結婚したとしよう。……三ヶ月で出ていかれるだろうな、とエーリッヒはため息をついた。何しろ父親は母親に甘く、娘たちにも甘い。数年前に医者の元へ嫁に行った姉は甥を産んだが、今は次の出産のために戻ってきている。しかも妹もこの間学者の元に嫁いだが、しょっちゅう夫同伴で実家に遊びに戻ってくるのだ。大人しい女では我が家の女どもについていけるかどうか……。そして仮に気の強い女と結婚したとして、今度は逆に大喧嘩になりはしないかと心配になる。いや、それよりも協定を結ばれたりしたらたまったものではない。だからしてエーリッヒは全く結婚をしたいとは思わないのだ。家督は甥にやるつもりだし、特定の誰かにのめり込むことなど無いと思っていた。だが考えてみれば自他共に認めるエーリッヒにそっくりな父でさえ母と大恋愛をやらかしてくれたのだ。あの無口さかげんでどうやって母を口説いたのだか非常に不思議だが、そういうこともあるだろう。そして今度は自分の番らしいとエーリッヒはため息をついたのだった。
だが、とエーリッヒは更なる問題に頭を抱えた。それは多分、彼が男だとかそんなことよりも遥かに由々しき問題だ。前々から気になっていたことではあったが、そんな莫迦なと否定していた。だが困ったことに先日あることに気がついた。それは古びたシュミットの本に刻まれた、かつては金の箔押しであったろう文字だ。多分あれは彼の名前なのだろう。初めにシュミットとあり、後は頭文字だけだがその文字の羅列はエーリッヒの脳裏にある人物を思い起こさせた。それはかの前大臣の見たことも無い嫡男であった。同じ年頃、同じ色の眸、同じ頭文字……。髪の色は違うが、そんなもの染めればどうにでもなる。前からただの平民出の男娼ではないと思ってはいたが、こうして考えてみると符合は多い。脚が悪いこともそうだし、教養の高さやなまりの無いはっきりとした言葉使いもそうだ。だとしたら彼はやはりエーリッヒの思い浮かべる人物と同一人物なのではないだろうか。しかし、だとしたら何故こんなところであんなことをしているのだろうか。もし正体がばれたならただでは済まないだろうし、下手をしたら吊るし上げを食うことだって有り得なくは無い。そんなことがわからない彼ではないだろうに。いや、それ以上に自分は彼の家族を滅ぼした者の一人である。そんな相手を彼が許してくれるだろうか……。
そしてエーリッヒはまたため息をつく。こんなことを本気で心配するあたりやはり惚れているのだろうな、と。だがどうすればいいのだろうか。幸いながらこのことに気付いているのはエーリッヒ一人らしい。そして彼にはそのことを知らせる義務がある。しかしもちろんそんなことをするつもりは毛頭無い。ただエーリッヒが一人黙っていれば済むことなのだ。わざわざ奴等を喜ばせることをしてやる必要はない。確かにそうだという証拠も無いし、それに彼をこれ以上不幸にはしたくなかった。……いや、それ以上に彼が誰かのものになることが許せなかったのだ。ひどく嫌だった。ならばどうすれば良いだろうか。彼の首を縦に振らせるには。今までエーリッヒが感じていた好意はただの自惚れだったのだろうか。確かに彼は誕生日でさえ教えてはくれなかったが、そうとは信じたくなかった。
……誕生日、と思い至ってエーリッヒは背もたれに凭せかけていた上体を起こした。そうだ、今日は確か例の人物の誕生日ではなかったか。報告書に記されていたのを見た限りでは確かそうだった。ならば、とエーリッヒは腰に佩いていた剣の柄で馬車の天井を叩いて御者に止まるよう合図する。そして街に寄るよう指示をし、花売りの露店の前に横付けさせた。だが幼い頃に姉に言われて母に贈るためぐらいにしか花など買ったことのないエーリッヒには、一体どれを買ったら良いのかさっぱりわからない。一通り店を見渡し、赤い花に目を止める。彼は赤が似合うから、とエーリッヒはそれを買い求めた。
……もしこれでシュミットが何も反応しなければ人違いなのだろうし、反応したらしたでそれでも構わない。この際彼が誰だろうと最早エーリッヒにはどうでも良かった。……ただひたすらどうしようもなく彼が欲しかったのだ。
……シュミットが自室で神に祈リ始めた丁度その時、エーリッヒの乗った馬車が娼館の前に到着した。エーリッヒは馬車から降り立つと眩しそうに一度館を見上げ、それから自分の手にした花束を見つめる。これがどんな結果を生もうがすでにエーリッヒの心は決まっていた。そしてエーリッヒはシュミットを迎えるべく娼館の門をくぐったのだった。
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