■□■ ビューティフル・ネーム □■□
生活も仕事も大分軌道に乗ってきたある日のこと、一日中パソコンに向かっていた源泉が突然アキラを呼んだ。自室で英語の教材と格闘中だったアキラは、何事かと彼の部屋の戸口に立った源泉を振り返った。
「アキラ、大変だ!」
そう前置きした源泉は酷く深刻な表情で言い放った。
「ビールが無い!」
買ってきて欲しいならそう言えばいいのに、とアキラは酒屋からの帰り道、一人で不貞腐れながら考えた。まだ夕方にもならない時刻のこと。初夏の日差しは強く、クーラーの効いた部屋にいてもビールが飲みたくなる気持ちはよくわかる。だったら素直にビール買ってきてくれと言えばいいのに、源泉はビールが無いと訴えかけるように繰り返すばかり。仕方が無いのであからさまなため息のあと、アキラはビールを求めて酒屋へと旅立ったのだった。
酒屋のビニールを提げたままマンションへ戻ったアキラは、玄関でふと今日はまだ郵便受けを見ていないことを思い出した。と言うより、源泉が外出しないと郵便受けを覗く人物はいない。もともとアキラに郵便が来ることは無く、CFCに住んでいたころからの癖でアキラは郵便受けを確認するなど認識の外にある出来事だった。
先日源泉に郵便受けくらい見ろよな、と言われたことを思い出して、アキラは何気なくずらりと並んだ無機質な鉄の箱の一つを開いた。一々鍵などかけないので、買い物を提げていようが片手があれば事足りる。どうせ重要な書類は直接部屋のほうへ来るのだから、郵便受けに入っているのはDMか他愛ないハガキくらいなものだろう。
案の定郵便受けに入っていたのは何処かの店の宣伝らしいハガキと引越し業者のチラシだけだった。こんなもののために毎日郵便受けをチェックするなど莫迦莫迦しい。
アキラはチラシとハガキを無造作に掴むと、郵便受けの扉を閉めて階段へ向かった。階段を上がる途中で何気なくハガキに目を落とす。どうやら源泉がたまに利用している電気屋からのようだ。夏のセールがどうのと書かれたハガキに目を落としていたアキラの足がふいに止まる。彼は何度か瞬いたあと、ハガキの宛名を見つめたまま困惑したように呟いた。
「……源泉…………圭介?」
「おう、ごくろーさん」
部屋の扉を開け放したままパソコンに向かっていた源泉は、玄関の扉が開く音に顔を上げた。リビングへやってきたアキラはテーブルにビールの入ったビニールを置くと、そのまま真っ直ぐ源泉の部屋へやってきた。お楽しみのビールがやってきたからには仕事などしている場合ではない。パソコンをシャットダウンした源泉は、上機嫌でかけていたメタルフレームの眼鏡を机の上に置いた。
「源泉」
パソコンの脇に置いてあった煙草の箱を掴みながら立ち上がった源泉に、アキラは少し硬い声で呼びかける。どうしたのかと先を促しつつ小首を傾げた源泉に、彼はハガキを差し出した。
「ああ、サンキュ」
差し出されたハガキを受け取りながら言っても、アキラはじっと源泉を見つめたままだ。あの大きな目で見つめられると何だか疚しいようなことをしている気がしてどうにも落ち着かない。まさかお使いを頼んだことに気分を害しているのではなかろうか。
朝からろくに口をきいていない事実を思い出して後ろめたい気分に襲われる源泉に、アキラは口を開いた。
「アンタ、圭介って名前なのか?」
「ん? ああ、そうだけど、それがどうかしたか?」
圭介、と言う部分を強調したアキラの言葉に源泉はふと気付く。アキラはやや不機嫌そうな表情を浮かべ、源泉を見つめ続けていた。
「あー…………。いや、別に隠してたわけじゃないんだ」
ケイスケ、と言う名前は特別な意味を持っている。だからアキラはこんな表情をしているのだろう。そして源泉も同じ理由でアキラに打ち明ける機械を逸してしまっていた。だが本当に隠していたわけではない。
「ただ、何となく言いそびれてただけなんだ」
「………………」
思わずアキラの表情を伺う源泉。アキラは相変わらず疑惑の視線を寄越している。しまった、こんなことならもっと早く、できるだけさりげなく話しておくのだった。そう源泉が後悔したところで、わざと見せ付けるようにアキラは盛大なため息をついた。
「……別にそれならそれで構わない」
責めているわけではない。源泉らしい気遣いだと思う。それにケイスケという名前が源泉のものであるなら、悪くない。その名前は懐かしい思い出に繋がっているのだから。
思いがけない優しいお言葉にほっと源泉が胸を撫で下ろしたのも束の間。アキラはキッと彼を睨みつけ、
「だが、同居人である以上、それぐらいは教えておけ」
対等の人間として扱われていないようで腹が立つ、とアキラは言う。全くもって最もだと、源泉は素直に頭を下げた。
「アンタが、ケイスケね…………」
並んでソファに腰を下ろしてアキラがビールを口に運びながらじろじろと隣の源泉を見る。その視線の剣呑さに源泉は無言でビールを煽った。
「似合わない名前だな」
「悪かったな」
俺がつけたんじゃない、と源泉は憮然として言い放つ。それでもアキラはまだ源泉をじろじろ見つめるのをやめず、嫌味なのか身を乗り出して顔まで近づけてきた。普段は感情の起伏に乏しいくせに、こんなときだけはしっかり嫌味を言いやがる。源泉は大人の威厳を保つため、何でもない振りでビールを口に運んだ。一方無視されたアキラは、不意にニヤリと口元に悪戯っぽい微笑を浮かべると、
「今度呼んでやろうか?」
あれの最中にでも、と耳もとで囁かれた言葉に、源泉は思わずビールを吹き出していた。
〔おしまい〕
〔comment〕
Back