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 シリウスがリーマスと出会ったのは、風の冷たくなり始めた秋のことだった。夏のあいだスイスの別荘へ出かけていたシリウスは、久々に戻ったロンドンの屋敷で、友人からの招待状を受け取った。いつでも都合のよいときに来訪してほしいという文面の招待状に、シリウスはいささかならず驚いた。その友人から自宅へ招待を受けるのは初めてだったからだ。
 その友人とは、シリウスよりも三十歳以上も年上の伯爵である。本来ならばシリウスの父親と友人であるといった方がはるかに正しい年齢のその人は、紛れもなくシリウスの友人なのだった。
 二人が知り合ったのは数年前、英国でも屈指の釣り好きだけが名を連ねることのできるクラブでのこと。妻子を亡くして以来ほとんど人前に姿を現さなくなった伯爵と、下手をすれば孫のような年の差のシリウスは、どういうわけか大変気が合った。
 お互い名家の長ということもあるためか、それとも周囲から見れば病的な釣り好きのためか、年齢は友誼の障害にならなかった。といってもお互いの屋敷を訪問し合うでもなく、二人はたまに釣果を報告し合ったり、新しい釣具についてのんびり語り合う仲だった。
 その伯爵が今までの慣例を破り、シリウスを自宅に招待したのである。これは首を傾げずにはおれない。だからといって別段断るような話でもなく、ちょうどスイスでの釣果を一筆したためようと思っていたこともあり、シリウスは素直に招待を受けることにしたのだった。






 初めて招かれた伯爵家の家屋敷は立派なものだった。それはそうだろう、何しろ四世紀に渡る名家であり、その歴史の中で有名な議員、裁判官、軍人、警視総監、学者を数えきれないほど輩出した家系である。何から何まで手入れの行き届いた屋敷からは、使用人たちの誇りさえ感じ取れた。

「……美しい庭ですね」

 通された客間で芳しい紅茶を手にしたままシリウスは言った。向かいの席に腰を下ろした老齢の友人は微笑し、

「君にそう言ってもらえると嬉しいよ」

 視線を転じた庭はロンドン近郊の邸宅には珍しい田舎風のしつらえだった。幾何学的な格式を追求した庭に美を感じる人間は多いが、シリウスはどちらかと言えば田舎風ののびやかな庭が好きだった。一見好き放題に繁茂しているかのような庭だが、さりげなく手を入れて鑑賞に堪えうるように保つことの難しさを、ロンドンの人間は知らない。釣りの次に造園が趣味のシリウスには、その庭の美しさは溜息が出るほどのものだった。
 お世辞ではなく本心からシリウスが庭を褒め称えていることを伯爵は知っているようだった。もともとシリウスは気のきいたお世辞で誰かを喜ばせるような人間ではない。そもそもその必要がない地位にある人間だ。悪く言えば単純、よく言えば表裏のないシリウスの性格を、老齢の友人はよくわかっていた。

「……それで、俺に何の用ですか?」

 なかなかひどい言い草だったが、伯爵は怒らなかった。むしろシリウスの率直過ぎる態度がお気に入りのように微笑し、

「実はね、君に頼みたいことがあってね」

 にこりと笑った伯爵は、老獪さのなかに少年めいた悪戯っぽい輝きを湛えていた。そういった部分が、三十歳以上も年の離れた友人を作る秘訣なのだろう。シリウスは身構える様子を見せながらも、内心ではこの人には敵わないと苦笑していた。
 老人はティーカップをテーブルに戻すと、腹部の上でゆるく指を組んだ。

「君も多分どこかで聞いたことがあるとは思うが、わたしには恋人がいてね」

「………………」

 相変わらずにこりと笑った伯爵の表情の裏にどんな感情があるのか、シリウスには読み取れなかった。沈黙は肯定を意味し、老人は楽しげな光を湛えた瞳でシリウスを見つめた。
 伯爵は『恋人』と呼んだが、彼の『愛人』の話ならば有名である。シリウスはさりげなく目を逸らして紅茶を一口すすった。
 シリウスは基本的に社交界にほとんど顔出しをしない。夜会だの茶会だの晩餐会だの、面倒でたまらないからだ。それ以上に、他人のゴシップにしか興味のない口さがない連中のくせに、自分の品性が下劣であることに気付きもしない上流階級の人間が大嫌いだったからだ。
 それでも彼は英国に冠たる貴族の、それも上から数えて何番目という地位にある大貴族の家長である。社交界を完全に無視して生きるわけにもいかず、口うるさい親類が乗り込んでこない程度には顔を出したりはしている。
 といってもそれは年齢を重ねるほどに数を減らしていったのだが、ともかくそんな程度にしか公の場に出てこないシリウスでも、伯爵の『愛人』の噂については聞き知っていた。
 伯爵の『愛人』は、それは年若い青年であるという。女ならばともかく、男を囲っているとなれば噂にもなるだろう。伯爵は早くに妻を亡くし、軍人となった一粒種の息子が任地に赴いたまま戻らなかったのは、もう二十年近く前の話だ。再婚するでもなく浮いた話の一つもなく、清らかなること国教会の牧師のような生活を長年送っていた伯爵が、何をとち狂ったのか男娼を拾ったと噂が立ったのは十年前の話だ。
 伯爵の奇行は当時の社交界に大旋風を巻き起こしたようだ。本人もめっきり人前に出てこなくなり、過去の人間として遺産が誰に行くのか程度の話題しか出てこなくなった時期に、いきなり男の愛人疑惑である。しかも同性愛の禁じられたこの国で。
 無責任な噂話で社交界は大騒ぎになったが、誰も真相をつかめぬまま事態は沈静化していった。一部では、愛人ではなく隠し子だの、余りにも高貴な血筋の男装の少女を匿っていて、実はそれは王家の陰謀から目を逸らすためだの、息子の忘れ形見が現れたが、遺産を狙う親類の害意を怖れて愛人と称しているだのと、三文小説のような噂まで広がったようだ。
 事の真相が当局によって解明されずに済んだのには、伯爵の背負った家名の力が大きかったのだろう。同性愛と判明すれば重労働の刑が課せられることになっていても、相手は歴史と伝統ある伯爵家の当主。それまでの生き方は堕落のダの字も感じさせず、清浄さにおいては貴族の鑑とまで言われ、名付け子たちは英国の政財界を支える人間となり、遠縁には他国の王家に名を連ねる者までいる。確証もないのにおいそれと告発できるような相手ではない。
それにもしかしたら、当時の警視総監が亡くなった息子の友人であったという理由もあったかもしれない。とにかく伯爵の愛人疑惑は社交界を騒がせたが、誰一人噂の愛人の姿を見ることもないままに忘れ去られていったのだった。
 もちろんそのころのことをシリウスが知ったのは最近のことである。十年前のシリウスはまだ社交界に用はなく、寄宿学校を脱走しては数々の伝説を作り上げていたクソガキ様の時分であったのだから。
 ともかくどうやら自分は大変なことに巻き込まれかけているらしい。シリウスはそう理解しながらも、特に困りはしなかった。目の前の伯爵がシリウスの反応を楽しげに見守っているから、意地でも動揺したりはしないと決めていたせいもあるだろう。それにしてもまさかいきなり愛人の話を振られるとは思わなかったので、返答しかねたのは言うまでもない。

「リーマスと言うんだが、考えてみるとあの子にはわたし以外に知り合いもいなくてね。ずっと一人にさせてしまった。せめて誰か年の近い友人がいればと思ってね」

 伯爵は尚も楽しげな微笑を浮かべたままシリウスを見つめている。下がった眦の優しげな笑い皺が曲者だと、シリウスは伯爵を睨む勢いで見つめ返した。

「で、そうなると何故俺が呼ばれるんですか」

「うん、君ならきっと、リーマスも気に入ると思ってね」

 シリウスが愛人を気に入るのではなく、愛人がシリウスを気に入ることを前提とした話らしい。なるほど、どうやら伯爵はそうとう愛人に惚れ込んでいるようだ。

「貴方の愛人の友達になれ、と」

「あの子が君を気に入ったらね」

 一層にこりと笑った伯爵に、凄みを見たような気がするのはシリウスの見間違いではあるまい。もとよりただののんびりした釣り好きの老人ではないと思っていたが、想像以上に面白い人間だった。だが、思えば初対面の日に、三十以上の年の差をものともせずに朝まで語り明かした変なお人だ。今更気にするようなことでもあるまい。
 基本的に大らか過ぎてものを深く考えないシリウスは、すぐに気にしないことに決めた。彼はとっつきにくい人間だったが、一度好きになった人物を一々疑うようなせせこましい男ではなかったからだ。

「まぁ、別にいいですけど」

 それでも思い通りになるのが悔しいのか、わざとらしい溜息を添えた言葉に、伯爵は愉快気な声を上げた。

「それはよかった。では、早速あの子を呼ぼう」

 伯爵は手を伸ばしてベルを鳴らし、隣室に待機していた執事に愛人を呼ぶよう言いつけた。忠実な執事は一礼をして音もなく立ち去った。恐らく彼ら忠実にして真に忠実な召使たちの努力もあって、愛人の話は外に漏れなかったのだろう。並大抵の信頼ではない。それだけこの愛すべき老人には人徳があるということか。シリウスは冷めかけた紅茶に手を伸ばしながら、上機嫌な伯爵を盗み見た。
 食えないお人とはこういった人間を言うのだろう。シリウスも是非こういう老人になりたいものだ。しみじみと相手を見つめていたシリウスを、不意に伯爵が呼んだ。飲むとも飲まぬともつかぬまま取り上げていたティーカップを下ろしたシリウスに、

「そうそう、リーマスはわたしの『恋人』であって『愛人』ではないのだよ」

 くれぐれも間違えないように。そう言って伯爵が今度こそ明確に凄みのある笑顔を浮かべたとき、背後の扉を誰かがノックした。






 伯爵曰く『恋人』のリーマスという男は、シリウスが想像していた『愛人』像とはかけ離れていた。何というかこう、とても平凡な青年だったのだ。
 年齢はシリウスと同じというが、十年前に伯爵と出会ったときに本人が確かな年齢を憶えていなかったので、それさえも推測であるらしい。そのせいか年齢よりも幼い容貌をしているが、単に若作りなだけかもしれない。身長は平均的で、伯爵とほぼ同じ。『巨人』とさえ言われた父母から生まれた長身のシリウスから見ると、四インチも小さいため、余計に年下に見えるのかもしれない。
 機能的と貧相のギリギリのラインにある痩躯はたよりなく、綺麗に撫で付けてある鳶色の髪には白いものが混じり始めている。若作りなのだか老けて見えるだのかいまいち判然としない。それなりに整った容貌ではあるが、人が多く集る場所に行けば一時間に三人は見られる程度の造作であるし、特段媚びるのが上手そうでも男を惹きつけるフェロモンがあるようにも感じられなかった。わかりやすく言えば、案外普通の男が出てきたのでシリウスはホッと胸を撫で下ろすと同時に、困惑を覚えたのだった。
 リーマスとシリウスに共通していたことは、『お互いにあんまり興味がない』という点だけであったろう。リーマスは伯爵と違って釣りが趣味でもなく、多弁でもなければ能動的でもなかった。そしてシリウスのほうも、お世辞にも社交的とは言いがたく、人見知りはしないが偏屈でとっつきにくい男だ。態度が悪いだの目つきが悪いだのと、散々母親に嫌味を言われたくらいなのだから。
 幸いリーマスはシリウスを怖がったり嫌ったりはしなかったが、特に好意を持っているわけでもないようだった。シリウスのほうも伯爵の手前リーマスを邪険にはできないが、うっかり二人きりにされても何を喋っていいのやらわからない始末。おそらくリーマスのほうでもシリウスを扱いかねていることだろう。正直なところ、何で俺なんだとシリウスは実際に首を傾げたほどだった。
 わけのわからないまま友情を育む取り組みに挑んでいたシリウスだったが、あるときついに根をあげた。リーマスのほうはシリウスと二人きりでも黙って勝手なことをしており、特に気にした様子も無かったが、シリウスのほうは限界だった。いっそリーマスにシャベルを持たせ、二人で庭いじりでもしているほうがどれほど楽か。それならば黙っている大義名分にもなるというのに。
 我慢の限界に達したシリウスは伯爵にあることを申し出た。それはもう一人友人を紹介してはどうかというものだった。丁度シリウスの学生時代からの親友に、うってつけの男がいる。心根は優しく頭脳明晰で屈託がなく、常に明るく公明正大な好男子である。社交性の権化のような男だとシリウスは思っている。
 友人もまた名家の出であり、シリウスと同じくすでに両親は亡く、誰にでも好かれる無邪気な少年のような人物だ。何しろ学生時代についたあだ名が『夢の王子様』である。芸術家連中には『輝ける青春』とまで言われ、それが揶揄ではなく賛美の呼称なのであるから驚きだ。彼ならばリーマスをありのまま受け入れて、いい友人になってくれるだろう。
 力説するシリウスがあまりに必死であったからか、伯爵は異を唱えなかった。

「君がそれでいいのなら」

 どこか伺うような伯爵の返答にシリウスは引っかかりを憶えたものの、許可が下りたことに喜んだ。肩の荷が少なくとも半分は友人に移ることを期待したからだ。それがただの錯覚に過ぎず、実際には無用なものまで背負い込んでしまったのだと彼が気付くのは、まだ先のことである。








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