■□■ パライソ □■□






 空は赤く焼け爛れていた。各所から立ち上る黒煙が視界を塞ぐ。火の粉が舞い散り、空気までが炎を孕んでいる。
 そこは戦場だった。逃げ場の無い。
 足元には死体が幾重にも積み重なって転がっている。つい数分前まで人間であった物体。ただ生きていないだけの人間。この壊れた器を修復すれば、この人間は生き返るのだろうか。
 誰かが呼んでいる。その名前は知らない。けれど自分の名前。
 振り返る。誰かが呼んでいる。人形はどこだ、と。
 人形とは何だろう。殺戮人形、機械人形。誰かがそう呼ぶのは自分だ。
 人形とは何だろう。自分は、人形なのだろうか。
 違う。人形ではない。名前がある。ちゃんとした名前が。
 俺の、本当の名前は    






 強い衝動に駆られてnは眼を覚ました。暗い天井、静かな部屋。ここは戦場ではない。
 どうやら夢を見ていたらしい。nは強く目を閉じて吐息を零した。
 少々混乱しているようだ。記憶の断片をつなぎ合わせたような夢が酷くリアルだったから。
 nはそっと身を起こして隣で眠るアキラの様子を伺った。幸い彼を起こしてしまわずに済んだようだ。穏やかな寝息は規則的で、何も知らずに眠る横顔がnに安堵をもたらした。
 ここは戦場ではない。nは暗闇に慣れた目で殺風景な部屋の中を見渡した。年季を経た古い壁、中身のほとんど入っていない備え付けの家具。窓には擦り切れかかったカーテンがかかり、そして二人の眠るベッドがこの部屋の全てだった。
 このアパートを見つけたのは四ヶ月ほど前のことだ。二人が幾度目かに訪れた国の北部にある大都市。その中でも下町といえば聞こえはいいが、お世辞にも治安がいいとは言えぬ街の一角に見つけたアパートだった。
 大きな通りを一望できる、区画の角に建った古びたアパート。住人は少なく、四階に位置するこの部屋は張り出た非常階段のせいで通りからは死角になっている。退路の確保も容易く、理想的な立地条件であった。
 nは身じろぎもせずにカーテンの隙間から覗く暗い夜空を見上げた。今は厚い雲に覆われた空だが、昼間は高く澄んで吸い込まれるようだった。秋のこの時期が最も美しい色合いをしていると誰かが言っていた。『空色』の定義として有名なこの都市の空は、大気汚染の進んだニホンに比べ遥かに美しかった。
 美しい、という感覚。長い間忘れていた感覚を思い出したのはつい先日のことだ。空を見上げて美しいと言ったnを、アキラは手放しで喜んでくれた。何かを美しいと感じるということは、磨耗していた感情が再生してきている証拠だ、と。
 アキラの言うことは確かだろう。普遍的な出来事に『心』を動かされるということは、『心』そのものを否定されてきたnにとっては重要な変化だ。押し込められていた感情、感性、それらは刺激を受けて発芽し、いつか大樹に育つのだろうか。それまでに一体どれほどの時間が必要なのか、それは誰にもわからない。
 寝返りを打ったアキラが何かを探すように手を伸ばす。起こしてしまったのだろうか。気になって手を伸ばすと、アキラはnの手を掴んだ。冷たいnの手の感触を確かめるように何度か握ると、満足したのかアキラは再び規則的な寝息を立て始めた。
 nの右手を握るアキラの手。初めて出会ったときから変わらぬ温かさ。nはその手をそっと握り返す。あのころと比べてアキラは格段に成長していた。声も変わり、表情に鋭さが増した。警戒心が強く、安易に人を近付かせない。孤高の獣を思わせる姿を、nは美しいと思う。思ったから、正直にそう告げた。するとアキラは奇妙な表情を浮かべ、怒ったように黙り込んでしまった。
 その状態が『羞恥』や『照れ』というものであることは他の事例に照らし合わせることで理解できた。だが、何故照れるのかはまだnにはわからない。
 nはかつて軍に所属していたとき、情報戦への投入を見越して、群集に埋没する術を学んだことがある。そのため、人間の表情や言動、行動についての莫大なデータベースを持っている。その中から該当する状況を選び出し、相手の感情や内面を分析し、最適な対応をとることが出来た。彼はそうしようと思いさえすれば、いくらでも普通の人間のように振舞うことが出来るのだ。
 だが、それはあくまで表面的なことであり、人間の感情は複雑すぎてnにはまだ理解することが出来ない。対応の方法は心得ていても、何故相手がそう感じるのか、未だにほとんど理解できていなかった。
 それでもアキラと暮らし始めてから、nはずいぶんと状態が回復したように自分でも思う。少なくとも、アキラを怒らせたくない、悲しませたくないと思うようになった。これは大きな進歩であろう。他人のことを配慮する、というのはとても難しいことであり、今までのnからは考えられないことだ。そしてそれを無意識にこなしているアキラは、nにとって脅威の存在だった。
 普通の人間に比べて、アキラは感情の起伏に乏しい。それでもnには充分、感情豊かであるように思える。彼を手本に学ぼうとするnに、アキラは色々なことを教えてくれる。そして彼の教えはnにとって絶対であった。理由がわかろうがわかるまいが、とにかくアキラの言うことに従う。その場面場面では理解できなくとも、後でじっくりと考え、話し合って消化する。それがnの課題であった。
 多くの本を読み、アキラのアドバイスを受けて、かなりの部分でnは『感情』を理解できるようになった。まだ理論の段階だが、自分でも進歩していると思う。だが、それでも未だにどうしても理解できないことはあった。
 アキラは人を殺してはならないと言う。それが例え敵であっても。
 それは罪悪であり、やってはならないことだと。しかしnにはそれが理解できない。何故人を殺してはならないのだろうか。
 人に限らず生物は、殺し合うことで生存を続けている。縄張りを侵せば、狼は狼を殺す。食料が無くなれば、ネズミはネズミを食い殺す。そして人はさまざまな理由で人を殺す。他者を排除しようとするのは生物の本能だ。それの何が罪悪なのだろうか。
 昔はその理由を知っていたはずだとnは自分へ問いかけた。けれど今はそれを思い出すことが出来ない。むしろ、疑問ばかりが思い浮かび、アキラを困らせてしまう。
 人間は人間を殺す。それは戦争であったり、法の裁きによってであったり。戦争では出来るだけ多くの人間を殺した者が『英雄』と呼ばれ、賞賛を受ける。けれど、日常の中でたった一人を殺しただけで、悪とされる。それは何故なのか。
 肯定される殺人と否定される殺人の差異がnには理解できない。法という強固なルールは、戦争も死刑も肯定する。同時に、殺してはならないとも言っている。では、人を殺してはいけない理由とは何なのか。殺すことが罪悪ならば、殺されることが罪悪である場合は無いのだろうか。また、殺してもいい理由とは何なのか。
 そもそもnには生命という曖昧なものの定義がわからない。生きているということは何なのか。死んでいるということはどういうことなのか。
 生きていないことと死んでいないことは、nには同列であるように思える。その境界は確かにあれど、生と死は彼にとっては等価だ。そして、人間も動物も植物も、生命という点では同じものであるように思う。
 何も『生きとし生けるものは皆平等である』などと考えているわけではない。ただ、人間と犬の何が違うのかわからないだけ。同じように生きていて、同じように死ぬ。死んでいなければ生きている。ただそれだけのこと。
 そもそも、生物は必ず死ぬ。それが今日になろうと、明日になろうと、死ぬことに違いは無い。病気で殺されようが、誰かに首をはねられようが、死は死でしかない。死んだ人間は殺人者を咎めない。
 不可思議なことに、人間は牛を殺しても滅多に罰せられることはない。豚や鶏を殺しても、それは罪ではないらしい。食肉にするために飼育しているのだから、と言われてもnにはよくわからない。では、食べるために育てた人間を殺しても罪にはならないのか。家族として可愛がっていた犬を殺したら、それは人間を殺すことと同じ罪悪ではないのか。死刑を執行した人間は何故死刑にならないのか。
 nには仲間意識というものがない。彼は世界の一部で、その半面で全く特別な新種である。彼にとって世界は平等であった。自分と世界も平等であった。無意味で、無価値で、どうでもいいという点において。そのため彼は自分を思いやることがない。死んでいないという理由のみにおいて彼は生きていた。自分に価値を見出せない人間は、他人にも価値を見出すことができない。だから彼には人を殺すことが何故いけないのか、未だに理解が及ばない。
 アキラはnに人を殺すなと言う。それが例え敵であっても。
 殺すより、怪我をさせるほうが敵に足手まといを作るからか。怪我をした仲間は助けねばならず、治療や運搬にはより手間と費用がかかる。殺さない方がより敵の力を削ぐことになるからか。
 しかしそれは違うとアキラは言う。そんな理由ではなく、人は殺してはならないのだ、と。
 だからnは殺さない。アキラが駄目だと言うから。もしもアキラがいいと言えば、nは躊躇わずに人を殺す。生命の染み込んだ左手は、右手と同じように軽い。生命とは、計り知れぬほど重いもののはずなのに。
 左右二つの手は似ているが、同じものではない。それと同じように、生と死は違うはずだ。ならばいつか、nにも殺すことの罪悪を理解することが出来るのだろうか。
 nはアキラに手を握られたまま、再びベッドに身を横たえた。夢を見ることは苦痛ではない。『悪夢』という概念はまだnには無い。だが、アキラを心配させるのは本意ではない。だからできれば夢は見ないほうがいい。そしてnは静かに目を閉じた。








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