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「ただいま」

 アキラの声にnは目を落としていた本から顔を上げた。階段を上る足音で彼が帰ってきたのはわかっていた。アキラは紙袋を抱えてキッチンへ向かう。食料を買い込んできたらしい。
 寝室と同じように殺風景な部屋を横切って、nもキッチンへ向かう。壊れかけたソファに本を放り出すと、不平を零すような軋み音がした。

「ビール、買ってきた」

 言ってアキラは缶ビールのケースを開けた。nは頷いたが、基本的に二人とも好んで酒を飲まない。場合によっては水より安価なので、飲み慣れておくために買っている。
 何より、二人とも飲食に興味が無かった。だから今でも食事のほとんどをソリドで済ませていた。
 ニホンから遠く離れたこの国でも、ソリドは当たり前のように売られていた。貧民層と裕福層の対立が激化し、第三次世界大戦勃発の原因となったこの国でも、食糧難は深刻な問題であった。
 戦後ニホンが開発したソリドは、味、品質、種類の豊富さ、低コストという面で、他の国々の同じような合成食品を遥かに上回った。そのためソリドの世界的特許を獲得したニホンでは、固形食物作成の特許使用料が、今では重要な外貨獲得の手段となっていた。
 ニホンのソリドはバリエーションが豊富で、何より一番美味い。そんな理由でソリドは世界中何処ででも人気の商品であるらしい。おかげで、アキラもnも手軽に栄養補給が出来るわけだから、ありがたいものだった。
 ふとナノは紙袋からソリドを取り出して見つめた。オムライス味。アキラがソリドを買ってくると必ず入っている。そして必ず一番初めに消費される味。
 ソリドの包みを見つめるnに気付いたのか、アキラが手を伸ばしてソリドを引っ手繰った。彼はソリドを紙袋に仕舞うと、不機嫌そうな表情を浮かべて戸棚にそれを放り込んだ。

「アンタ、オムライス味好きだろ」

 つっけんどんな言葉。
 好き?
 俺が?
 nは小首をかしげてアキラを見た。オムライス味を好んで食べる習性はnには無い。特にどうとも思っていないだけだ。むしろ、オムライス味をチョイスして食べるのはアキラのほうだ。つまりアキラはオムライス味が好きだということだろう。では何故、nがそれを好きだと言うのだろうか。
 しばしの思案の結果、どうやらアキラはオムライス味をnが好んでいると言い聞かせることによって、自分の行動を正当化しようとしているのではと思いついた。それと同時に、オムライス味ばかりを好んで購入してくる自分に羞恥心を覚え、不機嫌な様子を装って誤魔化そうとしている。要するに照れたのだろう。

「アキラ」

 ある衝動に駆られ、nはアキラを呼んだ。冷蔵庫を開いてバターを仕舞っていたアキラは、怪訝そうな表情で身体を起こした。
 冷蔵庫のドアを挟んで向き合う。いかにも訝しげな、そのくせあまり目を合わせようとはしないアキラ。その表情に衝動は加速する。nはアキラの肩を引き寄せ、くちびるを重ねた。驚いたのか、アキラが目を丸くする。

「……何だよ」

「さぁ。突然したくなった」

 正直に答えたら、呆れたようなため息をつかれた。
 買い物を仕舞い終えると、ソファに戻ってnは考えた。突然奇妙な衝動に駆られたのは何故だろう。アキラはバターを仕舞っていた。冷蔵庫の中身をいじる姿に突き動かされたのではない。ではアキラの言葉が原因か。いや、衝動が沸き起こったのは発言よりあとのはずだ。
 衝動は奇妙な感覚だった。これまでにも自覚したことがあったように思う。心臓の辺りが疼くような、けれど不快ではない感覚。あれは一体何なのだろう。
 コーヒーをいれて戻ってきたアキラは、ソファにnと並んで腰を下ろす。彼は何事も無かったかのようにテレビのリモコンを手に取り、ニュースをつけた。
 テレビを見るアキラの横顔はいつもと変わらない。先ほどとも変わらないのに、今は衝動が沸き起こらない。何故なのかとnは考える。
 先ほどキスをしたくなったのは、アキラが照れているらしいと思いついた直後だ。何故アキラが照れるとキスをしたくなるのだろう。照れるということは特に珍しいことでもないのに。
 いや待て。もしかしたら照れたときの行動に何か感ずるところがあったのではないだろうか。先ほどのアキラは不機嫌を装って、つっけんどんな言動をしていた。その様子は普段よりやや幼いように思える。幼さとは、見るものに弱者であることを訴えかける。それによって保護欲を掻き立て、敵対心を無くさせる。あるいは、弱者である自分を擁護させようとすることもできる。
 ではnは保護欲を掻き立てられたのか。それを更に一般化すると、どういう表現になるのだろう。守りたい、というのとは違う。アキラは強い。それに、身の危険を感じる場面ではなかった。アキラに触れたいと思った。手で、腕で、もっとプライベートな部分で。
 nは首をかしげてアキラを見た。アキラも視線に気付いたのか振り返る。
 珍しく真剣な表情でnはアキラを見つめながら腕を組んで呟いた。

「これが愛しい? 可愛い? アキラが」

 疑問形であったにも関わらず、顔面に向けて投げつけられたクッションを、nは無造作に避けた。






 それからしばらくアキラは不機嫌だった。今度こそ本当に、不機嫌だった。
 可愛いと言われて喜ぶ男はいない、とアキラは怒った。だが、nにはそれが何故なのかわからない。
 nはアキラに言われてよくテレビを見るようになった。感情を学ぶには、より多くの場面を目の当たりにしたほうがいいという理由で。
 テレビの中に出てくる人々は、男でも女でもよく『可愛い』という言葉を使う。テレビというのはより大衆化されたもので、ニュースや映画、教育番組でもない限りはごく一般的な言葉を使うはずだ。
 けれどもnはアキラが違うと言うからには違うのだろうと自分に言い聞かせた。アキラの言葉は絶対だ。理由は後から知ればそれでいい。つまり、アキラに可愛いと言ってはならない。だが、愛しいと言ってはいけないとは言われていない。故意なのか偶然なのかはわからないが、アキラは禁止しなかった。でもきっと、言うとアキラは怒るのだろう。だからあまり使わないほうがいい。
 nはまだアキラのご機嫌のとり方がわからない。どうすればアキラが喜ぶのか、機嫌を直してくれるのか、そこまでわかってはいない。ただ、これ以上怒らせない方法だけはわかっているので、アキラが話しかけてくるまで大人しく待つ。
 待つことは慣れている。それに、やることは幾らでもあるのだから。
 アキラの機嫌が回復するのを待つうちに、いつの間にか夜になっていた。本が読みづらくなったのに気付いて、nは部屋の明りを灯す。ついでに床にうず高く積み上げられた本の中から、大判の地図を引っ張り出した。
 それはこの国の北部と、さらに隣国を含めた地図だった。第三次世界大戦でも中立を保った隣国は、昔と変わらず平和で緑豊かな国だ。場所によっては白夜などが続くこともあり、冬ともなると大量の積雪で国土は大半が白く覆われる。次に移り住むのはその国の予定だった。
 もうこの国へ来て四ヶ月になる。近隣の住民にも顔見知りが増え、警戒心を抱かれないようになった。そろそろ潮時だ。
 隣国へ抜けるのに車を選ぶか、それとも飛行機を選ぶかnが思案していると、ようやくアキラが声をかけてきた。

「……ここを出るのか?」

 nは地図から目を上げ、ゆるやかに、けれどしっかりと頷く。それを見たアキラはため息をつき、テレビの音量を上げた。話し声が漏れ聞こえないために。
 この国へ逃れてきたとき、nは偽造の旅券を手配して、二人は堂々と空港から入国を果たした。いつの世の中でも、金さえ積めばどんなことでもしてくれる連中は存在する。そしてこの国にはそういう人間がことのほか多い。

「飛行機か?」

「ああ」

 アキラは地図を見ながら問いかける。車での入国も可能だが、より多くの人間に紛れることのできる飛行機の方が安全だろう。一応二人分の偽造免許証は所持しているが、アキラはまださほど車の運転が上手くない。長距離ともなれば尚更だ。危ない橋は渡らないに限る。

「近いうちに新しい旅券とチケットを手配する」

 nの言葉に細い顎を引いてアキラは頷くが、どこか表情が浮かない。やや迷いがあるように見て取れた。
 おそらくアキラはここを離れがたく思っているのだろう。そうnは推測する。この国はトシマからの脱出後、初めて平穏を得られた国だ。アキラが一度、ニホンに比べればここは楽園だ、と評したことがある。確かに、未だ内戦の終結しないニホンに比べれば、曲がりなりにも国としての機能が働いているこの国は、楽園に思えるかもしれない。けれどnは、傍にアキラさえいてくれれば、この世はどこでも楽園であると思っている。
 ……ということを口にしたら、アキラはまた不機嫌になってしまうのだろうけれど。
 ふとアキラが顔を上げた。つられてnも顔を上げると、テレビのニュースが丁度ニホンの内戦について報道しているところだった。

「………………」

 アキラは厳しい表情でニュースを見守っている。どうやら内戦は日興連有利のまま終結へ向かっているようだ。大戦後に内戦を引き起こした一番初めの国として、ニホンは注目されている。
 ニュースでは日興連側の軍に同行したカメラとリポーターが、いかに軍備が潤沢であるかを誇示するように武器庫の様子を映し出していた。銃を構えた兵士が、何か説明をしているが、アキラはふいにリモコンを取ってチャンネルを切り替えてしまった。
 アキラは戦争が嫌いだ。もちろんnも好きではない。彼らが国を追われる元凶となったのも戦争のせいだからだ。だがそれ以上にアキラは銃を嫌悪する。その意思は半端ではなく、彼は徹底的に銃を嫌っていた。
 アキラは銃を絶対に手に取らない。視界に入れることさえ嫌悪を覚えるようで、普段表情の薄い彼には珍しく、あからさまに拒否の態度を示す。まだこの国に来たばかりのころ、nは銃の扱いかたと車の運転をアキラに教えようとした。広大な国土を有するこの国では、車の運転ができないと何かと苦労することになる。そして今も変わらず銃社会の国家であるため、身を守るためにも銃の扱いを教えておこうと思ったのだ。
 ところがアキラは銃の扱いを覚えることを断固拒否した。どんな理由があろうが、俺は絶対に銃には触らない、と宣言して。
 アキラの決意は固く、困り果てたnは結局、銃の扱いを教えることを断念したのだった。
 アキラが銃を嫌悪するのは、おそらく幼馴染の青年の死が深く関わっているだろう。彼の死の直接の原因が銃によるものだからだ。確かケイスケと言った。nはアキラの横顔に視線を向けながら思い出した。
 ケイスケという青年のことをnはそれほど明確に記憶してはいない。アキラより背が高く、アキラより青年に近く、しかしアキラより幼い印象があった。Nicoleの受容体を植えつけられていたせいで、nの記憶にある限りでも最もラインに適合した人間でもある。それでもやはりnに比べれば戦闘能力は格段に低く、何より殺し合いに挑む姿勢に甘さがあった。それが命取りになったのだ。
 ケイスケという青年が死んだのは、彼が敵に情けをかけたからだ。トシマでの最後の日、軍の特殊部隊との戦闘で、nは自分に向かってきた敵を一人残らず殺した。だがケイスケという青年は、出来る限り殺さずに済まそうとしたのだろう。その結果、彼はアキラを庇って銃弾を浴び、その生命を終えた。
 あのとき彼がきちんととどめをさしていれば、死ぬようなことは無かった。nは冷静にそう解釈している。だがアキラはそうは考えないだろう。だからnも何も言わずに沈黙を守った。
 nが理解できないのは、何故あの青年が死ぬとアキラが銃を使えなくなるのかということだ。あの青年が死んだのは事実だが、彼を殺した銃は特殊なもので、nがアキラに教えようとしたものではない。いや、もしも同じ種類の銃であったとしても、あの銃とその銃は違う存在であるのだから、拒否する理由にはならない。それを銃という単位で一括りにしてしまい、全てを拒否できてしまうことが理解できなかった。銃の構造を知っていればこそ、防衛方法もわかるというのに。
 nはライフルで狙撃されようが、回避できる自信がある。それをやってのけるだけの身体能力を持っている。だがアキラは違う。いくら戦闘能力が高くとも、彼はnに比べてしまえば普通の人間なのだ。何も銃で闘えと言っているわけではない。防御の手段として使用することも視野に入れるべきではないだろうか。
 だがアキラにそう告げることは出来なかった。まだ感情の再生し始めたばかりのnにも、それがアキラにとって禁忌であることはわかったから。アキラの中でとても神聖な場所にあるものを貶すことを、たとえ相手がnであっても彼は許さないだろう。ならばnにできるのは、アキラが銃に触れずに済むよう配慮し、遠ざけることだけだ。それに何故か、銃を持ったアキラを見たくないという思いが、nの中に芽生えていた。

「…………次の国はもっと、安全な場所だ」

 だから心配するな、と。
 nの気遣いに触れて、振り向いたアキラは表情をほころばせた。変わっていないように見えて、nの感情は確実に成長している。アキラの心理状態を察し、尚且つ優しい言葉をかけられるようになったことが何よりの証拠だ。そして彼はそれを、無意識にやってのけたのだから。

「大丈夫、ちゃんとわかってる」

 アキラは微笑し、nの腕を軽く叩いた。








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