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決行の日は迫っていた。表面上、nとアキラは何事も無いかのように過ごしていた。周囲の人間には、ある日気付いたらいなくなっていた、と思わせるのが一番いい。もともと二人は家を空けることも多く、人付き合いもよいほうではなかったのでさして不審には思われないだろう。
二人は目立たぬようにしながら、身の回りのものを処分し始めた。身元が割れるようなものは初めから持っていないが、偽造の旅券や免許証は出国後、いつでも処分できるようにしておく。部屋からは二人の存在を示すものがだんだんと無くなってゆき、出立の日には指紋さえぬぐっておく予定だった。
一つの部屋から完全に生活の気配を消すのは、思っていた以上に面倒なことだった。今までこれほど長く滞在した場所が無いせいか、できるだけ存在を隠すように生活していても、意外に二人の気配は残っていた。いっそ壁も床も塗り直してしまったほうが早いのでは、とアキラが言い出したほどに。
「いや、大丈夫だろう」
そこまでする必要は無い。むしろ、夜逃げしたように思わせたほうが怪しまれないで済む。そう説明するnに、アキラは頷いて見せた。しかしまだ彼が心のどこかでこの部屋に、この国に執着を覚えているのは確かで、nはそれに気付かない振りをして過ごした。執着を断ち切るのは、アキラ一人の問題だ。nが手を貸すことは出来ない。
ゴミはできるだけ分散して捨てるようにし、二人は次第に外出を控えるようになった。隣国での新しい身分証明書と旅券を、そして航空チケットを手に入れ、息を潜めるようにして決行の日を待つ。多くの感慨があるのか、アキラの口数はだんだんと減っていった。彼を慰めたいと思いつつも、その術を持たないnは、黙ってアキラに寄り添っていた。
nがどこから偽造の旅券や飛行機のチケットを手配してくるのか、アキラは訊かなかった。時期がくれば教えてくれるのだろう、と言っただけで。
それはアキラがnを信頼してくれているということだろう。そう思うと何故かnは自分が揺らぐのを感じた。この感覚は何だろう。嬉しいようであり、同時に胸を締め付けられるような感覚でもある。これが罪悪感なのだろうか。
何故アキラに罪悪感を抱かねばならないのか。それはnがアキラを連れてきてしまった、ということを後ろめたく感じ始めているからだろうか。ここのところnは思うことがある。アキラはもう少し違う人生を歩むことができたのではないだろうか、と。
アキラはこの世で唯一のnの同族だ。全てにおいてnの対を成す存在。自分に可能性という光をくれたアキラを、nは渇望した。彼とともに歩みたいと願った。そしてアキラは願いを受け入れてくれた。アキラは優しい。nについてきさえしなければ、こんな過酷な逃亡生活を送る必要も無かっただろうに。そう思うとnはアキラに済まないような気持ちを抱く。これが後悔か。
半面で嬉しくもあった。それでもアキラが自分を選んでくれたことと、信頼を寄せてくれたことが。この相反する感情が人間らしさというものなのだろうか。nにはわからない。ただ、できるだけアキラを喜ばせたいと思う。そのために彼はどんなことでもするつもりだ。
そして決行の日は翌日となったのである。
出国前日の夜、突然アキラが外へ行こうと言い出しても、nは反対しなかった。この国で過ごす最後の夜。明日には別れを告げる街を見たいとアキラは思ったのだろう。
人通りのなくなる深夜を待って、二人はアパートを抜け出した。夜明けにはここを離れ、空港へ向かう。準備はとうにととのっているのだ、あとは時間が過ぎるのを待つだけだった。
「…………月が」
アキラの呟きにnは夜空を見上げた。半分欠けた月が西の空にかかっている。冷たく冴えた夜の空気は、すでに冬の気配を孕んでいた。
並んで立ったアキラはまだ空を見上げている。目を眇めて月を見るアキラをnは見つめた。白い横顔に最早迷いや憂いは無い。彼はもう、次の国に思いを馳せているのだろうか。
「行こう」
nは呟き、アキラの腕を取った。
通りは閑散として静まり返っていた。そのせいかどこか遠くから電車の走る音が聞こえる。昼間は喧騒に紛れて気付かないが、夜にはここまで響いてくるのか。
アキラはnの前を歩く。別段目的は無いのだろう。彼は周囲に視線を配りながら、気が向くと立ち止まり、そして再び歩き出す。その後姿を眺めながら、ゆっくりとnはついていった。
考えてみると裸眼で外出するのは久々のことだ。nはアキラの背中を見ながらぼんやりと思った。
この国では外出の際、サングラスをかけていても目立つことは無い。髪の色は誤魔化せても、目の色だけはどうにもならない。そのため、nは日中の外出時にはサングラスか、色の入った眼鏡をかけるようにしていた。そうしていれば、瞳の色が紫に変じても誰も気付かない。瞳の色が変わるのは、nにはどうしようもないことだった。
実のところnは、サングラスがあまり好きではなかった。彼の眼は通常のブルーアイと違って、日光にも暗闇にも強い。どんな状況でもよく見えるのに、あえて違う色のグラスを通して物を見るのは好きではなかった。
昔の彼ならそんなこと特にどうとも思わなかっただろう。好き嫌いができたのは、いいことなのだろうとアキラは言った。nはだんだんと変わってきているのだ、と。そんなものなのだろうか。nには判断がつけがたいが、アキラが言うのだからそうなのだろう。
次の国ではカラーコンタクトを試してみようかとnは考えていた。あれなら、視界を染めることなく瞳の色を変えられる。そうすれば、空の色だって自由に楽しめるのだから。
二人は見慣れぬ夜の風景を楽しんだ。日中はそれなりに賑わう通りも、死んだように静まり返っている。この街の明るく賑わう光景を目の当たりにする機会は二度と無いのだろう。あるとすれば、世界に真の平和が訪れたときか。そしてそれは永久に叶わぬ夢だった。
ふとアキラの足が止まった。同時にナノも周囲に気を配る。人の気配がする。それも、あまり性質のよくない種類の。
振り返ったアキラと視線を交わし、来た道を引き返す。だが相手の反応も素早かった。走り出した二人の行く先で、車が道を塞ぐようにして急停止する。陰になった男が運転席から銃を構え、二人に照準を合わせた。
二人が振り返るまでもなく、円を描くように取り囲まれていた。人数は八人。夜だというのに全員が目深に帽子を被り、手に手に銃やナイフを握っていた。
「…………金か?」
アキラの問いかけに男たちが武器を構えなおした。無言の圧力で迫るというのはうまいやりかただ。こんな場面であるのにnは男たちを値踏みしていた。慣れてはいるが、足運びや武器の構え方からいってプロではない。つまり二人を追ってきた敵ではない。ならば、穏便に済ませられるならそうしておきたいところだ。ましてや出国は明日に迫っている。面倒な事態は避けたい。
「財布を地面に置いて、そっちへ蹴り飛ばす。いいな?」
両手を広げた二人は、相手を刺激しないようにゆっくりと財布を取り出した。どうせ現金しか入っていない。それも大した額ではないから、この場を穏便にやり過ごす代金としては安いものだろう。
まずnが地面に財布を置き、身を起こした。次いでアキラが身を屈めたとき、二人を取り囲んでいた一人が突然反応した。
nとアキラが左右に飛び退ると、今まで二人がいた空間を大振りのナイフが切り裂いた。アキラが舌打ちする音が聞こえた。どうやら、腰の後ろに隠すように挿していたナイフを見られたようだ。こちらに攻撃の意思は無かったが、相手はそうは取らなかったのだ。
アキラがナイフを鞘ごと引き抜き、飛び掛ってきた敵に一撃を食らわす。あくまで流血を避けるつもりであるらしい。ならばnもそれに従うまでだ。
仲間に当たることを恐れてか、発砲は無かった。それ以前に、人知を超えたnの華麗なまでの動きに、トリガーを引く暇さえ無かったのだろう。所詮はただの人間。nの敵ではない。
nが瞬く間に五人の敵を地に平伏させたとき、アキラは最後の敵の処理にかかっていた。車に乗った男は意味不明な叫びを発すると、車を急発進させてアキラ目掛けて突っ込んできた。しかしアキラは冷静に身を翻して車をかわす。次の瞬間には車は歩道に乗り上げ、派手な音を立てて消火栓に激突していた。
「………………」
nを振り返ったアキラは肩をすくめた。そのまま立ち去ろうとしたが、夜気に混じって鼻腔をくすぐるガソリンの匂いに眉を顰めた。nだったら気にもせず放っておく。だが、アキラは踵を返して車に歩み寄った。
アキラは優しい、とnは思う。ガソリンに引火した場合のことを考えて、運転席の男を引っ張り出そうというのだろう。甘さと紙一重の優しさだが、それゆえにアキラなのだと思う。
アキラは壊れかかったドアを蹴り開けて、運転席から男を引きずり出した。一先ず車から離しておけば安全だろう。
nが放置されたままだった財布を拾い上げたとき、ふいにアキラの声が響いた。
「お前、まだ子供……!」
夜気を裂く轟音に、nは振り返った。
衝撃にアキラの身体が後方に吹き飛んだ。その前方で、額から血を流した男が銃を構えている。腕は小刻みに震え、表情は引きつったまま。
それだけで充分だった。
一瞬、視界が真っ赤に染まった気がした。音は消え、無声映画を観ているようにnは感じた。
アキラが地面に叩きつけられるより早く、nの足は地面を蹴っている。銃を構えた男の姿が急速に近付く。アキラよりも年下に見える男。恐怖に見開かれた目が向けられ、口が絶叫する形に開かれた。誰かの手が男の首にかかり、そして 声が聞こえた。
名を、呼ぶ声。
nの本当の名を。
「やめろ!」
突然回復した聴覚に突き刺さる声。鋭い警告を発する声に、nは我に返った。振り返ると、アキラが脇腹を押えて立ち上がっている。よかった、無事だった。
「駄目だ、殺すな……」
トーンダウンしたアキラの声は諭すようだった。果たして彼が何を言っているのかわからずに、困惑してnは自分の手元を見下ろした。気付くと彼の左手には、男がぶら下がっていた。いや、nが男の首を持ってぶら下げているのだ。男はすでに失神しているらしく、膝を折って白目を剥いている。男の手から零れた銃が地面に転がって、鈍い光を反射していた。
nは無造作に男の首を放すと、アキラに駆け寄った。無意識のうちに殺しかけていたらしい。
アキラに怪我を負わせる人間を、nは決して許さない。アキラが止めなければ、最も過酷な方法を持ってなぶり殺しにしてやるところだ。だが今はアキラの怪我を最優先せねば。
駆け寄ってきたnに、大丈夫だとアキラは呟いた。
「それより、早くここを離れないと」
車の大破する音と、銃声。危険を承知で顔を出す人間はいないが、誰かが通報したのは間違いないだろう。できるだけ早くにここを立ち去った方がいい。
nはアキラの腕を首に回すと、彼を担ぐようにしてその場を走り去った。
人に見られぬよう警戒しつつ、最速でアパートに駆け戻ると、nはアキラをベッドに降ろした。
「くそっ…………!」
悪態をついたアキラは、脇腹を押えていた左手を離す。右の脇腹に、血の染みが広がっていた。
アキラの上着を脱がせ、nは傷口を確認した。弾は抜けている。脇腹の本当に端の部分。これなら内臓にも骨にも損傷は無いだろう。
「どうだ? すぐに治りそうか?」
痛みをこらえてアキラが問うが、nは黙って傷口を確認している。銃はリボルバーだった。低速弾だ。ならば傷は洗浄だけで済む。ライフルのような高速弾ならば、傷口を切り開いて周辺組織を切除しなければならない。
弾はきれいに貫通している。だが問題は出血と高熱、そして感染症だ。アキラの意識ははっきりとしているが、これからが重要だ。病院へ運ぶことはできない。銃創を負った患者は、当局へ通報する義務が病院にはあるからだ。
出血が酷くてもここでは輸血は出来ない。その機材も無い。できるだけ早く止血しなければ。必要なものは何だ。消毒液、麻酔液、抗生物質、痛み止め、止血剤、増血剤、そして解熱剤。今すぐ用意できるものは何だ。
ブツブツと呟きながら立ち上がったnを、アキラが不審そうに見上げた。様子がおかしい。普段は腹立たしいほど冷静なnが、完全に動揺している。彼はほとんど瞬きもせず、アキラの知らない国の言葉で何かを呟いていた。
「おい、どうしたんだ、落ち着けよ」
血の付いたnの服の裾をつかんで、アキラは諭すように言った。腹筋に力が加わったせいか、激痛が走る。思わず上半身を折ったアキラを、慌ててnが抱きとめた。
「アキラ!」
抱きとめた身体をnはベッドに横たえる。やはり出血がある。しかし止血剤も増血剤も無い。ならばどうすべきか。頭の中をいくつかの場面が飛び去っていく。戦場、死体、爆撃、白い部屋、暗い資料室、死体、銃弾、血飛沫、死体、死体、死体…………。
違う、アキラは死なない。自分に言い聞かせてnは頭を振った。銃弾は貫通し、決して致命傷ではない。きちんと処置さえすれば、死ぬようなことはありえないのだ。
nは何度も自分に言い聞かせ、アキラに待っているよう言い置いて寝室を出た。
すでに纏め終わった荷物をひっくり返し、nは医療用具を取り出した。解熱剤、抗生物質、痛み止め、包帯、ガーゼ、消毒液はある。麻酔は無い。患部を切り開いて傷口焼勺する必要はあるだろうか。抗生物質も錠剤のものだ。注射器はすでに廃棄してしまっている。痛み止めも市販のもので、どれほど効果があるのかはわからない。それでもやるかしかないのだ。
寝室に戻ったnは、真新しいタオルを広げ、アキラの傷口を水で洗い流した。出血は続いているが、酷いものではない。火薬の飛散による火傷も無く、この程度ならば消毒だけで済むだろうか。
頭がくらくらする。そう自覚しながら、nは処置に取り掛かった。やはりどこか設備のある場所へ連れて行くべきか。いや、いたずらに動かすべきではないだろう。それに、何かあったとき、例えもぐりであっても医者から足がつく可能性は高い。せめてモルヒネがあれば苦痛を取ってやれるのに。だがアキラは大人しくモルヒネを打たせてはくれないだろう。彼は麻薬を嫌悪している。苦痛を取り去るためでも、拒否するのは目に見えていた。
せめて明日の出国を延ばすべきか。しかし先ほどの事故と発砲で警察が動いているなら、強盗グループを叩きのめした人間を探すだろう。やはり口を封じておくべきだったか。いや、それは駄目だ。それこそ足がつく。何よりアキラが許してはくれない。では、できるだけ早くここから姿を消すべきだ。
機械的なスピードで手を動かしながら、nは自分が激しく揺らいでいることを自覚していた。何故これほど不安定になるのかわからない。銃撃戦や、仲間の負傷などこれまで幾度も体験してきた。それが今更これほど動揺するなんて。
アキラが血を流したからだろうか。彼の身体に流れる非Nicoleの血。特別な理由。アキラの負傷が、これほどにnを揺らがせる。
思考の定まらない頭でnは考える。貫通した銃弾にはアキラの血が付着している。回収してくるべきだったろうか。銃弾は警察に証拠品として保管されるだろう。それが誰かの手に渡り、追っ手がかかる可能性はどのくらいだ。アキラのDNAを最も危険な形で残してしまうことになる。今から引き返してでも銃弾を回収し、血痕に何らかの処置をすべきか。いや、それは現実的ではない。それよりもアキラの回復が最優先だ。
「っ…………」
包帯を巻き終わり、nは呻くアキラを抱き起こした。薬を飲ませねばならない。そして経過を見る。もしも出血が止まらず、高熱が出るようなら、夜が明けるのを待って医者へ行く。誰に咎められようが、追っ手がかかろうが知ったことではない。そのせいで離れ離れにされようが、実験施設に送られようが、アキラの生命には代えられない。自由などより、アキラのほうが大切なのだから。この世にアキラ以上に価値のあるものなど存在しないのだから。
汚れた衣服とシーツを取替え、アキラの背を抱くようにしてnはベッドに腰を下ろした。できるだけアキラが楽な姿勢を取らせてやる。背中を預けて横になったアキラの顔は、発熱のためか赤味が差している。体力の消耗が激しく、薬を飲むとすぐに眠ってしまった。呼吸は浅く、速く、このまま目覚めないのではないかと恐ろしい考えが脳裏を過ぎった。
nは汗で額に張り付いたアキラの髪を除けてやる。汗を拭き取ってやるためのタオルを握る手が震えていた。
何故こんなにも自分は動揺しているのだろう。未だかつてこれほど精神が不確かになったことなど一度も無い。アキラを抱く腕に熱を感じても、どこか遠い現実のような浮遊感。カメラのファインダーを通して全てを見ているようで落ち着かない。本当にこれは現実なのか。現実でないはずがないのに、確信が持てない。アキラが本当に生きているのかさえ信じられないのは、何故だ。夢の中にいるようだ。この浮遊感が消え去ったとき、実際にはアキラが死亡していたらと思うと、冷や汗が吹き出てくる。
……死ぬ?
アキラが、死ぬ?
その言葉が浮かんだ瞬間、nの背筋を冷たいものが這い上った。莫迦な、そんなはずが無い。何故アキラが死ななければならないのだ。処置は完璧だった。アキラは若く、抵抗力も体力もある。弾は貫通しており、急所ではない。彼が死亡する確率などほとんどありはしないのに。莫迦莫迦しい、くだらない、意味の無い仮定だ。
nは頭を振って自分の異常な思考を追い出そうと試みた。だが最悪の仮定は消え去るどころか、次から次へと湧き上がっては押し寄せてくる。このままアキラの熱が下がらなかったら。出血が止まらなかったら。感染症を引き起こしていたら。アキラが死んでしまったら。
「………………!」
咽喉の奥が鳴った。叫びだしそうになるのを辛うじて堪える。nは自分の口元を押さえ、吐き気にも似た衝動を押さえ込んだ。
全身の汗腺から冷や汗が噴き出ている。正常な思考を保てない。発汗のせいで体温が下がっている。全身の震えが止まらない。これが、恐怖するということなのだろうか。
nは拳を握って足元から立ち上る恐怖に耐えた。アキラが死んでしまったら、アキラが死んでしまったら、アキラが死んで…………。
苦しそうに浅い息を繰り返すアキラ。閉じられた目が二度と開くことが無かったら、自分はどうなってしまうのだろう。
おこりのように震えながら、nの頭の中のどこか暗く冷静な部分が想像する。アキラが死ぬ。どこか遠いところへ行ってしまう。二度と目を開かず、二度と口をきかず、二度と彼の名を呼んではくれない。唯一の希望が失われる。nの世界は崩壊する。そのとき自分は生きていられるだろうか。わからない。そのときには今度こそ、自分は壊れてしまうだろう。
アキラを呼ぶか細い声が自分のものだと気付くのに、随分と時間がかかった。アキラは死なない。自分を置いていくわけがない。幾度もアキラの名を呼びながら、nは目を瞑る彼の頭を撫でた。
死なないで欲しい。生きていて欲しい。どんな状態になろうと、離れ離れになって二度と会うことが出来なくとも。アキラが生きていてくれさえすれば、nはそれだけで充分だ。彼が死なないためなら、nは何だってする。生命を差し出せばアキラが助かるなら、身代わりになどいくらでもなろう。だからどうか、アキラを奪わないでほしい。
アキラの額に浮かぶ汗を拭き取ろうとタオルを取り上げた手に、雫が滴った。nの顎を伝った雫は、幾筋もの痕を作って手の甲に零れ落ちた。
とめどなく流れ落ちる雫が涙だということにnは気がついた。遠い昔に無くしてしまった感情が、身体の奥底から堰を切って溢れ出す。堪え切れなかった嗚咽が漏れ、nは困って口元を押えた。アキラを起こしてはならない。アキラに気付かれてはならない。
……その夜、nは人を殺すことの罪悪を知った。失ってはならぬものを搾取される怒り、憎しみ、そして悲哀。
nは二度と、自分が人を殺せないであろうことを確信した。
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