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アキラが眼を覚ましたとき、部屋の電気はついたままだった。
うたた寝をしていたベッドから身を起こし、アキラは周囲を見回した。見慣れぬ部屋。だが、見たことのある部屋。
霞みかがった頭を振って睡魔を追いやると、ようやくここがホテルの一室であることを思い出した。ああ、そうだ、ここはもう隣国なのだ。
盛大な欠伸をして立ち上がると、アキラは冷蔵庫からガス入りの水を取り出した。窓辺に立って外を見る。真っ暗な空には星が輝き、広大な針葉樹の森の影が眼下に広がっている。ここはもう、安全な国なのだ。
ふと物音に気付いてアキラは振り返った。どうやらnはバスルームにいるらしい。シャワーでも浴びているのだろうか。もしかしたらアキラが寝ているのを起こさないように、静かにしているのかもしれない。長身を縮めて風呂に入る姿を想像して、アキラは口元を笑ませた。
あの日脇腹を貫通した銃弾の傷痕は、まだ完全には塞がっていない。だがnの適切な処置のおかげで、感染症などを引き起こすことはなかった。熱は出たものの、耐えられぬほどではなかった。出血も心配したほどではなく、翌日二人は予定通りに空港へ向かった。
一体あの夜に何があったのか、アキラが目覚めたとき、nは別人のようになっていた。酷く憔悴していたものの、今まで見たことが無いほど穏やかで満ち足りているようだった。彼は目覚めたアキラを抱き寄せ、よかったとだけ呟いた。
nは変わった。いい意味で彼は変わったとアキラは思う。それまでのnは、努力はしていても、まだどこかこの世の住人ではないような違和感があった。どれほど上手く世界に溶け込んでいても、わずかな差異が感じられる。何処がおかしいのか指摘できないため、傍にいるものが不安になるような、そんな違和感。
けれど今のnは世界と調和しているように見えた。何が彼をそうさせたのかアキラにはわからない。だが、彼はようやく、本来の自分を取り戻せたのだと思う。
ミネラルウォーターの壜を口に運びながら、アキラはnの様子を思い出していた。アキラの手当ても看病も、出国のための最後の準備もたった一人でこなしたn。無事に出国できたあと、アキラが彼に礼を述べると、nはただ柔らかに微笑んだ。
その瞳の奥にたゆたう愛情を見て取ったようで、アキラは恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。nは何も言わなかった。
それからというもの、nの言動には常に無償の愛情を感じるようで、アキラは何だか落ち着かなかった。穏やかに微笑む彼は美しく、とても優しい存在であった。
ふと思い立ってアキラはバスルームへ向かった。
怪我を負ったアキラのためにnが用意した滞在先は、アキラでも名の知っているホテルの一室だった。今までの逃亡生活からは考えられない贅沢な事態にアキラはギョッとしたが、nは怪我を治すことが先決だと述べた。パスポートもカードも全て偽造してある。しばらくはこれで平穏な生活が送れるから、とnは言った。いつもならアキラはそれだけでは納得しない。ましてや自分のためなのだと思えば尚更だ。
しかしアキラは反論しなかった。正確には出来なかった。出国の朝以来、本当に穏やかに微笑むことができるようになったnは、どこか超然としていて、奇妙な説得力を持っていた。彼がそう言うのならば、と思わせるほどに。
部屋を横切ったアキラは、バスルームの扉に手をかけた。鍵はかかっていないようだ。
急に悪戯心を刺激されて、アキラはノックもせずに扉を開いた。
「入るぞ」
洗面所と浴室、それからトイレの個室からなるバスルームでは、予想に反してnは洗面台に向かって立っていた。
「何してるんだ」
珍しく油断していたのか、慌てて振り返ったnは驚いたような、悪戯を見咎められた子供のような表情をしていた。おそらく無意識なのだろう。あの日以来、確かにnは意識せず表情を変えるようになっていた。他人にはわからない程度のかすかな変化だが、アキラにとっては劇的なほどだった。
「何だよ。今、何か隠しただろ」
nがさり気無く身体の向きを変えたので、好奇心に駆られてアキラは彼に詰め寄った。nがこんな風な態度を取るのは初めてのことだ。ここのところnの行動は、常にアキラを驚かせる。そしてその驚きは常に心地よいものだった。
真っ向から迫られて観念したのか、逃げるのを諦めたらしいnの手をアキラは掴んだ。彼が何かを隠し持っていると思ったのだが、それは間違いだった。アキラの掴んだnの手は濡れており、そしてそれは水ではなかった。
「……何やってんだ、アンタ!?」
思わずアキラが声を上げたのも無理は無い。nの手は血にまみれ、その手の甲には目を背けたくなるような傷痕が口を開けていたのだ。
「何を、莫迦な……」
洗面台を汚す血の量に慌てて両手を掴む。案の定、nの両手の甲にはクロスした深い傷ができていた。想像するまでもなく、自分でやったのだろう。
思いがけないnの行動に絶句するアキラ。ここ数日の穏やかさから一転、これは一体どういうことだ。
混乱したアキラが立ち直るより早く、困ったようにnが口を開いた。
「アキラ、いいんだ」
これは決意の証だから、と。
「…………決意?」
見る見る不機嫌になっていくアキラは、低い声で復唱する。彼は怒っているのだろう。nが何も言わなかったことに。それ以上に、nが自分を粗末に扱ったことに。
アキラの優しさが理解できるようになった今、nには彼が自分のために怒ってくれていることが嬉しい。思わず口元が綻ぶのを感じながら、
「二度と、戦闘兵器としての力は使わない、という決意だ」
静かだが揺ぎ無い意志を含んだ声に、アキラが眉を曇らせた。彼はnの手を取ったまま黙って考え込んでしまう。
一分が過ぎ、二分が過ぎ、nは不安になってアキラの顔を覗き込んだ。眉間に皺を寄せた難しい表情のままアキラはnを睨む。けれど怒ることはせず、
「…………わかった。それがアンタの決めたことなら」
仕方が無い、と。
アキラの理解を得られたことでnは心底安堵した。すると急激にアキラを抱きしめたいという衝動に駆られた。
nは衝動に逆らわず、血がつかないように配慮しながらアキラを抱き寄せた。アキラは難しい顔のままnの抱擁を受け入れてくれた。きっと困っているのだろう。そして照れている。そう思うと益々抱きしめたくなる。
今のnにはわかる。この疼くような甘い感覚が、愛情なのだということが。彼はアキラを愛している。できればアキラにも愛してほしいと思う。それが出来れば、この世に恐ろしいものなど何も無くなるだろう。アキラさえいてくれれば、この世は楽園なのだから。
長い抱擁に焦れたのか、アキラが身じろぎしてnの腕を解いた。
「手当てする」
ぶっきらぼうに言って彼はまだ血の滲むnの手を引いた。アキラに握られた左の手は温かかった。それはあの春の日に、初めて手をつないだときと同じように。
nは微笑み、アキラのあとに従った。彼はもう二度と人を殺さない。殺すことが出来ない。その代わり、彼は感情と、何にも代えがたい至高のものを手に入れた。それは彼の弱点にもなりうるだろう。だがnは、その弱点を喜んで受け入れ、二度とアキラの手を放すことは無いだろう。
そして、人形はいなくなった。
〔fin〕
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