■□■ 来週の土曜日 □■□






「……ぁ…………」

 か細く消え入るような声が聞こえたのは、了平がようやく抱擁を解いたときだった。恐らく無意識であろう声は甘く、溜息に混じって了平の耳に届いた。
 息をついた雲雀は悩ましげに眉根を寄せて目を閉じている。ブラインドの隙間から差し込む夏の日差しが、頬の産毛を金色に染めているのを、了平は幸せそうにぼんやりと眺めていた。






「やあ」

 いつぞやと同じように雲雀が自宅の玄関に了平を出迎えたのは、先週よりも更に夏へと季節の深まった土曜日の午後だった。濃紺の麻のシャツを着た雲雀は、了平を一瞥すると廊下を歩き出した。了平がついてくるのを毛ほども疑っていないのだろう。事実了平は無言で靴を脱ぐと、黙って雲雀のあとに付き従った。目立った身長差の無い二人であるから、了平は目の前の艶やかな黒髪が揺れるのをただじっと見つめていた。
 雲雀の髪は漆黒だ。色素の薄い了平の髪とはまるで違い、艶やかに光に濡れている。長めの襟足から覗くうなじは白く、そこへ目をやらないようにするのが了平は精一杯だった。
 この一週間というもの、了平は地獄のような天国の日々だった。寝ても覚めても頭の中は雲雀のことだらけで、ロードワークの途中でも、家族でそうめんを食べていても、頭の中は雲雀一色だった。
 特に夜になって自室で一人になるのが一番危なかった。昼間はまだまっとうな方向の雲雀が頭を占めていたが、さて夜ともなると先週の土曜日の出来事が延々脳内でリピートされ、健全な男子中学生の精神をこの上なく高揚させた。常人とはやや思考方法の異なる了平は、確かにこれは草津の湯でも治せまいと、しみじみ一人で頷いたのだった。
 文字通り夢にまで見た雲雀が今、目の前にいる。ガレージを通り過ぎ、離れの彼の部屋へと案内する雲雀の後姿を眺めながら、湧き起こる興奮と感動に打ち震えていた。
 自分の部屋へと案内した雲雀は、相変わらずマイペースな様子で部屋を横切ってゆく。前回と同じようにブラインドを下ろし、流石に暑いと思ったのかクーラーを入れる。期末試験さえ終われば夏休みという時期である。これから正に暑くなる行為をするのだ、クーラーは必需品だろう。

「……何か飲む?」

 珍しいことに、振り返った雲雀が了平に問いかけた。彼の気遣いらしきものを初めて目の当たりにした了平は面食らったが、それを表に出すのは流石に失礼と気付いたのか、

「いや、いい」

 了平の冷静な返答に興味を失ったのか、そう、とだけ雲雀は呟いた。
 初めて会ったときから気づいてはいたが、雲雀は基本的にほとんどの物事に興味も執着も無いようだった。この世の全てがどうでもいいような、厭世間漂う雰囲気。そんな物憂い様子が了平は嫌いではない。むしろ、気だるげな様子が妙に婀娜っぽく感じられるのは、惚れた弱みだろうか。
 そう、了平は雲雀に惚れている。それはもう確実に。だからこそこの一週間は悶絶の日々だったわけだが、幸いと言うべきなのか雲雀もどうやら了平を好きであるらしく、その辺を確かめるために今日こうしてお招きに馳せ参じたである。
 毎日十キロに及ぶロードワークで鍛えているはずの了平の心臓は、耳から飛び出そうなほどに高鳴っていた。指先までドキドキが止まらない。それなのに了平は普通にバッグを床に置いて、上に着ていたシャツを普通に脱げる自分が不思議でならなかった。
 振り返ったとき、雲雀はベッドの傍に立っていた。無関心、無感動を絵に描いたような雲雀は、相変わらずの潔さでシャツのボタンを外し始めていた。

「む、ヒバリ、待て!」

 力強く呼びかけて近付いてきた了平に雲雀は顔を上げた。硬い指先はすでに第二ボタンを外していたが、了平はその手をぎゅっと握り締めた。

「オレが脱がす」

 断言した了平はそっと雲雀の手をどけると、返事も聞かずにボタンを外し始めた。先週と同じようにバンテージを巻かない手は大きく、節の高い指先は器用だった。
 ボタンを外し終えると、微妙に躊躇った末、了平は麻のシャツを雲雀の肩から滑り落とすようにして脱がせた。服が床に落ちる音は密やかで、それよりも自分の暴いた雲雀の身体に了平は戸惑った。小作りな頭部と、それを支える優雅な首。それらを載せた肢体は無駄の無い筋肉によって支えられ、了平に比べて白さの目立つ肌は目を焼いた。

「…………なに?」

 口を半開きにしたまま見蕩れる了平に、訝しそうに雲雀は問いかけた。服を脱がせたまま何をするでもなく立ち尽くしていたら、それは不審に思うだろう。ようやく我に返った了平は取り繕うように間抜けな愛想笑いを浮かべると、自分のTシャツの裾に手をかけた。

「待った」

 今度の待ったは雲雀から入った。

「僕もやる」

 言って雲雀は了平の手を払いのけ、シャツの裾に手をかけた。

「了平、バンザイ」

 言われるままに了平が両手を上げると、雲雀は一気に服を引き上げた。裏返すようにして脱がされた服は、床の上に放り出される。もうそんなものには興味が無いとでも言うような、無造作な仕草で。
 間近で向き合って、了平は突然躊躇した。お互い上半身裸の状態で、何を躊躇えというのかわからないが、とにかく了平は躊躇した。血圧だけは急上昇しているものの、いきなり触っていいものか。
 先週同じ部屋でAもBも飛び越えていきなりZまで行った人間が何を今更悩むことがあるのか。どうせ雲雀のことであるから気に入らなければ壁際まで吹っ飛ぶような一撃を食らわしてくれるだろうし、了平の服を自ら脱がすと申し出たのだ。合意も合意、完全無欠の合意の上ではないか。そもそもここで止めろといわれて止められるわけがない。
 了平が一瞬のうちに凄まじい葛藤をしているなどつゆ知らず、雲雀は向き合ったまま挑むような視線で彼を見つめていた。ほぼ同じ身長にも関わらず、相手を睨み上げるように見つめるのは彼の癖なのか。ともかく、了平が彼の視線にたじろぐより早く、雲雀は手を上げて了平の首元に触れていた。

「ふうん……」

 雲雀は興味深そうに了平の首を撫でている。彼の掌は冷たく、了平の脈打つ動脈から体温を奪おうとするかのように肌を辿った。
 左右の手を添えて、首を絞めるようにして雲雀は了平の首を引き寄せた。覚悟を決めるというよりも、期待で息を呑んだ了平とくちびるを重ねる。雲雀のくちびるは柔らかく、そしてやや冷たかった。
 ふと了平は気がついた。いくらクーラーが効いているとはいえ、この夏の日に手やくちびるが冷たいのは、そうそうあるようなことではない。ましてや雲雀は男で、闘うことを日課としている人間だ。無駄の無い筋肉の発達した身体は、血流も強く早い。にもかかわらず彼の手やくちびるが冷たいのは、緊張しているからではないだろうか。
 触れては離れてゆくくちびるが温度の低いキスを繰り返すのを、了平は突然愛しく感じた。思えば心なしか吐息が震えているような気もする。いや、そうに違いない。
 何しろ思い込みが激しいことでは並盛町でもトップクラスの了平であるから、沸き起こる感動に一気に燃え上がるのも早かった。

「ヒバリっ!」

 突如叫んだ了平に流石の雲雀も驚いたのか目を丸くしたが、それがまた了平には愛らしく思えてたまらなかった。了平は力強く雲雀を抱き寄せると、勢い込んでくちびるを合わせた。勢い余って歯がぶつかったが、そんなことを気にする了平ではない。まだ経験が浅いながらも、何しろ運動神経の塊のような男であるから、先週のたった一度で驚くほど多くのことを学んでいた。

「んっ…………」

 くちびるを貪りあう中で、雲雀か了平の、あるいは二人の吐息が零れた。くちびるを擦りあわせるようなキスも、喰らいつくようなキスも、まだまだ稚拙ではあったけれど、二人を興奮させるのには充分だった。
 濡れた音を立ててキスを交わしながら、抱き寄せた雲雀の身体はどんどん熱くなっていった。同じように了平の体温も欲情に比例して上がってゆく。雲雀は頬を上気させ、了平の頬にも薄い汗が浮かんだ。雲雀は彼の首に腕を回し、放すまいとするかのようにキスを続けた。自分のものよりも肉感の厚い了平のくちびるを割り、薄い舌を忍び込ませる。さすがにまだ大胆になりきれない舌の動きに、了平は更に欲情を煽られた。
 忍び込んできた薄い舌を絡め取り、了平は強く吸い上げた。雲雀は心地よさそうに目を細め、尚のこと了平にしがみついた。雲雀の腕はいつの間にか了平の背中に回り、指先はもうかつての冷たさを失っていた。

「ヒバリ…………」

 キスの合間に囁きかけると、雲雀はくすぐったいような表情で目を眇めた。くちびるはキスに濡れ、心なしか目も潤んでいる。荒い息を抑えようと浅い息をつきながら、了平の肩に頭を預ける様は無防備で、彼の信頼や未だ確証の薄い愛情を見たように了平は思う。それが嬉しくて更に了平は彼の名を呼びかけ、くちびるを近づけた。雲雀は抗わず、顔を上げて目を伏せる。目を閉じた彼の顔立ちの秀麗さを知るのが自分だけかと思うと、了平は自然と表情が緩むのを止められなかった。
 飽きもせずキスを繰り返しながら了平は雲雀の耳朶を弄んだ。長めの髪に隠れた耳や、その後ろを悪戯に指で辿り、微かな反応を楽しむ。雲雀はため息をつき、より一層了平に身を寄せた。その細い身体を強く抱き寄せ、さりげなく腰を押し付けた。布越しにもわかるお互いの昂ぶりに、雲雀はわずかにだけ反応を示したように思う。けれど息を呑むでも身を竦めるでもなく、雲雀はいつもの射るような視線を了平に向けた。
 今度は了平が驚く番だった。今まで了平の背を抱いていた手が肌をなぞりながら腰を撫でた。指先は筋肉の陰影を辿り、了平の下腹部をまさぐった。デニムの上から悪戯を仕掛けるように形を辿り、焦らすようにベルトを寛げる。慌てた了平がとっさに雲雀を見ると、彼は優位者の笑みを浮かべて了平を見つめていた。

「くそっ」

 品の無い呟きを漏らして、了平も負けじと雲雀の下腹部に触れた。同じように形をあらわにした敏感な部分は、了平の掌に包み込まれる。布越しにも高い温度の伝わる部分を、性急に了平は求めた。

「くっ…………」

 色気の無い呻き声を漏らしたのがどちらだったのか、それは二人にも分からなかった。夢中でベルトを寛げ、先を争うように手を忍び込ませる。引っ張り出されたお互いのものはすでに硬く熱く、予想以上に官能を掻きたてた。
 よろめくようにベッドに腰を下ろし、二人はキスを交わした。相変わらず余裕の笑みを浮かべる雲雀と、それに欲情を煽られる了平と。並んで腰を下ろした二人の距離は限りなくゼロに近く、夢中でお互いを高めあった。
 了平の手の中にある雲雀自身は、彼の愛撫にまざまざと質量を増していった。了平の指先は濡れ、隠微な水音が聞こえるようだ。けれど雲雀の指も同じように濡れて、確かめるまでもなく了平自身もまた淫らに膨れあがっていた。
 夢中でキスを交わし、舌を絡め、腰を抱き寄せて二人はお互いを高めあう。吐息は交じり合って頬を濡らし、悪戯な指はぬめりを帯びてせわしなく動く。くびれをなぞり、先端を擦り、益々膨れ上がる欲望を、更に加速させるために。
 体中が満たされて、満たされすぎてはち切れて、先に達したのがどちらかそれは判じ難かった。達する瞬間の緊張に思わずくちびるを離し、苦痛に似た快楽に耐えた二人は、満たされたものが吐き出されると、脱力してお互いに寄りかかった。了平は雲雀を腕に抱き、雲雀は了平を腕に抱いている。身体の隅々まで温かな波に満たされて、二人は深い深いため息をついた。







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