D−6
「何だ、ここにいたのか」
そう言って部屋に入ってきたのはシリウスだった。
リーマスは読みさしの本から目を上げて逆光に陰るシリウスを見る。本に夢中になっている間にすっかり暗くなってしまったようだ。
シリウスは後ろ手にドアを閉じてやってくると、有無を言わせずリーマスの隣に陣取った。この部屋は随分昔に彼等が見つけた隠れ家の一つで、合言葉を唱えないと入れないようになっている。元は何かの教科の教授用の事務室だったらしく、結構な広さがあり、塔の高い位置にあるためほとんど人が来ることがないのが彼等のお気に入りだった。その場所を内緒で掃除し、使われていないソファなどの家具を運び込んで使用していた。幾つもある四人の隠れ家の中で、約束された静寂ゆえリーマスが最も気に入っている場所でもある。
彼は今日、読みかけの推理小説がクライマックスであるため、誰にも邪魔されないようにこの部屋に篭って本を読み耽っていたのだ。すっかり騙されてしまったが、快い読後感に、気になる部分の読み直しをしていたら、シリウスに見つかってしまったのである。
「もう夕食かい?」
ずっと同じ体勢で本を読んでいたため、すっかり凝ってしまった肩をほぐしながらリーマスは問い掛けた。見れば外はすっかり暗い。無数にあるうちの、数本だけ灯していたキャンドルも残り少ない。そろそろ食事の時間だ。
疲れた、と呟いて傍にあったクッションをぎゅっと抱き締めたリーマスを、何故かシリウスは口許に薄い微笑を浮かべて見守っている。その割に口を開くことは無く、リーマスは首を傾げた。
「何、どうかしたのか?」
普段は煩いくらいなシリウスの沈黙に薄気味悪そうにリーマスは問う。だが先方は相変わらず微笑を絶やさぬまま、
「別に」
立ち上がったシリウスは背後の棚に置かれたグラスに入った無数のキャンドルに火を灯し始めた。てっきり夕食に呼びに来たのだと思ったリーマスは首を傾げて彼を振り返った。相変わらず薄ら笑いを浮かべたままのシリウスの表情からは何も読み取ることは出来ない。どちらかというとリーマスのものである人を小莫迦にしたような微笑に、眉を顰めずにはいられなかった。
「……いいよ、もう行くから」
尚もキャンドルに火を灯しつづけるシリウスに、硬い声でリーマスは言った。肩越しに振り返ったシリウスは一瞬だけリーマスに灰色の視線を投げかけたが、ほとんど無視するように再びキャンドルに向き直ってしまった。それに違和感を覚え、リーマスはくちびるを引き結んだ。
シリウスの様子は何だかおかしい。いつもよりずっと口数が少ないし、何よりやたらにリーマスを挑発している。彼は何か言いたいことがあるのだろうか。その割には悠長な手つきで、振り返る気配も無い。それともリーマスが何か彼を不機嫌にさせるようなことをしたのだろうか。
考えてはみるが、思い当たる節は無い。あえて言うとすれば、今日半日ほどここに閉じ篭って姿をくらましていたことだろうか。しかしそんなことは良くあることで、むしろシリウスの姿が見当たらない方がよほど多い。その証拠に、ここのところシリウスとジェームズが二人してどこかへ消え失せることが多かった。むしろ文句を言うとしたら、仲間外れにされたリーマスかピーターの方だろう。
一体何なんだと警戒するリーマスの隣へ、再びシリウスが腰を下ろす。部屋中のキャンドルや燭台に火を灯したおかげで、室内は幻想的な明るさに満ちている。
「……夕食だろ、行こう」
テーブルに置いてあった本を取り上げて忙しなく立ち上がりかけたリーマスの腕をシリウスが掴む。
「待てよ。まだいいだろ」
その手の力強さに思わずリーマスは再びソファに腰を下ろすが、シリウスは腕を放してはくれない。
「……痛いんだけど?」
あからさまに眉を顰めて低く訴えても、へえ、そう、と呟いたきりシリウスは相手にしない。普段は活力に飛んだ灰色の眸も、キャンドルの揺れる炎のせいか、酷薄な印象を受ける。その目を正面から睨み返しながら、リーマスは強く掴まれているせいで痛む腕を無理に引き剥がした。
シリウスは咽喉の奥でくつくつ笑って愉快そうにリーマスを見下ろした。痺れかけた腕はひょっとしたら痣になっているかもしれない。だがそれを確かめようとはせず、リーマスは目線でシリウスとの間合いを計った。
二人の距離は間にひと一人を挟んだ程度のものだ。出口はシリウスの背後に一つだけ。窓はリーマスの後ろにあるが、箒も無しに飛び出して無事でいられる高さではない。第一リーマスは俊敏ではあるが、それはあくまで一般に対してであって、相手がシリウスではどんなに早く動いたところで、窓に達する前に捕まってしまうだろう。杖は向かいのソファに放り出したローブの内ポケットの中だ。読書には不必要だと手の届かない範囲に杖を置いてしまった自分を、リーマスは内心で舌打ちする気分である。
相変わらずニヤニヤと不愉快な微笑を浮かべるシリウスから目を離さず、リーマスは行動を決めた。何かあったら、まず傍らにある本を投げつける。シリウスがそれを払っている間にソファを飛び越えて棚に置かれたキャンドルを投げつけるか、できればドアへ駆け寄って全速力で逃げるべきだ。今日のシリウスは明らかにどこかがおかしい。或いは彼はシリウスではないのかもしれない。この世界には別人に成りすます方法が幾つか存在するのだから。
リーマスの緊張した面持ちに彼の内心を読み取ったのか、シリウスは苦笑してひらひらと手を振った。
「そんなに警戒するなよ。猫じゃあるまいし」
「……あいにく、ぼくは狼なんでね」
「ああ、そう言えばそうだった」
忘れてたよ、とシリウスは笑った。闊達さを欠く、どこか嗜虐的な笑顔。キャンドルの火影に揺れる微笑は彼の完璧な美貌に華を添える。ましてや真っ直ぐリーマスを見つめる目だけは全く笑っておらず、それがよけいに彫刻的な彼の顔立ちを引き立てた。
その微笑はひどく魅力的ではあったが、リーマスは余計に警戒心を募らせた。やはりおかしい。だが、シリウスではないとしたら、ここに入る暗号を知っているはずは無い。もちろん誰かが漏れ聞く可能性も完全には否定しえないが。
逡巡するリーマスの隙をついて、いきなりシリウスが手を掴んだ。ギョッとしたリーマスが本を振り上げる前に、シリウスは強引に彼を引き寄せた。
「んっ……!」
無理矢理に口付けられてリーマスはシリウスを突き飛ばす。刺すように睨みつけながら口許を拭うと、シリウスは傷つけられたように肩を竦めた。
「酷いな、いつもしてることだろうが」
「………………」
リーマスは答えない。しかしそれに気分を害した様子も無く、シリウスはひょいと本を持ち上げた。それは今までリーマスが持っていたもので、今の行動は彼から本を奪うためのものだったのだ。しまった、と内心舌打ちをするリーマスの目の前で、シリウスは本を開く。パラパラと本を眺めながら、
「ったく、こんなのの方が俺よりいいのかよ」
憮然として呟いた様子は普段のシリウスによく似ていると思う。それより退路を生み出す方法を一つ奪われた以上、何か代案を考えねばならない。するとシリウスは本を後ろへ放り、リーマスににじり寄った。ぎょっとして思わず身を引いたリーマスであったが、ソファの肘掛が邪魔になってそれ以上後ろへはさがれない。脛でも蹴るか、腕に噛み付くか。そんなことを考えるリーマスに顔を寄せ、シリウスは低く囁いた。
「なぁ、昨日続きをしようぜ……?」
見上げるとシリウスは尚も不敵に笑っている。なるほど、どうやら本人であるらしい。それは昨日、校庭の湖のほとりで本を読んでいたら、ひょっこりやってきたシリウスにリーマスはベタベタとくっつかれた。本に夢中になっていたリーマスは鬱陶しい誘いを断り、尚且つシリウスの額を本の角でぶん殴って辞退したのである。その事情を知っているのは二人だけであるし、シリウスが自分の情けない状況を誰かに話すとも思えない。先ほどのキスの感覚も他人とは思えなかった。ならばこれは昨日の腹いせなのだろうか?
「嫌だね。もう少し時と場所を考えたらどうだい?」
「考えてるだろうが。二人きりの部屋、充分な広さのソファ、誰も来ない高い塔」
これ以上の場所など考えられない、と。
少なくともシリウスであるらしいことが確認できたのでリーマスの警戒心は緩む。妙に強引な物言いといい、酒でも飲んでいるのだろうか。いや、しかしシリウスは酔うとどちらかと言うと躁鬱の傾向が強くなり、最終的にはウェットになるタイプだ。こんなシリウスは見たことが無い。
そう思うと段々リーマスは今のシリウスに対して興味が湧いてきた。少し気崩した制服も、いつもと同じはずなのに今日はやけに頽廃的に見える。それでも素直に従ってやるのは面白くなくて、リーマスは立ち上がった。
「帰る」
言い置いて立ち去ろうとするリーマスを、シリウスは無理に引き寄せる。
「行くな。ここにいろ」
腕の中に抱き込まれて、リーマスは俯いてくちびるを噛んだ。やはり腕力ではどうしても敵わない。今こうして自分を強引に拘束している腕が羨ましいと思ったことは再三だ。
「……随分と強引じゃないか」
不貞腐れたようなリーマスをズルズルとソファの背に押し付けながら、シリウスはまあねと笑った。理想的な歯並びが魅力的な笑顔をより一層美しく見せる。
「そうでもしなきゃ、逃げるだろ」
シリウスはくすくすと笑いながらリーマスの首筋に顔を埋めた。節高で器用な指がタイを緩め、シャツのボタンを外す音がする。リーマスは眉を顰めたまま憮然として天井を見上げた。このまま流されるのはいささか面白くない。いっそ油断したところを股間を蹴り上げて、逃げ出してやろうか。
「おい、そんな顔するなよ」
直にリーマスの肌に触れながらシリウスは苦笑する。睨み付けると短く口笛を吹いて、
「よせって。余計にそそられるじゃないか」
「……莫迦だとは知っていたけど、これほどとは恐れ入ったよ」
呆れて身体を起こしたリーマスをやはり咽喉の奥で笑いながら、シリウスは抱き締めた。
「心外だな。お前は知ってると思ってたのに」
のろけというより人を食った言い方にリーマスは莫迦莫迦しくなって抵抗する気力も失せてしまった。すっかり忘れていたが、昨日額を叩き割る勢いで拒んだのも確かにやり過ぎたと思わないでもないし、今日のやけに強引なシリウスを振り切る自信も無い。どうやらリーマスに危害を加えるような意図は無いようなので、放っておいてもいいだろうか。
面倒くさい思いと意地が交錯して逡巡するリーマスをよそに、シリウスは相変わらず嫌に強気な様子で彼を抱き寄せる。耳の外側をくちびるで食みながら、時折舌を出しては軟骨をなぞる。乾いた指先に素肌を辿られて、段々リーマスは自分の身体の力が抜けてゆくのを感じた。それに何より、名を呼ばれて顔を上げたとき、重ねられたくちびるがもどかしいほど優しかったので。
「……まぁ、いいか…………」
呟いた声は小さく、リーマス自身にさえ微かにしか聞こえなかった。
「リーマス…………リーマス……」
甘く囁かれる声にリーマスは悩ましげに眉根を寄せた。飽きもせず交わされるキスにすっかり思考は途切れて、リーマスは力の入らない腕でシリウスにすがっている。擦り付けるようにくちびるを合わせ、シリウスは笑みを刻んでリーマスの胸を撫でる。薄い胸郭から心音が伝わってくる。いつもより早い鼓動。それが興奮と欲情を示すようで、シリウスは楽しそうに笑う。
硬質の少しザラザラした指先が皮膚の上を辿る感覚がリーマスの思考を乱す。ただでさえ繰り返される巧みな口付けに冷静さを保つことはすでに不可能となっていた。腰に回された腕が時折強く抱き寄せるのにも一々反応してしまう自分が口惜しくもあり、おかしくもある。
先ほどからシリウスは飽きもせず優雅で節高な指をリーマスの胸の上で上下し、いつになく丹念にキスを繰り返す。もしかしたら今の彼にとって一番興味があるのは、リーマスを抱くことではなくキスを繰り返すことなのかもしれないと思えるほど、それは濃厚で柔らかく、そして情熱的だった。
駄目だ、とリーマスが頭の隅で考えたのは、一体何に対してだったのか、自分でももうわからなかった。ただ理性ではなくほとんどプライドの方がその考えを生み出したことは確かであるが、どの道もうリーマスにはまともにものを考える力は残っていなかった。
リーマスは腰に回されたシリウスの腕が引き寄せずとも自ら身体を押し付けるようにして彼に寄りかかっていた。いつの間にか無意識にシリウスの首に両腕を回し、身体を返すと彼の片足を跨ぐように座る。どころか、未だに官能を呼び起こさせようとでもするような指がただ肌の上を滑っていくのに焦れたように、シリウスの太腿にいつしか自身を押し付けはじめていたのだった。
それはもちろん無意識の行動であったろう。でなくば彼がそんなはしたない行為をするわけがない。目を閉じてシリウスの舌を乳飲み子のように夢中に吸いながら、繰り返しゆっくりと身体を動かすリーマスにシリウスは満足げな微笑を閃かせる。普段は傍で見ている方がよほど頭に来るほど冷静な彼が、こんな風に我を忘れて自分を求める様は淫猥であまりにも美しい。興奮に頬を染め、涙に濡れ始めた眸は陶酔の表情を浮かべている。彼にこんな表情を強いているのが自分なのだと思うと、何て楽しいのだろうか。
「……ぁ…………」
かろうじて音になった甘い声を残して、リーマスはため息をついた。シリウスがゆっくりと離した二人のくちびるのあいだに、細く唾液が糸を引いた。どちらのものかも最早定かではないそれは、二人の距離が開くにつれて更に細くなり、滴って消えた。
リーマスは力の入らない身体をシリウスに預け、浅い息を繰り返す。シリウスの顎の下にある鳶色の髪からは、甘いリーマスの体臭が香り、シリウスは彼の髪に鼻先を埋めるようにして何度も口付けた。
口付けにすっかり酔ったリーマスは夢見心地で目を閉じたまま、シリウスの胸に頬を寄せている。いつの間にか背中に回された腕が服の下に潜り込み、今度は背中を指先が上下する。極端に肉の薄い背中に浮いた背骨を数えるようにゆっくりと、柔らかく触れる指がリーマスの内側を焦がす。もっといつものように触れて欲しいと思うのに、それらは叶わない。
こんな風にねっとりとしてそのくせ身の内に欲情を掻きたてるような行為を、リーマスは知らなかった。スポーツのようなセックス。快感を得られる運動に過ぎないそれ。リーマスにとってセックスはそういうものだった。それは多分、シリウスが努めてそうしていたのだろうが。
リーマスは顔を上げてシリウスを見つめる。背後のキャンドルの明りに浮かび上がる美貌。不服そうに見上げると、彼は穏やかに微笑した。影の射した灰色の眸に勝者の優越感を湛え、くちびるだけで艶然と微笑む様に、リーマスは我知らず頬を染めた。今までもシリウスは端整な貌をしていると思っていたが、これほど彼が美しいと思えたことは無い。
シリウスは慈悲深い微笑を刻んだままリーマスの頭部を抱きこんで優しく髪を梳く。その優しい手つきにリーマスは戸惑う。今すぐ強引にでも抱いて欲しい気持ちと、このまま眠ってしまいたい気持ちが半々だ。
だが葛藤は長くは続かなかった。シリウスが満足げにため息をつき、リーマスを呼んだのだ。
少し掠れた甘い声音にリーマスは顔を上げて蕩けた眸をシリウスに向ける。彼は相変わらず慈悲深い笑みを浮かべたまま、リーマスに囁いた。
「……自分でしてみろよ…………」
くすくすと笑う吐息が耳朶をくすぐり、リーマスは眉を顰めた。思わずぎゅっとシリウスの服を掴むが、彼に拒否権は無い。ただ言葉の意味を理解するのに時間がかかっただけで、リーマスはゆっくりと身体を起こしてシリウスの隣に座りなおしたのだった。
リーマスは子供のような手つきで服を脱ぎ始める。ズボンと下着をもどかしそうに脱ぎ捨て、ちいさくため息をついた。幼児のようなその様子がおかしいのか、シリウスが肩に腕を回して抱き寄せながら再びくすくすと笑った。咽喉の奥で篭らせたような声に、リーマスは不思議そうに顔を上げたが、口に出しては何も言わずに細すぎる脚をそっと開いた。
指先が自らを絡め取り、緩やかに動き出す。ほとんど他人事のようにそれを見下ろしながら、リーマスは自分を抱き寄せる逞しい胸に頭を預けた。布越しにシリウスの体温が感じられ、リーマスは自分が興奮してゆくことを悟った。その度合いが増すほどに指先に体液が零れ落ち、悦楽が増してゆく。ぎこちない動作のそれを目を細めて見やりながら、ときどき頭上でシリウスが笑った。
吐息の合間に小さな声を漏らすリーマスの肩を抱き寄せ、その手元を眺めるシリウスは面白がって彼を煽った。緩慢な動作を見れば、彼がその行為に慣れていないことなどすぐにわかる。キスもセックスも、全部シリウスが教えたことだ。それまでリーマスは自己の肉体にさして興味など無かっただろう。どころか、むしろ忌避してさえもいたのではないか。
それはそうだろう、ただでさえ忌み嫌われる人狼が、自分の中に巣食っているのだ。月にたった一度とは言え、おぞましい怪物に変貌する自分の身体を好きになれるわけが無い。それでもこうして肩を抱き、胸に抱きこみ、髪に口付ければ、彼はシリウスの望む反応を示してくれる。自分一人のためだけに開かれた身体。文字通りシリウスしか知らない身体。そう思えば、これほど愛しいものは無いのに。
「どうした? いつも自分でやってるみたいにしろよ」
頭上から投げかけられる意地の悪い声に、リーマスは不服そうに頬を膨らませた。『いつも自分で』などしていないことは、当然わかっていての発言だ。リーマスは本来性欲とかそういったものと縁遠い人格の持ち主だ。食欲にしても何にしても、とにかく欲望が薄い。だが今の姿でそう反論したところで、ニヤニヤと笑われるのが落ちだろう。
ぬるぬると滑る指が先端の敏感に膨らんだ部分を引っ掛けると、甘い痺れが背筋を駆け上る。段々と自慰に熱中し始めたリーマスを優しげだがどこか水を含んだ声でシリウスが呼んだ。リーマスはほとんど本能的に彼を振り仰いだ。
シリウスはゆったりとリーマスを見つめ、腰に腕を回す。火のついたように熱い掌に脇腹を撫でられて、リーマスは息を飲んだ。その彼のくちびるを再びシリウスが覆う。小さな頤に手を添えて、焦らすような浅いキス。待ちきれないリーマスは目を瞑って無体な舌を追い求めるが、ふっと笑ったシリウスは、
「おいおい、手が疎かになってるぞ」
駄目だろうが、と額にキスをされて、リーマスは再び頬を膨らませた。が、もう不服を漏らすのも面倒なのか、何も言わずに再び指を動かしながら、催促するように目を閉じたままの白面をシリウスに向けた。そんな子供っぽい所作に苦笑を漏らし、シリウスは要求どおり口付けてやる。よく動く甘い舌が求めるままに、お互いの口腔をゆるゆると行き来する。度重なるキスに痺れ始めたくちびるが濡れて、揺らめくキャンドルの明りに妖しく光った。
魂を愛撫されるような快楽の末、リーマスは音の無い声を漏らして身体を震わせた。背筋がビクビクと震え、シリウスが顔を離す。眉根を寄せて絶頂を迎えたリーマスの表情が緩やかに変化してゆく様は何ものにも変え難い妖艶なる美しさで、シリウスは再び口許に笑みを刻む。苦痛にも似た快楽を享受し、それらが全身に拡散してゆくほど切なげになるリーマスの表情。その表情だけで童貞ならば充分達することができるだろう。キスに濡れたくちびるを切なげにわななかせ、ぐったりとシリウスの肩に頭を預けながら、リーマスは甘いため息をついた。
そんな彼を労わるように抱き寄せながら、シリウスは相変わらず完璧な微笑を浮かべている。リーマスの肩を優しく撫で擦る様子は彼を慰撫しているようであり、自分の言いつけを守ったことを誉めているようでもある。
逞しい肩に凭れかかって息を整えていたリーマスには、果たして自慰によって達したのか、それともシリウスのキスに達したのか、自分でも判然としなかった。だが今はそれもこれももうどうでもいい。腰に集まっていた熱い血液が冷め、弛緩してゆく身体を抱きとめてくれるのが何故か涙が出そうなほど嬉しい。それは多分いつものことなのだけれど、恒常的な行為ではないのだから。
すんと鼻を鳴らして目を開けたリーマスは、蕩けた眸でシリウスを見上げた。満足そうに微笑んだシリウスは優しく額に口付けてくれ、熱の篭った低く掠れた声でからかうように、
「いい子だ……」
耳元で囁いたくちびるは悪戯っぽく耳朶に舌を触れさせる。シリウスのせいですっかり敏感になったリーマスは、身を竦めて耳朶から全身に拡散してゆく甘い毒のような波に耐えた。
「あ…………」
ふとリーマスが声を漏らしたのは、自分の手指に絡みついた淫らな液体に気付いたからだ。腹部を汚し、露わな太腿を汚すそれに、困ったようにリーマスは眉尻を下げた。大事な服を汚して親に叱られることを恐れる子供のような様子が可愛らしくて、シリウスは笑った。高慢な友人を見上げてリーマスは不服そうにくちびるを尖らせたが、それすらも今のシリウスには自分を誘う媚態にしか見えない。
「貸せよ」
有無を言わさぬ口調だが柔らかさを失わない声に促され、リーマスは自分の手首をシリウスが掴む様をほとんど他人事のように見つめていた。
シリウスは病的に細いリーマスの手首を引き寄せると、精に濡れた指先を口に含んだ。予想外の行動だったのか、リーマスが一瞬ビクリと肩を揺らしたが、彼がそれを拒むわけが無いことをシリウスは充分承知している。その証拠に自分の指を舐め上げるねっとりとした熱い舌の感触に、彼は再び頬を上気させた。
リーマスは眩暈を覚えるほどの興奮の中で、恭しく自分の手指を舐め清めるシリウスを陶然と見つめていた。器用で淫猥な舌が指先を辿るたび、かつて彼がしてくれた奉仕を身体が思い出してゆく。充分な弾力と厚みをもったそれは、何度リーマスを掻き乱したことか。理想的な曲線を描くくちびるから覗く赤い舌。ぺちゃりと微かに聞こえる濡れ音に、リーマスはくらくらとソファの背凭れに寄りかかった。
左右の手を丹念に清めてくれるシリウスの舌が次に訪なうのは、どの部分なのだろうか。手首に歯を立てられて思わず甘い声を漏らしながら、リーマスは自分の身体を思い描く。腕だろうか、肩だろうか。それとも腹部か太腿?
いいや、とリーマスは無意識にくちびるを噛んだ。できるならばもっと別の場所がいい。リーマスはもっとずっと、彼に口付けて欲しかった。
「シリウス…………」
僅かな苛立ちと多量の願望を含んだ声に呼ばれて、シリウスは顔を上げる。乱れた髪を撫で付けるその仕草の一つ一つに自分が欲情していることを悟って、リーマスは無意識に脚をきつく閉じながら、優しげな微笑を湛える暴君を睨みつけた。美神の恩超を誰もが嫉妬するほど豊潤に受けた彼は、リーマスの眸に浮かんだ欲望を正確に読み取った。可愛らしく拗ねるようなくちびるが先ほどからシリウスを待っている。
「来いよ」
呼びかけと言うより命令に近い言葉と声音にリーマスは抱き寄せられ、希望どおり口付けられた。だがそれは今までとは打って変わって激しく噛み付くようで、リーマスは思わず息を止める。若い牡の凶暴さで口腔を蹂躙され、その乱暴さにリーマスは驚いて逃げを打つが、強靭な腕がそれを許してくれるはずも無い。
気付いたときには背中にソファの弾力を感じており、粗暴なまでの荒々しさで脚を掴まれ、食い込む指にリーマスは悲鳴を上げた。
「シリウス、待って……!」
口をついて出た懇願には何か考えがあったわけではない。ただ時間を稼ごうと無意識に口走っただけだ。慌てる腕はソファの背と空を掴み、膝の裏を掴まれて無理矢理身体を丸めさせられ、リーマスはくぐもった声を吐き出した。
強制された淫らな体勢に屈辱と何より羞恥がリーマスの目を濡らした。不安定な体勢では暴れるわけにもいかず、悲鳴を上げるには胸部の圧迫が強い。何より苦痛や怒りに声を荒げることができないリーマスは、いつも通りくちびるを噛むことしか出来なかった。
リーマスが抵抗できないのをいいことに、無理に開かれた脚の間にはシリウスが頭を垂れている。今まであれほど優しく手指を舐め清めていてくれた舌が、久々の行為に硬く窄まった個所を押し開いてゆく。胸のあたりでは突然の暴力的な行為に不満と恐怖を感じているのに、段々と与えられる刺激に解けてゆく自分の身体がリーマスは恨めしかった。慣れた身体はシリウスの都合のいいようになってしまった。もうこの身体はリーマスのものではないのかもしれない。
自己の同一性を懐疑するようなその思考に戦慄を覚える一方で、強要される快楽に愉悦を覚えている自分をリーマスは否定できない。屈辱的な体位を求められ、感情も自尊心も否定されて、それほどまでに求められることに一種の優越感を覚えてしまう。何も考えず、何も恐れず、ただシリウスの言いなりになっていさえすればいい。有能で慈悲深く魅力的な主人に所有される奴隷の、何たる幸福なことよ。
それらはリーマスのみか独立不羈のシリウスすらをも卑下することになる危険な思想であったが、このときリーマスは押し流されてゆく思考の中で、僅かではあれど確かにそれを願っている自分を感じていた。
「い、嫌だ、シリウス……やめて、嫌……」
ほとんど無意識に言葉を紡ぐリーマスを見下ろしてシリウスは勝ち誇ったように微笑む。残念ながら目を瞑ってしまっているリーマスはその表情を伺うことは出来なかったが、興奮に濡れた彼の微笑は必ずリーマスの言葉を奪ったことだろう。
すでに指を数本咥え込むほどになったリーマスのその部分は、自身が再び零した精に濡れていやらしい音を立てた。
リーマスは尚も懇願を続けていたが、それが自分に加えられる無体な行動を止めさせようとして零れた言葉ではないことをシリウスは知っている。その証拠にリーマスは一度も抵抗を見せないし、シリウスが刺激を与えるたびに甘い声を発する。本当にそれらを拒否したい場合、声を出すなどということは有り得ない。何か催淫剤でも使わない限り、恐怖の本能は身体を閉じさせる。人間の身体は他人勝手に弄べるほど簡単には出来ていない。
声を出すのは自分を昂ぶらせている証拠であるし、シリウスを呼ぶ声には鼻にかかったような陶酔と甘えの響きがある。彼はシリウスに犯される夢に酔っているだけだ。
ニヤリと人の悪い笑みを口許に閃かせたシリウスは、身体を起こしてリーマスの頬に触れる。脚を解放されたリーマスは大きく息をついてぐったりとソファに横になった。
「リーマス、ほら、こっち向けよ」
場違いなほど明るい声に促されて、リーマスは目を開ける。興奮に赤らんだ目元がしっとりと濡れ、剣呑であるのに男を誘う目つきがシリウスをそそってたまらなかった。
「あっ…………」
体内から引き抜かれた指がつぷりと音を立てたのは錯覚であろうが、急速に快楽の波の引いたリーマスは恨めしげにシリウスを睨んだ。無理矢理あんなことをしておいて、絶頂も迎えさせてくれない酷い男。殴りつけてやりたいが、手足にはまだ悦楽が残っていて、動かしてしまうのは勿体無い。
くすぐるようにリーマスの頬のラインを撫でていた指が、くちびるを辿る。シリウスとは違って感情をほとんど表さない、意思の強そうな薄いくちびる。それは今、ツンと尖ってシリウスにキスをねだっていた。もちろんリーマスは口が裂けてもそんなことは言わないだろうが、それらを悟ってやるのが大事なことなのだ。
「リーマス」
鷹揚に名を呼びながらキスを与えると、案の定リーマスは悦んでそれを迎え入れた。繰り返せば気だるげに放り出されていた手足も甦ってシリウスの身体に巻きつく始末。現金なものだ。
幼いころから極端に他人とのスキンシップを取ったことの無いリーマスは、キスをするのが好きだ。まさか普段からご機嫌取りに使えるほど彼は甘くは無いが、抱き合う際は何より有効な手段となる。
シリウスは再び自分を受け入れてくれるくちびるに惜しみなく愛情を注ぎながら、背中に回した腕でリーマスを抱き起こした。
リーマスがキスに酔うのは、多分シリウスが本当に慈しんでそうしてくれるからなのだろう。お粗末なかたちだけの口付けならば、リーマスは誤魔化されたりはしない。彼等はお互いに何も口にはしないけれど、こうしているときリーマスは確かに愛情を感じる。ただそれは、単なるリーマスの希望的観測に過ぎないのかもしれないのだけれど。
「ほら、リーマス、後ろ向けよ」
いい子だから、と優しく頭を撫でられて、リーマスは渋々背中を向けた。ぺたりとソファに座ったリーマスはぼんやりと壁に映る幾分薄くなったキャンドルの柔らかな明りを見つめているようだ。
無防備に落ちた肩に口付け、腰から腕を前に回す。リーマスは振り返りもせずに体重を素直にシリウスに預け、目を閉じた。
「………………」
シリウスの悪戯な指先が与える快楽に、リーマスは何度も口を開閉させては聞こえぬ言葉を紡いだ。背後から抱き込むようにしてリーマス自身を愛撫するシリウスは、絶えず何事かを仄かに赤く染まった耳に囁きかけている。それらは他愛無い言葉であったり、愛情深い呼びかけであったり、卑猥な揶揄であったり。その度にリーマスは口を開くのだが、結局は何も言わずにシリウスの愛撫を受け続けている。彼はもう恐怖も怒りも羞恥も感じることは無く、腕に絡まるようにしてずり下がった服が、ただ邪魔だとしか思わなかった。
「え……シリウス、待って…………!」
慌てたようにリーマスが言ったときにはもう遅く、いつの間にか前傾姿勢になって手を付いていた彼の体内に、シリウスは侵入を始めていた。
思いがけず早急に灼熱した楔をねじ込まれて、リーマスは咽喉を鳴らした。腰をしっかりと支える腕の感触が生々しく、自分が背後から抱かれていることにリーマスは戸惑う。それどころか、シリウスは服さえ脱いではいないのだ。
自分だけ中途半端に乱れた様子を思い描いて、リーマスは恥かしそうに俯いてクッションを握り締めた。どうしたことだろう、何故か突然恥かしくなってきた。動物のように手足をついて、背後から抱かれる自分。どうしよう、どうしたらいいのだろう。
リーマスの動揺を敏感に感じ取ったのか、シリウスは背後からきゅうっと彼を抱き締めた。何を考えついたのかはわからないが、リーマスが突然不安に苛まれたことはわかる。罪の無いクッションを握り締めた彼に、諭すように優しい声をかけて、リラックスさせてやるのは当然のことだろう。
「リーマス、ほら、大丈夫だから……」
でも、と呟いておろおろとあちこちを振り向くリーマスの首筋にキスを落してやる。薄い背中に胸を密着させ、掌で落ち着くように身体を撫でる。こうした体勢が初めてなわけではないのに、何を怯えているのか不思議だが、言い聞かせるようなシリウスの声に段々と落ち着きを取り戻す様は間近で見ていて悪い気はしなかった。
シリウスはリーマスの手を取って、ソファの肘掛に縋らせてやる。真綿しか詰まっていないクッションよりはよほど頼り甲斐があるだろう。頭を垂れたせいで露わになった白い項が美しいと思う。噛み付いて食い千切り、心ゆくまで味わってみたい。
衝動の赴くまま行動できないその代わりに、ついばむようなキスを与えると、仄かに上気した肌が一層艶かしく色付いた。肩甲骨の浮き出た背中をくちびるで辿りながら、ゆっくりと動き出す。引き抜かれる快楽にあぁとリーマスがため息をつくのを耳にして、シリウスは艶然と微笑んだ。
激しくは無いのに的確にリーマスの好い部分を探り当てる行為に、恋しい名前を呼んでいる暇などは無かった。ため息に似た喘ぎ声を次々と零す自分を、リーマスははしたないと思う。思うけれど、抑制することは出来ず、内部をかき回される感覚に顔を上げていることすら出来なかった。
白い電流が身体中を駆け巡る。息苦しいほどの快楽。指先が白くなるほど爪を立てているのに、痛みを感じないのは何故か。そもそも男を受け入れるための器官ではない部分なのに、シリウスを咥え含んで愉悦を感じているのは何故なのか。
もう何もかもがリーマスにはわからなかった。遠い視覚の中で、切り取られたような映像が揺れている。それなのに音声だけは嫌にクリアで、シリウスの荒い息遣いも、自分のくちびるから漏れる高い声も、聞こえるはずも無い水音までもが脳髄に反響している。
だめ、と誰かが言った。もう無理だ、と。それが自分の発した言葉だと気付く直前に、リーマスはあまりにも強い感覚の波に、自分が押し流されてゆくのを感じた。
〔終われ。〕
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