■□■ 嫉妬 □■□






 十日間の遠征からシキが戻ったとき、まだ太陽は中天に差し掛かったばかりだった。ここ数ヶ月間の度重なる遠征で、各地に根強く残っていた反乱組織の鎮圧も完成した。これでニホンの支配権は実質的にシキのものとなったのである。
 これでしばらくは遠征に出ることもなくなるだろう。間近に迫った城を軍用車の窓から眺めながら、シキは口元に薄い笑みを浮かべた。今頃アキラは何をしているだろうか。ここ数ヶ月の間は、ほとんど相手をしてやれなかった。シキの大事な愛玩人形は、今頃城で所有者の帰りを今か今かと待っているに違いない。或いは、寂しさに枕を濡らし、ベッドで背中を丸めているのだろうか。どちらにせよ、すぐに慰めてやらねばなるまい。
 薄い笑みをシキが口元に刻んだころ、軍用車がスピードを落とし始めた。城の玄関である大扉の前のスロープには大勢の兵士が二列に並び、その間をシキを乗せた車が進む。緩やかなスロープを進んで玄関の前の階段に差し掛かると、車はゆっくりと停車した。
 玄関の前に勢ぞろいしていた高官の一人が後部座席のドアを開く。優雅な動作でシキが車を降りると、出迎えに並んでいた全ての兵士が一斉に敬礼をした。

「留守中、何か変わったことはなかったか?」

 車の脇に控えていた副官に日本刀を預けながら問うと、彼は何故か非常に複雑な表情を浮かべた。留守を任せていた壮年の副官が口ごもることなど初めての出来事で、シキは訝しげに眉を顰める。彼が煮え切らない副官の態度を問いただそうと口を開きかけたとき、前方の大扉が開いて、場にそぐわぬ人物が姿を現した。白い洗いざらしのシャツに薄い水色のデニム。そして裸足という出で立ちの人物は、シキの愛人であるアキラだった。

「アキラ」

 ふらりと現れた可愛い愛玩人形に、シキは副官を問い詰めるのをやめて振り返る。そのため彼は副官が、何故か焦った表情になったことに気付かなかった。
 どこか儚い雰囲気のアキラは、無垢で妖艶な微笑をシキに向かって浮かべて見せた。

「アキラ、変わりは……」

 無いか、と問いかけるシキの言葉は半ばにして消え去った。代わりに聞こえたのはゴキッという鈍い音で、それは大きく振りかぶったアキラが投げつけたクリスタル製の灰皿が、シキの額にクリーンヒットする音だった。
 誰も煙草を吸わないのに何故灰皿が!? と突っ込む勇者はいなかった。潔癖症のシキは城を前面禁煙にしており、隠れて煙草を吸ったことが発覚すれば厳罰に処せられる。だがこの際そんなことはどうでもいい。とにかく一体どこから見つけたのかアキラは灰皿を持ち出し、あろうことかニホンの支配者に向かって投げつけたのだ。

「ぐおっ…………!」

 突き刺さる勢いで直撃した灰皿に、額を押えてしゃがみこむシキ。投球のフォームからゆっくりと体勢を立て直すアキラ。そして事態の恐ろしさに目を飛び出させて硬直する兵士たちと、やっちまったという表情の副官。一体何が起きたのか、正確に把握していたのはアキラただ一人であっただろう。彼は階段上で仁王立ちに構え、どこから取り出したのか鉄心仕込みの木刀を地面に突いてシキを睨み付けた。

「ア、アキラ、貴様何のつもりだ!?」

 額を押える指の間からダラダラ血を流しながらようやくアキラを睨み付けるシキ。だが彼が目にしたものは、この世の全ての恐怖をかき集めてもまだまだ足りない、鬼の形相のアキラだった。

「シィ〜キィ〜!!」

 あらん限りの憎しみを込めた低い声がシキを呼ぶ。アキラの身体から発する怒りのオーラで彼の周囲は黒く歪んで見えた。
 鬼だ、鬼がいる!
ほとんどの兵士はそう思ったし、実のところシキも本気でそう思った。真っ直ぐ自分ひとりに向けられる殺意。圧し殺されるかと思うほどの怒りの波動は、歴戦の勇者であるはずのシキでさえも恐れさせた。
 思わず固唾を呑んで見守るシキに、アキラは憎悪に燃える目を向ける。普段の亡羊とした様子はどこへやら、彼の両眼は煮えたぎる怒りに爛々と輝いていた。
 アキラは鉄心仕込みの木刀でビシッとシキを指し示す。そして彼はビビるシキに向かって思いがけないことを叫びだした。

「シキ、この浮気者!」

 浮気?
 何だ、それは??
 シキが頭の周りに『?』マークを百個浮かべる前に、若い野生の獣を思わせる動作で突進してきたアキラが木刀を振り上げる。鉄心を仕込んだその木刀は、護身用にとシキがアキラに与えた物だ。

「歯ぁ食いしばれっ!」

 叫び声と同時に振り下ろされる木刀。まずい、あれをまともに喰らったら、流石のシキだって昇天してしまう!

「お、おのれっ!」

 風を切って振り下ろされる木刀を、気合一発受け止めるシキ。流石は日本刀の使い手、白刃取りもお手の物だ。思わず周囲で固まっていた兵士たちが感心して拍手をする中で、木刀を挟んでシキとアキラは睨み合う。渾身の力を込めて木刀を振り下ろそうとするアキラと、額から出血しまくるシキ。幾ら戦闘能力はシキの方が遥かに上とは言え、このままではろくな結果にならないだろう。できればこんな茶番劇はすぐさま終わらせたいシキは、必死になってアキラを問いただした。

「貴様、一体何のつもりだ!?」

 するとアキラは怒りに輝く瞳でシキを斬るようにして睨む。

「何を偉そうに! この浮気者、這いつくばって謝っても許さないからな!」

 言い訳無用、と叫ぶアキラはどうやら、シキの浮気を疑っているようだ。

「莫迦げたことを言うな!」

 一体何を根拠に、と怒るシキは、無理な体勢から全身の力を込めて木刀を押し返す。流石はラインの適合者。不意打ちさえ喰らわなければ、彼に敵う者などいない。

「開き直る気か。ここのところの遠征だって、本当は誰かのところに行ってたんだろう!?」

 男か女か、さぁどっちだ、とアキラは喚いて今にもシキに噛み付かんばかりだ。

「ば、莫迦を言え。何故俺がそんなことをせねばならんのだ!」

「煩い煩い、この浮気者の裏切り者め。金輪際俺には指一本触れさせないからな、実家に帰らせていただきます!」

 もちろん、アキラに実家など存在しない。
 だがそんなことを突っ込んでいる場合ではなく、シキは目まぐるしく頭を働かせてこの事態をどうにか収拾する方法を考えた。周囲の兵士たちは、ほとんど痴話喧嘩に近い王と愛人の対決にどう対処したらいいのか決めかねてざわめき始めているし、先ほど割られた額の傷もズキズキと痛む。どうやら副官だけはアキラのご立腹を承知していたようだが、咎めだてている暇は無い。何よりとにかくアキラを落ち着かせねば、一体どういう理由でそんなわけのわからない懐疑を抱いたのか、聞き出すこともできないではないか。
 正直な話、シキは浮気などしたことがない。むしろ、想像したことさえ皆無だ。実のところ今回の遠征だって、早くアキラに会いたいがために、さっさと片をつけて舞い戻ってきたのだし、愛玩人形とか愛人とか呼んではいるが、シキはアキラにメロメロだ。むしろメロリン☆ラブだ。
 いつだってシキの頭の中はアキラで一杯で、それ以外のことを考える余地など3%程度しか存在しない。シキはアキラのためなら何でもするし、それが当然だと信じて疑わない。だからアキラがどーしても欲しいとおねだりすれば、植民地だろうがマリリン・モンローの下着だろうが、シキはどんな手を使ってでも手に入れるだろう。疑いを持たれるなど、心外もはなはだしい。

「お、おのれっ…………!」

 歯軋りの間から零れた言葉とともに、シキは両手で挟んでいた木刀を突然横にひねった。急激に力の方向を変えられたアキラは勢い余ってたたらを踏む。うわっと叫んで転びかけたアキラの身体を受け止めると、シキは問答無用で彼の痩躯を肩に担ぎ上げた。

「放せっ、シキの莫迦アホ変態インポ早漏十円ハゲ!」

 担ぎ上げられてジタバタ暴れるアキラを無視し、シキは階段を駆け上る。大扉のところで振り返った彼は未だ呆然としていた副官を呼び、

「用件は後回しだ。誰も近づけるな!」

 言い放ったシキは副官の返事も待たずにほとんど音速で城の奥深くにある寝室に駆け込んだのだった。






 あれは一体なんだったのだろう。
 ほとんどの兵士がのちにそう語ったという。何しろ額からの流血の痕を転々と床の上に残しながら、シキは担ぎ上げたアキラとともに寝室からしばらくの間出てこなかった。
 しかも兵士たちがせめて止血だけでもすべきではないかという口実の元に寝室の外に待機して耳をそばだてていると、部屋の中からは物凄い音が聞こえてきた。それは恐らく怒ったアキラが手当たり次第に物を投げつけ、それが壁に当たって壊れる音だろう。それから怒りのあまり最早何を言っているのかさえ不明なアキラの喚き声と、それに被さるように叫ぶシキの声。必死で宥めすかそうとする声を遮って、時折ぐえっとかぎゃあっとか叫ぶ声が聞こえるたびに、兵士たちは偉大な王の哀れな姿を思って涙した。王も所詮は人の子、惚れた弱みか手も足も出ないようだ。
 兵士たちがハラハラと見守る中で、段々と叫び声は小さくなり、投げつける物が尽きたのか破壊音もしなくなった。そしていつしか寝室は静寂に包まれ、代わりにアキラの艶やかな声が聞こえ始めた。どうやら仲直りは成功したらしい。
 ハラハラから違う意味でのドキドキに耳をそばだてる兵士たち。王の美人で気の強い愛人殿は、何気にこの城のアイドルだ。手を出すのは以ての外だが、こっそりオカズにするくらいは許されてもいいだろう。アキラたん親衛隊の会員はすでに二千人を越える。寝室から漏れ聞こえる嬌声は、兵士たちの密かなボーナスとなっていた。
 多くの兵士たちが廊下に詰めかける中、ついにその扉が開かれた。慌てて整列する兵士たち。彼らの前に現れたのは、すっかり顔の形の変形してしまったややげっそり気味の王と、彼の腕に抱きついてしなだれかかる、ご機嫌な様子のアキラである。
 アキラは陶酔しきった瞳でシキを見上げ、彼の腕に頬ずりする。すっかり精気を吸われてしまったシキは、それでも威厳を保つように真っ直ぐに背筋を伸ばし、無理してアキラの身体を強く抱き寄せた。流石は王、どんなにボロボロでも、格好つけることだけは忘れない。
 こうしてアキラの大変な誤解から来る浮気騒動は幕を下ろし、シキはどうにか面目を保った。寝室にベッドと置時計以外の家具が置かれなくなったのは、こういう理由なのである。





〔おしまい〕







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