■□■ 煙草の味 □■□






 秋の日はとうに落ち、すでに二十二時を過ぎた時刻になっても源泉は戻っていなかった。
 風呂から上がったばかりのアキラは頭に乗せたタオルで無造作に髪を拭きながら、静まり返った部屋を見渡す。白い蛍光灯に照らされた部屋は現実感に乏しく、酷くよそよそしく感じられた。
 ほとんど家具が無いせいで殺風景なリビングを一瞥すると、無表情のままアキラは部屋を横切った。裸足の足の裏に感じるフローリングは冷たく、彼を拒絶しているようだ。
 白い引き戸を開けて暗い部屋の中に踏み込むと、壁のスイッチを手探りで見つけて明りをつける。朝からずっとカーテンの引かれたままの部屋はアキラのものではない。
 後ろ手に戸を閉めると、アキラは壁際の机に近寄った。本棚と机と椅子と、床に直接置かれたベッド代わりのマットレス。そこいら中に散乱した本や雑誌とビールの空き缶。そしてカメラなどの撮影機器がこの部屋の全てだった。
 机の上に置かれた灰皿の中から吸いさしの一本を取り上げてアキラはくちびるに挟んだ。机の引き出しの中に放り込まれた何本ものライターから一本を選ぶと、慣れた動作で煙草に火をつける。大戦前は当たり前のように氾濫していた煙草も、今では貴重品だ。それを次から次へと消費することが源泉の贅沢であり、楽しみでもあった。
 天井から釣り下がった電灯に向けて煙を吐き出すと、アキラは目を眇めてその行方を追った。紫であるはずの白い煙は電灯の明るさに降伏するように消えていった。舌に広がる苦い味は、源泉のものだ。こんなものの何が楽しくてわざわざ中毒者になるのかアキラには理解できないが、あまりにも美味そうに源泉が吸うので興味を持ったのだ。たまにこうして味を確かめるように吸いさしの煙草を消費するが、相変わらず美味いと思ったことは無かった。そして考えるまでも無く、源泉はアキラが煙草を吸うことを知らないだろう。
 アキラは短くなった煙草を灰皿に押し付けると、首にかけていたタオルを床に落として源泉のベッドに潜り込んだ。くちゃくちゃに丸められていた毛布を鼻先が隠れるほど引っ張り上げ、顔を埋めるようにして横になる。乾ききらない髪のせいで枕が濡れようが知ったことではなかった。
 毛布は風呂上りのアキラの高い体温にすぐにぬくもった。毛布に潜り込んだまま息をすると、染み込んだ煙草と源泉のにおいがした。
 アキラは目を上げて枕もとの目覚まし時計を見た。二十二時三十分。まだ源泉は帰らない。今朝顔を合わせたのはもう十五時間以上も前のことで、あわただしく部屋を行き来する足音にアキラが眼を覚まさなければ、昨日の朝以来二十四時間以上顔を会わせることも無かっただろう。

「悪い、起こしたか」

 済まなさそうに笑った源泉は、仕事だと言ってあわただしく出掛けていった。CFCと日興連の内戦が始まり、アキラの殺人容疑が保留のまま保護観察のような形である程度の自由を保障されてから、源泉は彼の望みどおりジャーナリストになった。もともとトシマでも敏腕の情報屋であった彼だけに、職を得るのはさして難しくも無かったようだ。と言うより、もともとコネでもあったのだろうとアキラは推測している。でなければこんなに上手くことが運ぶはずが無い。
 アキラは現在源泉と一緒に暮らしている。彼の容疑が完全に晴れるまで、身元を保証する人間が必要であったためだ。通常なら政府が定めた保護司などがその役に当てられるはずだが、同じくらい身元の不確かなはずの源泉が当たり前のようにアキラの後見になれたのには裏があるに決まっている。恐らくいくばくかの金が動いたに違いない。だが源泉はそれについて何も言わず、だからアキラも何も訊かなかった。いつかこの借りは必ず返すと心に決めて。
 毛布の中で胎児のように身体を丸めながらアキラは源泉のことを考える。ここのところほとんど顔を合わせていない無精ひげの家主は、今頃どこで何をしているのだろう。内戦が終結して外国との行き来が一般人にも可能になったら、フリーのジャーナリストになって世界中を飛び回るのだと豪語する源泉。そのためには有能な助手が必要だと、アキラにあれこれ宿題を押し付けて、自分は一人であちこちを駆け回っている。源泉の仕事は活字になってアキラの目に見えることもあったが、それ以外のことをほとんど知らないのも実情だ。そのためにも早く一人前にならなければと思うのだが、どうにもやる気がおきないのも事実だった。
 アキラは今、カメラの勉強を始めている。機材の扱い方、撮影の仕方、その種類や正しい保管方法。専門用語や有名な作品を学び、更には外国語の勉強まで。源泉の求める水準は高く、厳しいけれどその分やりがいはあった。それに、もともとアキラは大抵のことは何でも人より上手くできた。飲み込みが早いアキラに物を教えるのが楽しいらしく、だからこそ源泉は高い水準を求めたのだろう。
 そのうち車の免許も取るか、と源泉が言ったとき、アキラは素直に喜んだ。別段乗り物に興味は無かったが、そうすれば少しは源泉の助けになれると思ったからだ。もともと、誰かの世話になって暮らすのはアキラの本意ではない。養われているという状況が面映く、自分の不甲斐無さに苛立ちさえ覚えていたのである。だからといって保護観察身分のアキラが働くわけにもいかず、容疑が晴れるまでのあいだは大人しくしているしかない。結局のところ、今は源泉の世話になっているしかないのだった。
 一日の大半を独りで過ごす源泉のいない家は退屈だった。別段外出が出来ないほどアキラの立場は悪いものではないが、特に行きたい場所があるわけでもなし。相変わらず友人だの知人だのを作ることに興味はなく、そんなことに無駄な時間を費やすくらいだったら勉強している方がまだ楽しい。そんなアキラをどう思っているのか、源泉は何も言わなかった。
 静まり返った部屋で源泉の毛布に包まりながら、うとうととアキラは考える。しばらくまともに源泉と顔を合わせていない。ということはつまり、同じ時間だけ触れ合っていないということだ。もうどのくらいになるだろう。一週間? 十日? それとも二週間?
 こうして勝手にベッドにでも潜り込まないと、源泉の匂いなど忘れてしまいそうだ。そのうちきっと、顔も声もわからなくなってしまうに違いない。アンタ誰だ、と言われたときの源泉の顔を思い浮かべると、自然と口元が綻んだ。飛躍した思考に溜飲を下げながら、アキラはいつの間にか心地よい眠りに引き込まれていった。







 …………誰かが呼んでいる。遠いところから聞こえる呼びかけに急速に意識を覚醒させられて、アキラは目を開いた。とたんに差し込む無機的な光に顔を背ける。もう朝なのだろうか。

「おいアキラ、起きたのか?」

 呆れたような声に今度は注意深く目を開けると、自分を覗き込む源泉の顔があった。その肩越しに煌々と照る電灯が見える。そうだ、明りをつけたまま眠ってしまったのだ。

「お前さん、寝るなら自分の部屋で寝ろよ」

 アキラの枕元に腰を下ろした源泉は、ガシガシと後頭部をかいた。やっとのことで帰宅したらアキラの姿はなく、何故か自分の部屋で寝こけているのを見て驚いたのだろう。アンタを待ってたんだよ、とはアキラは言わず、憮然として源泉のほうに寝返りを打った。

「何怒ってんだよ。腹でも減ってんのか? じゃあ、何か食いに行こう」

 寝起き以外の理由で剣呑なアキラの視線にたじろいだのか、ことさら明るい調子で源泉が提案する。中華好きだろ、と問いかけるのがご機嫌取りなのは明白で、どうやら源泉もここ数日の自分の生活態度に後ろめたいものを感じているようだ。
 もちろん見え透いた誘いにやすやすと乗るようなアキラではない。これまでの生活で源泉が一番困るのが沈黙の問いかけだと熟知しているアキラは、更に彼を詰るような視線で見つめ続けた。案の定源泉はアキラから目を逸らし、煙草を探すふりをして間を持たせようとしたが、どうやら壁にかけたジャケットの中に忘れてきたらしい。段々そわそわしてくる源泉の様子は内心でかなり可笑しかったのだが、アキラはじっとくちびるを引き結んで笑いをこらえた。

「あー、えーと、…………悪かったよ」

 ついに源泉はアキラの頑なな態度に折れた。ちょっと仕事が忙しくて、ついでに友人の祝い事が重なって、更には色々と好機が到来していたもので。ほんの少しのつもりであちこち駆けずり回っていたら、一週間が過ぎ、十日が過ぎ、二週間が経ってしまった。半月ものあいだまともに口もきかずにいて、アキラが怒らないはずがない。もともと感情の起伏に乏しいアキラが無言で怒っているのは源泉にはかなりきつかった。しかも彼のベッドの中から半分だけ顔を出して、沈黙のまま圧力をかけられて動揺せずにおれる男がいるものだろうか。

「悪かった。もうしばらくは時間が空くから、な?」

 何が『な?』なのかわからないが、アキラは文句も言わずかといって肯定もせずに眼を逸らした。理由があるならそう説明さえしておけばアキラだって怒りはしない。源泉が忙しいことはわかっているし、仕事の機会があればそちらを優先すべきだともアキラは思っている。だが、俺とお前の仲だから、と勝手に説明の手間を省くのはルール違反だ。少しは気まずい思いでもすればいい。
 枕に頭を置きなおして目を閉じてしまったアキラの態度をどう取ったらいいのかわからず、源泉は困ったように彼を見下ろした。表情を見るに、もう怒っているようには思えない。もともとアキラの思考回路は明確で、いつまでも根に持つタイプではない。しかし、うかつに気を緩めて噛み付かれでもしたら、しばらく源泉は立ち直れないかもしれない。

「おい、アキラ。寝るなよ」

 声に情け無い響きを滲ませて、源泉はアキラの髪を無骨な指先で梳いた。軽やかなはずの髪は指先に硬く、思いのほか冷たかった。

「うわ、お前、髪濡れたままじゃないか」

 慌てたように言って源泉はベッドに屈みこむ。指に絡むアキラの髪は冷たく、根元の方だけが温かかった。

「こんなんじゃ風邪ひくだろうが」

 あーあー、とわざとらしく声を出す源泉。ベッドの脇にタオルが落ちていたのはこのせいだったのか。見れば枕カバーはすっかり水気を吸って湿っているようだ。これじゃあ今日は使い物にならないだろう。やってくれる、とため息をつきつつアキラの髪を尚もかき混ぜていると、ふいに彼が笑う気配がした。
 目を向けると、アキラは瞼を閉じたまま満足そうに吐息を漏らした。髪をいじられるのが気持ちいいのか、鼻にかかったような甘い吐息。毛布に顔を埋め、薄く微笑んだ口元。髪に触れさせるのは肉体関係を済ませた相手、という言葉を思い出して源泉は何故か狼狽した。今までの真っ直ぐな感情をぶつけられたときに感じる快い戸惑いとはまた違ったもので、部屋の空気が変容するのを確かに感じて源泉はアキラから目を逸らした。

「いいかげんにしろよ。ほら、寝るなら自分の部屋行け」

 でないと、とあえてからかうように源泉は無理矢理にやっと笑う。

「どうなっても知らんからな」

 が、アキラは目も開かずに事も無げに言う。

「やれよ」

 断定的で迷いの無い口調。もちろん源泉はさらに躊躇する。

「何だ、誘ってんのか?」

「そうだって言ってんだろ」

 目を開いたアキラと視線がぶつかった。途端に、年相応の悪戯っぽい笑みが広がる。基本的に感情の起伏に乏しく、そのせいかアキラの表情は変化に乏しい。これもウィルスの副作用の一つなのかと日々頭を悩ませていた源泉にとって、アキラの笑顔は貴重なものだ。だからこのとき源泉が年甲斐も無く喜んでアキラのお誘いに乗ってしまったとしても、それは仕方の無いことだった。







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