月と六ペンス
A revealed secret, and more secret






 そう長くは無い人生のうちで、最も不幸なことは遠い昔の幼い頃に起こった。それからというもの、リーマスにとって世界はとても住みにくい場所になった。あの出来事の後、ベッドの上で目を覚ましたリーマスは、まだこんなに小さいのに、と涙を零す母をただぼんやり見上げるしかなかった。父は何も言わず、母の肩を抱いた。二人はただ無言で抱き合い、幼いリーマスは両親が悲しんでいる理由が自分のせいなのだと、幼心に理解したのだった。





 幸福とは何だろうかとリーマスは考える。今はもう幼い頃と違って、自分のある恐ろしい病気も少しではあるが自制できるようになった。といっても気休め程度の話だ。このままでは一生を自宅の地下室に設えた、特別な部屋で過ごすことになるのかと考えたこともあったが、そうはならずに済んだのだった。
 その手紙が届いたときが、人生で最も幸福なときだったろうか。いや、とリーマスは一人首を振る。確かに幸せではあったが、初めて友人ができたときに比べれば、二番目となるだろう。しかしそれも人狼という忌まわしい病気を隠しての友人であるから、果たしてこの先どうなるかはわからない。少なくとも一年は隠しおおせた。ならばこの先も永遠に隠し続けるだけのこと。そのことを思うとため息が出るが、他に道は無いのだから仕方がない。今ある幸福の全てを失いたくないのならば、努力し続けるしかないのだから。
 しかしいつしか必ず秘密は暴かれ、機密は漏洩する。どんなに細心の注意を払っても、血を吐くような努力をしても気付いてしまう人間はいるものだ。覚悟はしていてもその日はもっとずっと先のことだと思っていた。思っていたのに、期待は裏切られた。リーマスはある秋の日に、普段ならない様子の友人に話があると声を掛けられたのだった。





 何やらただならぬ様子のシリウスに声を掛けられたとき、リーマスは来たな、と思った。それはほぼ直感的に悟った事実だった。そして困った、とそう思った。前に何度もこういう日が来ることを考え、そのとき自分はどうするだろうかと考えたものだが、思ったより平静でいられるものだとリーマスは廊下を歩きながら思った。
 目の前を行く姿勢のいい長身は、心なしかいつもの勢いに欠けているような気がする。シリウスらしかぬその雰囲気に思わず笑みがこぼれ、そんな余裕のある自分にリーマスは驚いた。かつての予想ではもっと狼狽して場合によっては泣き叫ぶ可能性もあるとすら考えていたのに。しかし実際には感情の起伏が何処かへ行ってしまったような落ち着きぶりだ。我ながら不審に思うほどの。
 シリウスがリーマスを導いたのは、彼らの寮の部屋だった。使い慣れた部屋には友人が他に二人。シリウスの相棒のジェームズと、彼に宿題を教わっていたらしいピーターの二人。彼らはリーマスが部屋に入ると顔を上げ、いつものとおりの表情で机に広げていた宿題を片付け始めた。

「……連れてきたぜ」

 どこか精彩を欠く憮然としたシリウスの声に、ジェームズは片手を挙げて彼を労う。どうやら主に話があるのはジェームズであるらしい。もし気付くとしたらジェームズだろうと予想はしていたので、リーマスは驚かなかった。ジェームズはそういう少年だ。何でも出来て、何でも持っている。しかしそれがジェームズ自身の努力の結果であることを理解している人間は少ない。彼が如何ほどの努力の結果、現在の人格を手に入れたか、それを知らずに羨望や嫉妬を向ける人間が余りに多いことにリーマスは辟易していた。けれどもジェームズのそういった面をリーマスが全て熟知しているわけではない。多分、リーマスは彼に自分と同じ何かを感じ取ったが故に気付いたのだろう。そしてきっとジェームズも……。

「悪いな、リーマス。すぐ終わるから」

 ジェームズは微笑さえ浮かべてリーマスに椅子を指し示す。ピーターは慌てて鞄に教科書を仕舞い、懸命にリーマスと目を合わせないようにしている。恐れているというより、どうしたらいいのかわからないのだろう。所在無さそうにジェームズを見つめ、一歩退がって俯いた。
 肩を柔らかく押されてリーマスは振り返った。見上げるとシリウスが緊張した面持ちで顎で椅子を指し示した。自分が落ち着いていられるのはひょっとしたらこの友人が、自分以上に緊張しているからだろうかと考えて、リーマスは思わず笑みを零した。
促されるままにリーマスは椅子へ座り、三人の友人を見回す。ジェームズは机に寄りかかり、いつも通りの微笑を浮かべている。シリウスは憮然とした表情で腕を組み、相変わらずピーターは俯いたまま。そしてリーマスはジェームズ同様、何も知らないような、それでいて何もかも知っているかのような微笑を浮かべていた。

「……で、話って?」

 こういった場合、単刀直入に尋ねるのが一番なのである。リーマスの言葉にシリウスとピーターは微かに動揺したようだが、ジェームズは肩を竦めただけだった。彼は何故か卓上カレンダーを手に取り、

「実は、こないだから三人で話し合っていたことがあってね」

「へぇ、ぼくは仲間外れかい?」

 リーマスの反応に不安げな様子を見せるのは相変わらずシリウスとピーターの二人だけ。ジェームズはニヤリと笑ってまあね、と答えた。

「まぁ、何しろお前のことだったんで、大目に見てくれよ」

 いいけどね、と答えてリーマスは笑う。ジェームズは本当に自分に良く似ている。鉄壁のポーカーフェイスに、完全無欠の話術。それでもリーマスは自分が決して彼に敵わないことを知っている。何故ならジェームズは、自分のそういった部分全てを、面白がっているからだ。

「とりあえずお前に知っておいて貰おうと思ってな」

 ジェームズはいつもの悪戯っぽい表情を崩さない。わずかに挑戦的な光を帯びたリーマスの視線も、恐れることなく真っ向から受け止めた。

「それじゃあ本題に入るけど、お前、狼人間なのか?」

「……………………」

 余りの直裁さにリーマスよりもむしろシリウスの方が驚いた。彼はジェームズ、と思わず信頼する友人を責めるような声をかけたが、今まで黙っていたリーマスが手を上げてシリウスを制した。彼は一瞬強張っていた表情を機械的に崩し、

「よく、わかったね。これでも一生懸命に隠してたんだけどな?」

 おどけてみせる様子にどこか敵意さえ感じたのはシリウスだけだったろうか。リーマスは今や以前の彼ではない。同じ部屋にいながら、どこか遠く隔絶された世界に住んでいる。透明だがとても高い壁の存在を感じて、シリウスは胸が詰まった。その一方で、ジェームズだけはその壁の向こうにいるような気がしてならない。彼には羽があるのか、それとも壁を無効にする不思議な力があるのか、今もリーマスと同じように微笑さえ浮かべているのだ。

「こらこら、グリフィンドールの首席様を舐めるなよ?」

 悪戯っぽくウィンクをして見せ、でも、とジェームズは何故かシリウスを振り返る。

「先に気がついたのはあっちなんだけどよ」

 突然指名されてシリウスはきまり悪そうにリーマスに頷いて見せた。てっきりジェームズが彼らに話したのだと思っていたリーマスは一瞬驚いたような表情を浮かべ、シリウスを見た。あまりにも思いがけないことだったので。

「おいおい、あいつだって一応は次席なんだぜ?」

「おい、一応って何だよ」

 ぶっきらぼうなシリウスの声に思わずリーマスは微笑んだ。それは作り上げた表情の隙間から零れた本当の感情で、ピーターさえも安堵したようなため息を漏らした。

「まぁ、理由は色々有るんだけど、とにかくおれたちは気付いちまったわけだ」

 月齢の周期や、リーマスが姿を消す期間、突然校庭に植えられた暴れ柳。それと時を同じくして噂されるようになった叫びの屋敷のゴースト……。
 リーマスはお手上げと言うように肩を竦め、三人を見回した。

「なるほど、よくわかりました。それで、どうするつもり?」

 誉れ高いホグワーツに、人狼の子供がいたなどと知れたら、魔法界は大騒ぎになるだろう。まず生徒の親たちが怒り狂い、それが理事会にまで及ぶ。場合によってはリーマスの恩人であるダンブルドア校長の退陣も有り得る。できれば事は穏便に済ませたいものだ。しかしジェームズはリーマスの予想を裏切って、こんな言葉を呟いた。

「どうって、どうにかできるのか?」

「………………は?」

 だから、とジェームズは不思議そうに首を傾げて見せた。

「おれたちが気をつける以外に、何かできることあるのか?」

 それならそうと言えよ、とジェームズは詰め寄る。どうやら対策が何か有るなら協力する、ということらしい。彼は二人の友人を振り返り、

「お前らだって何かできるならやるよな?」

 当たり前だろ、と二人は頷く。そんな三人のやり取りを目の前に、暫しの間リーマスは呆気にとられてことの成り行きを見守っていた。
 はっきり言ってこれは今までリーマスが想定してきた事態のどれにも当て嵌まらないことだった。果たして彼らは一体何が言いたいのだろうか。まさか本当に単に『知っている』ことを知らせたいだけなのか? 思わずじっと見つめるリーマスにジェームズは何故か照れた様子で笑いかける。

「まぁ、そういうわけだから。おれたちに出来ることがあるなら何でも遠慮無く言えよ」

「え? あ、ああ……」

 しっかりと手を握られてはリーマスも返事を返さないわけにはいかない。どうも彼らは本気で単に『知っている』ことを伝えたかったらしい。でも、何故……?

「うん? だってよ、知ってるのに知らない振りするのって、どうよ?」

 どうよって言われても、とリーマスはシリウスとピーターを振り返る。ピーターは、

「僕も吃驚したけど、別にリーマスのせいじゃないし」

 それに、とジェームズとなぜか頷き合い、シリウスを見て一歩後退さる。

「こいつがそんな器用なことできるわけないしな」

「ジェームズ手前、何だよそれ! ピーターお前まで」

 シリウスは照れ隠しか怒った振りをしてそっぽを向いた。それはごくありふれた日常の様子で、ふいにリーマスは微笑んでいる自分に気が付いた。そうか、彼らは変わらない。ならば自分が変わる必要もまた無いのだ、と気付いて。何より、ありのままの自己を受け入れてくれた彼らに感謝をしたくて、けれどもどうしたらいいのかわからなくて、ただリーマスは微笑んだのだった。





「あ、ジェームズ、アレ忘れてる」

 ピーターの声にジェームズがあ、と何故か明後日の方向を見て呟いた。この上なく幸福な気分のリーマスは、たまたま目の合ったシリウスに笑いかけ、何故か向こうはうっと詰まって目を泳がせた。

「何? まだ何かあるの?」

 にこにこと嬉しそうな様子のリーマスにジェームズはうそ臭い真面目な表情を向ける。

「うむ、実は三人で協議したんだ」

 曰く、友人一人の秘密を握っているのはフェアじゃない。何がフェアなんだとかそういう問題ではなく、とにかくフェアじゃない。何しろこれはホグワーツを揺るがすかもしれない大変な問題なのである。故に彼らは考えた。皆がリーマスの秘密を知っているなら、リーマスは皆の秘密を知っているべきではないか?

「というわけで、リーマスにはおれたちの秘密を知る権利がある」

「権利って、何で急にそんな……」

 しかしジェームズはそんなリーマスの言葉など聞く耳持たず、謎のオーバーリアクションを交えて語り出す。

「確かに! おれたち個人の秘密なんてたかが知れているが、それでも無いよりはマシだ。故にリーマスに一人一個ずつ何か秘密を教えることにしたから、覚悟しろよ!」

「えっ!? 覚悟って、ジェームズ……」

 自分に向かってビシッと指を差し向けるジェームズに困って声をかけても、最早事態は収まらない。流石にどうしたらいいのかわからずシリウスを見ると、彼はただ黙って首を振った。ピーターを見ると彼はため息をつきつつこちらへやってきてリーマスの肩を叩いた。ごめん、止められなかった、と言うように。

「じゃあ、一番バッターはピーターな!」

 どうしてか嬉しそうにジェームズは宣言し、シリウスの腕を取って部屋の隅に向かう。どうやら聴こえないというのをアピールしたいらしい。もういいぞ、と手を振ってみせるジェームズはかくれんぼをしている子供のようだった。

「ごめん、ジェームズ何か凄く乗り気でさ」

 ピーターがすまなさそうに笑うので、リーマスも仕方ないよと笑いかけた。何かにつけて天才肌のジェームズは、この四人の中で一番大人で、最も子供なのだ。そして何より優しく、誰より強い。リーマスが羨望してやまないその少年は、今部屋の隅でどうしてかシリウスと掴み合っている。

「じゃあ、言うね?」

 ピーターは絨毯に膝を付いて口許にメガホンの形にした手を当ててリーマスの耳に何事か囁く。遠くからそれを眺めていたシリウスは、ジェームズの耳を掴んでいた手を離し、何故か背伸びをして二人を見つめた。

「あん? 何かピーターのやつ、リーマスに慰められてるぞ?」

 シリウスが言うとどれどれ、とジェームズも何故か手庇を作って二人を眺める。確かにピーターは落ち込んだ様子で髪に手をやり、リーマスが宥めるように肩に手をかけている。

「本当だ。ピーター、偏頭痛でもあったか?」

 首を傾げたジェームズの言葉に、そっけなくさあな、とシリウスは答えた。それから元気の無い様子でこちらにやって来たピーターと入れ替わりにリーマスに近づく。ジェームズは、

「シンガリは俺にまかせろ!」

 と言ってさかんに手を振っている。あの莫迦、と舌打ちを一つして、シリウスは笑顔万面なリーマスの隣に跪く。ピーターと違ってシリウスは長身なので、リーマスがわざわざ屈む必要は無い。シリウスは酷くバツの悪そうな表情であのな、と前置きし、

「実は俺、5年のシヴィル・ベインと付き合ってる」

 その告白にリーマスはぱちくりと瞬く。シヴィル・ベインというのは五年生では評判の美人で、黒い艶やかな髪に、チョコレート色の肌の小柄な少女だ。ぷっくりとしたやや厚めの唇が可愛らしく、長身のシリウスとはお似合いのカップルである。
 リーマスは不意にぷっと吹き出し、何だ何だと驚くシリウスに

「駄目だよシリウス、そんなの全然秘密じゃない」

「何っ、お前知ってたのか!?」

 知ってるも何も、有名な話なのである。残念でしたプリンス・チャーミング殿、とリーマスが笑うと、いよいよ居心地悪そうにシリウスは顔を顰め、何だよその変な名前はとぶつくさ言いながらジェームズたちのところに戻っていった。それから何事か二人に話しかけ、笑われたところを見ると、どうやら今の話をしたのだろう。

「莫迦、そんなの有名だろ」

「皆知ってるよ、そんなこと」

 ジェームズとピーターに口々に言われ、シリウスは怒って膨れっ面をし、リーマスはいつもの三人の漫才のような様子を見て腹を抱えて笑った。そのうちどうやらシリウスの『秘密』は保留になったらしく、踊るような足取りでジェームズがやって来た。

「シリウス、莫迦だよな〜。あいつの秘密は更新可能ってことにしといてやってくれや」

 ジェームズの言葉にリーマスが渦中のプリンス・チャーミング殿に手を振ると、シリウスは不機嫌一杯の表情で舌を突き出したのだった。

「じゃあ、今度は俺な」

 ジェームズはいつもの悪戯小僧の表情でリーマスを手招く。今度はどんな下らないことだろうかとリーマスも面白がって耳を傾ける。こうしていると自分のあの秘密も、ピーターやシリウスのものと同程度のことのように感じてしまう。それは何だかとても楽しくて、リーマスは面白半分にジェームズの告白を待った。

「実は……………………」

 ジェームズの声は低く穏やかで、いつもの冗談を飛ばすのと同じ調子で彼の秘密を語った。それがあまりに普段どおりだったので、リーマスは一瞬告げられた言葉の意味を理解できなかった。それでも彼は不意に表情を強張らせると、立ち上がったジェームズを慌てて仰ぎ見た。
ジェームズはいつもと変わらぬ不敵な笑顔で何も言えないリーマスを見下ろしている。部屋の隅ではリーマスの表情の変化に気付いたシリウスとピーターの二人が不審そうにこちらを見つめていた。

「ジェームズ…………」

 青褪めてどうにか漸く声をかけたリーマスをシッとジェームズは制する。自分の唇に人差し指をあてがって諭すように、

「秘密だぜ」

 そう言って片目を瞑って見せたのだった。






〔終〕





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