■□■ つまべに □■□






 久々に並盛に戻った山本は、ボスや仲間への挨拶を済ませると、真っ直ぐに雲雀の元へと向かった。地下通路でつながれた風紀財団のアジトはひっそりと静まり返り、奇妙に排他的な空気に包まれている。しかし慣れたもので、今の山本にはいつもと変わらぬその空気がむしろ快くさえあった。帰ってきたのだと感じさせるから。
 物音一つ立てずに現れた黒服の男にいつもの部屋に通された山本は、雲雀の不在を告げられてもさして気にも留めなかった。軽い調子で礼を言い、男がさがると黒いスーツのジャケットを脱いで皺になるのも構わずに畳の上に放り出す。ネクタイを緩め、寛いだ様子で座布団に腰を下ろした。
 勝手知ったる我が家のように胡坐をかいてのんびりと座り、先ほどとは別の男が運んできた茶をすすっていた山本は、三十分ほどの放置のあと、ようやくその忍耐ともいえぬ忍耐が報われた。雲雀が帰ってきたのだ。
 カラリと音を立てて開いた襖を振り返り、

「よぉ、おかえり」

 邪魔してるぜ、と陽気な声をかけた山本であったが、久々に見る恋しい男のいでたちにふと口をつぐんで彼を見つめた。黒い着流しに緋色の長襦袢を身にまとったその姿は、一枚の錦絵のようである。ようであるが、その格好は見慣れたもので、襦袢の緋色が肌に映えてたまらなく色っぽいと常々山本は思っているくらいだ。
 山本がつい目を奪われたのは、珍しくも雲雀が足袋を履いていたからだ。外出していたというからわからなくもないが、着物姿で地上に出る雲雀を山本は見たことがなかった。

「……なに」

 いつもと同じ抑揚の薄い、語尾を上げぬ独特の呼びかけに、山本はヘラリと笑って見せる。

「足袋なんて珍しいなと思って」

「………………」

 良くも悪くも嘘偽りを口にしない山本の元へ、雲雀は変わらぬ無表情のままやってくると、おもむろに右足を上げて胡坐をかいた山本の腿を踏みつけた。

「脱がして」

 いつもの困ったような眉根を寄せる微笑を浮かべ、事実困惑して見つめている山本に尊大な調子で雲雀は言った。さらに強く腿を踏みつけて促せば、山本はハハハッと短く笑ってその足首を右手で掴んだ。

「わーった。そうせかすなって」

 笑って山本は右膝を立てて座りなおすと、その上にまるで宝物でも扱うかのようなうやうやしい仕草で雲雀の右足を乗せた。黒いスーツの上に乗った黒い足袋。どうせなら白い足袋のほうが色気があっていいのに、と勝手なことを考えながら。
 糸を切るような密やかな音を立てながら、足首を覆い足袋を留めていたこはぜを掛け糸から外す。覆われていた足首が暴かれる瞬間をじっくりと楽しみながら、皮を剥ぐように丁寧に足袋を脱がせた。黒地が取り去られて露になる白い足に目を笑ませ、黒い足袋も案外悪くないものだと早くも考え直し始めていた山本は、完全に布を取り去った瞬間、ハッと息を呑んで膝の上の素足を見つめた。
 普段から日の当たらぬ箇所にある皮膚は、ただでさえ白く滑らかで目を奪う。しかし山本の呼吸を止めたのはその白さでも肌理細やかさでもなく、形よく整った指先にほどこされた暗赤色の爪紅であった。
 うつくしく手入れされた爪に刷いた暗赤色の爪紅は、毒々しいまでの鮮やかさで白いはずの爪先を彩っている。肌に染み入る血のような色に目を奪われ、理性が悲鳴を上げるかのような自分の心臓の音を咽喉元に聞きながら、山本はじっとその目を指先に注いでいた。
 息を呑んで動かなくなった山本のことなど歯牙にもかけず、雲雀は右足を下ろすと、さも当たり前のように今度は左の足を差し出した。どこまでも傲然としたその態度にいつもなら苦笑を浮かべる山本であったが、このときは動揺を悟られまいと顔さえ上げることができなかった。
 再び右膝にかけられた体重に意識を集中し、山本は新たな足に手をかける。その数をかぞえるようにゆっくりとこはぜを外し、先ほどよりもさらに慎重な手つきで足袋を脱がしてゆく。黒い布が取り去られたその指先には、やはり目を奪う赤の彩色がほどこされていた。
 鮮やかなくれないに目が眩みながら、ようやく山本は顔を上げた。目眩に襲われながらのろのろと見上げた雲雀の表情は、愚者を見下ろす絶対専制君主の艶やかな微笑に彩られていた。





〔了〕







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