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リーマスが目を覚ましたのは、誰かの胴間声とともに激しく肩を揺さ振られたからだった。
「うわわっ……」
完全に熟睡していたリーマスは彼らしかぬ狼狽したような声を出して目を開いた。カーテン越しの柔らかな光が部屋を満たしており、見れば呆れた風のシリウスがこちらを見下ろしている。日の入り方からしてもう昼はとっくに過ぎているのだろう。リーマスは目を擦りながらベッドに半身を起こした。
「ほら、これでも飲んで目ぇ覚ませ」
シリウスはベッドの端に座ってリーマスに紅茶のカップの載ったソーサーを渡す。ありがとうと子供じみた口調で呟いたリーマスは素直にそれを受け取る。ナポレオンブルーのそれは実家を出る際に貰い受けたセットの一つで、ここにきて以来一度も使わずに戸棚の奥に仕舞ってあった物だった。よくまぁこんなもの見つけたものだとリーマスはカップを顎の下に持ってゆき、立ち上る香気を軽く吸い込む。見ればカップの横にはスライスしたオレンジが二枚載っている。どうしてマグカップではないのかと思ったら、随分マメなことである。
「……何だよ」
流石お坊ちゃまは違うな、などと見ていたらシリウスに気味悪がられてしまった。多分この男はこうしたさりげない心遣いを何の疑問も抱かずに受けて育ってきたのだろう。かつてハリケーンの到来で学校に数日閉じ込められたとき、一袋の菓子を巡って醜い争いを繰り広げたうちの一人とはとても思えない気使いだ。そういえばこの紅茶は昨日ジェームズがリリーからだと言って渡してくれたものだろう。
「ふーん……」
紅茶を味わいつつリーマスはシリウスを穴が開くほど見つめる。だから何なんだよ、ときまり悪そうに言っているシリウスも手にはマグカップを持っている。わざわざ一緒に飲むためにここまで持ってきたのだろう。考えてみればこんな風に朝までずっと一緒にいることなんて今まで一度も無かった。いや、一度しかなかった。それも激しく混乱した挙句、大慌てで食事に向かわねばならないようなことしか。
「いや、何で君みたいながさつで猪突猛進の浅薄な……いや、失礼。思慮深さと無縁そうでデリカシーの無い男がモテたのかちょっとわかったような気がしてね」
てっきり外見のせいだけだと思ってたんだよ、とわざわざ更に失礼な言い直しをしてリーマスはにっこりと微笑む。その言い草にくぉのやろう、と呟いて頬を引き攣らせたシリウスは、まだ半分近く中身の残っているカップを取り上げると、不満を漏らすリーマスを隣接したバスルームに追い立てたのだった。
真冬の朝のシャワーは熱いものに限る、とリーマスは思っている。降り注ぐ湯が若い肌に弾け、心地がいい。顔を上向けながら両手で擦っていると、どこか遠くからシリウスの声が聞こえてきた。
「おーい、勝手にシェーバー借りたからな!」
シャワーの音に負けないようにリーマスもどーぞ、と怒鳴り返す。わざわざ断ることも無いのに、律儀な男だ。どうやら朝食も作ってくれる気らしい。もっともリーマスは料理の才能も無いがそもそも作るつもりも無いので、当たり前と言えば当たり前なのだが。何か食べたければ自分で作るしかないのだ。
濡れ髪を無造作にタオルで拭い、リーマスは服を身につける。何気なく見た鏡の中で、向こうの自分が首の辺りを擦っていた。見れば首筋と鎖骨の辺りに情事後の艶かしさを残す発疹のような赤い痕。一瞬どうしようかと迷ったが、どうせ今日はシリウス以外の誰と会うわけでもないし、嫌がらせにも丁度いいかとそのままにすることにした。
一旦戻った寝室では、さんざん乱されていたベッドがきちんとメイクしてあった。見ればどうやって見つけたのかシーツもきちんと代えてある。やはりマメな男である。多分この、いかにも面倒くさがりな外見や言動からは想像できない気遣いが、人の心を捉えるのだろう。普段から優しい人間に優しくされても大して何も思わないが、優しいと思っていなかった相手からそうされると、思わず心が揺れ動くだろう。うるせぇ、莫迦、ふざけんなが三大言語のシリウスならば、尚更である。そういえば前にリリーが、シリウスはあたしといると絶対に道側を歩くのだと言っていた。外ならば道の端側をリリーに歩かせ、屋内ならば壁側を歩かせる。それがどうしたのだろうと思ったが、リリー曰くそれは何か事が起こったときに、相手を庇うことができるようになのだそうだ。しかもどうやら無意識であるらしい。確かにこの国はマグル界も魔法界もレディファーストが基本だが、無意識でそこまでできる男はやはり少ない。素晴らしい初期教育の賜物ね、とリリーは満足そうに頷いていた。そして多分それは例の叔父さんの影響ではないかとリーマスは勝手に推測している。その話をしたら、ジェームズは一人で何か考えていたようだったが、あの後何かしたのかな、とリーマスは首を傾げた。何にせよ、シリウスがモテたのには一応理由があったのだ。だが果たして自分が惹かれたのはその部分だったのかは、リーマスにもわからない。どうなのかなぁ、と一人ぼんやり頭を掻いていたら、階下からシリウスの呼ぶ声が聞こえてきたのだった。
呼ばれて降りていったキッチンのテーブルには、新しく作ったらしいサラダとスープ、それから昨日の残り物のアレコレが乗っていた。朝から手の込んだことをと誉めると、
「はぁ? 何言ってんだ、お前。サラダなんか適当に野菜切ればいいだけじゃねぇか」
スープだって、やはり適当に切った野菜を鍋に放り込み、コンソメを入れただけだ。しかもそれらは杖の一振りで済んでしまう。肉だのピザだのばっかりはもう飽きた、とのシリウスの仰せである。そう言えば昨夜も野菜スティックを美味そうに食べていた。基本的に料理の内容にはあまり関心の無いリーマスは、素直に有能な家政夫に礼を言ったのだった。
食後の片付けはリーマスの仕事で、それを終えるとまだ帰る気の無いらしいシリウスを伴って、腹ごなしの散歩に出かけることにした。
昨日に比べて日が出ている分気温が高いらしく、屋根に積った雪が解けて家の周りは水が滴っていた。氷柱を伝って零れる水は、光を乱反射して雪に溶けてゆく。踏み出した雪は水を含んで重く、歩くたびにザリザリと音を立てた。
「う、わー……」
ふくらはぎまで雪に埋りながら辿り着いた丘の上で、リーマスは声を上げた。見下ろした雪原は、目を射るほどの輝きに満ちていた。
「うわ、凄いな……」
遅れて隣にやって来たシリウスは、目を眇めて遠くを見遣る。ホグワーツの冬の校庭も一面の雪景色だったが、起伏の乏しい地形なだけにこっちのほうが圧巻だ。黒い皮の手袋をした手で庇を作り、シリウスはキラキラ光る雪原を見渡した。ずっと向こうに見えるこんもりとした部分は、多分森なのだろう。その手前に一軒の家がある。あれがいわゆる『お隣さん』だろうか。振り向くとリーマスも半分マフラーに埋った顔を森の方に向け、眩しそうに目を細めている。リーマスは寒さのためか普段は青白い頬に赤味が差して、シリウスは昨晩のことを思い出した。あまりに久し振りだったため、昨夜はほとんど明け方まで抱き合っていたのだ。別段恥かしいわけではないが、シリウスは何となく頭を掻いた。
「……どうした?」
リーマスが半分マフラーに埋った顔をこちらに向けて首を傾げる。それに何でも無いと答えておいて、シリウスは踵を返した。
「何処行くの? ちょっと待てってば」
慌ててついてくるリーマスをシリウスは振り返りもしない。
「帰る」
ぶっきらぼうにそう言うと、背後でリーマスが溜息をついたのがわかった。足音が近付き、二人は並んで歩を進める。並んで歩くのかと思ったが、リーマスは歩を早めるのをやめず、シリウスより先ん出た。もちろんシリウスも黙っておらず、速度を速めてリーマスを抜き返す。だがリーマスもムキになってシリウスを追い抜き、結局途中から二人はもと来た道を走って帰るはめになったのだった。
「俺の勝ちだ!」
ハァハァ肩で息をしてシリウスは右手を家の外壁につけたまま偉そうに宣言した。遅れてやってきたリーマスもゼェゼェ息をしながら、首にまとわり着いていたマフラーを取る。
「はいはい、わかったよ。君の勝ちだ。それでいいんだろ」
この負けず嫌いめ、と胸の内で呟きながらリーマスは家に入る。元から自分が勝てるとはリーマスは思っていない。身体能力も基礎体力も、敵わないことは判りきっているのだ。そもそもコンパスの長さからして違うのだ、勝てるわけが無いではないか。それでもどこか嬉しそうなシリウスは、上機嫌で靴についた雪を払う。それにしても昨日の今日で、否、むしろさっきの今でよくまぁ元気なものだ。基本的に体力のあまりある方ではないリーマスは、居間に入るとすぐにソファに腰を下ろした。
「……シリウス、ココア作ってくれない?」
「はぁ? 何で俺がそんなことしなきゃなんないんだよ」
何気なく言ったリーマスの言葉に、シリウスは予想通りの返答を返す。俺はそんなに親切じゃねーんだよとか何とか呟いているが、だったら何で頼みもしないのに暖炉に火を入れてくれるのだろうか。あまつさえ、換気のために窓まで開けてくれる。世の中ではそういう人を親切と言うのだろうが、シリウスの辞書にその概念は無い。いつ見ても面白い男である。
ついついまじまじと見つめてしまったリーマスに、窓の開け幅を調節していたシリウスは更にブツブツと言い募る。
「大体、勝ったのは俺なんだから、お前が何かするべきだろうが。ココアぐらい自分で作れよな」
振り返って大上段にふんぞり返ったシリウスは、しかしもちろんリーマスには勝てなかった。彼は小さい子のように口唇を少し尖らせると、
「だって、腰がだるいんだよ……」
はっきり言ってココアを作るのに腰のだるさはほとんど関係無いはずだが、シリウスにはそれで充分だった。うっと言葉に詰まったシリウスは、たっぷり30秒の沈黙を経て、大きな溜息をついたのだった。
「……わかったよ、作ってやればいいんだろ。ったく」
やはりブツブツ文句を言いながらキッチンに入るシリウス。全てはリーマスの思う壺である。
そうしてシリウスの作ってくれたココアは、この冬一番の美味しさだった。ああ、やはり他人の労働力で飲むココアは、美味しいなぁなどとリーマスが思っているとは露知らず、相変わらず憮然とした表情のシリウスは隣に座ってマグカップを傾けている。中身はホットミルクであるらしい。彼はリーマスほど甘党ではないので、腹ごなしの軽い運動の後に甘いココアを飲む気にはなれなかったのだ。だいたい、こいつは何歳までココアを飲むつもりなんだ。いや、ダンブルドアも結構ココアを気に入っているらしいが、あの歳ならともかく社会人になったばかりの成年男子が、何だってココアなんだろうか。まぁ、他に誰かいるわけではないから別段問題は無いのかもしれないが。そんなことをシリウスはつらつらと考えていたが、それがほとんど単なる負け惜しみに過ぎないことに彼は気付いていない。
一方リーマスはほくほく顔でココアの入ったマグカップを傾けている。やはり軽く汗をかいた後は、糖分の摂取に限る。本当は茶菓子にクッキーだとかキャラメルだとかを摘もうと思ったのだが、シリウスが余りにもいやそうな顔をするので流石にやめた。3時のおやつにとっておこう。
そんなことを考えながらヘラヘラ嬉しそうに笑っているリーマスを、横目に見遣ってシリウスは苦々しげにホットミルクを啜る。もちろんミルクが苦いわけではない。何だかリーマスのいいように使われているような気がしてならないのだ。実際そのとおりなのだが、シリウス本人は一応自分は泊めてもらったのだし、そのくらいはやるべきなのかな〜とか思っていたりした。第一、リーマスの作った料理を口に入れる勇気は流石のシリウスにも無い。多分ジェームズも何のかんのと言い訳して逃げるだろうし、ピーターは泣いて謝るだろう。ただ実際にリーマスの手料理を食べたことは無いので、本当ところどうなのかはわからないのだが。
恐ろしい想像をしてしまって、シリウスはついついリーマスを見る。彼は相変わらずヘラヘラと嬉しそうにココアを啜っている。リーマスのリクエストでかなり甘く作ってあるのだが、歯茎がガタガタ言わないのだろうか。シリウスは感心しながらカップをテーブルに置く。こうして嬉しそうに甘いものを摂取しているリーマスは昔とちっとも変わらない。実に面白い男である。
ふとシリウスはリーマスの首についた赤い発疹のようなものに目が止まった。昨晩彼が付けたものだろう。鎖骨の辺りにも見え隠れしている。普段リーマスは寒さに特別強いわけでもないので、多分シリウスへの嫌がらせなのだろう。でも俺なんかこいつに歯型付けられたのに、とシリウスは一人で憮然とした。今朝見たら、右肩にくっきりと見事な歯形がついていた。これでリーマスがいつ変死体になっても、身元確認は完璧である。ちっとも嬉しくない。
「……おい」
自分の想像にますます面白くなくなったシリウスは、一人幸せそうなリーマスの肩をつかんで振り返らせる。何、と目線で訴えるのを無視してキスをしてみた。一回、二回……。
昼間に相応しく軽いキスを終えると、シリウスは不意に顔を歪め、
「……不味い」
甘すぎるんだよ、と文句を垂れ始めたシリウスに、流石のリーマスも面白くなくて眉根を寄せた。
「相変わらず失礼な奴だな。いきなりひとにキスしておいて、素晴らしい感想を有難う」
言うに事欠いて『不味い』とは恐れ入った。もちろん『美味い』と言われてもかなり嫌だが。
「うるせぇな、他人の口に入ったものの味なんか、不味いに決まってるだろうが」
じゃあ今度俺がキャビア食った後にキスしてやるよ、などとシリウスはのたまう。そんな生臭いの嫌だ、とリーマスも反論する。せめてキャラメルアイスにしろ、というところがとてもリーマスらしい。そんなの誰が食うかよと返す辺り、シリウスもムキになっている。実に子供っぽい口喧嘩である。まぁいくら学校を卒業したとは言え、半年ばかりでいきなり大人になるわけではない。ましてや間に入って止めてくれる友人や、突っ込みを入れてくれる相手がいなければ尚更だ。
そのうちとうとうシリウスは憤然と立ち上がり、
「帰る!」
そう宣言しながらもマグカップを一旦キッチンの流しに下げる辺りが小市民である。リーマスもどーぞとぶっきらぼうに言いながらもフルーパウダーを取りに行ってやるあたり似た者同士かもしれない。
ぷんすかしながら二人は暖炉の前に立つ。コートのボタンを留めつつシリウスはパウダーの入った壜をリーマスから受け取った。キラキラと輝く粉を一掴み手に取ると、何故か暫しの間逡巡する表情を見せた。
「……シリウス?」
不審に思って声をかけると、漸く決心したのかシリウスは、
「…………満月が近くなったら、また来るから」
不機嫌な声でそれだけポツリと言うと、じゃあなと捨て台詞を残してエメラルドグリーンの炎の中に消えていった。
残されたリーマスは一人何となく頭を掻いた。別にわざわざ口に出さなくても、突然遊びに来ればいいものを。それでもリーマスは持っていた壜を暖炉上に置くと、次の満月が何日後であるかを確かめにカレンダーを見ようと引き返したのだった。
〔了〕
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