注意:このお話は笹川了平x雲雀恭弥です。
■□■ 雪妖 □■□
ある冬のことだった。毎年冬はそうするように、了平は父親と一緒に狩場と山小屋の点検のために雪山に分け入っていた。
連なる三つの山に点在する山小屋は、折からの豪雪にもよく耐えていたが、点検に来たはずの了平たちのほうが雪のために足止めをくってしまった。普段ならばふもとの村までは半日もかからぬ行程だが、昼過ぎから吹雪き始めた雪は止む気配を見せず、仕方なく二人は山小屋で夜を明かすことに決めたのだった。
体力の温存と他にすることも無いために、了平と父親は早々に横になって夜を過ごした。このまま朝になって吹雪さえ止んでくれればいいのだが。そんなことを考えるうちにいつの間にか了平は眠りこんでいた。
普段ならばよほどのことが無い限り朝までぐっすり眠り込む了平が、一体どういう加減か夜半にふと目を覚ました。雪の多い地方であるが故に、頑丈に作られたはずの山小屋の中に風が吹いている。或いは外よりも寒いのではないかという室内の温度に、了平は小さく身体を震わせた。
一体どうしたことだろうか。囲炉裏の奥に並んで横になっていた二人であったが、目を覚ました了平が何かに呼ばれるように隣の父親に目をやると、そこには不可思議な光景が繰り広げられていたのだった。
暗い天井を向いて仰臥する父親。その彼に覆いかぶさるようにほの白い人影が見えた。
人影は了平が目を覚ましたことに気付かないのか、更に身を屈めて父親に顔を近づける。暗闇の中に浮かぶその人影は、不思議なことに自ら燐光を発するように白く、驚愕に見開かれた了平の目に焼きついた。
その人物は了平が今まで見たことも無いほどの類稀な美貌を有していた。物語に登場するような整った容貌の人物は、紙よりも白い頬をしており、この世のものとは思えなかった。おそらく妖であろう。その人物は氷を思わせる白い指先を了平の父親の顎に添え、くちづけるように顔を寄せる。色の無いくちびるはかすかに開かれていて、それなのに息をしているようには何故か見えなかった。
未知のものに対する恐怖か、或いはあまりの美しさに心を奪われたのか、了平は瞬きをすることさえ忘れてその光景を見守った。
妖は紙一重の距離を置いて了平の父親のくちびるに自分のそれを合わせた。触れるか触れないかのわずかな距離。妖がくちびるを開くと、操られるように眠ったままの父親も口を開いた。
それは人知を超えた恐るべき出来事だった。目を閉じたままの了平の父親と、同じく眼を瞑ったままの妖。了平の見ている前で、父親の口から光を帯びた丸いものが浮かび上がり、妖のくちびるへと吸い込まれていった。もしこの世に魂というものが存在するならば、まさしく今了平が目にしたものがそれであろう。
死の瞬間を自分が目の当たりにしたことを了平は理解したが、彼にはどうすることも出来なかった。父親の安否を気遣うことも、あまりの恐怖に叫び出すことも、何一つとして。
凍りついたように瞬きすらできないでいる了平であったが、父親から顔を離した妖が突然彼を振り返った。真正面から見た妖は、やはり血の一滴すら通わぬ青白い美しい顔をしていて、切れ長の目を了平に真っ直ぐ向けてきた。
「……見たね」
高くも低くもある、男のような女のような不思議な声。直接頭に響くような幻惑的な声に、了平は目眩がした。妖は音も無く立ち上がると、気だるそうに了平を見下ろした。真っ白な肌と同じ、純白の着物。その裾から伸びる足さえも、雪を思わせる白さだ。
了平は尚も何も言わず、ただ黙って妖を見つめるばかり。
「……君は変わってるね」
恐るべき光景を目の当たりにしたはずなのに、了平は恐慌をきたすでも失神するでもない。何が彼をそうさせるのか、了平自身にもわからない。わからないのだけれど、やはり彼は妖をただ一心に見つめていた。
「その度胸に免じて、今日は見逃してあげよう」
妖はひそやかに微笑を刻む。色の無いくちびるが笑みの形に歪むのを、陶然と了平は見上げていた。
「だけどもし、今夜のことを他言したら、そのときは君の命をもらうことにするよ」
いつどこで何をしていようとも、必ず殺してあげるから、と妖は囁いた。
嘲笑を含んだ声は了平の耳をくすぐり、その余韻が消えやらぬうちに突如として山小屋に暴風が吹き荒れた。了平が意識を取り戻したときはすでに朝になっており、しっかりと戸締りがされたままの山小屋には彼の他に、厚く積もった雪と、すでに冷たくなった了平の父親が取り残されていたのだった。
一年が過ぎ去り、再び雪の季節がやってきた。この時期山へ入るのには必ず二人以上でなければならないという掟があるために、父親を失った了平は一人山すその自宅で冬を過ごしていた。母親は幼い頃に帰らぬ人となり、仲の良かった妹も一昨年嫁に行った。父親亡き今、家を守るのは了平だけである。父の血を継いで腕の良い猟師である了平は、生活に困ることも無かったが、毎年の仕事であった山の見回りが始めて無くなった今年の冬を、退屈に過ごしていたのだった。
それはいつかのような吹雪の夜だった。内職というよりもほとんど退屈しのぎに編んでいた草鞋を作り終え、そろそろ床に着こうとしていた時刻のこと。あきらかに風が吹き荒れるのとは違う音が聞こえ、不審に思った了平が引き戸を開けて外の様子を伺うと、そこには一人の旅人が立っていた。
こんな夜中に、それもこんな吹雪の日にどうしたことだろうか。ともかく急いで招じ入れてやると、旅人は吹雪のために立ち往生し、どうか泊めてはくれまいかと頼むではないか。情に厚い了平は相手の素性を確かめるでもなく二つ返事で承諾すると、囲炉裏に当たるよう勧めてやった。
旅人が身につけていた笠と蓑を仕舞い、了平が囲炉裏端へ取って返すと、そこには一人の男が立っていた。白地に濃紺で何かの鳥と花を染め抜いた着物は一目で仕立ての良いものとわかる。その鳥や花が何という名なのか了平は知らない。それよりも彼の目を引いたのは、振り返った旅人のその容貌が、いつか見た妖と同じ、この世のものとは思えぬ美貌であったことだった。
思わずぎょっとして立ちすくんだ了平であったが、彼を見つめる男の頬は寒さのためか赤く染まり、くちびるも紅く色付いている。吐く息は白く、自分を凝視する了平を不審そうに眺める彼は、どう見ても人間だった。
「どうかした?」
訝しげに問いかける声は低く、良く通る耳障りの良い声だった。
「ああ、いや、何でもない」
男の問いかけに我に返った了平は、照れ笑いを浮かべて彼の傍を通りすぎた。まさかこの男が狐狸妖怪の類であるわけが無い。あれから一年もたてば、吹雪の夜の出来事が夢か幻と冷静に判断することもできるようになる。だから了平は妖にそっくりな男のことを、最早気にとめようとはしなかった。
吹雪はなかなか止まず、旅人は了平の家に足止めをくった。男は雲雀と名乗り、止まぬ吹雪に苛立つでも慌てるでもなく、のんびりと過ごしていた。冬の静けさに退屈していた了平は渡りに船と、話し相手ができたことをむしろ喜んだ。
困ったことに、旅の疲れが出たのか、吹雪が止む直前に雲雀は高熱を発して寝込んでしまった。雪が止むのを待って慌てて呼んできた医者は過労と診断を下した。おかげで雲雀はしばらく了平の家で療養することを余儀なくされたのである。
了平は甲斐甲斐しく雲雀の面倒を見、そのおかげか彼は段々と健康を取り戻していった。ところが面白いもので、医者がとっくに回復したことを認めても、雲雀は一向に出て行こうとはしなかった。
「まだだるい」
だの、
「体力が落ちた」
だのと言っては出ていくのを先延ばしにする。すでに雲雀と打ち解けていた了平も彼を追い出そうとはせず、豪快に笑って雲雀の我儘を許容していた。
冬も終わり、もうすぐ春が来ようという夜のことだった。雪が溶け始めた季節にしては、寒さがぶり返したような夜に、夕餉を終えて囲炉裏端で酒を酌み交わしていた雲雀がふいに了平に問いかけた。
「ねえ、何で追い出さないの?」
縁の欠けた猪口を右手で弄びながら、雲雀は真っ直ぐに了平を見つめる。彼はいわゆる居候の身であり、了平にとってはお荷物のはずである。それなのに了平は嫌な顔一つせず、雲雀を家に置いているのだ。
「何だ、行く当てでもあるのか?」
濁り酒の入った徳利を脇に置いた了平は、かえって不思議そうに問い返した。彼はてっきり、雲雀には行く当ても目的もないものとばかり思っていたのだが、単なる思い込みだったのだろうか。何しろ雲雀は名のって以来、一言も自分について話さないので、推測するしかなかったのである。
「無いよ」
雲雀の返答は簡潔で、しかも遠慮が無かった。居候のくせにやけに偉そうな口ぶりだが、了平はそれが嫌ではなかった。
了平は奥歯が見えるほど大きく口を開けて笑うと、
「なら、ここにいればいい。オレも退屈せんですむ」
それは彼の本心で、雲雀も彼の快活さに眼を瞬かせた。
「……何処の誰とも知れない馬の骨を、家に置いていいわけ?」
「何だ、お前は馬の骨なのか?」
「君のそういう莫迦なところは嫌いじゃないよ」
それはよかった、と了平は再び笑った。猪口を勢いよく空けた彼は、上機嫌で雲雀と自分にお代わりを注いだ。少し酔っているのかもしれない。それ以上に、雲雀に気に入られていると言われて、嬉しかったのだ。もう出て行くと言われたら止めるつもりは毛頭無かったが、寂しいことには違いない。大して長い時間を共有したわけではないが、雲雀はすでに了平の中で大きな位置を占める存在となっていた。ゆえにこの生活がもう少し続けられるのかと思うと、何故か愉快でたまらなかったのだ。
酒を飲んでも一向に変わることの無い雲雀は、冷静さをうかがわせる視線でやたらに上機嫌な了平を見つめていた。彼は何を思ったのか懐に手を入れると、藍色の財布と思しき包みを取り出した。
「あげる」
投げ渡された包みを反射的に受け取った了平は、何事かと雲雀を見つめる。彼はそ知らぬ顔で猪口を呷り、いつの間にか引き寄せていた徳利から手酌でお代わりを頂戴していた。
雲雀が何も言わないので、了平は手にした包みを紐解いてみた。するとどうだろう、ずっしりとした包みの中身はやはり金子で、それも了平が顎を落とすような金額ではないか。
父子そろって腕のよい猟師であった了平は、とくに生活に困ったような経験は無い。呆れるほど食の細い居候を一人抱えて、それでもどうにかやっていける程度には蓄えがある。だからと言って裕福なわけでは決してなく、雲雀が無造作に投げて寄越したような額の金銭は、目にしたことさえ初めてだった。
「お、おい雲雀!」
初めて見る小判の枚数に、恐れをなしたのか了平が困惑した表情を向ける。しかし相変わらず雲雀は眉一つ動かさず、
「あげるって言ってるだろ。だから今度からはもっとましな酒買ってきてよね」
随分な言い草だが、つまるところ世話になる代金ということだろうか。彼一流の憎まれ口も、もしかしたら照れ隠しなのかもしれない。
しばらくのあいだ無言で金子を眺めていた了平であったが、中からわずかな金銭を拾い上げると、まだまだずしりと重い包みを雲雀に投げ返した。
「当面分は貰っておいた。あとは取っておけ」
「……わかった」
意外にも雲雀は素直に包みを受け取った。だが彼はまだ何か探るような目つきで了平を眺めている。
「何だ?」
「何も訊かないの?」
「話したければ話せばいいだろう」
了平は詮索しない。雲雀の過去には興味が無い。大事なのは、まだまだ雲雀と一緒にいられるということだ。ほとんど睨み合うに近い状態で視線を交わしていた二人であったが、呆れたようなため息をついて雲雀のほうが先に視線を外した。
「僕はね、西国のさるお大臣の落とし胤なんだ」
何の前触れもなく口にした雲雀の言葉にも、了平は、ほうと頷いただけである。
「妾腹のくせに出来が良すぎてね、正妻が金をくれてやるから自分の息子に跡目を譲ってくれって言い出したんだ」
もともと群れることの嫌いな雲雀はこれ幸いと金を受け取り、さっさと当て所ない一人旅に出かけたということである。
「ほう、そうか」
頷きつつ了平は美味そうに酒をすすった。こちらを伺う雲雀の視線は射抜くようだが、了平は気にしなかった。今の雲雀のどこかできいたような話が嘘か誠か、それは彼にはわからない。別に嘘であるならそれはそれで面白いし、本当であったところで現状に変わりは無い。結局のところ、どうでもよかったのだ。
それまでじっと了平を見つめていた雲雀がふっと表情を和らげた。
「……やっぱり君は変わってる」
囲炉裏の火に照らされて、肌の染まった雲雀が微笑む様は、了平を心から和ませてくれたのだった。
その日の夜このと。いつものように囲炉裏端に布団を敷いて床についていた了平を雲雀が呼んだ。
「まだ起きてる?」
「ん? ああ……」
酒のせいもあって半分眠りかけていた了平は、薄い布団から顔を出して雲雀がいるほうを見た。すると突然、何かがバサッと了平の上に放り出されたのだ。
「なにっ!?」
驚いた了平はようやく完全に目を覚まして飛び起きたが、突然増した重みが布団の上掛けだということに気づくのにしばらく時間を要した。
「お、おい、雲雀」
了平が奇妙に上ずった声をあげたのは、布団を放りよこした張本人である雲雀が、勝手に彼の寝床に潜り込んできたからだ。さすがの了平もこれには面食らった。まさか男同士で同衾する日が来るなど、思いもよらなかったからだ。しかし雲雀は困惑する了平など相手にせず、どんどん寝床の中に潜り込んでくる。
「寒い」
それだけ言った雲雀は了平を押しやる勢いで横になると、まるで当たり前のように目を閉じた。困った了平がどうすることもできずに見下ろしていると、逆に睨まれてしまった。寒いからさっさと布団に入れ、ということらしい。
困ったものの、寝床の本来の持ち主である了平が出て行くのは納得がいかず、彼は渋々布団に横になった。そうしてみると本当に雲雀の体温は低く、彼が寒いと言った理由が良くわかった。本当に今まで囲炉裏にあたり、布団に包まっていたとは思えない。試しに手をとると、雲雀は驚いたように了平を見つめた。雲雀の手は雪のように冷たく、了平は彼が可哀想になった。
雲雀の両手を包み込むように持つと、了平はその手を口元に引き寄せた。自分の手で揉むようにしながら息を吹きかける。少しでも温まればいいと思ってのことだ。初めは強張っていた雲雀の指先も、了平の意図を察したのか、いつの間にか弛緩してされるがままとなった。それは彼の心情を反映しているようで、了平は嬉しかった。
なかなか温まらない手を握ったまま了平がふと目を上げると、雲雀の視線とかち合った。暗闇にも不思議と輝く雲雀の眼。彼はゆるりと瞼を落とすと、穏やかに目を閉じた。いつの間にかくちびるは微笑を刻み、息を呑むほどに美しい。それを見ていた了平は、引き込まれるようにくちびるを重ねていた。
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