赤い天使 5
洞窟から少し離れた岩陰で、一輝の師匠は暮しているようだった。海岸沿いの大きな岸壁の前で、篭から頼まれた食料を取り出すと、底の方から貝の蓋が出てきた。今朝早く海辺で見付けて、そのまま忘れてしまったのだ。大平洋の波はひどく穏やかで、それでもこの海岸沿いの複雑に入組んだ岸壁には、時折大きな波が、寄せては砕けていた。
「北欧の民は石や木片に文字を刻んで明日を観るそうだが。お前のその肌とブロンドは、 なるほどこのあたりでは見かけない……冷たい色だ。」
エスメラルダは、振り返って声の主を仰いだ。ギルティーだった。身体をばらばらに引き裂かれても死に切れずに、甦った亡霊のようなその男は、彼に相応しい、異形の面を身につけている。少女はだが、不思議と恐くはなかった。
「貝はもう、十分に集まったのではないか?」
男はしゃがれた声でいった。
「……けれど明日は占いません。信じているからです。イッキがフェニックスとなって、この島から必ず、羽ばたいてゆくと。」
一輝が聖衣を手に入れることこそ自分の望みでもあり、この島で生きてゆく糧でもあった。 一筋の希望。だがそれは、彼が自分の中に見い出したものとは、全く異質なものだ。
『聖衣を手に入れたら、エスメラルダ。オレが君を、母さんのもとへ…故里に帰してあげる。』
一輝はたびたびそんな事を自分に言った。だが、生まれ育ったあの島に帰ることなど、 エスメラルダは、少しも望んでいなかった。
「島の伝説が、仮に真実だとしたら。」
岩間から吹きすさんだ潮風と同時に黒い海面が鳴いた。ごわついた髪が重々しく風に舞い、面の向こうの視界を遮ったが、ギルティーは構わず続けた。
「仮に、真実だとしたら、聖衣とひきかえにお前の命は失われて、そうして島は目覚めるだろう。女神によって封鎖された、呪われた島が、…この仮面が割れた時にな。」
抑揚のない呪文のような彼の言葉は、次第に呟きへと替わっていったように思えて、少女は目の前の巨体を見上げた。
“きみはこの島に、いてはいけない。”
かつて一輝も言ったことば。昨夜の男にも同じことを言われたのだと、エスメラルダは思い出した。諸悪の根源を絶つために来たのだと、去り際にそう言い残した、彼の後姿は息を呑み込むほどに、美しかった。
「わたしは、何処へも行かないわ。」
いつか、鋏が、――
彼ととこの島とを切り離す、刃先が自分のまえに入ったとしても。
あの人の、血となり骨となって、この地に落ちた麦は実る。
「たとえば、あれがこの島に、永遠に縛り付けられる結果となってもか。」
クククッと、仮面がくぐもった笑いを漏らした。面の表情は、怒にも楽にも、そして咽びのようにも見えた。この男も彼に生かされることを、どこかで望んでいるのかもしれないとエスメラルダは思った。
「私は神さまでもないし、天使でもまた、ないのです。」
それが、少女の答えだった。
一日の修行がいつもそうして終わるように、この日の訓練もまた、意識を失ったまま放置、という状態で終わっていたようだった。なんとか立ち上がれることを確認した後、身体を埋めるように積もった石塊や岩石を退かして一輝は立ち上がった。
月が出ていた。
エスメラルダと会う約束をしていたのだと思いだしながら、自分がいつもより余計に眠ってしまっていた事も同時に悟った。
傷付いた身体を引きずるようにして寝ぐらに戻る途中、浜辺を行く、小さな人影を見つけた。声に出して呼ぼうかとも思ったが、肉を蝕む疲労感と、辺りを取り囲む闇の静けさに思い留まった。
明日になれば、また会える。
一輝は思った。
貝の蓋はもう大分集まっていた。自分とエスメラルダの未来が、開けたものだったらいい。 一輝は立ち止まって、白い影が視界から消えるまで見守った。
青白い肌も透けるような金髪も、この小宇宙の炎で、暖めてあげられるだろうか。
一輝は握った拳に、気を集中した。
ゆらり、と拳から立ち昇った小宇宙と、少女の影とが赤く重なった。
赤い天使は、やがて夜にとけこむようにして見えなくなった。
END
03.06.19(04.12.23 改訂)