赤い天使 3
小家の木戸を開けると、エスメラルダは木製の階段を三つほど降りた。 外は夜の闇だった。月明かりのない闇だった。
小屋の脇にある洞穴には金属製の扉が取り付けられ、錆びた錠がかかっていた。
振り向くと船着き場が見えた。島では手に入らない食料や生活に必要な物資などを運びに、一週間に一度の割合で船がやってくるのだ。彼女の主人はそれを、火山地帯に住んでいるという、聖衣の番人や一輝の先生に売るなどして生活していた。
昨日降ろした荷物に、麻や綿の布地が沢山混ざっていたのをエスメラルダは知っていた。簡単な衣類と……そうだ、ベッドのカバーも作るよう言いつけられていた。頭の中で採寸しながら、エスメラルダは鍵を差しこみ扉を開けた。
修行服は一瞬にして破けてしまう。一輝は修行中、パンツ一枚という軽装だが、膝やお尻の部分が破ける度に、エスメラルダは暇を見て繕ってあげていた。
よかった、厚手の生地もある。 エスメラルダ倉庫の荷物を確認して微笑んだ。
布地を抱えて貯蔵庫を出たエスメラルダは、目の前に立ちふさがる人影に、ぎくりとして足を止めた。
「ここから逃げたほうがいい。」
この島で自分の主人以外にエスメラルダは、一輝と彼の師しか見たことがない。声は、誰のものでも無かった。
「6日後に来る船にこっそり乗り込むといい。君の主人の気を逸らしていてあげよう。だから、その隙に。」
幼少の頃、デスクイーン島に売られてきた時自分は、この枯れ果てた島から逃げる事ばかりを考えていた。しかしこの島から逃げ出したところで、帰る場所など、どこにもない。故郷へ戻ってもすぐにまた、同じような環境の島へと奴隷として売られてしまうだろう。
彼女をこの島へ留まらせていたのは、ほとんど諦めにも近い思いだった。
「私は、どこにも行かないわ。」
しかし今、少女が発した言葉には、それとは別の響きがあった。
エスメラルダは目を凝らして人影を見つめたが、輪郭が闇に融けてその形すらよくは判らなかった。
「君はここにいてはいけない……島の伝説を知っているな?」
デスクイーン島にはフェニックスの聖衣を巡って、島の守神の伝説があった。
聖衣を手に入れるためには、愛する人の命を守神に捧げねばならない。だがそれは迷信だと、一輝の先生は言ったという。
「あなたは、イッキがフェニックスの聖衣を手にすると思ってるのね。嬉しいわ、私もそう信じてるから。」
エスメラルダは布地に顔を埋めるようにして少し顎を引いた。彼が一輝の明るい未来を、まるで本物の予言者のように断定したのも嬉しかったが、島から逃げろと忠告された事もまた嬉しかった。自分に逃げろと彼は言う。
「たった一度きりの人生だ。他人の踏み台になって果てるなど馬鹿馬鹿しいとは思わないか? 今君が居なくなれば、彼も君の事などすぐに忘れるだろう。」
エスメラルダは布地の中でも一番手触りの良い、真白な絹を取り出した。彼女は袖を通したことすらなかったが、絹で縫いものをすることはままあった。
「繭はたった一本の糸で作られてるのよ。」
エスメラルダは言った。
「一本に解いた糸を紡いで織って…でもこうして一枚の布になって鋏を入れる時、刃先を境にどちらか一方は生かされて残りは捨てられる。捨てられた繭は、意味のない生だったのかしら。」
その問いはかつての迷いの日々を彷佛としたのか、男は黙して答えなかった。エスメラルダは続けた。
「捨てられる繭によって形になる繭は生かされ、生かされた繭によって捨てられた繭もまた、生かされるのだと思うわ。」
「生に落差などないと……。」
「ええ。そして鋏が何処に入るかは、きっと既に決まっていることなのよ。」
闇を射抜いたまっすぐな瞳に、大河で身を浄める巡礼者たちの姿を重ね、だが、彼等に悲嘆し涙を落としたのは、自分が神に最も近い男と、呼ばれる前の話だ。
「これから起こり得る諸悪の根源を断とうと、はるばる足を運んだのだが…こんな枯れ果てた島で君のような少女に出合うとはな。」
男は振り返って、ゆっくりと歩き出した。
同時に海面を抜けた風が上昇して雲が流れた。
月明かりに照らされた彼の長い髪のたなびく音が、聞こえたような気がした。
エスメラルダは麻布を狭い部屋一杯に広げると、老人の上着の分を裁断した。
貴重な布を、なるべく隅から隅まで利用した。織り糸一本をも惜しむ気持ちで鋏を入れると、修行用のパンツが作れる位は余らせることが出来た。
しかしそれでも布の切れ端が、握り拳程の小さな屑山となって残された。