其ノ十三 エピローグ

 夢を見ていた。
 あの時から、繰り返し見ていた夢だ。
 少年の傍まで、うまく辿り着ける時もあるが、大抵はあの晩と同じように、白い特攻服が連れ去ってしまったり、腕を伸ばしても逃げられてしまったり……。
 だがもう大丈夫だ、逃げる必要などない。全て分かったのだから。……だから、そこに居てくれ。
 瞬。
――すぐに、お前のもとへ行くから。
 目を醒ました一輝を待ち受けていたのは激しい頭痛だった。
 視界に入った天井は見慣れぬもので、あたりを見回そうと首を動かしたがすぐに顔を顰めて断念した。
 頭が重く、少しでも首に力を入れると激痛が走り挙げ句、吐き気まで催してくる始末だ。
「トウドウって、前の集会にいた男だな……?」
 遠くから、よく知った声が聞こえた。シュラである。
 確か、シュラと共に渋谷に乗込んで……それから。
 考えることすら苦痛になった一輝は、思考を停止し声に耳を傾けながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
「ああ、例のメルセデスだった。一輝と一緒に、これを投げ捨てて去って行った。」
 アフロディーテはテーブルの上に、皺くちゃになった学ランをのせた。
「これは……。」
 シュラはそれだけ言って、黙った。
 早朝、カーラジオから流れたニュースで、アフロディーテは町ビル事務所で発砲事件が起きたことを知った。
ほどなくしてここ、アジトに現れたトウドウは、姫が事件に巻き込まれたと短く告げると、どこかへ走り去った。
 何故、瞬と一輝が町ビルに。
 やはりあの電話は姫を誘き寄せる為、仕掛けられた罠だったというのか。
 様々な疑問が浮上したが、全てが目の前に張られた薄い膜の外の出来事のように、まるで現実味がなく、寝不足の痺れた頭では、何も考える事が出来なかった。
 アフロディテはしかし、恐らくトウドウが直接手を下したか、誰かに命令した事なのだろうと、呆然と立ち竦みながら感じ取っていた。
「姫の、命と、」
 アフロディーテは何とか声を出したが、上手く喋れないようだった。何度か、咽の奥でくぐもった咳払いをした。
「命と引き換えに、トウドウは我々から手を引くと、そう言っていた。」
――姫が、何だと……?
 一輝は脈打つ頭を庇うように、視線だけを声の方へと泳がせた。 テーブルに、見なれた学ランが置かれていた。
「もう用なしという事だろう。私たちも上から見たらただの兵隊に過ぎん。ごろつきなど他に腐るほどいるからな……この東京には。」
 どこを見つめているのか、アフロディーテの瞳は傘をかぶったように、何も映してはいなかった。
「……姫は」
 一輝は漸く掠れた声を出した。アフロディーテとシュラは、驚いて振り向いた。
「一輝、気付いていたのか。」
 ずきずきと痛む頭を押さえて、重い身体を起こした。段々と記憶が蘇るのを感じる。少年を、確かにこの手で抱き締めた。それから口づけて、髪を撫でた。あのとき抱いた確信は、間違いだったと思いたい。
「アフロディーテ、姫の正体は……」
「すまん!」
 アフロディーテは崩れるようにその場に膝をつき、首を垂れた。ぱさり、とテーブルから学ランが落ちて、ポケットから何かが転がった。
 一輝はふらつく足取りで、テーブルの傍まで近寄った。床に転がったのは金古美の、学ランのボタンだった。
 自分が弟に与えたボタンだと、一輝は一目で理解した。
「やめろ、一輝!!」
 アフロディーテの肩を乱暴に掴み、拳を振り上げた一輝に、シュラは必死で掴み掛かった。掴んだ右拳が、ふるふるとわなないている。視界が熱く霞んでゆくのを感じながら、シュラは噛み締めた歯の奥から、声を絞り出すようにして言った。
「まだ殺されたと決まった訳じゃないんだ……警察に行こう。もう、俺たちだけでは限界だ。」
 一輝は掴んだ肩から手を離すと、近くの壁を力一杯殴りつけた。
「……そう血の気が多いから、アイツ、いつも心配してたんだぞ。」
 その言葉に、一輝は壁に向かって固く瞳を閉じた。シュラはもう、何も言おうとはしなかった。

 アフロディーテが運転する車中で、口を開く者は誰もいなかった。うっすらと霧が立ち篭めた早朝の路面には、他に行き交う車もなく、靄の向こうで飲食店の残飯をあさる、やけに多い烏と、鼠がうごめく影しか見えなかった。
 一輝はぼんやりと窓の外を眺めながら、瞬が何故、姫になりすましていたのかを考えていた。とりとめも無く、姫の姿が浮かんでは、消えた。
 初めて見たのは、花園神社だった。
 そういえば、あの時シュラから自分がヘッドになったのと、同じ時期に姫が就任したのだと聞いた。
 それから何度も夢に見た、湘南での抗争事件。腕を刺されたくせに、よくも自分に隠し通せたものだ。
 そこまで思って、一輝は考えるのを止めた。頭が熱を持ち、割れそうに痛かった。
 
 突然、車内の重苦しい沈黙を破るように、携帯の着信音が鳴り響いた。
 アフロディーテ保留ボタンを押すが、すぐにまた無機質な電子音が鳴り響く。片手でハンドルを握ったまま、アフロディーテは仕方なく通話ボタンを押した。
「……はい。」
 沈んだ声で答えながら、端末を肩と耳の間に挟んで、再びハンドルを握った。
『ブラックホールの……アフロディーテだな?』
 久々に聞くその声は、ルート16スターのヘッド、サガのものであった。
『そちらはどうやら厄介な事になっているようだな。』
 サガはいつものように、落ち着いた口調で話し始めた。
『ところで、今朝がた大変なお荷物を預かったのだが。』
「………?」
 突然投げかけられた言葉の意味が分からず、アフロディーテは、片手に携帯を持ち直し、スピードを落とした。
『お前たちのヘッドだよ。』
 サガは淡々とした調子で言った。だがアフロディーテの耳には力強く、その言葉は響いていた。
「ああ……!」
 人形のように表情を失くしていた青白い頬に、たちまち安堵の笑みが紐解かれた。
「そうか、分かった。よろしく頼む。あぁ、よかった……本当に! 」

 去年、サガ達の早とちりで起きた抗争事件は、紅龍会と相手の上とで手討ちになったのだと、アフロディーテは思い出した。恐らくその時、彼らの間に何らかの繋がりが出来たのだろう。
 電話を切ったアフロディーテは、すぐさまウインカーを出し、車線を変更した。
 右折した先に大きく掲げられたのは、神奈川方面の標識。
 進路変更したと同時に、ウインドウ越しに差し込んだ朝日が運転席を照らして、彼の笑顔をいっそう輝かせた。

「一輝、瞬は無事だそうだ! 今はサガにかくまわれている。」
 アフロディーテは進行方向を見つめたまま、後部座席の一輝に向かって語りかけた。
「トウドウの部下のイケガミという奴が見逃したのだそうだ。そういえば、あの男は姫をことさら気に入っていたからな!」
 バックミラーに映った、アフロディーテの美麗な笑みを、呆け顔で見つめていた一輝だが、身を乗り出すと唐突にシートに凭れたその肩を掴み、電話を取り上げた。本当か。と、何故か通話口に向かって語りかけている。
「一輝、通話は切ったぞ。……サガと話したかったか?」
 一輝は更に目つきを悪くして、ゆっくりと首を横に振った。
 これでも一応、得体の知れない行動に出る程驚いてはいるらしい。隣のシュラは、きょとんと自分を見返しているではないか。アフロディーテはくくっと咽で笑った。

     ★

 サガの待つ、海沿いのパーキングに到着した頃にはすっかり日も登り、おびただしい数の、車や観光バスが停車していた。
 サガは、人目の多い売店やトイレ付近を避けた駐車場の隅に、大きなハーレーを停めて、にやりと口の端を上げながら腕組みしていた。
 車から降りた一輝は、その背後に小さな人影を見付けて立ち止まる。サガの陰で、瞬は決まりが悪そうに隠れていた。
「行けよ。」
 もじもじと尻込みする瞬の背中をサガが後押しし、瞬は、ゆっくりと一輝のもとへと近付いてゆく。
「………。」
 長年共に暮してきた筈の弟を、まるで初めて見るような錯覚に、一輝はじっと弟を見つめたまま、黙って立ち尽くしていた。その瞳は、まるで驚いたように見開かれている。
「兄さん……僕……。」
 言いかけて止まってしまった瞬を、不思議そうな顔で眺めていた一輝は、思いあたったように腕を伸ばした。腕の中の弟は、そう、この大きさで。確かめるように身体の線を辿っていると、瞬が顔を上げた。
 目の前に、その瞳があった。
 丁度潮風の香ったこの国道で、燃え盛る炎を反射し暗闇で輝いていた。
 手を伸ばしても、届かなかった。
 腕の中で弟が、別のものへと変化してゆくような、不思議な感覚に一輝は瞬きしていた。だが羽ばたいてゆくのではなかった。彼はずっと傍にいたのだ。そして、これからも……。
「…あの、ごめんなさ……」
 黙ったまま、自分を睨んでいるかのような兄の様子に、瞬はいっそ消え去りたいと思いながらも、震えた声を出す。
「何も言うな。」
 怯えたように謝りかけた瞬の言葉を遮るように、一輝は耳許で囁いた。
 それでも開いた唇を、今度は深く塞いでやる。 
―― 小さな弟は、いつの間に成長したのだろう。
 めくるめく早さで脳裏にフラッシュバックしたのはルームスの薄暗い控え室。虐められ泣いてばかりいた弟は、いつしか他人の痛みに涙する少年へと成長していた。
 不良までになるとは逞しすぎる気がするが。ここまで自分に嘘を通すとは、強情すぎる気もするが……。
「お前が無事なら、それでいい。」
 長い口づけの後、一輝は腕の力を緩める事なくそう囁いた。
「今俺らがいるって事、飛んじゃってないか…?」
 いきなり目の前で展開されたラブシーンから目を逸らすように、シュラはアフロディーテに小声で言った。
 まあ、仕方ないか。
 最愛の弟と、恋した相手を同時に失いかけたのだ。少しくらい理性の箍が外れたからといって、とやかく言うのもあか抜けないよな。
 シュラはホウ、と息を吐いて頭を掻いた。

「姫の面は一部にしか割れていないが、事態が落ち着くまでは繁華街には出ない方がいいだろうと、イケガミからの伝言だ。」
 サガはそう言いながら、ヘルメットを被り「ああ、それから」と、思い出したように付け加えた。
「姫の正体については他言無用だ。命が惜しければな。」
 イケガミは、その足で警察に出頭すると言っていた。
 組同士の抗争で発砲事件が起きたり、幹部に死者や怪我人が出た場合、大抵は自首によってあっさりと片がつくものである。自首する犯人は身替わりである事が多く、その順番は若い者から回ってくる仕組みだ。
『姫と呼ばれる少年の死体が上がらないとなると、俺の刑期も少しは短くなるだろう。』
 気を失った瞬を抱きかかえたイケガミは、そう呟きながら、瞬の身柄をサガに委ねたのだ。
「これでブラックホールの統一体制は、跡形もなく崩れたという訳か。これからあちこちで、チーム同士の抗争が頻発するのだろうな。」
 アフロディーテの呟きにシュラはにやっと笑い、ポンポンと肩を叩いた。
「ま、腹が減ってはなんとやら、というだろ? とりあえず、東名ランチでも食いに行こうぜ!」
 シュラの言葉にアフロディーテも、フッと微笑みを浮かべた、が。
「昨日の晩から何も食ってないんだぜ?」と片手で擦ったシュラの腹からゴトリ、と落下したものを見るや否や薔薇の笑顔が凍り付く。
「うわっ!! お前……! 拳銃なんぞどっから持って来たんだ!」

     ★

 一輝と瞬が自宅マンションに到着したのは昼過ぎだった。
 兄弟対決のゴングはしかし、帰宅途中の車内で既に高々と鳴り響いている。
「駄目だ、絶対に許さん!」
「兄さんが良くて、どうして僕がダメなのさ!」
一輝の頬には蒼タン、瞬の首筋には紫の痣がくっきりと浮かんでいたが、瞬が兄の頬を殴って一輝が弟の首を絞めた訳では、もちろん無かった。
「いいか、お前は不良なんて柄じゃない、俺だけで充分だ。分かるだろう、大人しく勉強だけしてればいいんだ!」
「兄さんが危ない事ばっかりするからじゃないか。僕は心配してるんです!!」
 瞬は一輝を睨み付けた。ガンタレなら、ここ一年でかなり上達したはずだ。
「分かった……それは、分かった。」
 瞬の睨みが効いた訳でなく、しかし不良になった自分をどれだけ心配してきたか、車内で延々と説明された一輝は少々怯んだ。
 しかしそれはそれだ、と自分を納得させた一輝は反撃を再開した。

「だが何故そこでお前が狂乱の頭を張るという話になるんだ!!」
「ブラックホールは解散しちゃうし、仕方ないじゃないっ。」
 姫は死んだ事になちゃったし。と、瞬は付け加えた。
 半数近くの幹部に裏切られたのは、自分の至らなさが原因だ。
 しかしもともと後ろ盾あっての、ブラックホールの権威だったのだ。後見人が居なくなった今、残ったメンバーは、もっと強くて派手なチームに流れてゆくだろう。たとえば、狂乱怒濤とか。

「あの特攻服はフルモデルチェンジしないとね。」と、瞬は呟いた。白は飽きたから、ピンクとかが良いかな~? と、一人妄想を膨らませている。
「駄目だ駄目だ、ダメだッ!!」
 ピンクと瞬の、どのあたりが武闘派なんだ。いや、そうではなくて……。一輝は額に手をあてた。
「……分かった。狂乱怒濤も解散する、それでいいか?」
 狂犬と呼ばれた男も所詮はこの程度、先代もそこまでは見抜けなかったようだ。
 新宿で一斉を風靡した強豪チームの八代目に選ばれたのは、喧嘩の強い単なるブラコンだったのだ。
 こんなに簡単なら、ややこしい小細工などしなくても良かったな、と瞬は思いながら、兄を見上げて「本当?」と念を押した。
「男に二言はない。」
「他のチームに誘われたら?」
「俺はもともと群れるのが嫌いだ。」
「新宿で他人の喧嘩、横取りして歩かない?」
「……なんで知ってるんだ……。」
「姫が知らないことなんて、無いんです。」
 ピシャリとそう言い放つと、一輝は降参したようにフッと微笑い、瞬の身体を引き寄せた。細い首にくっきりと鬱血した痣を、そっと指の先で撫でる。
 一番大切な人が、失われなくてよかった。
 腕の中で安心したように微笑んでいる弟も、常にこれ程の心配を抱えていたのかと、一輝は思い知ったのだ。
「僕たち、なんだか怪我だらけだね。」
 瞬も兄の頬に出来た痣に手をあてながら、言った。
「他にも怪我してるのか?」
 瞬は出来たての擦り傷のある手の甲を、一輝に見せてから、サガに手当てしてもらったから、もう大丈夫だよ。と付け加えた。
 しかし一輝が、身に付けていた汚れたシャツのボタンを外し始めたので、瞬は観念したように「後、お腹と背中に、ちょっと……。」と呟いた。
「ちょっとか?」
 一輝は眉を潜めて瞬を睨んだ。
 透けるような肌に、赤い痣が大きく浮かんでいる。よく見ると片腕の付け根あたりにも、細い傷跡があった。縫合してからかなり経つのだろう。周囲の肌とさほど変わらぬ色の皮膚が、盛り上がって縦に伸びている。
 一輝は古傷を辿るように、無骨な指の腹を這わせた。

――俺が護り、育てるのだ。
 繰り返しそう自分に、言い聞かせてきた。
 だが護らねばならない存在は、いつしか自力で歩み始め、その姿に自分は惹きつけられて、強い庇護欲を抱いた。
「俺は、どうすればいい。」
 一輝は低い声で呟いた。込み上げる愛しさを、一体どうしたらいいのだろうか。
「兄さん、僕……。」
 するとその時、瞬が口を開いた。
「僕、兄さんが……ずっと、好きだったんです。」
 全て聞き終わらないうちに、一輝の腕は細い身体を掻き抱いていた。際限なく湧き上がる熱い想いが、胸を焦がすように苦しかった。
 好きだ。
 甘い痛みを堪えた呻きは、何度も繰り返された。どんな言葉を何度綴ったとしても、おそらく足りないだろうと思ったが、それ以外に発する言葉を今、自分は知らない。
 瞬、好きだ。
 身体と身体をぴったりと合わせて、兄の心臓の音と暖かい腕の力を思いきり堪能していた瞬は、耳もとでもう一度囁かれた、その言葉を聞いた。
 
     ★

 紅バナ戦争ともいわれた、紅龍会とはなだ組の血で血を洗うような抗争事件は、ハナダ組組長射殺事件を最後に、ハナダ組の解散で幕を閉じた。
 不良グループの統括者である「姫」の遺体は、イケガミが自供した場所からは見つからず、届けが出ている行方不明者とも一致しなかった。
 証拠物品として押収されたのは、犯行時に少年から奪い取ったというコインロッカーの鍵だけで、ロッカーからは白い特攻服と覆面が見つかった。
 少年の身許を確かめようにも既にブラックホールは解散していて「シュン」という名前しか知らないという組関係者が、唯一連絡用に使用していた携帯番号も解約済みだし、その契約者の少年も他チームへと散った少年達も、口を揃えて姫の素性はおろか、素顔すら知らないと証言した。
 結局、少年は正体不明で行方不明。謎を残したまま、捜査は程なくして打ち切られた。

 一方、東京のアウトサイドでは、…
 時期を同じくして解散した狂乱怒濤のヘッドと駆け落ちしただとか心中しただとか、様々な噂が飛び交っていたが、春休みが明けてみると当の一輝がいつものように学院に現れたので、その噂もすぐに消えた。
 以来、純白と紫の特攻服を、見た者はいない。


END 
02.11.21~03.04.25 (05.12.21 一部改訂)




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