其ノ十二 ブラックホールヲ撃沈セヨ!

 ――新宿駅東口、夕刻。
 駅前広場とアルタビルとを結ぶ交差点では、信号機の色が変わる度に、鈍い動きで人の群れが放出されては、塞き止められていた。
そんな中、人々の流れに逆流し、肩をぶつけながら交差点を渡る数人の少年たちがいた。この近辺によくいそうな柄の悪い不良である。
 彼等が向かった先は、コマ劇場の前の、ゲームセンターだった。
 大きな自動ドアが開くと平日のためか、あまり客はいないようだ。賑やかなBGMだけが、空しく店内に響いていた。
 彼らは店の奥でゲームに興じている、ある少年に目を留めた。ヒソヒソとなにやら話し合うと、背後からその少年に近寄って声を掛ける。
「ねえ。君、狂乱怒濤のメンバーだよね?」
 声を掛けられた少年は、自分を取り囲む少年たちを見回して、驚いたように少し間を置いてから、怪訝そうに頷いた。
「そうだけど……。」
「オラこっちこいや!」
 少年が答えたと同時に、彼らは少年を近くのトイレへと引きずっていった。

     ★

 狂乱怒濤の一員が襲われたことを、瞬は貴鬼からの電話で知った。
「渋谷のチームの仕業だって。」
 春休み、暇を持て余してアジトを訪れたアフロディーテに、瞬は言った。
「去年うちに喧嘩ふっかけた連中だな。またあそこか……。」
 アフロディーテは眉を潜めた。
 瞬は幹部の少年から名簿を受け取ると、手元に視線を落とした。
「ヘッドのウダガワは変わりないようですが、人数はあの時の倍に増えてます。」
 その場にいた一人が説明した。今年ヘッド補佐に就いたばかりの少年である。都内の高校に通う2年生である彼は、当然だが瞬よりも、年齢不良暦共に上回っている。
「諜報部と、他の連中はどうしたのだ。」
 いくら春休みだからといっても、集まっている人数が少なすぎる。アフロディーテは訝し気に尋ねた。だいたい、こういった事態を避ける為に、瞬は諜報部を派遣したのではないか。
「アフロディーテさん、実は……、」
 ヘッド補佐の少年は視線を泳がせながら呟いた。
「ここ一週間、諜報部の連中と連絡がとれてないんです。」
「何?!」
 アフロディーテは驚いて、瞬に顔を向けた。
「……やはり紅龍会だと思う。」
 暫しの沈黙の後、瞬の口から漏れた台詞に、アフロディーテは目を見開いた。
「紅龍会が狂乱を襲うよう、ブルーシャークスに嗾けたとでもいうのか?」
「トウドウさんがハナダ組の人間だったら、その可能性もある。」
 ブラックホールの後見人がハナダ組にまわった。紅龍会が敵対組織の戦力になる恐れのある、狂乱怒濤を潰す為、渋谷の不良少年に抗争を起こすように指示したとしても、不思議はなかった。
「俺たちに代理戦争でもさせる気か。」
 アフロディーテはそれだけ言うと、暫く黙り込んだ。
「とにかく、今確かなのはブルーシャークスが抗争を引き起こそうとしているって事と……。」
「うちの幹部の中で、寝返った連中がいるかも知れぬ、という事だな。」
「ごめん……。」
 瞬は悔しげに小さく呟いた。

 襲われたのは、今年狂乱怒濤に入隊したばかりの十三歳の少年だという。トイレの個室で倒れているのを発見され、すぐに病院に運ばれたが、しばらくは入院することになるだろうと、貴鬼は言っていた。
 チームのヘッドという立場である兄、一輝はこれで彼らと一戦交えずにはいられなくなってしまった。これも、全て自分の危機意識が足りなかったせいである。
 このままでは関係のないの揉めごとに、兄を巻き込むことになってしまう。無意味な抗争を避ける道は、一つしかなかった。
「僕は挑発にのるつもりはないし、上が揉めている間はどちら側に付くつもりもない。紅龍会と、トウドウさんに直接出向いて、はっきりさせるよ。」
 何故もっと早くそうしなかったのか、瞬が唇をかんだ時、丁度、連絡用に使用されている携帯電話が鳴り、瞬は反射的に通話ボタンを押していた。
『ブラックホールの姫出してくれ。』
 受話器から聞こえたのは、低い声の男性だった。瞬は怪訝そうに答えた。
「……僕ですけど。」
『ああ、君か。俺、トウドウさんの後輩で同じ組のもんだけど―――、』
 瞬の言葉に、気を許したのか男性の声色が緩んだ。男はゆっくりと話し始めた。

「誰からだ?」
 通話を切った瞬に、アフロディーテは尋ねた。
「丁度トウドウさんも、今から僕と話がしたいって。」
 瞬は慌てたように、鞄に荷物を詰め込むと、扉へと足早に向かった。
「あ、おい! 一人では……」
 言いかけたアフロディーテの言葉を遮るように、大丈夫! と笑顔で振り向くと、瞬はアジトを後にした。

     ★

「そいつは、変だな。」
 車中、シュラは助手席に座る一輝を横目で見た。
「渋谷の連中が、なんで新宿で暴れてるんだ。」
 チーム内の人間が一人でも暴行されたら、いや、単車の一つでも壊されたら、そこからチーム間の抗争に発展するのは当然の流れだった。つまり、一輝は挑戦状を叩き付けられたという事になる。
 以前、一輝が相手側のヘッドを負かした話は知っている。しかしそれは半年も前の話だ。今になって相手の縄張りに足を運び、わざわざ入隊したての少年を見付けて暴行するなど、考えにくい話だった。
 お前、なんかしたのかよ? と、シュラは一輝に疑るような視線を向ける。
 一輝は不機嫌そうにふん、と鼻をならしたきり答えなかったが、一輝がそんな馬鹿な真似をするとも思えなかったシュラは、思い出したように、言った。
「紅龍会かな。」
 シュラの言葉に、一輝は少し反応した。
「いやな、上の内部分裂の話はお前も知ってるだろう?」
 一輝は二月程前に、集会場で耳にした話を思い出した。
「派閥争いの事か。渋谷の連中がいずれか一方の組に付いたと? 」
「その可能性もあるな。だとしたら、厄介だぞ。まあ、喧嘩売られたからって買わなきゃならねえって法はないけどな。」
 シュラはウインカーを出すと、ハンドルを切った。前方には見なれた空き地が広がっている。
 枯葉が落ち、新芽が芽吹き始めた木々の陰に、ブラックホールがアジトとする、物置き小屋がひっそりと建っていた。
「何にせよ、今は姫の許可なしじゃお前だって動けないだろ。」
 ギアを切り替えながら、助手席の一輝に向けて努めて明るくシュラがそう告げた時、一輝の携帯が鳴った。胸元のポケットから端末を出すと、ショートメールであった。瞬からである。

今から友達と会う
ので遅くなっても
心配しないでくだ
さい 瞬

「心配するな……か。」
 携帯を閉じた一輝は、小さく溜め息をつきながら、停車した車のドアを開いた。

     ★

 子供の頃、ひっこみ思案だった瞬はよく、通っていた小学校で同級生にちょっかいを出されたり、からかわれたりして泣かされていた。通学路の公園で、彼らはよく瞬を待ち伏せして、ランドセルを取り上げたり髪の毛を引っ張ったりしながら、泣き虫、弱虫などとはやし立てたのである。
「弟をいじめるな!」
 自分の帰りが遅いと、心配した一輝がいつも通学路を辿って捜し出してくれた。一輝はまとわりついている男の子を、げんこつで殴ったり突き飛ばしたりして、虐められていた自分よりも、重い怪我を負わせてしまう事もしばしばだった。

 そんなある日、一輝に怪我を負わされた生徒達の親が、学校に抗議をしに来たこともあった。その結果、一輝は担任の先生に連れられて、それぞれの生徒の自宅まで謝りに行く羽目になったのだ。責任を感じた瞬は、自分も一緒に連れて行ってくれと頼んだ。
 まだ小さかったので、自分達が何を言われたかあまり憶えてはいなかったが、怪我を負ってしまった生徒の親の、怒鳴り散らしている姿だけは、なんとなく記憶に残っていた。
 親がいないから、こんな乱暴な子供になるんだ。
 そんなようなことを、言っていたような気がする。瞬は、兄が泣いているのではないかと思って顔を見上げたが、一輝は黙って唇を噛んだまま、俯いているだけだった。

 もの心ついた頃から、今よりずっとちいさな両手を広げ、兄は自分を庇ってくれていた。中学生になった今でも、兄のそんなところは全く変わっていない。
 去年不良グループに連れ去られた時だって、一輝は自分を抱いたまま、黙って殴られていたのだ。
 瞬は自宅に戻ると、学ランに着替えた。
 白い特攻服は、帰宅途中に月極で借りているコインロッカーに入れるため、覆面と一緒に紙袋に詰めた。
 ふと、シュラの言葉が頭をよぎった。

――これを着けてる時のお前は、一人の男としての、瞬だ。

 誰の力も頼ろうとせず、唇を噛んで立っていた兄さん。
 けれども兄さんは一人の男として「姫」を見つけてくれた。弟という、守らなければならない対象としてではなく。
 ポケットに財布を入れる時、指先に小さな固いものが触れた。一輝に貰ったボタンだった。

――兄さんが好きになってくれた僕は、ブラックホールのヘッドである僕だ。

 せめて兄が見込んでくれた分だけ、どうしても応えたかった。
 瞬はポケットの中で、ぎゅっとボタンを握り締めた。

     ★

 代々木公園駅を出ると、瞬は電話で指定された場所で、トウドウの姿を探した。トウドウやイケガミとは、一度制服姿で会ったことがある。 繁華街を逸れたこの通り沿いは、人影もまばらであることだし、多少薄暗くても自分を見付けてくれるだろう。
 西日が落ちたと同時に気温も一気に下がり、吐く息も白かった。
「あのー、代々木競技場ってこっちでいいんですか?」
 突然肩を掴まれて、瞬は振り返った。見知らぬ男だった。次いで男は後ろを振り返った。男の後ろ、反対側の車線には白いセダンが停車していた。と、前方の角を曲がった車のライトが、そのセダンを照らした。セダンには、どこかで見た事のある少年が乗っていた。
 少年が頷いた。
――素顔を見られてしまった少年だ。
 そう気付いたと同時に鈍い痛みが腹部に走った。
「調子こいてんじゃねえぞガキが!」
 男は突然声色を変えて、瞬の腕をつかんだ。
 胃の中が逆流しそうになるのを堪えながら、瞬は腹を押さえて膝をついた。男は瞬の腕を引っ張るが、僅かな抵抗に舌打ちすると、呼吸しようとその背が仰いだ瞬間、後ろから皮靴の底で蹴り飛ばした。その衝撃に、瞬は身体を折り畳むようにして倒れた。
 ずるずると、引きずられる身体が自分のものではないかのようで、瞬は間近に見えるアスファルトをただ、ぼおっと眺めていた。
 ――俺を、頼ってくれ。
 優しい言葉が、耳の奥で聞こえたような気がした。
 切迫した響きに痛い程の想いを感じて、ショックではあったが、心の片隅のほうで喜びを感じてはいなかっただろうか?
外気で冷えきったはずの肩に、あの時感じた兄の手の温もりが、じんと広がったように感じた。

 上半身を引っ張られた強い力と静かなエンジン音に、瞬の意識が覚醒してきた。気を失っている場合ではない。
 背中と腹と、地面に擦れた片手の甲がじりじりと熱を持ったように脈打っている。だがこんな痛みがどれ程のものだというのだ。
 瞬は自分を叱咤しながら、なんとか手を動かすと、制服のポケットに手をあてた。

     ★

「ハナダ組が引き入れようとしていたのは、ブラックホールだったのか。」
 シュラはアフロディーテから事情を聞き、驚いたように言った。
「まぁ、今姫がトウドウに呼び出されて代々木公園へ行っている。帰ってくれば、その辺りの背後関係がはっきりするだろう。」
「代々木公園?」
 アフロディーテの言葉に、一輝が反応した。直感だった。
「ああ、そうだが……。」
 答えながらアフロディーテは、初めて、姫にかかってきた電話を不審に思った。咄嗟にテーブルに置かれたままの携帯に手を伸ばす。
 アフロディーテの表情の変化に、一輝は眉を潜めた。
「一人で行かせたのか?」
「私も一緒に行った方がいいとは思ったのだが。」
 ……非通知だ。
 携帯の着信番号を調べたアフロディーテは呟いた。今までトウドウやその部下たちが連絡をよこすときに、番号表示がないことなど一度もなかった。
「しまった! 諜報部のやつら……!」
 アフロディーテは舌打ちした。ブラックホール内部の人間ならば、この携帯の番号は誰でも知っていた。
「今まで、上から渋谷近辺に呼び出された事は?」
「……ない。」
 答えと同時に、一輝は立ち上がった。
「アフロディーテ、そのトウドウって男の連絡先は知っているな ? そっちを確認してくれ。俺は代々木公園を捜す。」
「待てよ!」
 シュラは慌てて一輝の後を追った。
「ブルーシャークスの連中が咬んでるな、さっきの話から察すると。」
 腹立だし気にそう呟く一輝の腕を、シュラは掴んだ。
「まだ決まった訳じゃないんだ。トウドウって奴と連絡とれてからでも……」
 シュラは過去、一輝と修羅場を共にした事がある。そんな自分だからこそ、一輝の静かな殺気に気付くことができた。この男が着火点に達してしまったら、どうする事もできないのだ。一輝は無言でシュラの手を振り払うと、つかつかとアジトの扉へ向かった。
「勝手にごたしてどう収集するんだ! お前はチームの頭だって自覚あるのかよ。」
 シュラは一輝の背中にそう叫びながら、テーブルに一旦戻ると、車のキーを手に取り、慌てて一輝の後を追う。
「こんな奴、ほっとけ……ないんだよなあ。」
自分だって五十人の人員を抱えるリーダーである。シュラは、軽く肩で息を吐いた後、アジトを後にした。

     ★

 代々木公園を一周したが、ジョギングをしている男性や帰宅途中の会社員とすれ違っただけで、姫の姿も、不審人物も見当たらなかった。
 園内では数人の若者が踊りの練習をしている。地べたに置かれたラジカセから漏れる、軽快なリズムを除いて、辺りは静まり返っていた。
 先程アフロディーテに電話してみたが、トウドウの携帯はずっと圏外のままで、未だに連絡がとれないという。
 一輝は集会場で見た、青いバンダナを巻いた、ウダガワのことを思い出していた。姫の素顔を狙ってブラックホールに挑んだ時と違い、一輝は集会場で見た彼の表情に、何か張りつめたものを感じ取っていた。
 今思えば、それは予感だったのかもしれない。
 二人は、ブルーシャークスの溜り場へと足を向けていた。ブラックホールのアジトにあったチーム名簿から、彼らの溜り場についての情報は得ている。
「たった二人きりで乗り込むなんて、揉めごとになったら骨も残らなんな。」
 気乗りしない様子のシュラに、一輝は表情を変えずに言った。
「嫌なら来るな、迷惑だ。」
 迷惑……その二文字をコイツにだけは、言われる筋合いがない。シュラはピキリ、とこめかみに青筋を立てた。

 殺風景なビルの二階、時折瞬くハイネケンのネオンサインの下で、シュラは一輝と共に、ガラス戸から店内を覗き込んだ。
 とある深夜営業のカフェバーの薄暗い店内一番奥のテーブルが、ブルーシャークスの特等席だった。
 煙草の煙で白く霞む中に、十数人の若者がヘッドを取り囲むようにして椅子に座っている。
 一輝はドアノブを下げて扉をほんの少しだけ開け、ちらりと横目でシュラを見た。半分やけではあったが、すでに腹を決めたシュラも、目だけで頷いた。一輝の瞳は店内の明かりを反射して、異様に輝いている。その口許が、うっすらと笑みを形どったような気がした。その時。
 ダーンと物凄い音を立てながら、目の前で扉が開いたので、シュラの目が点になった。顔を強張らせながら、そろそろと視線だけ足下に落としてゆくと、一輝の右足が一歩、敷居を跨いで入っている。
――こ、こいつ……
 シュラの顔が引きつった。
 扉を蹴り開けたのだ。
 扉は勢い良く開いた後、再び激しい音を立てながら壁にバウンドし、一輝のつま先に当たってようやくキィ、ときしみながら止まった。
 ブルーシャークスのメンバーを含め、店内の客の視線が一斉にこちらに集まる。大きなテレビ画面で映し出された、どこかのロックバンドの激しいビートだけが、薄暗い店内に響いていた。
 一輝は顎をくいと上げると、余裕の素振りで奥へと進んだ。シュラはその背中を見てフッと笑う。
「成程、それがお前の処世術ってわけね……。」
 シュラは大きく息を吸うと、広い肩を一杯に張り、右腕の付け根をぐるぐると回しながら一輝に続いた。

 ドカリと椅子を蹴り倒して進んだ一輝は、集団が囲むテーブルの端に直接座った。続いてやって来たシュラは隣のテーブルにより掛り、怠い素振りで腕を組んだ。
「な、なんだよ……何しに来やがったんだ。」
 驚いて立ち上がったのはブルーシャークスのヘッド、ウダガワである。突然現われた二人の姿に、明らかに動揺している様子だ。
――まったく、喧嘩というやつをよく知っていやがる。
 シュラは内心呆れたように呟いた。
 この時点で複数の敵を相手に、自分たちが既に優位に立っている事がシュラには分かったのだ。相手の溜り場に出向いて尚、一輝の態度は太々しいまでの自信に溢れていた。

「貴様の部下が、俺のシマでなめた真似をしてくれたようだが、この際見逃してやろう。後輩はちゃんと躾ろよ。手前の面汚しになるぜ。」
 一輝のらしからぬ台詞に、シュラは吹き出しそうになるのを、口元だけでニヤリと笑って堪えた。
「な、何だとてめえっ! 黙って聞いてりゃ偉そうな口たたきやがって!」
 ブルーシャークスのヘッドも負けてはいられない。周囲の少年たちも一斉に身をのりだした。シュラもそれを受けてテーブルから重心を離しかける。
「鼻へし折られただけじゃ足りないようだな。」
 一輝は、静かに言った。
 その台詞に、以前思いきり顔面を殴りつけられた記憶が蘇ったのか、ウダガワは顔をこわばらせたまま黙り込んだ。
 睨みあったまま、一輝はウダガワの胸ポケットから煙草とジッポーを取り出すと、穂先に火を付けた。スムーズな手の運びであったが、一輝が喫煙する姿をシュラは今まで見た事がない。煙草を挟んでいるのが、中指と薬指の間であるのに気付いたシュラは、今度こそ笑いそうになったが、口元を覆うように煙を喫む姿は、なかなか様になっているような気もした。
 硬直したウダガワの顔に煙を吹き掛けるようにして、嫌味な笑みを浮かべたこの男の行動が、明らかにハッタリなのは、店内に入った時からシュラは気付いていた。シュラも調子を合わせるように言った。
「生憎、貴様らとやり合ってる暇はないんでね。」
 誰だ、あのスカした野郎。一人の少年が呟いた。
 馬鹿、ゴールデンのヘッドだ。耳打ちされた少年は黙り込んだ。
 武闘派集団、狂乱怒濤とスピード狂いのゴールデンカプリコーン。両者その名を知らない者はもぐりと言われるほど、勢力のあるチームである。本来なら相反する性質の、強剛チームのヘッド同士が何故か肩を並べてここにいる。少年たちは固唾を飲んだ。

「姫が何者かにに呼び出されたまま、行方知れずになっている。」
 シュラの台詞に少年たちは黙り込んだ。
 やはり、何かを隠している……。シュラがそう確信した時だった。 バタン、と店の扉が閉じた音に、シュラと一輝は振り返った。
 少年が三人、店内に入ってきた。
 うち二人は集会場で見た、ブラックホールの新幹部である。
「お前ら!」
 シュラの声に気付いた幹部達は、顔を見合わせたかと思うと、もの凄いスピードで店から飛び出した。しかし、一輝は残されたもう一人の少年の顔にもまた、見覚えがあった。
「やつは確か……!」
 渋谷での抗争の晩、姫の素顔を見た少年が、貴鬼以外にも何人か居た筈だ。一輝は弾かれたように少年のもとへと走った。少年は驚いて身構える。
「おい、一ッ……」
 明らかに今までと違う一輝の様子に、シュラの表情が変わった。
一輝は彼を見て、何かを感じたに違いなかった。
「貴様っ、今まで何処に居た!!」
 一輝は少年の胸倉を掴んで怒鳴った。
「何しやがんだ! やんのかよ?!」
 ウダガワが目をむき出してテーブルに飛び乗った。
――まずい!
 シュラは態勢を整えた。
「違う店で呑んでたんだよ、なんか文句あんのかよ。」
 一輝の瞳を睨み返しながら、少年は、上着の合わせに手を入れた。
「一輝!!」
 シュラが叫んだ。
 ガシャーン、とガラスの割れる音が店内に響いた。ウダガワがテーブルの上のグラスを蹴散らしながら、こちら側へ飛び降りたのだ。金属製の灰皿が、床に当たって派手な音をエコーさせ灰がもうもうと広がった。
 漸く騒ぎに気付いた店員が近付いて来る。店員は口を開きかけたが、目の前の光景に思わず息を呑んだ。
 少年が上着に手を入れたが早いか、一輝は彼の鳩尾に膝を叩き込んだ。手早く少年の胸元を探り、一輝が取り出したものは小型の拳銃だった。
「ぶっ殺してやる!」
 罵声を飛ばしたウダガワの前に立ちはだかったのはシュラである。ウダガワは右手を振り上げたが、シュラはすかさず左の手首で拳を弾き、開いた拳を鳩尾に打ち込んだ。一瞬顔をしかめたが、ウダガワはすぐに重心を移動し、片膝でシュラの腹部を力一杯蹴り上げた。
「ゲホッ!」
 シュラが怯んだ隙に少年たちが殴りつけ、ウダガワは一輝の方へと猛進した。
 少年を壁に押し付けている一輝の襟を背後から掴み、勢いよく引き剥がす。突き飛ばされた一輝の目が、ウダガワの肘が閃くのを捉えた。
 ガキッ
 飛びかかったウダガワの巨体とともに、一輝は頬を打ち付けられたまま倒れ込んだ。ウダガワは上半身を擡げて更に肘鉄を飛ばしたが、一輝は瞬時に身体を捻って避けた。一輝は、男の頭のバンダナを鷲掴み、引き寄せ、右手に握った拳銃の銃把を顔面に勢いよく叩き込んだ。
「ガッ」
 一輝の腕で押さえ込まれたウダガワの顔面は衝撃を全て受け止め、鮮血が粉のように散った。
 一輝は倒れた男には目もくれず、再び少年のもとへと歩み寄った。その目には、何者かが乗り移ったかのように、怪しい光が宿っている。
 少年はあとじさった。
「呑んでただけ、か。こんなもの呑ませてくれる店があったとはな……ああ?!」
 手にした拳銃の銃口を、少年の額に当てながら一輝は怒鳴った。 騒々しい店内においても、一輝の低い声は店中に響き渡っていた。メンバー達はぴたりと動きを止め、一輝を見遣った。
「一杯幾らだ。幾ら払ったんだよ!姫の素顔と引き換えか。そうだろう?!違うのか?!」
……いっちまってるよ。
 シュラは歪んだ口でぼそっと呟いた。俗にいうぶっち切れ、とは、こういった状態を示すのだろう。
「お、おい……殺す気かよ。」
 今にも引き金を引きかねない一輝の様子に、ウダガワは掠れた声で言った。銃をつきつけられた少年に至っては、声を出す事すら出来ない様子だ。
「一輝、とりあえず落ちつけ!」
 シュラも一輝の尋常でない様子にたまらず口を挟む。無論そんな周囲の声など、一輝の耳には全く入っていない様子だ。一輝は、更に声を張り上げた。
「姫はどこにいる!!言うんだ!!」
 初めて味わう銃の威圧感に、少年は自然と首が反るのを感じた。
 拳銃を構えるのは、自分だったのではないか。少年は思った。何でこの男に、銃口を突き付けられねばならないのだ。
 押し付ける手が安全装置を外したのを感じて、しかもその動作が自然になされた事に、少年は気付いて背筋が凍った。
 汗が脇を伝い落ちるのを感じる。
 普段着のはずの一輝の背に、何故か狂乱の二文字を垣間見た気がした。
「分かった……もうこれ以上、恥かかさないでくれ。」
張り詰めた緊張の糸を緩めたのは、ウダガワの呻くような声だった。一輝は手にした銃はそのままで、振り返った。
「はなだ組が姫を組織に引き入れるって話だ。」
 ウダガワが苦し気に口を歪めて言った。
「なに?!」
 シュラは目を丸くした。
「姫は……あいつは、少しは頭が切れそうだからな。姫を抱き込めば兵隊としてお前らも動かせる。その前に姫を脅かして動きを封じとこうって、そんな寸法だろう。どのみちブラックホールの時代は終わりだ。紅龍会は俺達のバックにつくと約束した。」
 だがな、一輝よ。
 ウダガワは鼻から流れ出る鮮血を手の甲で拭い、言った。ウダガワは続けた。
「俺達がブラックホールの後釜についたからといって、メンバーを目の前でやられては、俺はヘッドとして立つ瀬が無い。」
 一輝の手に押さえ付けられたまま、少年はウダガワを見上げ、溜まらずに目を閉じた。汗が目に入り、恐怖で涙が滲んだ。
 ウダガワの瞳は、あの集会場で見た時と同じように、鈍い光を放っていた。
 やっかいな事になりそうだ、一輝がそう思った時だった。
「こ、紅龍会の人にあれが姫だって教えただけです! 他には何も……!」
 少年はまるで、坂道を転がり落ちる勢いで一気に喋った。
「やはり、紅龍会が連れ去ったのか。」
 ようやく落ち着きを取り戻した一輝は、低く言った。
「ええ。トウドウって名前を使って姫を呼び出せって言われて、それで車に乗せて、うっ、海沿いの事務所に行くっていってました。」
「海沿い……湾岸か。」
「東雲の町ビル7階の事務所です。後は自分何も知りません本当です。」
「シュラ。」
 一輝は表情を変えずに、低く呼んだ。
「後を頼む。」
「…頼むって……オ、オイ!」
 シュラは無理矢理手渡された拳銃と血ぬれのウダガワを見比べ、そして背後に棒立ちになっている少年たちと、その更に後方で、口を開けたまま立ち尽くす店員に気付き、それから初めて滅茶苦茶になった店内に気付いた。
「出来れば奴とは、二度と関わりあいたくねえ……。」
 店の扉を開け、夜の闇へと消えてゆく一輝の後ろ姿をみつめながら呟かれたウダガワの台詞は、彼と拳を交えた人間ならば必ず抱く、ごく一般的な感想である。
 シュラは肩をすくめると、深く息を吐いた。

     ★

「まずい……これは本当にマズい。」
 瞬は闇の中を手探りで進みながら、震える声で呟いた。あまりの寒さと焦りとそして恐怖とで震える手を胸に当て、それでもなんとか自分を落ち着かせようと、立ち止まって何度か深呼吸した。
 事務所の一室に監禁されていた瞬は、隙をついて脱走を試みた。部屋の外が突然騒々しくなり、見張りの男達がバタバタと走り去る気配に、瞬はこっそりと部屋を抜け出したのだ。
 しかし長い廊下を走っている途中、遠くから響く足音に気付いて、数ある中から咄嗟に選んで開けた扉が、悪かった。いや、悪いなんて生易しいものではない。
 それは恐らく人生最悪の選択ミスだった。自分のくじ運の無さを、これほど呪ったことはない。
 駆け込んだ室内では、何人かの男が揉み合っていた。室内の中央にあるテーブルには、大量の拳銃が置かれている。
 紅龍会の男たちと争っている人影の中に、イケガミやトウドウの姿を見付けて、瞬は思わずあっ、と叫んだ。
 男たちが自分に気付いたと同時に、誰かが発砲し、目の前に立っていた男が倒れた。
 瞬はTVドラマでしか死体など見たこともなかったが、仰向けに倒れたその男の瞳が、既に生気を失っている事くらいは察しがついた。
 その後あっという間に銃撃戦になり、瞬はどさくさに紛れて部屋を飛び出した。
 もはや瞬の頭からは、トウドウやイケガミと話をしようなどという考えは、綺麗さっぱり消えていた。
 事の経緯は分からなかったが、どうやら、トウドウやイケガミなどハナダ組の者が、 事務所に押し入ったようだ。
 彼らが何を狙ったのか、大量の拳銃がそれに関係しているのかなんて、無論、瞬の知った事ではない。
 ただ一つはっきりしていることといえば、あの死体は恐らく冷たい海底にでも沈められるであろう事と…
「……僕も同じ目に遭うかも知れないって事かな。」
 冗談じゃない。
 瞬は音を立てないように気を付けながら、震える足を一歩一歩 踏み出して、ビルの暗い非常階段を降りていった。
 前方に広がる黒い東京湾から吹き上げた風が顔面に当たり、何度も足を踏み外しそうになる。ハッと息を呑む度に、ろっ骨の辺りが軋むように、痛みを訴えた。
「……兄さん……。」
 あまりの心細さに、知らずに愛しい人の名を呼んだ。こんな時間になっても戻らない自分を、兄はきっと心配しているに違いない。

 どの位降りた所だろうか、見下ろすと悪夢のように続いていた闇がようやく底を見せ、路面らしき黒いアスファルトが広がっていた。その事に、ほんの少し励まされながらも瞬は、いくつめかの踊場にたどり着いた。
 その時、下方から階段をかけ上がる音が、微な振動と共に伝わるのを感じた。ギクリと足先から衝撃が伝い、心臓が跳ね上がる。
 振り返ってもと来た階段を登ろうとしたが、走ることはおろか、一歩でも踏み出すことが出来ない自分に、瞬は驚愕した。
 全身がこわばり息が詰まって、心臓すら止まりそうになりながら立ち竦むだけで、おおよそ保身とは程遠い身体の反応に、瞬は泣きたくなって目を閉じた。
「姫か?」
 踊場の隅で動けなくなっていた瞬の、冷たい制服の袖を掴み呼んだその声に、全身の力が抜け落ちて、瞬はその場に崩れた。
 尻持ちをつく寸前で慌てて伸びた腕が腰を支え、軽々と引き寄せられた。とん、と大きな胸に倒れ込むと、両手で抱き竦められた。
 それは紛れもなく、求めた兄の腕だった。
 どうしてこの人には分かるのだろう。ずっと昔から…そう、きっと自分の記憶にあるよりも、もっとずっと前からだ。自分が一番苦しい時に差しのべられたのは、いつもこの暖かい腕だった。
「大丈夫だ……。もう、大丈夫だ。」
 細い身体を覆うようにきつく抱き締めた一輝は、震えの止まらない背を擦りながら耳許で繰り返し、そう呟いた。
 締めつける腕の強さが息苦しくて瞬が顔をあげると、冷えきった唇が一輝のそれに軽く触れたのを感じた。少年の身体が、ビクリと驚いたようにはねるのを感じて、一輝は抱き締める腕に力を込めた。
「・・・・・。」
 胸の高鳴りが悟られるのではと思う程、兄の胸と密着している。
 瞬はその時初めて、一輝の鼓動の速さにも気付いて、同時に自分が今、姫であり、兄の想い人であったことも思い出した。
 ゆっくりと一輝の顔が近付くのが分かった。
 自分は少し猾いのではと、瞬はちらりと思ったが、唇を覆った温かい感触に、何もかもがするりと頭から抜け落ちた。瞬はただ、兄の身体に夢中でしがみついた。
 口付けは、何度も、何度も繰り返されてその都度に深さを増していった。
 闇に紛れた互いの存在を、確かめ合うように舌を絡め、唇を押しつけ、両手で顔を、髪を、身体を辿り。
 暫くそうしている内に、夜の匂いと潮の湿った空気に紛れて、よく知ったかおりが、ふわりと一輝のもとへと漂った。
――このかおりは。
 この感触、息遣い……そして、あの吸い込まれそうに澄んだ瞳は。

一輝は抱き締めていた身体を、そっと離した。
 肩に両手を置いて、見えない相手をじっと見据える。
「瞬……か? 瞬、なのか?」
 低く呻くような声が咽から絞り出された。一輝の視線がしっかりと自分を捉えているのが、暗闇でも分かった。
 瞬は答えるべき言葉を捜して沈黙した。ごくりと喉を鳴らすが、カラカラに渇いたそこは、空気すら通さない程に張りついている。
 本当のことを。自分が兄に隠して来た事実を…。瞬は口を開けた。 

…………ァァアッ!  
 悲痛な叫びが静寂を引き裂いたのに、一輝は気付いた。と、同時に、頭部に走った激痛に思わず低い呻きを漏らす。
 悲鳴は、目の前の少年のものだということと、そして確かに愛しい者の声だということと……そして全身から絞り出すような叫び声は、聞くに堪えなかった。
 一輝は硬直した身体をやんわりと抱いた。
「……泣くな。」
 なんとかそれだけ告げると、一輝は前のめりに倒れた。

「その人は関係ない! 僕の正体にも気付いていない!」
 兄の首根をつかみ、自分から引き剥がしたイケガミに向かって、瞬は必死に叫んだ。
「ふん、お前の仲間が一匹紛れ込んだか。」
 イケガミは力なく両手を垂れる一輝に、冷たい視線を送った。
「ガキの一人や二人始末するのは造作もないが……こんな小物を殺る程暇じゃねえよ。」
 一輝の身体を放すと、瞬に近寄った。イケガミは兄を、助けに乗り込んできたチームの一員か何かとでも思ったようだった。
 それで良かった。今ここで、彼が自分の兄だと知れたら間違いなく一輝も標的にされるだろう。
「もう少しあとだったら、お前が仲間だったら良かったんだけどよ。だがこっちも追い詰められてるんだ。お前を生かしとくわけにはいかないんだよ。」
 イケガミは瞬の首を両手できつく締めた。
「俺も本当はこんな事したくないんだ。お前があんなもの見ちまうから……分かってくれよな。」
 イケガミの声は震えを帯びてきたが、比例するように締め付ける力は更に強まった。気管を握りつぶす握力で、華奢な首が悲鳴を上げた。息がつまり、外気の氷るような冷たさに反して、顔がかっと熱くなった。集まった血と熱で今にも頭が破裂しそうだ。
 苦しげに喉を反りながら、抗う両手がイケガミの手首に爪を立てた。だがそれも長くは続かない。
 にいさん
 呼吸の止まった唇が、弱々しく呟くように、だが発する音無くそう綴った。うつろな瞳は、ぼんやりと宙を見つめている。
―――兄さんごめんね。ずっとあなたをだましてた。
 あなたの傍にいたかったから。
 あなたが、好きだったから。
 瞬はゆっくりと瞳を閉じた。祈りのような閉瞼だった。
 一筋の涙が、頬を伝って闇にとけこんだ。
「……許せ……!」
 イケガミは迷いを振り切るかのように、腕に力を込めた。



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