メッセンジャー 3

 その夜、固い床に寝付けず、毛布の下で寝返りを打った星矢は、ヒタヒタと独房に近づく裸足の足音を聞いた。
「おにいちゃん。」
 弱々しく呼ぶ声に、一輝はすぐに目を覚ましたようだった。あるいは自分と同じように、毛布の下で息を潜めていたのかもしれない。もぞもぞと起きあがる気配のあと、掠れたような声が低く弟の名を呼んで応えた。

 脱走できぬように頑丈に鍵が掛けてあるこの部屋は、四方が壁に囲まれていて、まさに独房さながらの様相だった。そんな中、食事などを出し入れする小さな窓口が一つだけあり、一輝を呼ぶ声はそこから聞こえてきていた。

「何しにきたんだ、早く布団に戻れ。見つかると叱られるぞ。」

 だが瞬は一輝の言葉に従うかわりに、首に下げたペンダントを取り出した。鎖の触れ合う音で、それが何なのかを一輝はすぐに理解した。
 本当のところ、瞬にはそれほど母親に対しての深い思い入れがなかった。
 その存在はなんだかとても曖昧で、このペンダントにしてみても、母の忘れ形見というよりも、単純に兄からもらった"たいせつなもの"としか、幼い瞬には受けとめることができなかったのだ。
 だからこのペンダントを持つのは本来なら兄が相応しい。その思いは、日を追うごとに強まっていった。仲間たちの噂話が耳に入るたびに、こんなに弱虫な自分が聖闘士になどなれる訳がないと、どこかで諦めを感じていた瞬は、だから尚更。

「……あのね、本当はこのペンダント、返そうと思ってたの、だってお母さんのカタミ、なくなっちゃったら、おにいちゃん悲しいでしょう?」
 瞬がこのような話を切り出そうとすると、一輝は必ず敏感に気付いて厳しくそれを咎めた。
「――なんだって……?」
 だが喉から絞りだしたような声は、闇の中ではとても苦しそうに聞こえる。
 瞬は懸命に続けた。
「でもね、でも……おにいちゃん、代わってくれたから……、」
 そこから後の言葉は途切れて、シクシクとすすり泣くような声がしばらく室内に響いた。その間も一輝はただ黙って瞬の言葉の続きを、辛抱強く待った。
 やがて、くしゅ、と鼻をすすって小さく息を吸い込む音が聞こえた。そして、
「……ぼく……帰ってくるね。」
 一輝は静かに目を閉じた。

(ごめんなさい、おにいちゃんごめんなさい。)
 伝えたくとも言えなかった想いの代わりに、やっと見つけたその言葉を、瞬はせいいっぱいに伝えようとしていた。自分の陰に隠れてばかりいた弟の、初めて聞くその決意の言葉は、一輝が最も望んでいたものだった。
 ふいに昼間に聞いた、光政の言葉が頭をよぎり、つきんと胸に痛みがさした。
 もしかすると自分は、瞬の心に消えることない暗い影を、落としてしまったのではないか。

 だがいくら考えを巡らせても、他に方法など思いつくはずもなかった。どんな手段を使っても、僅かでも望みがあるならばそこに縋り付いてでも、この弟が生延びる道を、見つけ出さねばならない。
 もっと自分に力があれば、ちゃんと守ってやれたのだろうけど。
(ごめんな……瞬、ごめん。)
 一輝はだが、喉を締めつけるような思いを抑えこみながら、今いちばん伝えなければならないことを言った。
「約束だぞ。俺も必ず、戻って来るからな。」
 今は他のどんな言葉よりも、瞬にも、そして自分にも必要な言葉だった。

 瞬が去った後、背中を丸めた一輝が声を押し殺して泣いていたのを、星矢は気付かぬふりをして目を閉じた。
 やっと眠りにつけたのは、夜明け近くではなかったろうか。


「……そこに花畑があって、女の人が花を摘んでいね……兄さん、昔こんな夢を見たんだ。」
「ああ。」
 けぶる睫毛をまたたかせた瞬が、気怠げに身を起こして兄の胸板へ頬をつけた。髪に指を絡み付かせるかたちで、一輝の手は自然と亜麻色に収まった。
「今になっても鮮明に思い出せるんだ……きっとすごく綺麗な情景だったからだろうな。」

 ああ、兄さんにも……、

 一輝は黙ったまま、その言葉の続きを聞いていた。
 あの頃のもどかしさはもう無く、あたたかい溜め息が胸に触れるのを感じる。
 今頃うっとりと閉じられたであろう、透き通った彼の瞳を、
…瞳を、映すことの叶わぬ己がそれを、一輝は瞼を落として遮った。





END  06.07.20

 

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