「A RAINY DAY」


   T


 雨が、降っていた。
 雫の伝う窓の向こうは、闇に沈んでいる。
 奇妙に静かな白い建物の中に、ガラガラガラと忙しい音が響いた。同時に、急ぐ足音がばたばたと重なった。
「先生!伊藤先生は先程帰られたそうです。どうしましょう?」
「ちっ、仕方ない。田中先生を呼べ!走れば五分だ、走らせろ!」
「はい<」
 手術室に向かう廊下を足早に行きながら、医者と看護士が言葉を交わす。
「あ、あのっ」
 その間に一人の中年女性が必死の形相で口をはさんだ。
「息子は、明は助かるんですかっ?」
 涙をためた瞳で訴えてくる女性に、医者は真剣な目を向けた。
「まだ分かりません」
「そんなっ!」
「ただし、手術の成功率は八十パーセントを上回ります。私達はもちろん全力で手術にあたります。あとは明君の体力が保てば、明君は助かります」
 しっかりと言い放ったと同時に、手術室の扉が開いた。女性はつらそうに顔をゆがめながらも立ち止まり、静かに頭を下げた。カシャーン、と扉が閉まっても、女性は頭を下げたままだった。そしてそのまま、その場に崩れ落ちた。
「・・・・・っ明・・・・!」
 遠くから足音が聞こえてきた。二人分の足音に、女性がぱっと顔を上げた。
「母さんっ<」
 どうやら旦那らしい男に肩を支えられ、女性は震える泣き声をもらしたのだった。


「克則」
 コーヒーを飲んで落ち着いたらしい女性が、駆けつけてきた十五才の息子に言った。
「克則、あなたは家に帰っていなさい」
「母さん?」
 突然の言葉に、克則は眉をひそめた。
「あなた明日学校があるでしょう?早く帰って寝んだほうがいいわ」
「そんなっ!」
 確かに明日は月曜日だけれど、弟が事故にあったっていうのに呑気に学校なんて行っていられるはずがない。
 そんな克則の肩に、母はそっと手を置き言った。
「それに、電話番をしていて欲しいのよ」
「電話番?」
「ええ。これから母さんおばあちゃん達の所に電話するから、もしかしたら何か伝えに電話がかかってくるかもしれないでしょう?起きていたらでいいから、それに応えてあげて。ね?」
 優しい声でなだめるように言われ、克則は仕方無しにうなずいた。明が事故にあったとき、側にいたのは母なのだ。母が一番つらいのは克則にも分かった。その母相手に駄々をこねるなど、克則には出来なかった。
 何かあったらすぐに電話するように念を押して、克則は重い足取りで病院をでた。
 タクシーで帰るようにと持たされた紙幣を握りしめ、屋根の下から一歩でると、そこは雨の降り注ぐ冷たいコンクリートの世界だった。
 克則は、紙幣を握る手に力を込めると、向こうからやってくるタクシーに弱々しく手を挙げた。


   U


 冷たい雫が首筋に落ちた。
 克則は瞬間的に首をすくめる。
 嫌な気分だった。
 どうせこの扉を開けても、冷たい部屋しか待っていない。そう思うと、玄関の前から動けなかった。
 一体どちらがつらいのだろう・・・?
 克則はくっ、と貨幣を握りしめた。
 病院に残って明の心配だけしていればいいのと、こうして孤独に堪えるのとでは、一体どちらが楽なのだろう?
 考えて克則は、意地の悪い質問だと苦笑した。オレはなんて薄情な兄なのだろうと、克則の胸をキリリと締め付けた。
 はあーっとため息をついて、貨幣をポケットに突っ込んだ。同時に家の鍵もしまう。
 電話番なんかどうだっていい。どうしても家に帰りたくなかった。独りが、たまらなく嫌だった。



 オレは、雨の中に踏み出した。
 自然と行く方向は決まっていた。どこに向かっているかは分かっていないはずはなかったが、オレはしばらく知らないフリをした。
 しかし、知らないフリをしているはずなのに、いつのまにか足が速くなる。いつのまにかその名前を胸の内で叫んでいる。どうしよう、もう、独りに堪えられない・・・・。
 冷たい、冷たすぎるんだ・・・・。
「・・・・っ!」
 だれか、だれか・・・・!いいや、だれかじゃない。さっきからずっと、オレが唯一求めているのは、
「克っちゃん?」
 =
 オレは過敏に反応して立ち止まった。幻聴、だろうか・・・?オレがあんまり彼を求めたから、声が、聞こえたのだろうか・・・?
「克っちゃん、どうしたの?」
 しかし、それは幻聴ではなかった。
 電灯の下、オレの求めていた彼の姿が現れた。
「たつ、や・・・・?」
 掠れたような声が出た。
 彼は、ジーンズにセーター、それにマフラーを巻いたラフな服装で、片手にはコンビニのビニール袋が下げられていた。
 見慣れた甘ったるい茶色の瞳に、オレは今すぐに飛びつきたい衝動に駆られた。
「克っちゃん、傘は?ないの?」
 達也のほうが軽い足取りで駆け寄ってきて、オレを傘の下へ導きいれた。
「・・・・・達也、」
 その名がオレの口からこぼれた。瞬間、抑えきれないものがオレの胸を突き、オレは情けなくも泣きそうになった。
「達也・・・・、達也、どうしよ、オレ・・・・」
 弱々しい声に、達也は首を傾げてオレをのぞき込んだ。眼鏡をすかして茶色の瞳が見える。その瞳にオレの情けない顔が映っていた。でも、いくら情けなくても、もう止められなかった。
「あの、・・・・・弟が、交通事故で、今、手術中で・・・・。ね、達也、オレ・・・・どうしたら・・・・、」
 一瞬目を見張った達也に、オレは恐る恐る彼を求めた。達也は人前でくっつくのを嫌がったから、その手を拒まれてもおかしくなかった。でも達也は、自然に、少しだけだが手をさしのべてくれた。オレはそれが許しだと分かり、しがみつくように抱きついていた。
「母さんが克則は家に帰って、って。オレだってあいつの側にいてやりたいのに!父さんも母さんも・・・、誰もいない家になんか帰りたくない!」
 強い力でしがみつくオレの背中を優しくなでながら、達也がそっとささやいた。
「克っちゃん、ねえ克っちゃん・・・、」
 羞恥の色を帯びた声が、オレの鼓膜を優しく震わせる。
「克っちゃんの家、だれもいないんでしょ?じゃあ、俺行っちゃ駄目?」
 まるで誘うようなセリフに、オレはぱっと顔を上げた。しかし、その表情から心配の色を見て取り、オレはそっと彼から離れた。
「うん、いいよ」
 オレはこくりとうなずいた。



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