紅い弾丸

「おかえりなさい。今日は早いのね」
家に帰ると、いつも通りの香が俺を迎えてくれた。
美味そうな夕飯の匂いと、いつものシャンプーの香り。
「もう風呂入ったのか?」
「うん。お夕飯作ってたら汗かいちゃって。リョウも先にお風呂入る?」
「いや、とっとと飯にしてくれ。俺もう腹減って死にそう〜」
「もうお腹減ったのぉ?お昼あれだけ食べといて!」
香が大げさに、呆れたという顔をする。
「あんなんじゃすぐ消化しちまうよ!俺は育ち盛りなの!」
それを受けて、俺も大げさに、子供のように拗ねた表情を作る。
ままごとのような日常。
「今日は報酬が入ったから、ちょっぴり奮発したのよ」
「おまーは普段ケチケチし過ぎ」
「あんたがちゃんと働かないのが悪いんじゃない!」
軽口を叩き合いながらの、賑やかな食卓。

いつも通りの二人の時間を過ごしていると、
先ほど訳の分からない不安を抱えていた自分がバカバカしく思えてくる。
(香は香じゃねえか。俺は何を不安に思ってたんだ?)
そうやって自分を納得させ、不可解な香の変化については、深く考えないことにした。

依頼が終わったばかりで、珍しく懐が温かいせいか、香の機嫌も悪くない。
今宵は久々に、歌舞伎町でもっこりナイトと行きますか。
ルミちゃん待っててね〜♪
俺はようやくいつもの調子を取り戻し、鼻歌を歌いながら、
夜の街へと繰り出して行った。

-----頭の片隅で鳴り続ける警鐘には、気付かぬ振りをして。

それからまた、普段通りの日々が続いた。
俺は昼までぐーたら寝て、香に叩き起こされ、
昼は日課のナンパに出かけ、香にハンマーを食らい、
夜は情報収集という名の夜遊びをしまくり、朝帰りをして香に簀巻きにされ-----
そんなふうに、表面上、日々は穏やかに過ぎていった。



-----だから、久々に顔を出したオカマバーのママからその話を聞いたとき、
俺はまさに青天の霹靂、寝耳に水で、聞いた瞬間頭が真っ白になり、
何を言われたのか、すぐには理解ができない程の衝撃を受けた。

「リョウちゃん、私見ちゃったわよ〜香ちゃんが、すっごくイイ男と浮気してるとこ♪」

ママは、ようやく俺をからかうことが出来て嬉しくてたまらない、
といった様子で、俺の隣に座るなり、野太い声で歌うようにそう言った。

俺は飲みかけの水割りを盛大に噴き出した。
「ぶっ・・・はあ?何言ってんの?」
心底驚いた顔で聞き返す。
「あら?リョウちゃん、まさか知らなかったの?」
ママはさも意外だという顔をして、平然と言ってのけた。
「もう随分前のことだから、当然リョウちゃんも知ってるもんだと思ってたわ。
ミックも知っていたし」

ミック?ミックも知っていただと?

香に何らかの変化を認めて以来、奴はことあるごとに、
俺に、俺と香との関係を追及して来た。
それが鬱陶しくて、最近ではわざとあいつが行きそうな店を避けていたのだが------

香が浮気?ミックも知っていた?随分前から?


呆然とする俺を尻目に、ママはカラカラと笑いながら、なおも続けた。
「あらあら、言っちゃまずかったかしらねぇ。香ちゃんに悪いことしちゃったわぁ」
俺は急激に喉の乾きを覚え、何とか自分を立て直そうと、一気に水割りを煽った。
「浮気って・・・あいつと俺は、そもそもそういう関係じゃねえし・・・」
体裁を取り繕うため、無理矢理言葉を絞り出す。
先ほどからのママの一連の言葉が、
半死状態の俺の脳みその上っ面を、クルクルと回り続けていた。
「もう、照れちゃって!最近香ちゃんキレイになったって評判よぉ。
リョウちゃんもウカウカしてらんないわね!ほら、見てみなさいよ!」
そう言ってママが、どこからともなく取り出したのは、
綺麗に着飾った香が、やたらイイ男と絡み合っている、一枚の写真------------

----------------------------------------の載った、ファッション雑誌だった。

俺は、思いっ切り脱力した。
知らず知らずのうちに詰めていた息を、大きく吐き出す。



「浮気って、これかよ・・・」
「なーんだ。やっぱり知ってたの?」
「いや、知らなかったけど〜」

2ヶ月ほど前から、香の親友でファッションデザイナーである絵里子が、
パリから日本に帰国していることは知っていた。
最近ではちょくちょく、香をランチに誘ったりもしているらしい。

(どうせ、絵里子さんに脅されるか、泣きつかれるかして、
似合いもしねえモデルなんてやらされたんだろうな、香の奴)

裏の世界などより、よっぽど香に似合っているという事実は、敢えて無視した。

(この件を俺に黙っていたのは、言う必要がないと思っていたのか、
モデルをすることにあまり良い顔をしない俺に、敢えて隠していたのか
・・・・・・多分、後者だな)

ようやく脳みそがまともに働き始めたことを実感すると同時に、
香が俺に隠し事をしていたことに対して、わずかながらの苛立ちを覚えた。

「でもこうやって見ると、香ちゃんって本当にキレイよねえ!
普段の香ちゃんからは想像もできないくらい、女っぽくって艶っぽいし。
最初はこの私ですら、これが彼女だと気付かなかったほどよぉ」
ろくに写真を見ようともしない俺に、ママが無理矢理雑誌を突きつける。

確かに写真の中の香は、明らかにいつもと違って見えた。
肩と胸元が大きく露出した深紅のドレスを纏い、
太ももまである大きなスリットから、形の良い白い脚を覗かせ、
血のように紅いルージュの唇に、艶やかな笑みを浮かべている。
そして何より、隣に立つ男性モデルと四肢を絡ませているその様は、
まるで情事の最中を思わせ、香の中の「女」を強烈に引き出していた。


頭の中の警鐘音が、一段と大きくなる。


----------------俺はその音から逃れたくて、
その夜はバカみたいに飲みまくり、アホみたいに騒いで、
前後不覚に陥るほど酔い潰れたのだった。



どこをどう彷徨ったのか、気が付いたら家に居た。
やけに喉が乾いている。
ミネラルウォーターを飲もうと冷蔵庫を開けると、中は空っぽだった。
俺は文句を言ってやろうと、あいつの姿を探す。

あいつ----------------そう、香だ。

香はどこだ?

台所にも、リビングにも、香の姿は見当たらない。
あいつの部屋を覗いてみたが、そこにも香はいなかった。
「香ぃー」
俺はあいつの名前を呼びながら、次々と扉を開ける。
俺の寝室、ベランダ、屋上。
どこにも、香の姿はなかった。
俺は迷い子のように途方にくれて、
ただウロウロと、あいつの姿を求めて家中を探し回った。
残るは地下だけ。
俺は地下へと続く細い階段を、一段一段ゆっくりと降りて行った。

あいつはもうこの家にはいないのかもしれない。

俺を置いて出て行ったのかもしれない。

俺はまた独り取り残されるのか?

泣き叫びたい程の不安が急速に俺を襲う。
頭が痛い。
足元がおぼつかない。
グラグラする。

俺は壁に縋り付きながら、何とか階段を降りきり、
震える手で、地下室の重い扉を開けた。




香が--------------居た。

「何だ。こんなところに居たのか、香」

香の姿を見付けたことに安堵し、
香に近付こうと、地下室に足を踏み入れようとした-----
その時、俺は香の異変に気付いた。

香は、独りではなかった。
見知らぬ男が、香に覆い被さっている。
「香から離れろっ!」
俺はとっさにパイソンを抜き、銃口をその男に向ける。
「香っ!こっちに来い!」
香に向かって手を伸ばすが、香はこちらを見ようともしない。
それどころか、その男の背に腕を回し、強くしがみ付き、
更には高く持ち上げた脚を、その男の腰に絡み付かせていた。

香は-----全裸だった。

「香っ!」

俺は悲鳴のような声で香の名を呼び続けた。



香は俺を見ようとしない。
今まで見たこともないような妖艶な顔で、
聞いたこともないような淫猥な声で、
真っ白な肌を桃色に上気させ、
全身で、男に答えていた。


-----気が、狂いそうだった。


香 香 香 香っ!


「うぉおおおおおおおおっ!!」

俺は獣のような雄叫びを上げながら、
絡み合う二人に向かって、パイソンをぶっ放した。
銀色の弾が、違うことなく真っ直ぐに、香もろとも男を撃ち抜いた。
辺りに鮮血が飛び散る。

呆然と立ちすくむ俺に、
全身を真っ赤に染めた香が、ゆっくりと視線を向ける。


そして、その血よりも紅い唇で、うっとりと俺に微笑みかけたのだった---------




-------目覚めは、最悪だった。

悪夢の余韻を振り払いたくて、無理矢理寝床から這い出す。
ズキズキと痛む頭を抱え、ズルズルと重い体を引き摺り、
吐きそうな胃をなだめながら、キッチンに向かった。


光に満ち溢れたキッチンでは、香がいつも通り、
下手な鼻歌なんぞ歌いながら、せっせと料理に勤しんでいた。
ドアにもたれたまま、その後姿をぼんやり眺めていると、
俺に気付いた香が、こちらを振り返り、明るく笑った。

「あら、お早う。自分から起きて来るなんて、珍しいじゃない!」
香の声が、二日酔いの頭にガンガン響く。
「〜〜〜〜〜香ちゃん、もうちょい静かに喋って・・・」
俺はぐったりとリビングのソファに倒れ込んだ。
「み・・・・・・みず・・・」
「もう!あんなに飲み過ぎるからでしょ!
明け方玄関に倒れ込んだあんたを寝室に運ぶの、すっごく大変だったんだから!」
香は更に声のトーンを上げて、容赦なくぎゃんぎゃんと声を荒げる。
それでも、冷たいミネラルウォーターを入れたコップを差し出すその手は優しかった。
それを一気に流し込み、やっと喉の辺りに込み上げていたすっぱいものをやり過ごす。


「その様子じゃ、朝ご飯は無理そうね。と、言っても、もう昼近いけど」
「う〜〜〜〜こんっな状態で、お前のマズイ飯なんか食えるかよ・・・」
どんな状況でも、憎まれ口ならいくらでも出て来る。
「マズイ飯で悪かったわね!こんなことなら、ご飯作るんじゃなかったわ。
どうせあんたの分だけなんだから」
ブツブツ文句を言いながら、さり気なくお代わりの水を用意するために
キッチンに向かう香を目で追った。
エプロンを外した香は、普段より幾分綺麗めな格好をしており、
その顔にも、軽く化粧が施されていた。
「-------どっか出掛けるのか?」
俺は香の差し出す2杯目の水を受け取りながら、何気なく聞いた。
「絵里子にランチに誘われたの。だから今日は、ちょっと恵比寿の方まで行って来るわね。
夕方には戻るから」
「ふ〜ん」
絵里子さんの名前を聞いて、俺は昨夜の嫌な出来事を思い出した。
そもそもこいつが俺に変な隠し事をしたりするから、
俺がこんなに飲むハメになったんじゃないか!
半ば八つ当たり気味に、出掛けようとする香に向かって、嫌味を言った。
「お前また、絵里子さんに頼まれてモデルのバイトしたりしてんじゃねえだろうな?
こういう商売やってんだから、下手に顔売るような真似すんなよ」
少しは慌てればいいと思って言ってやったのに、予想に反し、香は平然としていた。
「当たり前じゃない。そんなことくらい、私だって分かってるわよ」
香には些かの動揺も見られない。

動揺したのは俺の方だ。

香は元来隠し事が下手だ。まして嘘を吐くことなど、尚更。
だから、俺が香の嘘を見抜くのなんて、簡単なことだと思っていた。

しかし、今、目の前にいる香は、平然と俺に嘘を吐いている。

「じゃあ、私、行って来るから」

軽やかな足取りで出て行く香を、俺は呆然と見送った。





二日酔いで、頭が上手く働かない。
それでも、頭に鳴り響く警鐘音が、もう無視できないところまで来ていることを、俺に知らせた。

「-----ったく、手間掛けさせんじゃねえよ」

俺は手早くシャワーを浴びて、体に残る酒気を抜き、
赤いクーパーに乗り込んで、香の跡を追った。


香の服に付けた発信機を辿ると、香はまだ新宿駅の東口近辺にいた。
恐らく埼京線を使って恵比寿に向かうつもりだろう。
裏道を飛ばして、とりあえず恵比寿駅に先回りし、香が現れるのを待つ。
煙草をふかし、発信機の位置を確認しながら、ジリジリ待った。

---------------来た。

家を出る時にはしていなかったサングラスをかけた香が、
駅から姿を現し、足早に人波に紛れて行った。
背が高く颯爽と歩くその姿は、人ごみの中でも充分目立つ。
俺は香に気付かれないように距離を置き、そのまま車で跡を付けた。
(まるで人妻の浮気調査をする探偵だな)
ふとそんな考えが頭を過ぎり、俺は自嘲気味に笑った。

香は駅からほど近いとあるビルの中に姿を消した。
それは洒落たファッションビルで、1Fと2Fはブランドショップ、
その上の階は、撮影スタジオと、いくつかの事務所が入っているようだった。


ここで仕事中の絵里子さんと待ち合わせをしているのだろうか?
まさかこのまま、ここでモデルの仕事をさせられてるんじゃあるまいな?

このまま香が出て来るのを待つか、ビルの中に乗り込むか。
決めあぐねていると、香がすぐにビルから出て来た。
独りでビルの前に立ち、キョロキョロと辺りを見回している。
やがて、ビルの裏手から現れた一台の車が、すっと香の前に止まった。
香は微笑みながらその車の方に歩を進める。
背の高い男が運転席から降りて来て、助手席に回りこみ、恭しくドアを開け、
香を助手席へと導いた。
助手席のドアを閉め、再び運転席に向かうその男の顔を見て、俺は吃驚した。
そいつは、例の写真で、香に寄り添い、四肢を絡め合っていた-----あの男だ。


香が? 男と?


-------体中の血液が、一気に逆流した。

ファッション誌の中で、艶やかな笑みを浮かべていた香と、
昨夜の悪夢の中の香が、オーバーラップする。


落ち着け。あれは夢だ。


自分自身に言い聞かせながら、
慎重に、動き出したその車の跡を追った。


---------冷静になれ。


香が、あの香が、俺に嘘を吐いて男と会ったりするはずがない。
あの男は、絵里子さんが使っているモデルだ。
この後、絵里子さんと合流するつもりかもしれないじゃないか。

しかし、俺のバカみたいな希望的観測は、あっさりと打ち砕かれた。

二人は誰とも合流することなく、駒沢通り沿いのカフェでランチを食べ、
再び車に乗り込むと、今度は渋谷の道玄坂方面へと向かった。


もう疑いようもない。


----------------香は、俺を裏切ったのだ。
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