紅い弾丸
-------今、この瞬間が夢ではないと、いったい誰が言い切れるだろう。
ぬくぬくとした生活の中で、優しく俺に微笑む香。
全身を血で紅く染め上げ、妖艶な顔で微笑む香。
-------そして今、薄暗いラブホテルの駐車場で、呆然と俺を見つめる香。
どれが夢で、どれが現実だ?
なあ、教えてくれよ。
「香」
自分でも驚く程、冷たい声だった。
名を呼ばれ、香がビクンと身を竦ませる。
「香?どうかした?」
傍らの男が、明らかに様子のおかしい香の肩を抱きながら、尋ねた。
「知り合いか?」
突然目の前に立ち塞がった俺に、あからさまな不審の目を向ける。
-----その名を呼ぶな。
-----香に触れるな。
俺は無言で男に歩み寄ると、香の肩に回された男の腕を捻り上げた。
痛みに顔を歪めるその男を、そのまま剥き出しのコンクリートへと叩き付ける。
「ぐっ!」
「やめてっ!」
我に返った香が、慌てて男に駆け寄り、その体を支える。
「大丈夫?」
「あ、・・・ああ。あいつ、知り合い?」
「・・・うん。ごめんなさい」
泣き出しそうな顔で、うつむく香。
「香が謝ることないよ」
それを気遣い、そっと香の頬に手を伸ばす男。
互いに労わり合うその姿は、まさに相愛の恋人同士のそれで、
寄り添う二人はまるで絵のように美しく-------------反吐が出る。
「香」
俺はもはや、一瞬たりともこんな茶番に付き合う気はなかった。
全身から溢れ出す殺気を隠そうともせず、
絶対者の声で、香を呼ぶ。
俺の最後通告を、香は正しく理解した。
小さく、しかしはっきりとした声で、「ごめんなさい」と男に告げ、そっとその身を離した。
蒼白の顔が、真っ直ぐ俺に向けられる。
香はもう震えてはいなかった。
一歩、一歩、揺るぎない足取りで、俺に向かって歩いて来る。
強い意志を宿した、純粋で真っ直ぐな眼差し。
それは、確かに、俺のよく知る香だった。
そう、初めて会ったあの日から、
俺は、ずっとこの眼に魅かれていたんだ---------
「どうかなさいましたか?」
監視カメラで異変を察知したホテルの従業員が、奥の扉から姿を現した。
ラブホテルの駐車場で対峙する、長身の男二人と女一人。
どう見ても、三角関係の痴情の縺れだ。
ここで刃傷沙汰でもやらかされては堪らない。
「何かトラブルでしたら、警察を呼びますよ」
従業員も必死だ。
「何でもない。部屋はどれでもいい。キーをくれ」
俺は香の腕を強引に掴み、自分の元に引き寄せながら言った。
「か、かしこまりました。こちらへどうぞ」
有無を言わさぬ俺の迫力に、従業員は慌てて俺達をフロントへと案内する。
香は一瞬驚いたような顔をしたが、抵抗せず、素直に俺に従った。
完全に無視される形となって取り残されたもう一人の男に、
従業員が、ちらりと同情の視線を送った。
部屋は余計な装飾のないシンプルな部屋だった。
白木の家具で統一された室内は、そこらのシティホテルと変わらない。
ただ、部屋の中央に据えられた大きなベッドと、昼でも固く締め切られた窓、
妖しい光を放つピンクの間接照明が、
そこが、そのためだけの部屋だということを暗示していた。
大人しく部屋の中まで付いて来た香の腕を解放し、
軽くベッドへと突き飛ばす。
倒れ込んだ香は、慌てて身を起こし、乱れたスカートの裾を直した。
俺が、テーブル越しに向かいのソファーに腰を下ろすのを確認すると、
香は警戒しつつも、ベッドの端に浅く腰掛けた。
「-----さて、言い訳を聞こうか。香ちゃん」
俺は、一切の感情を交えない声で、切り出した。
心の中は、冷え冷えと冷め切っている。
こんな気持ちで、香と向かい合う日が来ようとは。
「-----言い訳って、何の?」
俺の意図を量りかねた香が聞き返す。
「絵梨子さんと会うんじゃあなかったのか?」
噛んで含めるように、ゆっくりと問うた。
「・・・・・・」
長い沈黙。香は答えない。
「答えられないのか?じゃあ、質問を変えよう。香、あの男は、何者だ?」
「・・・モデルをやっている人よ。二ヶ月くらい前、絵梨子の紹介で知り合ったの」
ようやく口を開いた香は、諦めたような、淡々とした口調で答えた。
俺も、淡々と尋問を続けた。
「あの男は、俺達の-----CITY HUNTERのことを、知っているのか?」
「-----知らないわ。彼は裏の世界とは全く関係のない人間よ。
私のことも、ただのモデルだと思ってる」
香は、あの男が表の人間であることを強調した。
「---そうだな。ちょっとでも俺達のことを知っていたら、
お前に手を出そうなんて、考えもしなかっただろうな」
「・・・・・・」
『槇村香に手を出したら命はない』
それは、裏の世界に関わる人間なら、どんな下っ端でも知っている不文律だ。
香を襲おうと狙った男達に、俺は一切の情け容赦を掛けなかった。
香の知らないところで、もう幾人もの男達を、闇に沈めてきた。
俺はそうやって、裏の世界の男達から、香を守ってきたのだ。
しかし、そんな脅しも、表の世界の人間には通用しない。
数年前の俺は、むしろ、香が表の世界の男と結ばれ、
裏の世界から脚を洗うことを望んでいた。
例えそれが自分の本意ではなかったとしても、
それが香の幸せなのだと、そう信じていた。
しかし、何年も香と共に暮らし、パートナーとしての信頼を深め合い、
家族としての確かな絆を築き上げるにつれ、
香を失いたくない-----という、身勝手な気持ちが、
日に日に俺の中で強くなっていった。
香を不幸にしたくない。
香を手放したくない。
板挟みの気持ちで苦しむ俺に、
救いを与えてくれたのも、香だった。
生きて、ずっと俺の側にいる、と。
俺の側にいることが幸せだ、と。
そう言ってくれた香から、俺に対する確かな愛情を感じ、俺は癒され、救われた。
ずっと共に生きよう。
絶対にお前を守りぬく。
-----そう誓った日々は、本当に幸せだった。
香が与えてくれる柔らかな日常は、
物心ついた時から戦場で育ち、母のぬくもりも知らず、
この世の地獄だけを見続けてきた俺に、地上の楽園を教えてくれた。
家に帰れば、香がいる。
温かな食事と、柔らかな寝床を用意して。
香が優しく、俺を迎えてくれる。
そんな甘い夢のような生活を失うのが怖くて、子供のように駄々を捏ね、
現実から目を背け、本当の香を見ようともしなかった。
頭の中の警鐘は、ずっと鳴り続けていたのに。
---------この世に、楽園など、ありはしない。あるのは、人間の欲望だけだ。
「あの男と、寝たのか?」
目の前に座る、もはや己の幻想ではない、
現実の、一人の女となった香に問いかける。
「寝たわ」
香は、俺の眼を見て、きっぱりと答えた。
「あの男に-----惚れているのか?」
-----これ以上、聞きたくない。
-----だが、聞かずにはいられない。
俺は香に、どんな答を期待しているのだろう?
一時の気の迷いだったと言い訳をし、
泣きながら俺に許しを乞い、
俺の足元に縋り付き、
俺の側にいると誓う
------そんな香の幻想が、頭を過る。
この期に及んで尚、香の優しさにしがみ付こうとする、
己の浅ましさに反吐が出る。
香は俺に許しを乞う必要などないのだ。
誰を愛そうと、誰と寝ようと、香の自由だ。
それを裏切りだと思うのは、俺のエゴだ。
俺は、死刑宣告を下される罪人のような気持ちで、
香の答を待った。
しかし、暫時逡巡した後、
香から発せられた答は、予期せぬものだった。
「-----別に」
香は、少しだけ視線を下に向け、ポツリと答えた。
それはまるで、叱られた子供のような風情だった。
「惚れてもいない男と、寝たのか?」
つい俺の言葉にも、香を詰る響きが混じる。
それを敏感に感じ取った香が、きっと顔を上げた。
「そうよ。悪い?」
わざと俺を挑発するように、蓮っ葉に言い捨てる。
俺は唖然とした。
こんな香を、俺は知らない。
「香・・お前!」
「彼とは、割り切った関係よ。リョウにも、分かるでしょ?」
挑戦的な眼で、俺を睨み付けてくる。
-----やめろ。やめてくれ。
「男が欲しくて、あの男と寝たってのか!?」
「そうよ!」
香の絶叫が、締め切った狭い部屋に響き渡る。
空気がピン、と張り詰めた。
やがて、苦しそうに顔を歪め、香が、喘ぐように、呟いた。
「リョウにとっても・・・その方が、都合が、いいんでしょ?」
-----何を言っているんだ?香は?
都合がいい?ああ、確かにそうだ。
現に俺はそうしてきた。
男女の関係は他に求め、香には家族としての絆だけを望んだ。
そうすれば永遠に-----------香を失わずに済むと、そう考えていた。
だから香もそうすると?
俺には優しい家族の顔だけを見せて、
男女の関係は他に求め、
俺には見せない女の顔で、あの男に抱かれ、
何でもない顔をして、ぬるま湯のようなあの日常を演じ続けると?
-----そうなのか?香?
俺は、呆然と、香を見つめた。
俺は、今の今まで、
香が現実に他の男に抱かれることなど、考えもしなかった。
自分の都合ばかりを押し付け、香の優しさに甘え、
女としての香を、ずっと無視し続けてきた。
-----これが、その報いなのか?
今まで築き上げてきたものが、ガラガラと、音を立てて崩れていく。
--------------------------------------許せない。
どうしようもない破壊的衝動が、俺の頭を支配する。
目の前の香は、泣きそうに潤んだ眼で、じっと俺を見つめている。
------------美しい女。
あの男は、この体に触れたのだ。
俺の知らない香を、あの男は知っているのだ。
冷たい刃金の糸が、ギリギリと俺の胸を締め付ける。
---------------------------------------許さない。
ズキズキと痛む心臓から垂れ流された血は、
やがて凍て付いた俺の心の中の、ぽっかりと開いた穴へと流れ込み、
急速に凝固し、一発の弾丸となった。
紅い弾丸は、俺の腹底に横たわる、漆黒の蛇の中に、カチリと納まる。
それが、合図だった。
もう何年も俺の中に眠り続けていた、獰猛な蛇が目を覚ます。
飢えた化物は、躊躇いもなく、目の前の極上の獲物へと牙を剥いた。
------もう、逃がさない。
香
お前は、俺のものだ---------------------