leave
1.
グレイの濃淡で統一された部屋は、格式のあるホテルにふさわしく、
ソファやテーブル、壁の絵にいたるまで、落ち着いた歓迎の雰囲気を醸し出していた。
白い百合が飾られた花瓶の色は明るいロイヤルブルー。
清らかな花の匂いが、こじんまりとしたスイートに満ちている。
「あ……」
消えいるような女の声。
ソファには男が、ゆったりと腰掛けている。心からくつろいでいるように、
口許には微笑があった。ネクタイは外していたが、白いシャツのボタンは
きちんと首までとめられている。長身であることは座ったままでもわかった。
洗ったように濡れた金髪が、男の顔を柔らかく縁取る。
――男は、裸の女を膝に乗せ、その胸と太腿を背後から優しく撫で続けている。
「……降参はまだ?」
ぐったりとした女の耳に甘い声で囁く。仰向けになって目をつぶり、
男に体を預けていた女がその声にびくりとして、体を強張らせる。
力なく首を振り――目から新しい涙が溢れる。
「そんなに我慢したって、長引くだけだよ」
溜息混じりに、しかしどことなく愉しげな様子で、男は再び女に囁いた。
そのまま唇で耳朶を甘噛みする。小さく呻いて女が顔を背けると、そのせいで
白い首筋を男の目の前にさらすことになった。男は笑って、そこに舌を這わせる。
「や……」
「まだ足りない?」
男は両手を滑らかに動かした。左手で胸の頂を摘み、もう片方の手は足の付け根に這わせる。
女の芽を転がし、指先で的確に快感の場所を探り出す。女の喘ぎがそれを教える。
「ああっ……あ……んっ」
「脚、もう少し開いて……」
女の脚は、テーブルの上にしどけなく投げ出されていた。男の手でそれをさらに広げられる。
体内に侵入する指を感じて、女の声が急に高くなった。そこは今まで散々嬲られた証拠に、
たっぷりの蜜をあふれさせている。男の指が中をかき回した。
くちゅくちゅという淫靡な音が部屋に響く。
「やっ、あ……あああっ!」
切羽詰った女の叫び。だがその様子を注意深く見守っていた男は、にやりと嗤うと
唐突に指の動きを止めた。そのまま引き抜く。女の腰がなにかをねだるように切なげに揺れる。
「……ミ……ク」
「いきたい?ちゃんと言えたらいかせてあげるよ。”抱いて欲しい”ってね」
今夜――数え切れないほど。達する寸前まで引き上げられ、そして放り出されることを
繰り返して来た女の体は、赤く上気してぶるぶると震える。男は唇に軽くキスをした。
女の口から動物のような呻き声が洩れる。
「どうする?」
男の嗤いはだんだん深くなっていった。メフィストフェレスの微笑。
狙いを定められた獲物はもう、逃げられない。
2.
――そのおよそ1時間前。時計が20:00の表示に変わった瞬間。
忙しなく二度、玄関のチャイムが鳴った。音だけでなぜか不吉な感じがして、
”どなたですか”と訊く香の声は妙に硬くなっていた。
「カオリ?俺だよ。……開けて」
「――ミック?」
いつもの軽やかな、甘い声ではない。今にも倒れそうなミックのかすれ声に、
香は慌てて玄関の鍵を回した。細く開けられたドアの隙間からのぞく、金色の髪。
「ミック!どうしたの、こんなに」
12月の雨は氷のように冷たい。ミックは頭から水を被ったようなひどい姿だった。
毛先から滴り落ちる雫。厚手の黒いコートも、着ているのが重そうなまでに湿って見える。
それに何より、彼の顔色は信じられないほど真っ青だった。目だけが光って香を見返す。
「早く入って!今タオル」
「いいんだ、カオリ。それより頼みがある」
ドアを広く開けてから、タオルを取ってこようと背を向けかけた香の腕を、
濡れたミックの手がつかんで引き止める。――冷たい。死人のような冷たさ。
香は思わず息を呑んだが、ミックはその様子に気づかず早口で問いかけた。
「会って欲しい人がいるんだ。今すぐ一緒に来てくれないか」
「あたしに?誰?」
「ごめん。今は言えない。――急がないと間に合わないんだ」
「……会うのはいいけど、ミック、とにかくお風呂に入って。このままじゃ風邪ひくわ」
香の返事を聞いて、ミックの眉は、苛立ったようにひそめられた。いつもの彼らしくもない。
「心配してくれるのはありがたいが、そんな暇はないんだよ。カオリ」
ミックの目には必死の懇願と苛立ちが浮かんでいる。一刻を争う事態らしい。
どんな事情かはわからないけれど。彼がそう言うなら行ってあげなければ。
香は心のどこかで迷いつつも、頷いた。
「1分だけ待って。支度してくる」
「そのままでいい。車だし、何も必要ないから」
「でも……ほんと、すぐ」
そう呟いて、逃げるように奥へ走る香の背中に、諦めたようなミックの声が追いかけて来た。
「30秒で……頼むよ」
香は全速力で部屋に飛び込んだ。財布を鷲づかみにし、それだけをショルダーバッグへ放り込む。
手近にあったバスタオル、壁にかけてあったダウンジャケットを順番に腕にかけたところで、
ふと思いついてそれを放り出し、テーブルの上をかき回す。鉛筆を見つけ、
メモ紙のきれっぱしに、走り書きで撩宛ての伝言を書く。
<出かけます ミックとだから心配しないで>
一旦玄関まで行って、とりあえずミックにバスタオルを放り投げ、
それから彼女はリビングに戻る。メモを目立つところに置いてヒーターの電源を消し、
テレビを消し、電気を消す。指さし確認。よし。完璧。
玄関へ戻ると、頭に被ったバスタオルの隙間から、ミックがあるかなきかに薄く笑った。
「42秒。上出来だね。――さ、行こう」
3.
車の中ではほとんど会話がなかった。
「――どこにいるの?その人」
「黙って。どこかで聞かれているかもしれないから。着いてから話すよ」
盗聴を警戒しているのか。ミックは玄関で喋っていた時よりも苛立っていた。
どこで。誰が聴いているのか。そもそも相手は誰なのか。
何もわからない香は、息をつめてその横顔を見守る。
「ああ、驚くといけないから、これは先に言っておくけどね――」
10分ほど雨の街の中を走った後、たった一度、信号待ちの時にミックが口を開いた。
「俺、刺されてるんだ。左腕を二ヶ所」
「え……?」
「大したことないけどね。手当ても済んでるし、傷も大きくは残らないと思う」
どうでもいいことのように、むしろつまらなそうにミックは言った。
――刺された、なんて。一体誰に?
問いは声になる前に拒絶される。
運転をしているミックの横顔には 時折深い影が差していた。
もっと走るかという香の予想を裏切って、車は間もなく大通りから右折した。
この先に連絡する道はない。丘を囲んで、大きな袋小路のような地形になっている。
ここで、香にも目的地の見当がついた。きっと向かっているのはWホテル。
丘の上にある、雰囲気のいいホテルだ。そこをミックが時々利用していることは
仲間うちの皆が知っている。自宅から車で15分、ミックが泊まるのは
たいていは恋人のかずえと大喧嘩をした時。
でも、今からそこに行くのだとすると――香は自分の服が気になる。
小さいけれど、格式のあるホテルだったはず。こんな普段着のジーンズで行くのは気がひける。
香はちらりとミックの横顔を見た。苛々しているのはさっきと同じ。
服のことなど、言いだせる雰囲気ではない。
――どんな事情があるんだろう。
車は雨の中を静かに走る。変に静かすぎるような気がして、香は窓の外の景色に目をやる。
水滴がついたガラス越しの町は、何だか作り物めいていて落ち着かない――
4.
「ここで待ってて」
ミックは香をロビーに座らせると、レセプションへ向かう。
9時前。街中と違い、ちょっと奥まった場所にあるこのホテルは、この時間には
もうチェックインのピークは過ぎている。ロビーにほとんど人がおらず、
香はこの場にそぐわない自分の格好を考えてほっとする。
ミックを待った時間は短かった。戻って来た彼は手に鍵を持っている。
「ロビーで会うんじゃないの?」
「……いや。人目につくわけにはいかないからね。部屋を取ったんだよ」
「相手は?もう来てる?」
「まだみたいだ」
二人はエレベーターに乗り込み、ミックが最上階のボタンを押した。箱はすうっと動き出す。
普段の態度からは考えられないような、重たい沈黙。
「ミック、体は大丈夫?」
沈黙が嫌で――香は無理に声を明るくして問いかけた。ミックが軽く目をみはる。
「え?」
「さっきあんなに濡れてたから。あの……怪我も。具合悪くない?」
ミックは疲れたように笑った。
「ああ、大丈夫。……さっきカオリがバスタオル貸してくれたからね。もうだいぶ乾いたよ」
「お部屋に着いたら、急いでシャワー浴びちゃったら?誰かが来たらとりあえず
待っててもらうから。あ、でも怪我してると……シャワーは無理かな……」
「シャワー……ね。魅力的な提案だけど、多分駄目だな。そんな時間はない」
ミックは目を閉じて、壁にもたれた。本当に疲れているようで、
声をかけた方がいいのか、そっとしておいてあげた方がいいのか香は迷う。
すると、目をつぶったままの彼が突然言った。
「カオリ。俺を刺したのが誰か、想像つく?」
「えっ。あたしの知ってる人なの……?」
意外な問いかけに、香の声は裏返ってしまう。ミックが目を開けて微笑する。
――その時、エレベーターの扉が開いた。
ミックは口許に笑いを残したまま、先に立って降りて行った。長い足で進む彼の後を
小走りに追いかけながら、香は、脳裡に浮かんで来た人の顔に動揺する。
まさかと思う。でも。……撩?
香は声をひそめて、ミックの背中に訊いた。
「誰なの。教えて」
ミックは答えず、廊下の一番奥の部屋のドアまで進んだ。
カードキーを差し込むと、ドアを開ける。押し込むようにして彼女を中へと導きながら、
この上なく愉しいことを囁くような、そんな声音で彼は答えた。
「――カズエ」
5.
ミックは愉しげな――まるで惚気てでもいるかのような微笑を浮かべている。
刺された人間の態度ではない。だいたいどうしてかずえがミックを刺すのか。
「冗談……よね?」
香はミックの腕をひっぱって、正面から彼の顔を覗きこむ。
部屋はそれほど広くはないが、スイートになっているようだ。
視界の端にグレイのソファとテーブルが映る。
ミックは顔を背けて、香の強い視線を避けようとしていた。はぐらかすように言う。
「ジョークとは言えないね。ま、ある意味ではcomedyかもしれないけど。
――カオリ、ジャケットをもらおう」
香の上着を受け取り、ミックはそれをハンガーにかけた。
それから自分のコートとジャケットを脱ぐ。ジャケットを脱いだミックの、
ワイシャツがひどく湿っているのを見て、香は目を見開く。
どうしてこんなに……水の中にでも飛び込んだのか、何時間も雨にうたれていたのか。
質問はいくつも浮かんだ。あまりにありすぎて、どれから訊くべきか迷う。
何秒かが、お互いを見つめるだけで過ぎていく。
しばらく経って、香が用心深く口を開いた。
「……刺された事情を、聞いていい?」
その慎重な言い方が面白かったのか、ミックが微笑む。
しかしそこにはどろりと濁った何かが混ざっているようだった。
「シンプルな話さ。……カズエの限界が来たんだよ」
「限界って……何の?」
「カオリ」
ゆっくり近づいて来るミックの姿には、普段は感じたことのない威圧感があった。
香は思わず一歩退き、すぐ背後の壁にそれ以上の後退を阻まれる。
目の前に立った長身の男は、ふわりと腕を広げて。そのまま香を軽く抱きしめる。
子供が母親にすがるように。たった一つの支えのように。雨の匂いが濃く漂う。
「ミック……?」
「ねえ、カオリ。もしリョウが――君と暮らして、毎日君を抱いていて、大好きだと言っていて。
それでも心の奥で本当に愛してるのはサエコさんだとしたら、我慢できる?」
「まさか。絶対嫌よ」
耳許でささやかれた突拍子もない問いに反射的に返答した後で、香はその質問を反芻する。
――そんなの、絶対に嫌。考えただけで身震いするほど嫌。
そんな想像をさせたミックに、香は一瞬敵意さえ抱いた。男の腕から抜け出そうともがく。
しかしどうやっても振り払えない。力が入ってないように思える腕なのに。
「カズエは我慢強かった。ほとんど最初から気づいていて、それでも今まで我慢したんだから」
腕の中で暴れる女を意に介していないように、ミックは呟き続けた。
「ミック……ミックは別な人を……?」
「今日、言われたよ。……あいつは全身で叫んでた」
そう言った声には、やはり微笑が含まれていた。その顔を香は凝視する。
目の奥を覗き込んで初めて、香はその微笑の意味がわかったような気がした。
苦しい時に笑う人もいるのだ。
苦しければ苦しいほど。それを隠すために笑う種類の人間がいる。
それは――そう、撩も同じ。そして多分ミックも。
「いい加減に自分を見てくれ、と。……マキムラカオリ、ではなく」
「え……?」
不意に、腕に力がこもった。それまでのすがるような抱擁とは違う、男の強い力。
呼吸が出来ないほど、骨が折れるのではないかと思うほど。のけぞらされた背中が痛い。
「……ミック!」
「もう限界、なんだ……」
香の肩に顔を埋めて、彼は呟く。もしかしたら顔は今でも微笑を浮かべて
いるのかもしれないけれど、声はまるで――泣いているようだった。
6.
ミックの唇が。女の首筋をとらえようとする。
息がかかったところから広がる甘い痺れを無視しようと努力しながら、香は必死の思いでもがく。
「やっ……やめて……!」
親友だと思っていた男に抱きすくめられて、動けない。
そんな今の状況は、これまで香が遭遇してきたどんな事態よりも怖かった。
渾身の力で押しのけようとしても、ミックの体はびくともしない。
逆に香は、クローゼットの扉に押し付けられて、ますます自由を奪われる。
「ミック、ミック、嘘ついたの?会わせたい人って嘘?」
「……嘘。君をここへ連れて来るための」
「そんな……っ」
「他にどうしようもなかった。……なんて言い方、卑怯だね」
彼は歌うように言うと、その手が香の頬を両方から優しく包み込んだ。
顔が近づいて来て。唇と唇が触れ合う。冷たい――唇。凍りつくような。
「んんっ!」
男の舌が香の口の中にするりと入り込む。逃げようとしても引きもどされる。
歯を食いしばろうとしても、男の手が上顎と下顎の間を抑えていて閉じられない。
舌が絡みあって、――男は香の口の中を、長い時間をかけて丹念に味わう。
「か、かずえさん……は?こ……んなことしてる場合じゃないでしょ!」
ようやく解放されて、荒い呼吸を繰り返しながら香は叫んだ。その目から涙が溢れる。
「カズエは教授に預けた。今頃は睡眠薬で眠ってるはずだ。……興奮がひどくてね。
それに……もう、二度と彼女には会わないよ」
ミックはまた微笑した。
「え?」
「もう限界。修復不可能ってことさ。――俺は日本を離れる。多分ここには戻って来ない」
「かずえさんはどうなるのよ!」
「俺がそばにいたってどうせ何も出来ない」
勝手な。あまりも勝手な男の言い草に、香は今の自分の状況も忘れて、かっとする。
そんな風に突き放すなんて酷すぎる。恋人だっていうのに!
ばしっ。
高い音をたてて目の前のミックの頬が鳴ったのを、香は他人事のように聞いた。
自分の手が痺れたように痛いのも、目の前のこととは結びつかなかった。
男の左頬はあっという間に赤くなる。
「……いい一発だね」
頬をなでながら彼はにやりと嗤った。その嗤いは今まで見せていたものとは微妙に違う。
――怖い。香の背筋が震えた。
「俺だって何も努力をしなかったわけじゃない」
ミックの声は、今までとはうってかわって低くなった。
「彼女を幸せにしてやりたかった。今だって好きで、愛しい。あいつのためなら、
どんなことでもしてやりたい」
「だったら!」
香は叫ぶ。だったら今まで通り、幸せに暮らしていけばいいのに。こんな――
おかしなことをしないで、今まで通り。
「でもね、カオリ。……心だけは、どうにもならないんだよ」
小さな子供に大事なことを教えるように。ミックはゆっくりと言った。