無題
「XYZ……クオーレに14時、か……」
香がミックのもとへ嫁に行ってから仕事はほとんどしていなかた。
伝言板をリョウが自ら確認しに来たのはいつぶりだろうか。
チョークで書かれた字は線の細い女文字。
以前であればこの伝言板の前で、香が依頼を受けるか否か迷っていただろう。
その姿はもうない。
クッと肩をすくめて笑いリョウは依頼人の待つ店へ足を向けた。
繁盛しているとは言えない喫茶店の店内へ踏み入れると奥のテーブルへと案内された。
そこには少し髪が伸びた香が腰を掛けていた。
反射的に逃げ出しそうになる自分を抑え席に着く。
「久しぶりね」
「…これはなんの冗談だ?」
「依頼人にそんな言い草はないんじゃない?」
肘を突いて覗き込む目は、挑発的に光が潜んでいて何だか無性に居心地が悪い。
リョウのもとにいた時とは違う、大人の女の視線だった。
ボートネックのワンピースは体の流線を強調し色香が漂っている。
(ミックに毎夜かわいがられているってわけか。)
シーツを掴み喜びに顔を歪める姿が頭にちらつきリョウは自嘲気味に唇の端をあげた。
「で依頼ってなんなんだ、ミックの浮気をしらべろってか?」
「あ、すごい。そんなかんじ」
両手でカップを包み込むように持った香はさらりと答えた。
コーヒーを噴出しそうになるリョウを気にせず香は話を続ける。
「相手はミックだから、あたしやそこらの探偵じゃお話にならないし
でもリョウなら……」
「あいつは浮気してんのか」
「口紅つけて帰ってくるなんてしょっちゅうよ?男運…つくづくないわ、あたし」
話の内容とは裏腹に笑顔の香に戸惑った。
男運のなさってのは自分も含まれるのか、と判りきったこと問いかけそうになり口が閉じる。
「だから、ね、リョウにはあたしの浮気相手になってほしいの」
「…………?」
香の発した言葉の意味がわからず反芻する。
「依頼ってのは?」
「うん」
「俺が?」
「うん」
「おまえの?」
「うん」
「浮気相手?!」
「うん」
自分よ落ち着け、とコーヒーを口に含むがあまりの甘さに噴出した。
動揺して砂糖をぶち込んでいたらしい。
「自分の言ってることわかってんのかっ
親友のかみさんとモッコリなんぞできるわけないだろうがぁっ」
「何言ってんのよ、そんなの当たり前でしょ?ふりよふり、浮気している、ふ・り」
ミックの浮気癖を治すのは難しいので懲らしめるだけでいい。
家出待つ帰りを待つ自分の気持ちを理解してくれれば。
ミックが自分の浮気を疑った時点でネタ晴らしするから、と香は話した。
聞けば自分には発信機がいつもつけられていると言う。
「自分勝手な男ばっかり」
リョウは力なく笑うしかなかった。
そして依頼を承諾した。
***********
今宵、二人は新宿のラブホテルでミックが来るまでを過ごす。
それは香の依頼であり、モッコリは無しであるという条件つきだ。
ミックは香の居場所を突き止め呆然とするだろう。
香が新宿のホテルにいるということは、相手を知らす事でもあった。
すぐにミックは現れる事は容易に予想できる。
行為だけの為に用意された空間に足を踏み入れた二人は、
ソファに対面に腰をかけテレビの電源を入れた。
『Oh!Yesっ! (パンパンパンパン!)』
「おぉぉぉ〜もっこりちゃぁん!!!」
「ぬぁっ!!!!」
モニタに映し出された金髪の女性が乱れる姿に、それぞれにらしい反応を起こし
香は慌ててチャンネルを変える。
「……」
「……」
二人の間に気まずい空気が流れる。
行為だけの為に用意された空間。
何もしないにはあまりに退屈な空間だ。
「ビールでも飲むかぁ」
リョウはボリボリと尻を掻きながらソファを立った。
「あ、あたしはお風呂上りに飲むからまだいいわ」
「?風呂なんかはいんのか」
「たまには広いお風呂入りたいんだもの」
「…いや入るのはお前の勝手だが……」
「でしょ?じゃ、入ってくる」
立ち呆けたまま浴室へ入っていく香の後姿を眺め、パズルのピースが嵌らないような気持ち悪さを感じた。
脱衣所の服を漁る。
(発信機が…ない)