A Thousand Doors 1
1の扉
「ねぇママ。僕んち『ボシカテイ』っていうの?」
4歳になったばかりの香の息子が、夕食のテーブルについた時に屈託なく話し掛けてきた。
一瞬香はたじろいだが、4歳にもなるといろんな人と接するようになっているので、誰からか
聞いて覚えた言葉をちょっと使ってみたくなるのよね…と香は思い、息子に首を傾げて困っ
た表情をわざと浮かべて応じた。しかし、「母子家庭」という冷たい響きの言葉を突きつけら
れると、隠していた胸の奥の寂しさの扉が少しだけ開いた。
「で、でも、僕んちのご飯、いつも3人分あって、ママはパパの分て言うからホントは
『ボシカテイ』じゃないんだよね?」
4歳の幼子は、香の困った表情の間に浮かぶ寂しげな表情を読み取って慌ててそう言うと、
僚と同じ漆黒の瞳を宙に泳がせた。
僚を失って5年近くの歳月が流れていたが、香の中では時間が過ぎれば過ぎるほど、僚が
ちょっとした旅に出てしまっただけとしか思えなくなっていた。リビングの扉を開けて「よっ!」と
言って、今にも入ってきそうな気がする。なにせ、香の100tハンマーに成敗されようが、
簀巻きにされて屋上から地面に叩きつけられようが、すぐに復活して香を抱きしめてきた僚
だったし、たまに引き受ける危険な仕事で、銃弾の雨が降り注いでも、爆発に巻き込まれよう
とも、何事もなかったかのように不敵な笑みを浮かべていた僚だったから。僚は不死身で、
いつも香の傍にいてくれる存在だった。「あの日」の前までは…。
その夜、息子を寝かしつけると、香は地下室の射撃場の扉を開けに階段を下りて行った。僚を失って
から、とても近付けなかった扉。「あの日」、僚は自分の分身であるパイソンを持たずに出かけた。
それまでも、僚は銃を持たずに出かけることは何度もあって、何事もなく済んでいったのだが、「何が
何でも持って行って!」とあの時どうして言えなかったのか・・・と香は悔やみ続けていた。重い、防音
構造の扉を開けると、カビとホコリの混じった空気が香の頬を撫でた。僚の大切な分身をこんな環境に
長年放置しておくことは後ろめたかったが、香にとっては肝心な時に僚を守ってくれなかった一番傍に
置いておきたくない物体(モノ)だったので、地下室に放り込んでそのままにしていた。スチール製の
テーブルの上に置かれたパイソンは、ずっと放置されていたためホコリを被り、一部に錆が浮いていた。
香はそっと手にとり抱きしめた。
「ゴメン・・・ね」
僚の不在を埋めるに余りある存在の息子だが、香ひとりで育てていくのは大変なことだったので、
昔馴染みの人達には感謝しきれないほど支えてもらってきた。その息子はやっと4歳になったばかり
だが、母である香を守ろうとする意識が強いうえに、日に日に僚の顔立ちに似てきており、香は漠然の
とした戸惑いを感じるようになっていた。この子も、いずれ僚と同じ道を辿ることになるのではないだろ
うか・・・?と。香はパイソンの銃口に唇を寄せた。ホコリと血の臭いがした・・・。だが、今まで忌み嫌って
いたモノが、今の香には一番必要な気がした。
「・・・ぅっ・・・」
香は自分の奥に圧縮していた女の部分に歯止めが掛けられなくなり、嗚咽した。この5年近くは女として
ではなく、意識的に母の体裁を全身に纏うことを課していたのだが、ずっと近寄らなかった扉を開けたこと
から香の内面全てが押し出されつつあった。壁にもたれかかり、香は左手でパイソンを握りしめ、右手を
胸元に入れてふくらみを弄り、自分が女であることを確認する行為に埋没していった。
パイソンを左手首で支えて頬を寄せ、香はしばらく目を瞑って冷たい金属の感触に浸った。
次第に手首が痺れて指先が麻痺していたが、それが香の中の淫蕩な感覚を呼び覚ましていった。
銃身に唇を這わせ、胸元を弄っていた右手でローブの前はだけると、左胸のふくらみの輪郭
をなぞってみた。
胸の中央あたりに、香が死の扉に引き込まれそうになった時の痕跡、星型の小さなケロイド状
の銃創が指に触れた。虚ろにそこに視線を落とし、指先で押さえてみる。
痛みなど、もうすでに感じることはないはずなのに、ズキンと刺さるような痛みを感じた。
まだ、全てをあきらめきれない自分がいることを香は思い知った。
痛みを避けるように、ショーツの中に手を滑り入れて温かい流れが溢れ伝うところを指で
触れると、快感が身体を走りのけぞった。
パイソンの照星を舌先で味わうと、香は目蓋の裏が熱くなった。
身体中の血液が沸騰しそうな僚に与えられた快感には到底及ばないが、香は溜め息のような
ひっそりとした喘ぎ声を上げて、その場に崩れるように座り込んだ。
涙が後から後から溢れてきて、頬から顎を伝って流れ落ち、ホコリまみれの床に無数の
斑痕を残していった。香はパイソンのグリップに口づけを繰り返し、
「僚、僚・・・。抱いて・・・あたしを抱いて・・・抱いて!」
と、呟いていた。
・・・どのぐらいの時間、そうやってそこに座り込んでいたのか香にも定かではなかったが、
まだ夜は明けていないようだった。
「冷てぇ女だよなお前。ひとりHするのな?」
突然、聞き慣れた、香をからかう言葉が、ずっと聞くことのできなかった、聞きたくて
仕方なかった声にのって頭上に降ってきて、香の心臓は止まりそうになった。
香はおそるおそる見上げると、お前なにやってんの?という表情を浮かべた香の最愛の男
が立っていた。
「俺はず〜っとひとりでも我慢してたのに、お前ときたら相変わらずの・・・」
次の瞬間、香の身体は押し倒され、息をするのも忘れるくらいキツく抱きしめられた。
懐かしい重みと温かさを感じて、忘れたことのなかった僚の匂いに香の頭の中は真っ白になった。
止まりそうだった香の心臓が暴走しはじめて、このまま天国でも地獄でも連れて行かれたいと思った。
僚の唇が降りて来て、香の唇を優しく押し包んでくる。もう何度も何度も交わしてきたキスだった。
香は何か言葉を発したかったが唇を開放されず、開放されても、もう何も考えることができなかった。
「僚・・・僚・・・」
ずっと求めて止まなかった逞しい腕に抱かれ、香は僚の名前を呼び続けながら何度も昇りつめ、
意識を失った。
ゴトン、と鈍い重量感のある物音がして、香は意識を取り戻した。
パイソンが香の左手から滑り落ち、地下室の床に横たわっていた。香はそれに寄り添うように
横になったまま、ぼんやりとしていた。
僚の姿はどこにもなかった。
夢、だったの・・・?
香は寂しくそう思いながらも、頭の奥が痺れるような快感と、妙にリアルな重みや温かさを思い起こしながら
目を瞑り、どこまでが夢でどこからが現実なんだろ・・・?と考えているうちに、再び意識が朦朧とし始めた。
遠くで、何か聞こえる
・・・あれは、誰かの悲しい叫び。
あれは、誰?
あれは、あたし。「あの日」の、あたし。