A Thousand Doors 2
2 別離の扉
一晩中僚に眠らせてもらえず寝不足の頭まま、空港に向かわなければならない香だった。
薄暮の時分で、週末であることも重なって、あたりは渋滞が激しかった。
香の頭の中はボーッと霞がかかっていて、こりゃ行く前から時差ボケだわ…と、
隣でハンドルを握っている、香を寝不足にさせた張本人を恨めしく見やった。
僚はいつになく無口だった。香と同じように眠っていないはずなのに、
僚の横顔はなぜかスッキリしていて、渋滞にイライラしている様子もなく、
なにか楽しい考えごとをを巡らせているように見えた。
その僚が、前方の風景の変化に眉をひそめたのを見て、香も同じ方を向くと
赤い誘導灯がゆらめいているのが目に入った。
都内の各所にはこのところ多数の検問所が設けられ、普段からの渋滞に拍車をかけていた。
各国の要人を迎えての会議を一週間後に控えて、都内に厳戒態勢がとられていたためだった。
数珠繋ぎの自動車の列がノロノロと検問に向かって進んでいき、誘導灯の合図に従って僚は停車した。
「お急ぎのところ申し訳ありません。免許証の提示とお手廻り品のチェックの
ご協力をお願いしています」
と、制服姿の若い男性警官が丁寧だが、感情のない話し方でドア越しに声を掛けてきた。
1か月近く前から、どこに行くにもこんな調子だったので、たまには「お前ら危ねぇもん
持ってねぇだろうな?」と単刀直入に言うヤツはいないのだろうか?と僚は思った。
他の自動車も止められて、警官たちと人々がやりとりしている路肩にミニを寄せ、二人は車外に出た。
僚は件の警官にその場で、香は年配の女性警官に付き添われてツートンカラーのワゴン車に入って、
簡単なボディチェックを受けただけだったが、香は僚がパイソンを持ち歩かないことが、
最近多かったことに合点がいった。
この状況じゃ、あれ持ってたら即捕まっちゃうわ。ホントは僚、
持ってないと落ち着かないんだろうけど…。
今日も無意識にズボンに差し込もうとして、首振って置いてきてたし。
あたしも僚が丸腰で外に出かけるのは不安なのよね…ホントのところ。
と、敵の多いパートナーを想い起こしため息をついた。
飛行機の出発時間が少し気になりだして、香は聞かれてもいないのに女性警官に話し掛けた。
「アメリカに住む知り合いが、明日結婚式なんです。知らせを聞いたのが一週間前で、
今日の便を押さえるの大変だったんですよ。ひどい渋滞で…」
急いでるんですが…、と言おうとしたら、無愛想に「終わりました。ご協力ありがとうございました」
と言われ、香は解放された。
ワゴン車から降りると、すでにチェックを受け終わった僚がミニの外で、自動車の列を眺めながら待っていた。
香は駆け寄ると、僚に言った。
「あたし、ここから先はひとりで行くわ。駅も近いし、大丈夫だから」
聞いているのか聞いていないのか、僚は黙ってミニに乗り込んでエンジンをかけた。
なにか怒ってるの…?でも、このままじゃ間に合わなくなるかもしれないし…
香は助手席の扉を開け、後部座席のキャリーバッグを取ろうと、屈みこんで車内に右手を伸ばした。
その手首を、僚は無言で掴んで香を車内に引き込み、扉を閉めるとミニを発進させた。
検問を通過しても、少しも道路事情の変化はなかった。
「ちょ、ちょっと、僚!人の話聞いてんの?!この渋滞じゃあ、
いつ空港に着けるかわかんないでしょ?無理よ!」
助手席にバランスを崩した姿勢で座らされ、僚の肩に頭を止まらせたまま、香は声を上げた。
肩口あたりで香の声を聞いて、のろのろとミニを進める僚は、ルームミラーから検問所の警官たちの
姿が見えなくなるのを確認して、香に尋ねた。
「香、俺の名前はなんだ?」
「はぁ?」
「もとい、俺とお前の名前はなんだ?」
コイツは認知症でも発症したのか?実はそんな歳だったのか、ホントは…。
そんなの分かってるでしょ!
と、怪訝な表情で香は僚の顔を見つめた。
「『シティーハンター』に不可能はない!そうだろ!」
僚はそう言ってニヤリとわらい、急ハンドルを切ってアクセルを思い切り踏み込んだ。
ミニの前輪を縁石に乗り上げ、路側帯を片輪走行して渋滞の列をすり抜けた。
「ぅわっ!りよ、僚!!やっ、めっ・・・・・・、バカーーーー!!!」
の頭は、一気に僚の肩から反対側の助手席のドアガラスに押し付けられた。
とんでもない追い抜きを繰り返し、周囲にクラクションの嵐を巻き起こしながらミニは疾走した。
僚の神業のような運転技術(無謀運転とも言う)は寝不足の香の頭に強烈な揺さぶりを加えて、
香の思考を奪っていった。
…どこをどう走ったのかは知らない、知りたくもない。とりあえず生きているので、
あの世の扉の向こうではないらしい。
さっき目に入ったゲートに「成田」の文字が見えたので、目的地に着いたみたい…
香は視界から情報を得ながら思考を少しずつ取戻し、大きく深呼吸してから
隣の大馬鹿者を思いっきり怒鳴りつけた。
「あんたねぇ!!あたしの言うこと聞いてた!?死ぬかと思ったじゃない!」
「死んでねーし、余裕で到着したぜ!」
香の怒りを余所に、フンッと僚は得意げに鼻を膨らまし、胸を張った。
…ホントにコイツは何考えてんだか。だいたい道路が混雑するのは分かってたから、
自動車で空港には行かない、とさんざん言ってたのに、それすらも聞かないし…
「あんたひょっとして、あたしをさゆりさんの結婚式に行かせるつもり、
なかったんじゃないの?!」
立木さゆりは幼い頃に生き別れた香の実姉で、僚はそのことを知っているが、香は知らない。
さゆりは血のつながった自分とともに生活することが、香にとっては幸せなはずだ、
と信じて香に近付いたが、香はさゆりを「顔立ちのよく似た、気の合う依頼人」
としか見てはくれなかった。
僚と一緒にいるだけで、香が充分幸せであることを理解したさゆりは、
香には姉であることは告げずに「姉妹同然の友人関係」を続けることで、
自身の気持ちの整理をしたのだった。
さゆりは数年前にアメリカに渡り、編集者として多忙な日々を送っていたが、
多忙すぎて長期的なスケジュールが成り立たず、挙式の日程調整の時間すら割けなくて、
急に空いた日程にせざるを得なかったことを、さゆりから申し訳なさそうに告げられ、
案内を受けたのが一週間前のことだった。
当然のことだが、香は出席を即答したし、僚も香の唯一の身内の華燭の典には、
なんとしても行かせてやりたいと思っていた。
しかし、僚は香を快く送り出したいのに、つい昔の悪い癖が出てしまう。
「ピンポーン!だぁ〜って僚ちゃん、香ちゃんと3日もできないの我慢できないもの」
言っていることは、100パーセント本気なのだが、身を捩って僚はふざけた調子で香にすり寄った。
さきほどの無言の僚とは雲泥の差だ。
香は昨晩のことを少しだけ思い出し、頬が赤く染まった。
「夕べさんざんしたでしょーが!!しかも、さっきの滅茶苦茶なあんたの運転のおかげで、
これからアメリカ行かなきゃいけないのに、あたし体調狂いっぱなしなのよ!!」
「じゃあ、今度は治したげよ〜か?」
助手席の香に覆いかぶさろうとした僚に、スコン!と携帯用ハンマーを僚の眉間目掛けて香は投げつけて、
「いい加減にしろ!もう!人が見てるでしょ!!」
と呆れて言った。駐車場内は混雑していて、ひっきりなしに人々の往来があった。
僚は運転席側のドアガラスに頭頂部をぶつけてのけぞったまま、
寂しさを紛らわすジョーダンだよ…
と虚ろに呟やいた。
香はキャリーバッグを持って車外に出ると、すっかり暗くなった夜空を見上げた。
丁度離陸したばかりの旅客機が1機、夜空に吸い込まれていった。
到着便が次々に降りてきていて、上空はかなり騒々しかったが、旅客機の点滅が流星みたいで綺麗だった。
いつの間にか僚が隣に立っていて、香の肩を抱いた。
「ホントは…あたしも僚と一緒にいたい。でも、さゆりさんのウェディングドレス姿を自分の目で見たいの…」
僚の肩に香は頭を預けてそう言うと、瞼を伏せた。僚も一緒に行ければいいのだけれど…、と思ったが、
僚は幼い頃のトラウマで飛行機に搭乗できず、努力とか我慢でなんとかなるレベルのものではないのは
重々承知しているので、香は口にはしなかった。僚は、香に穏やかに微笑みかけた。
「お前、帰ってきたら『絶対あたしもドレス着る!』って言いそう…だな」
「あ、あたしは…、か、形に囚われなくてもいいのよ。堅苦しいの、僚、苦手だし…
あたし、今のままで充分幸せだし!」
香は小さく身じろぎしつつも、最後の言葉だけはキッパリと言い切った。
まったく、こういうところがたまらないんだよな。なんだかんだ言っても、
俺なんかとの生活を、いつも心底幸せだと言ってくれる…
そう思いながら僚は香を抱きしめた。僚は既にひとつ心に決めていることがあったのだが、香には
「早く帰って来いよ」
とだけ言って、香の左手の指に僚は自分の右手の指を絡ませて口づけした。
そのまま手をつないで歩き出そうとした、その時だった。
耳を劈くような轟音と地響きがして、空から光球が降り注ぎ、香の身体が宙に飛んだ。
背中から落ちて、強かに打ちつけられた痛みで、しばらく動けないうちに、あたりは炎に包まれ、
一瞬で築かれた瓦礫の山が、炎から香を防いでいた。
その瓦礫に下半身が埋もれて身動きがとれなくなってしまった香は、何が起こったのかさっぱり分からず、
パニックを起こしそうだったが、左手に僚の右手がつながっている感触があったので少し気を取り直せた。
「な…、なにが、どう、なったの…?…僚…」
炎に焼かれた空気が、口を開けると次々に香の肺に送り込まれて息苦しかったが、なんとか声を絞り出した。
僚の返事を待っていたが、何も返ってこないので手を握ってみた。が、やはり反応がなかった。
い、いや…、そんなこと…あるはずない…
香の身体をゾワリとした、嫌なものが走った。熱さで意識が朦朧としてきており、身体中に痛みがあったが、
上半身だけはなんとか動かせたので、香は自分の左手を引き上げてみた。
思いのほか力が要らなかった…
う…ウソよ。こんなの。あ、有り得ないことだわ…
香の顔はみるみるうちに青ざめていった。
香の左手には、さっきまで、ふざけたり、優しく微笑みかけていた僚の、右前膊しか残されていなかった。
人としての声にも言葉にならない、悲痛な香の叫びが炎の中に響いていた…