A Thousand Doors 3


3 支えの扉

Cat's Eyeの扉には"Closed"のプレートが掛かっていたが、鍵は掛かっておらず
手前に引くと、カランとベルが鳴った。

「こんにちは、美樹さん。ごめんなさいね、おやすみなのにお邪魔して」
「ああ、香さんいらっしゃい。いいのよ、気にしないで。気まぐれ営業で
いつもこうなるの知ってるでしょ?あら、今日は証くんも一緒なのね。
こんにちは」

カウンターの中から出て、美樹はしゃがみ込んで香の小さな同伴者の目線に
合わせてあいさつした。
いつもなら漆黒の瞳を輝かせて元気にあいさつを返してくるのに、
今日は黙って俯いたままだった。美樹は首を傾げて香を見上げた。

「昨日、幼稚園でお友達とケンカしたの。うちが母子家庭かそうじゃないかで
言い争ったんですって。夕べからこの調子で、今日は登園拒否」

父親と同じ漆黒の髪と瞳を持ったわが子に、香は父親の名前に韻を踏む「しょう」
と名付け、幸せな日々の証しであることから「証」の文字を充てて、大切に育ててきた。
香はやれやれといった表情で証を見たが、その眼差しは限りない愛情が溢れていた。

「いい加減、あたしが現実を受け入れないといけないのかも…」

香は証の頭を撫でながら独り言ちた。
美樹は香に掛ける言葉が見つからなかった。


もうずいぶん時間が経ったが、本当に不幸な事故としか言いようがなかった。
あの日は週末で、空港は混雑していた。
到着便が一時的に集中し、管制官が上空待機中の複数の旅客機へ同じ指示を出すミスを
犯した。その結果、旅客機同士が接触し、失速した旅客機が2人がいた駐車場を直撃した
のだった。
旅客機の乗客乗員と、香以外の、あの駐車場に居合わせた全員が死亡した大惨事だった。
香が軽い火傷のみで助かったのは、奇跡以外のなにものでもなかった。

テロリストの仕業、某国の陰謀などの諸説が、当時まことしやかに流れたが、
管制官や操縦士の過密な労働実態が次第に明らかになり、国の監督責任と航空各社の
労務管理体制が取り沙汰されていった。

僚を失ったことについて誰かを恨むには、香の心性は柔らか過ぎてできなかった。
香は、僚がパイソンをいつものように持ってあの日出掛けていれば、検問で足止めされ、
あの事故には巻き込まれないで済んだ、と僚の分身の責任を結果論で問うことにして、
地下室に拘禁した。
一昨日の夜、香はその拘禁を解いて過去と現在の狭間を彷徨って疲労したが、それは今まで
見たり感じたりしなければならないものから目を背けていた報いだったのかもしれない、
と思えていた。

「美樹さん、昨日電話でお願いしたことだけど…」

香は、証から見えないカウンターの上に僚のパイソンを置いた。


ほとんどあたしの八つ当たりで、僚の大切な銃をこんなふうにしてしまったの。
あたしがちゃんとしていればよかったのに…」

美樹は僚のパイソンのシリンダーを外し具合をみた。外観の問題はもとより、
放置されていたことによる劣化は否めなかったが、

「この手の銃は、もともと特に手間が掛かるから…。どんなに手を入れてたって、
不具合は出てくるものなのよ。使っていたらなおさらね」

と美樹は香に言った。香はその言葉に少しだけ救われた。

「いままで放ったらかしにしておいて、勝手な言いぐさだけど、今のこの銃を見ていると、
僚が動けないみたいで…。元通りとまではいかないかもしれないけど…」
「…わかった。とりあえず、預かるわ」
「ありがとう、美樹さん」

香の中で胸の痞えがひとつ取れた気がした。カウンターに一所懸命背伸びして、
美樹の手元を見ようとしていた証を抱き寄せて、香は微笑んだ。


香と証はカウンター席に並んで腰を掛けた。証は脚が床に全然届かなくて、落ち着かない
脚をブラブラさせて、美樹が出してくれたオレンジジュースの手を伸ばした。

「今日は海坊主さん、どちらへ?」

香も美樹にすすめられたコーヒーを一口飲んで訊ねた。
美樹の淹れるコーヒーはとても美味しかったが、海坊主のは更に上だった。
本来なら、この店はもっと客足が伸びてもおかしくないのに、店主の都合により、
今日のように突然休みになることが多くて、固定客が付きにくかった。

「少し前に冴子さんから連絡が入って出掛けたんだけど、じきに戻ると思うわ」

と、美樹が言い終わらないうちに、扉のベルが海坊主の帰りを告げた。

「お帰りなさい、ファルコン。やっぱり、お連れしたのね?」

香は、美樹の言葉にカウンターから振り返って扉に目を移した。
そこには海坊主とさゆりが立っていた。
さゆりは、香に駆け寄って手を取り、大粒の涙を流した。

「香さん・・・良かった。また、会えて・・・」


香がさゆりと会うのは、「あの日」以来のことだった。

「さゆりさん、ごめんなさい。約束したのに、あたし行けなくて。長いことなにも
連絡もしないで・・・」
「あなたがなにを謝るの?お詫びしなければならないのは私の方。ごめんなさい。
私、あなたに会わせる顔がなくて、どうしたらいいか判らずに逃げていたの」

もともと血のつながった姉妹なので面差しがよく似ていたが、自分を責める心性も
よく似ていて、ふたりはそれ以上の言葉が継げなくなっていた。

「ファルコン、あそぼうよ」

しばらく沈黙が続いていたのを破ったのは、証だった。いつのまにか海坊主の顔を
足元から見上げていた。
海坊主は複雑な顔でため息をつき、証に言い聞かせるように話し掛けた。

「あのな、証よ。何度も言うが、お前は俺のことは『海坊主』と呼べ。ヤツと同じ
顔で『ファルコン』と呼ばれるとケツがむずがゆい」
「ふーん?じゃあ、かいてあげるよ」
「ばか!そうじゃねぇんだ」

香たちはその様子を見て、くすくす笑いあった。

よかった、証がいてくれて・・・よかった・・・あたし生きていて

奇跡のように助かった命を捨てようとした過去を思い出し、香の胸がチリ・・・と痛んだが、
心底そう思えた。

実は、事故を知ったさゆりは、結婚式もそこそこに大急ぎでとるものもとりあえず来日して
いたが、その日、香は死の淵にあって、香の知るところではなかった。
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