| もうもうと立ち上がる煙草の煙と様々な食品又酒の匂いがその空間を充たしていた。 横に座っている男はだらだらと垂れ流す俺の愚痴に頷くでもなく、さりとて否定するでもなく只耳を傾けていた。 「だから部長の考え方は古いんですよ!」 酩酊しかけた俺の何度目かの問い掛けに、彼は表情のつかめない微笑を浮かべる。 「又、『ペーペーが何言ってるんだ』って顔してますよ、不知火先輩…。」 ため息混じりに手元のグラスを引き寄せ、ぬるくなったビールを飲み干した。 不知火先輩は大学時代のゼミの先輩だった。この柔和な態度と物腰とで昔から女にもてた。否、女だけではない不知火先輩は面倒見が良く、俺を含む後輩から遥かOBまでもが先輩を慕っていた。 「そんなことを考えてはいないんだがなぁ…。」 困ったように笑う不知火先輩は本当に冷や汗を流しているようだった。 俺は加山章、警視庁捜査第一課所属。階級は警部、現在24歳独身。本庁には配属されたばかりで、まだ同僚や上司と上手くいっているとは言い難い。偶然にも不知火先輩が同じ部署にいてくれたおかげで、総スカンになっていないという程度だ。 だからと言って他に泣き言を聞いてくれるような彼女はいない。高校時代から付き合っていた彼女とは2年前に別れた。刑事になると言うと彼女はあっさりと俺の前から去っていった。 そんな訳で、今こんな風に俺の愚痴を聞いてくれるのは不知火先輩只一人だった。 「加山は良い刑事になるよ」 いつか言ってくれた先輩の言葉だけを頼りに、今までがんばってやって来たようなものだった。 俺は先輩のような刑事になりたかった。 この時はまだ俺はそんな姿がこの人の一面でしかないことに気付いていなかったのだ。俺はこの人の外面の良さに何年も騙されていたのだ。 その日は茹だるような暑い日だった。こんな日の事件はとても辛い。 きれいに晴れ上がった空、明るい太陽の光の中で、有り得ない現実が待っている。かつて人であった物が無造作に投げ出され、或いは陽気の為に酷く変質しその原形を全く留めていない状態で発見されたり…。 その電話が鳴った時、俺は嫌な感じがした。こんな感じがする時は大概が大きな事件である事が多い。そしてその予感はきっちり当たった。 「…事件だ。」 たった一言の報告で、皆の顔に緊張が走る。それは何時ものんびりとした印象しか与えない上司であっても変わらない。 事件は一本の通報から始まった。都内に住む老夫婦が、隣家からのある匂いに気が付いたとの電話だった。近所の交番からその地区の担当者が赴いてそれを発見した。 「その匂いは一週間も前からしていたそうだから、中は相当な事に成っているだろうな。」 本間部長がこちらをちらりと振り返りながら言う。 「新人、心して措けよ。きっと酷い有り様だ。」 死体は何度も拝んできた。一般人と比べるならば見慣れている部類に入るだろう。だがそれは普通の死体の話だった。あんな酷たらしい物を見たのは初めてだった。 もう何年も空き家になっていたという現場に、着いた途端にその悪臭の侵略は始まっていた。すえた匂い、物の腐った匂いだ。 「これは相当腐敗が進んでいるな。無理もない、この陽気だ。」 先輩達の呟きが聞こえて来る。口元を押さえるハンカチの白さが鮮やかで、妙に現実離れしている気がした。 「奥歯を、ぎゅっと噛み締めておくんだ。」 突然の声に驚いて振り向くと、いつもどおりの柔らかな不知火先輩の笑顔があった。 「貧血寸前って顔だ。中はもっと酷いぞ…。気を引き締めなさい。」 「…はい。」 玄関の引き戸を開けると、夥しい数の蝿が唸りをたてて飛び立った。臭気が酷くなる。三和土に転がる黒い塊が蠢いている。凄まじいほどの腐臭だった。 「それを踏むな、被害者の腕だ…。」 肉汁がコンクリートに染み出している。米粒のような、否それよりももっと大きな丸々と肥え太った蛆が……。 蝿が一斉に飛び立つ。 口がカラカラに渇く、余りの匂いに目の奥がジンジンと痛む。喉の奥から何か熱いものが込み上げて来る。 『奥歯を、ぎゅっと噛み締めておくんだ。』 俺はそれを無理やり呑み込んだ。耳鳴りがした。 被害者の年齢や性別は、遺体の損傷が激しくてはっきりとは断定は出来なかったので、行政解剖に委ねられた。剥き出しになった骨格から、6・7歳の子供であったことだろうと偲ばれるだけだった。勿論、被害者の性別も死因も判らない。但し殺人であることは間違いない。 死体は損壊されていた。腕、足、胴体、頭とバラバラに切断されて発見されたのだ。 刷りたてのやけに白っぽい状況報告書に目を通していて、何時もなら死んだ子供や残されたであろう家族の悼みに胸を詰まらせていただろう。だが今の俺にはあの情景の不快さだけがこびりついていて、ちょっとやそっとでは頭から放れそうになかった。 胸が悪かった。 「加山はもう帰れ。」 「えっ?」 捜査本部が設置され、分担が決められていく中、部長が俺を指して言った。 「不知火、お前もこいつを連れて帰れ。明日の昼迄出てくるな。残りの者は…。」 部長は書類を持って立ち上がると、他の者に指示を出しながら去って行く。 「ちょっ、ちょっと待って…。」 慌てて後を追おうとする俺を不知火先輩が止めた。俺は阿呆のように先輩を見上げる。 「先輩…?」 「鏡を見てみろ。真っ青を通り越して真っ白だ。」 指先が冷たくて、先輩の手が温かかった。 「現場で倒れなかったことは褒めてやる。良くやったな。」 先輩の顔に見も知らぬ子供の顔が浮かんで消えた。途端にあの匂いが甦ってくる。 「ぐっ…。」 口の中に苦いものが込み上げてくる。俺は慌てて手洗いに駆け込んで吐いた。悔しかった。 「先輩、飲みに連れて行って下さい。」 思ったより自分がショックを受けているのが歯痒く、そしてとても悔しかった。 いつもはうるさい程騒ぐ酒の俺が、今日は黙って飲み続けている。 いくら飲んでも酔えない。ただ酒を流し込むという作業を、繰り返しているに過ぎなかった。時折昼間の情景がありありと浮かんでは吐く。そして又飲む。こんな馬鹿な事を何度も何度も繰り返した。 「もう帰ろう…。」 「嫌です。」 不知火先輩の声も俺の気持ちを引き立てることは無理だった。今夜はぐでんぐでんに酔っ払わないと眠れないような気がした。 「…。」 「…ま。」 「加山…。」 遠くで誰かが俺を呼んでいる。 「もう飲めません…。」 「何を言ってるんだ、着いたぞ。」 何時の間にか不知火先輩に支えられて見知らぬ場所を歩いていた。何処かの高級マンションの廊下のようだった。一つのドアの前で先輩は立ち止まった。 いつもの居酒屋で管を巻いていた所までは覚えている。鍵をガチャガチャさせている先輩の横で、多少鈍くなった頭で考える。 嗚呼、ここは先輩の家だ…。 「ほら、早く入れ。」 ドアを開けてくれる先輩に寄り掛かりながら部屋に入る。 中は男の一人住いにしては案外綺麗に整頓されていて、否綺麗過ぎて生活感が無く先輩の部屋にはそぐわないような気がした。 「水いるか?」 先輩は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本出して、一本をその場にへたり込んでしまった俺に放ってくれる。残りの一本のふたを開け喉を鳴らして冷たい液体を一気に呷る先輩の白い喉元を見て、別な意味でごくりと喉が鳴った。 酔っているんだ。今日の俺は何時もの俺じゃない。慣れない酒の飲み方をしたし、昼間には嫌な物を見たし…。 「…!!」 又あの悪夢のような情景が脳裏に浮かび上がりそうになり慌てて頭を振って追い払う。 気を取り直してかろうじてぶら下がるネクタイを弛め、ミネラルウォーターを飲み干すと先輩と目が合った。 俺をじぃっと見つめる瞳は妙に冷たい光を放っていた。何秒間か互いの視線が絡み合う。 先輩はほぅと溜め息を一つ付いて眼鏡をゆっくりと外した。 「お前が悪いんだぞ…。」 眼鏡をテーブルに置く先輩の姿をぼんやりと目で追う。その仕草はまるで舞いの様に優雅だった。その指が俺の顎を捕らえた時も、俺は只見つめ返すことしか出来なかった。 唇が重なると頭の芯がジンと痺れた。 「お前が誘ったんだ。」 先輩の声が耳元を擽る。 日焼けしていない先輩の手が、器用に背広を脱がせながら時折俺の身体を掠めていく。 「せ…先輩…?」 ワイシャツの襟を広げ先輩が唇を押し付け跡が点くほどきつく吸うと、俺の中の何処かにチリリと痛みとは違う何かが走った。 「お前が悪いんだぞ、こうなるかもしれないと判っていてこの部屋に付いて来たんだろう。」 先輩の言葉の意味が判らなかった。未だ酔っているのかも知れない。先輩の手が俺のトランクスに掛かったのと、先輩の唇が俺の乳首を探り当てたのは同時だった。 「んん…。」 思わず声が漏れる。 俺の思考能力はゼロに近かった。先輩が判らない、この行動の意味が判らない。 「せ…先輩…。」 なす術もなく俺は先輩の生み出す快感の波に流されて行った。 「あっ、うん…。」 フローリングの床に俺の指が滑る。時折クーラーのサーモスタットが低く唸る。冷たい床に横たえられたままなのに身体は熱くて堪らない。 あれからどの位の時間が経ったのだろう。 先輩の手が俺を弄るたび先輩の身体の下で俺は淫らに悶える。先輩の唇がわき腹を掠め、内腿にたどり着いた。 「…そ…れだけはっ…!!」 その行為はビデオ等の中だけの虚像だと思っていたので、実際に俺に施されようとしていると知って酷く慌てた。今まで肌を合せた女性に強いた事も無かったし、進んでその行為をする相手とも巡り逢わなかった。 なのに俺の抵抗なんて毛ほども感じていないように、先輩は平然とそれを含んだ。その含まれた感触と先輩に咥えられているという羞恥心に俺の頭の中はスパークした。 「あっ…いや…。」 びんびんに反り返った俺自身に軽く手を添えジュルジュル、ピチャピチャと音を立て貪り付く先輩の顔が視界の端に映る。何時も冷静な先輩の端正な顔がややピンク色に上気している。きっちりと整えられた前髪がはらりと落ちた。それが何か禁欲的で更に俺をそそる。 絶頂感が近付いて俺は何とか先輩を引き剥がそうと暴れた。 「もう…駄目で……出…るっ!!」 そんな俺の哀願にも似た叫びに、先輩はわざと俺をすっぽりと咥え込むと強く吸った。 「…あぁっ…んくぅ…。」 AV女優も真っ青の鼻にかかった甘ったるい声と共に、俺は先輩の口の中に吐露してしまった。先輩はごくりと音を立てて、俺の放った液を飲み込んでからやっと唇を放した。 俺は射精直後の疲労と倦怠感とで放心した状態で先輩が次の行動を予測することが出来ないでいた。 「軽く息を吐くんだ。」 「?」 俺は自分の身に今何が起きているのかよく理解していなかった。なのに先輩は俺の両足を割っていきなり俺の中に押し入って来る。 「ぎっ…!!」 俺の叫びは声にならなかった。衝撃と痛みに思わず伸し掛かってくる先輩の背に爪を立てる。 「力を抜け、余計傷つくぞ。」 「うあぁぁぁぁぁぁ………っ!!!」 先輩の無情な台詞も俺の耳には届かない。体の中を灼熱の鉄杭で貫かれているようだった。先輩は軽く舌打ちしてそれ以上の侵入を諦めて俺の叫びを口付けで塞いだ。 傍から見ればそれはなんと間抜けな恰好だったろう。涙でグチョグチョになりながら両足をおっ広げて男に貫かれたまま、その男の巧みな口付けに翻弄されつつあった。 先輩の柔らかな然し容赦ない舌は俺の歯列を押し開き、小さく縮こまった俺の舌を追い上げ吸い上げる。 もう何年も他人とキスなんてしていなかった俺は、貫かれている事実も忘れその強烈な口付けに不覚にも感じてしまった。先輩は口腔内の弱い所を探るように俺の舌を追い回す。粘液が絡み合い嗚咽に近い吐息がもう一度漏れる頃に、俺の欲望は立ち上がり先輩の腹を擦った。 先輩は唇を放さないまま今度はゆっくりと挿入を再開した。痛みは消えたわけではなかったが別の感覚を伴って俺を苛めた。 俺には耳を打つギシギシという音が自分の背骨の軋む音だという事に、先輩の唇が離れ自分が紛れも無い嬌声をあげている事にも気付く余裕がなかった。先輩の先程の冷たい瞳に自分の姿がどう映っているかなんてもう判らない。只、その一つ一つの動きから生まれる痛みと疼きに翻弄されつつも先輩の背中に手を回していた。 先輩が俺の肩を強く噛んだのと先輩の腰が一際大きく突き上げられたのは同時だった。 「…あぁっ!!」 俺は先輩の腹に打ち付けるように二度目の射精をした。こうなると痛みでいったのか快感でいったのか自分でも判らない。 先輩が未だ反り返る物を俺の中から抜き去ってくれたので、これで終わってくれたのだと内心ホッとして身体を弛緩させた。 疲れた。本当に疲れた。俺一人ではもう指一本動かせない程の倦怠感に苛まれていた。先輩が俺の身体をうつ伏せにひっくり返しても何の抵抗も出来なかった。 「いくぞ。」 予想していなかった先輩の声と共に腰を高く持ち上げられ、再びそれが入って来た。態勢の所為かさっきより深く繋がっているので衝撃は先程の比ではなかった。だが引き攣れてはいるが痛みは少ない。 今度の先輩の侵入は先程とは違い、俺の良い所を探りながら慎重に進んで来る。 一番深く迄繋がったところで背中に先輩の吐息が掛かり、燻っていた快感に三度目の火が点いた。萎えた筈の俺自身が硬度を取り戻していく感覚に俺は酷く慌てた。 先輩がそんな俺の動揺に構ってなんかくれる筈なんて無く、強引により深くよりと激しく動き出した。 「っあ…っくん、せっ先輩…やだ動かないで…。」 快感に流されまいとして俺の指は必死に空を掴む。なのに先輩はいっそう激しく突き上げた。 「くぅん…ああぁ…うん……。」 俺はいつの間にか知らず知らずに、先輩の動きに合わせて腰を動かしていた。 「あぁん…。」 一際深く突き入れられた時に先輩の物が俺の中にぶちまけられたのが判った。俺も殆ど同時に頂点に達していた。 辺りにはコーヒーの香りが漂っていた。珍しく寮の誰かが飲んでいるのだろう。昨日飲み過ぎたらしく、二日酔いなのだろうやけに頭痛がする。 「ううんっ…。」 身体が重かった。何時眠ったのか覚えていない。 先輩と飲みに行ったのは覚えている。俺はどうやって家に帰ったんだっけ? 「ゔっ…。」 時計を見ようと寝返りを打った際に身体に鈍痛が走った。 「目が覚めたか?」 俺が疼痛に悶えていると頭の上から声が降ってきた。不知火先輩の声だった。俺は未だに状況が掴めていなかった。 見回すと、だだっ広いベットの上に転がされている。シーツは絹か何かのようで、やたらつるつるしている。痛みを堪えて起き上がると何も着ておらず慌てて布団(?)をかき抱いた。 「昨日は随分感じていたな。何時もあんなに感じやすいのか?」 先輩の言葉で始めて昨日の出来事が一気にリアルな感触を伴って甦って来た。頭に血が上ってくる。なのに俺の中から先輩にぶつけるべき言葉が出てこなかった。昨日は余りにも沢山の出来事を体験しすぎた。 俺は先輩の顔を見つめて酸欠の金魚みたいにパクパクとただ口を開けるだけだった。 先輩の唇に微笑みが浮かんだ。そっと俺の顎を持ち上げるとやさしくキスをした。 「良く眠れただろう?」 「えっ?」 昨日はあんなにも俺を苛んだ記憶だったのに、先輩の言葉に始めて昨日の事件の事を思い出した。俺はすっかり失念していた自分と、それを計算してあの行為に及んだらしい先輩に軽い驚愕を感じた。 「今日はまともに物が食えるだろう?」 先輩が微笑む、何時もの爽やかなあの笑顔で…。 事態はもう俺のキャパシティーを遥かに越えていて、俺の思考回路は真っ白になってしまっていた。先輩は俺に落としたてのコーヒーを差し出した。 「何もかも腑に落ちないって顔だな。」 「そんな事は有りません。」 俺は半ば自棄になっていたのかも知れない。受け取ったカップをぐいっと呷る。 「熱っ!!」 熱い液体が舌を焼いた。そんな俺を見て先輩はクスリと笑った。 「じゃあ、良いんだな。」 「えっ?」 先輩は俺からカップを取り上げると俺の上に伸し掛かって口付けた。よく状況を把握出来ないでいるうちに先輩の行為はどんどん進んでいった。 俺は先輩の下でじたばたと暴れながら、この状態からどうやって逃げ出そうかと思案した。拒む俺の手をかい潜りながら先輩の手はやばいところまで侵入して来る。 「嫌だ…せ…先輩、こんな明るいうちから…。」 思考能力が低下している俺の口から出た言葉はその程度だった。言って直ぐに言葉の意味に気付いて俺は赤面した。先輩は意地悪そうに笑う。 「判った。暗ければ良いんだな。」 『違うそうじゃない!!そんな事言いたい訳じゃなかったんだ!!』 俺の叫びは先輩の唇に遮られ発せられることはなかった。俺の体に先輩は約束の証として、勝手にキスマークの刻印を付けていく。 「続きは今晩な。」 俺の体に火が点いたのを確認してから楽しそうに先輩は手を放す。 先輩がこんな人だと初めて知った瞬間だった。 To be continued. |