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僕はいつも自分を殺す夢を見る。
夢は果てしない絶望、この苦しい現実からの解放を促す。死が全ての安らぎであるかのように…
その偽られた安らぎの中に僕を抱きとめようとする。
『愛シテイル』
聖はたった一言で、あんなに探し求めていた天への扉を自分から諦め、その身体をその魂をこの地上へと縛り付けてしまった。
その事実を知っていながらも、僕は優しい聖の言葉にその暖かな腕の中に見てはいけない夢を貪っている。
僕に君を見つめる以外に何が出来たのだろう。何もかもを切り捨てて、僕は君を追って来た。その結果が君を苦しみの泥の海の中に突き墜としてしまう事に気付かずに…
−お前があの者に出来ることは
お前の死を以て解放してやるだけだ
死の囁きは僕を引きずり込もうとする。その声は深い地の底から響くように、ゆっくりと僕の心を犯して行く。
「どうかしたのか、洋?」
聖の緩やかにカーブを描く柔らかいくせ毛が僕の頬にかかり、その感触が僕を思考の淵から現実へと引き戻す。
心配げな聖の顔がそこにある。その瞳には神の生き物の証である慈愛と、僕が刻印をした深い悲しみの色が宿っている。
これは本当に現実なのだろうか。触れたなら脆く崩れ去ってしまうガラス細工のような僕と聖の関係。
言い様のない感情が僕の涙腺を刺激し、頬に一筋の涙が零れる。
「洋?」
慌てて聖が僕の頬に触れた。僕は言い訳をする。涙の訳を君に告げる事は出来ない。
−僕は天使に嘘を吐く…
「君があんまり綺麗だから…」
涙を拭うその指にそっと自分の指を絡めて、初めて僕から聖なる者に口付ける。
「愛している…聖…」
聖の舌がゆっくりと僕の舌を絡め取り、僕はなすがまま全てを聖に預け瞳を閉じた。
聖の吐息と鼓動を間近に感じる。
僕は自分が息をする一個の獣であることを忘れる。
僕は何もかもに枯渇し且つそれを欲する貪欲な獣に戻る。
甘い蜜のような闇へと二人して墜ちていくために。
気が付くと僕は一人で闇の中に立っていた。耳が痛くなるような静寂の中、僕は所在なげに立っている。
−これは夢の中?僕は夢を見ているのか
この闇の中には何者も存在しない。人間も魔もありとあらゆる物質も、聖すらもいない。
深い眠りの底にも似た闇にぽっかりと浮かぶように僕があった。
−お前がいるから聖は天には帰れないのだ
「誰?!」
声はどこからともなく響いてきた。僕はその主を探そうときょろきょろと見回したが、辺りはやっぱり何の気配もない虚無空間が横たわっている。
僕の声のみが闇の中へと散り散りに砕け吸い込まれていく。
−お前がいるから聖は天に帰れないのだ
声は繰り返される、どうやらそれは頭の中に直接響いてくるらしい。
「どう言う事だ」
−わからないのか?お前にはわからないのか?
声には冷ややかな嘲りの声が含まれている。
−お前があの者自体を天から程遠い所へ
引きずり墜としているのに気づかぬのか?
「僕が…?」
−お前の存在があの者を魔に近づけているのだ
僕ははっとなった。僕には声を否定する事が出来ない。
『愛シテイルヨ』
昨夜の聖の台詞が甘い囁きとなって僕の脳裏を横切る。聖の一つ一つの仕草が、僕の身体を刺激するあの行為。僕と聖が重なり合うあの瞬間。
−お前さえいなければ聖は天に帰れるんだ
−僕さえいなければ…
「何をしてる!」
かしゃんと軽い金属音が何処か遠くで聞こえる。
目を上げると何もないはずの空間に聖が見えた。
「洋、洋!お願いだしっかりしてくれ、洋!」
聖が僕の身体を揺さぶっている。辺りにはあの闇の片鱗さえ見えない。
夢だったのか?
「せ…い……?」
聖は涙を浮かべて僕を覗き込んでいる。足下には小さなナイフが転がっている。
紙のように血の気の失せた白い聖の顔を見て、自分が無意識的に自殺しようとしていた事を思い出す。
「何故…死なせてくれなかったの…」
僕の唇は勝手に動いていた。こんな事を言えば聖が苦しむ。聖が傷付く。
なのにあの日あの時から僕の中に巣くっていた魔がその残忍な牙を剥く。
「洋…!」
「聖、君のために…」
パシン
聖の顔は見えない。細く白いその肩が僅かに震えている。
「私が…」
「聖…」
「私が君を追い詰めたんだね…」
「違う!悪いのは君じゃない」
僕は聖を抱き締めた。いつか君に『サヨナラ』を言う日まで付いていくと決めたのは僕。誰でもない僕自身なのだから。
「ごめんね、聖。もうこんな事しないよ」
−出会わなければよかったのかも知れない
僕の中でもう一人の僕が囁く。僕の心はこんなにも傷付き、そしてこんなにも膿んでいる。
僕は君のその白い翼を汚す。
−早く 早く天への扉を見つけなければ…
僕は静かに目を閉じた。
−願わくば、僕の狂気が僕の中で眠っているその内に…
FIN.
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