ファイアフライ 「悪夢の予兆」
カノンフォーゲル/文
今は何日なのだろう。
ぼうっと、かすみのかかった思考の中で考えた。
そういえば、いつからこうしているのか。
いいや、ちがう。
させられているのだ。
なにを?
思考がそこに至ったとき、自覚した。
「い…いやぁ…」
スズメの涙ほどに残った気力で、声をあげる。
誰一人として助けにくるものはいないとわかっていたら、助けを求めるというよりも負けそうになる自分を叱咤するものだった。
その声を待っていたかのように、四肢を拘束しているモノが動き出す。
肉色の蔓が、寄り集まって手足を飲み込んで動きを封じている。
そう、自分は今、犯されているのだ。
無数の触手によって飲まされ、擦り込まれた粘液によって体のどこを触られようと快感が脳を焦がになっていた。
螺旋を描くように巻きついた触手が小ぶりな双丘を絞り上げ、揉みしだく。すでに硬くしこっていた桜色の乳首を、触手の先端がはじいている。
ぬめりを帯びた粘液をまとった触手が、肉のついていない脇腹をなで上げる。
「ひ…やあ…うっ…」
触手が後ろの穴をなぞった。
それだけで達してしまいそうになった。
ありとあらゆる性感帯がいやおうなく開発されていた。
じらすように周りをなぞっていた触手が、ゆっくりともぐりこんでくる。幾度となく蹂躙されたそこは、容易く侵入を許してしまった。
「い…うう…」
もはや痛みは無く、むしろ快感すら覚えてしまう。
そんな自分に嫌悪を覚えながら、体は送り込まれる快感に酔っていた。
目の前に、ほかとは少し違う触手がゆれていた。
口元に近づいてくる。奉仕しろとでも言うように。
口をつぐんだままでいると、頬に押し付けてきた。もはや意地になって閉じていると、アナルを責めている触手の動きがより強烈なものになった。
「ひゃ…むぐっ!」
苛烈な圧迫感と異物感、それにも勝る汚濁感に思わず出た悲鳴で口が開くと、すかさず触手がもぐりこんでくる。それだけで終わることなく、触手は口腔で抽送をはじめた。
その動きはだんだんと速くなり、時折びくん、びくんと震えてくる。
何が起こるかなどわかりはしなかったが、たまらなく嫌な予感がしていた。
だからといって噛み付くことも、吐き出すこともそのほかあらゆる努力が無駄に終わることは目に見えていた。
「んんん……」
口の中の触手が不意に大きく膨れた気がした。
「んむうううぅぅっ!」
どくん、どくんと触手が脈動して、口内に熱く、どろりと粘ついた塊を吐き出す。逃げ場の無い粘液は呼吸を圧迫し、その苦しさから逃れる為に必死になって飲み下す。
十分に吐き出して満足したのか、口内の触手はずるりと抜き出される。
「けほ…けほっ…えぅぅ…」
のみきれず、舌の上に残っていた粘液を吐き出した。猛烈な吐き気で涙が出てきた。
そのまま抜け出した触手はその先端で蛞蝓の這った跡のように粘液を塗りつけながら、唇を、あごをへて下へと降りていく。
膨らみきっていない二つの乳房の間を抜け、余分な肉のついていない腹をなぞり…
「い…いや……」
先ほどに倍するほどの、不吉な予感。
同年代の少女に比べ、性知識に乏しかったが、その程度のことはわかる。
「やめてよぉ……」
両足を拘束していた触手が、徐々に左右に開いてゆく。
これまで一度も触れられていなかった秘所。いままで閉じられていたそこは、自分の意志と関係なくほころんでいた。
そして
十分潤った入り口に、触手があてがわれて
「…………い」
その歪な姿を体内に沈めていった。
「いやああああああっ!」
ほたるは自分の悲鳴で目を覚ました。
「はあ…はあ…はあ……ゆ、夢…?」
パジャマ代わりのTシャツは汗でびっしょりと湿り、肌に張り付いて気持ち悪かった。
枕もとの目覚し時計はまだ午前3時を指していた。
ため息をついてベッドから這い出す。
身につけているものを全部洗濯籠に放り込み、シャワーを浴びる。
熱めのシャワーを浴びながら、額をごつんと壁に当ててつぶやく。
「何なのよ…もう……忘れたと思ったのに…いまさら…」
その日は、夏の初めのどんよりと曇った、いやな日だった。
ここ熊谷の夏は、過ごしずらいことこのうえない。盆地の底ということもあり、夏は蒸し暑く、冬は底冷えがする。おまけに秋の終わりから春にはおろしが吹いて猛烈な風が吹く。
そして土手と土嚢で囲まれた、射撃訓練場には…
「暑い」
熱がこもる。
「蒸し暑い」
湿気もこもる。
「あついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあつい!」
「暑い暑い言うと余計暑くなりますよ」
「……………」
まだ午前中ではあったが、気温も湿度も不快指数も右肩上がりだった。
「あいたよ〜」
髪もひげも真っ白な老齢のレンジマスターが声をかけるとレンジから訓練を終えたぞろぞろとハンターたちが現れた。
皆一様に汗だくになっていた。薄着の上に直接ベストを着込んでいるものも多いが、その程度ではどうすることもできない。
「よお……」
シューティンググラスをかけて口ひげを生やした小柄なオーストラリア人がベンチに居るほたるに声をかけた。
「暑いね、アースキン」
「何年たってもなれないだろうな、ここは」
「まったくだね」
「お、皆川も一緒か」
皆川は手を上げて応える。
「で、どうなんだ?結局のところ」
「なによう…アースキンまでそんなこと言うの?」
先日以来、ほたるはこうしてからかわれどおしだった。
あの場に居たわずか数人の暇人の口から駐屯地全体に広がるまで、三日とかからなかった。
「はっはっは、若いねえ。ところでな…」
アースキンは声を潜めて、
「……気をつけな、おまえの嫌いなブン屋が来てるぜ。取材だとよ」
ほたるの顔が一瞬こわばるのを、皆川は見逃さなかった。
防弾のために土嚢と古タイヤを積んで周囲を囲い、屋根をつけたシューティングレンジは、硝煙の匂いが満ちて、目が痛くなりそうだった。だから、ほたるはあまりここが好きではない。もともと射撃などは必要最低限の腕前しか持ち合わせていないし、今以上うまくなろうとも思わない。
月900発の射撃訓練もハンター資格の維持のために仕方なくやっている作業に過ぎない。
自分のガンケースから、SIGP228を出してケースはロッカーに入れた。空の弾倉と紙のパッケージ入りの弾丸を持って自分に割り当てられているレンジにつく。
「そういえば先輩って、SIGなんですね」
隣のレンジに居た皆川がほたるの手元を覗き込んでいった。
「ん、まあね」
「でも9ミリって力不足だって聞きますよ。やつらの相手には心許ないって」
軍用、警察用を含めて拳銃弾のスタンダートになった9ミリパラベラム。
制御しやすいリコイルと良好な携行性は多くの拳銃に採用されたが、一方で打撃力不足も露呈していた。
特に対ローパー戦闘においては、短時間に大量の弾丸をばら撒くことのできるサブマシンガンは別として、予備に携行するサイドアームには9ミリを用いるものは少数派であった。
「あたしはほら、こういうのあまり得意じゃないし。それにパワー不足は弾の種類でフォローできるわよ」
「へえ」
銃は好かないだのといっていたほたるだったが、何だかんだと勉強しているんだなあと感心したが、
「…って、純さんが言ってた」
ほたるはぺろり、と舌を出して笑った。
「それにね」
何かを懐かしむように、細かな傷の目立つ無骨なスライドをなでながら、言った。
「それに、この銃は、お守りだから」
「………」
会話が途切れて、それぞれ装填作業を続けた。
皆川は自分の銃、スプリングフィールドM1911カスタム「TRPオペレーター」のマガジンにどんぐりのような45口径弾をこめていく。
18万円と多少値が張ったが、それでもいざ、というときに当たらないものではしょうがないと奮発したのだ。
フレーム下部に装着されたレイルシステムも、いろいろ使えて便利だった。
イヤーマッフをかぶって装填し終えたマガジンをグリップに叩き込む。
スライドを引いて初弾を送り込む。
5メーター先のターゲットに向けてトリガーを絞ろうとしたとき、隣のレンジから閃光があふれた。
何事かとセイフティをかけて、ホルスターにTRPオペレーターをしまって隣のレンジを覗き込む。
「あ、気にしないで、続けて」
銃口を下げて、トリガーから指を離したままほたるが固まっている。
その斜め後ろにはカメラを構えた男がいた。
「…………」
ほたるは男を見もしないで、手早く道具を片付け、レンジを離れようとする。
「あ、ちょっと、まってよ」
男はほたるの腕をつかむ。
「何も逃げることないんじゃない?別にとって食おうとか言うわけじゃないんだからさ」
「いやっ!」
ほたるはつかんだ腕を振り払い、乱暴にドアを閉めて出て行った。
他のレンジで弾薬を消費していた他のハンターたちも、手を止めて何事かと様子をうかがっている。
皆川は反射的にすでに待合室の向こうへと早足で遠ざかっていくほたるの後姿を追っていく。
一息に追いついてほたるの肩に手を置いた。
「先輩…?」
「…ごめん……少しの間…一人でいたいの…ごめん」
ほたるは振り返ろうとしなかった。
皆川は、ほたるを止められなかった。
ほたるは何かにおびえていた。
常に強気な彼女のこんな声は、そう、初めて出撃した日以来だ。
肩に置いた手を下ろした。
「ありがと」
感情を押し込んだ、作った明るい声だった。
それを見て、皆川は一瞬はっとした。
強烈な既視感。
離れていくほたるの背中を見送ってから、レンジに戻る。
「あ〜あ…まいったなぁ…」
「失礼、どちら様で?」
長めの茶髪を掻きながらつぶやく男に、皆川は誰何した。
「ん、何、許可はとってあるよ」
「知ってますよ。柊先輩に、何か用でも?」
「へえ…柊ってんだ、あの娘。何、あんたあの娘の彼氏かなんかかい?」
いやな笑みを浮かべながら言った。
「…同僚です」
いささかむっとしながら、答えた。
「同僚、ねえ…」
値踏みするようにじろじろと皆川を見る。
「まあいいや。俺は那珂。フリーでジャーナリストやっててね。ここで写真とってたらあんなかわいい娘見つけたもんだから、少し話を聞こうかと思ったんだけど…嫌われたかな?」
皆川のこの男に対する第一印象はこのとき決まった。こいつは嫌な奴だ。
「…十七かそこらかな、あの子は。まー多感だからねえ、あの年頃」
ふと皆川の顔を見て、眉をひそめた。
「……あんた、前にどっかであったこと無いか?」
「いいや」
「そ〜か…気のせいかなあ…?」
ポケットからタバコを出し、くわえる。
「禁煙です、ここは。タバコは外でどうぞ」
壁の禁煙のプレートをさして、言った。
「…やれやれ…嫌われたなあ…」
くわえタバコのまま、出入り口のドアへと向かう。
ドアの前で振り返り、
「またな、皆川さんよ」
「…うん……ごめんね……じゃ」
電話を切って、携帯をズボンのポケットに押し込む。
スケジュール上は、一日訓練に終わることになっていたが、どうにも駐屯地にいるのが嫌で、市外に出てきてしまった。
市内を東西に細い川の縁には遊歩道が整備されており、小さな広場やベンチが備えられていた。
ベンチに腰をおろしたほたるは、ゆるゆると流れる川面を眺めていた。
相変わらず空は曇ったままだ。ほたるの顔も。
「……ふう…」
大きなため息。
考えてみればなんとなく今日はあまりいい日ではないようだった。
夢見も悪かったし、それ以上にブン屋がよってきたのはまったくもって不快だった。
仕方がない、とも思う。ハンターに女性が少なくないとはいえそれでもほたるは最年少だ。目立つのは否めない。
かといって、ハンターをやめることもできない。自分にはこれ以外にできることはなかったし、第一ただブン屋から逃れる為にやめるにはあまりにも失うものが多い。自分の夢の為と、それに…。
「ほたるさん」
「ぁ…」
顔を上げると、買い物袋を下げた栞がたっていた。
「栞さん、買い物?」
こくこく。
「半分持つ。どうせひまだし」
買い物袋を栞から受け取って、歩き出す。
申し訳なさそうな顔をしている栞に、ほたるは、
「いいのいいの。…その代わりって言ったら何だけどさ」
「………?」
「お茶、飲みたい」
にこにことして栞は頷いた。
突然振って沸いた憤懣をペーパーターゲットに叩き込んで晴らして、久方ぶりに一人で食事をしていた皆側の前に、同じく料理の載ったトレイを持った那珂が立っていた。
「ここ、いいかい?皆川ニ曹殿」
憤懣の元凶がやってきた。
「やっと思い出したぜ。あんた、21年度空挺レンジャー第六分遣隊選抜試験唯一の合格者、皆川修二二等陸曹だろ。第六分遣隊なんていったら、対テロ作戦を担当する、エリート部隊なんだってなあ。それが何でこんなところでくすぶってんだ?」
トレイの上の料理には手をつけるでもなく、頬杖をつきながら興味深げに皆川を覗き込む。
「あんたには関係ないだろう」
「あれかい、よくある、「自分の力を試したい」とかってやつかい?」
「俺はあんたには関係ないって言わなかったか?」
「とと、機嫌を損ねたのなら謝るよ。こっちも仕事でな、かってにいろいろ調べたのは悪いと思っている。…で、ここからは仕事の話なんだが…」
「仕事?」
「ああ。俺は今、とある雑誌の記事を書いてる。今度各記事で、ハンターのことを書きたい」
「あんたまさか…」
「そう、彼女を説得してほしいんだわ。なんせ射撃場の一件で、印象悪いじゃないか、俺は。礼は弾むよ」
「あんた、こんな情勢下に何言ってんだよ」
「こんな情勢下だからさ。大衆は英雄を求めてる、英雄という希望をほしがってるのさ」
人類が築いてきた戦史という名の屍の山の中に、多くの英雄が存在している。
曹操やハンニバル…新しくは「赤男爵」リヒトホーヘン、「砂漠の狐」ロンメル、「猛牛」ハルゼー。
彼らの存在は敵には恐怖を、味方には士気高揚をもたらす。
その存在はしばしば民衆の戦意を鼓舞する為にも利用されてきた。
「……本人の意思に関係無くか」
「時としてそれもやむをえない、サ。彼女はその条件を満たしているし、何よりかわいいしな」
「だからなんだ。俺に先輩を苦しめる手伝いをしろと?」
「宣伝料さ。安いもんだろう」
「………」
「苦しめる?すると何か、あんた彼女のこと詳しく知ってるのか?」
「いいや。だがそんなことはするつもりは無い」
「ほう…ずいぶんご執心だな。そんなに」
「だまれ」
到底減りそうにない那珂の言葉を叩き切った。
「…………」
「…………」
皆川は正面から那珂を見据えた。先に口を開いたのは那珂だった。
「…とにかく、さ。引き受けてくれないかなあ、頼むよ」
「………」
「何が不満なんだよ?もしよかったら教えてくれないか?」
「俺はあんたたちみたいな奴が気に食わないだけだ」
「はあ?」
わけがわからん、という顔をしている那珂を置いて、皆川は席を立った。
いらいらしながら食堂を出る。
「くそっ!」
自動販売機脇のごみ箱に蹴りを入れる。廊下に空き缶が散らばった。
からからと空き缶の転がる音だけが廊下に響いた。
「何やってんだよ…俺は…」
散らばった缶を拾い集めながら、ふとほたるのことが気になった。
何かに怯えていた。明るく振舞おうとしていたのだろう。
もっともそれは余計に痛々しく感じられただけだったが。
そのときやっと気がついた。あの強烈な既視感のことを。
あの時と同じだった。
もう記憶の中にしかいない彼女と、あの夜に。
迎えに行こう。放っておくのもなんだか納得いくものでもない。
はなはだ傲慢な考えとも思うが、自分は彼女の力になれるのではないだろうか?
そうありたいとも思うが、自分にできることをやるべきだ。何もせずにただ待っているよりよほどいい。
皆川は、そう思いながら駆け出した。
「ねえ、栞さん」
台所で紅茶を入れている栞に、ほたるは声をかけた。
「?」
「栞さんは…嫌なことがあって…なんだかもやもやした気分になることって……ある?」
プリンス・オブ・ウェールズのいい香りをまとってリビングへと入ってきた栞が不思議そうな顔をした。
「何かあったんですか?私でよければ相談にのりますよ?」
「うん……」
ほたるにとって身近なのはウーシェとガーンズバックだったが、残念ながら二人とも任務中で出かけたままだ。
それに、どうもこういうことは栞のほうが相談しやすい気がする。
なんとなく、だが。
このもやもやした気分を晴らすには、何をどうするか。もとより解決策は期待していない。
だが、何かしらのヒントでも、と思ったのだ。
「………皆川さんと何かあったの?」
「ううん……」
ほたるはかぶりを振る。
「そんなことない…そんなことないよ…ちがうの……」
「?」
「なんだか気分が晴れなくて……どうしていいかわかんなくてさ」
栞はやさしい笑顔で言った。
「……頼ったらいいんじゃないですか」
「え?」
「人間、何でもできるものでもないですよ。困ったときは頼ればいいんです。なんでもかんでも、っていうのは確かに問題ではありますけど、そうじゃないでしょ?」
「だから…栞さんに…」
う〜ん、と困ったように栞は宙を眺めてから、
「ほたるちゃんは、そういうのは嫌?誰かに助けてもらうのは嫌い?」
「………誰が…あたしなんか…」
「自分なんか、なんていっちゃだめですよ」
「でも」
「それ以上言うと、怒りますよ」
ほたるの言葉を栞がさえぎった。
栞のその言葉に、ほたるは驚いた。普段無口な栞がここまで饒舌なのも驚いたが、それ以上に「怒る」などと言った事は初めてだった。
「甘えないでください。ほたるちゃん、あなたは自分のことどう思ってるの?そんなに自分が嫌い?そんなに自信がない?自分だけがつらいような気になって、一人で悲劇のヒロインやるのはよして」
いつになく強い口調で栞は言った。
ほたるが身を硬くしているのを見て、栞は口調を柔らかく戻した。
トレイをおいて、肩に手を置いて正面から蛍を見た。すべてを許すような、やさしい笑顔で。
「いつもあんなに元気なほたるちゃんだもの、助けが必要かなんてわかりにくいわ。でもね、みんなあなたを好いてる。みんなあなたの元気で、元気をもらってる。みんなあなたを助けてくれるわ。もっと自分に自信を持って」
ほたるの顔がくしゃ、とゆがんだ。栞はそのままほたるを胸元に引き寄せ、自分の胸に顔を埋めさせた。
「………ごめんなさい。…あたし、あたしね、不安だったんだ。ブン屋が来て…あたしのことが…あいつに知られたらって。あのことが…知られたら……きっと……あいつは…」
ほたるは怯えていた。年相応、いや、それ以上にどうしようもない恐れがほたるに言葉をつむぐことをさせなかった。
「……わかりますよ、その気持ち。私も、そういうこと、ありましたから。さっきの言葉も昔、ある人に言われたことの受け売りですから」
どうやら栞に相談したのは正解だったようだ。
「わたしにはね」
そっと、ほたるの髪をなでてやる。
「私には、あの人がいてくれたの。……そのことでつらいこともあったし、出会わなきゃよかったって考えたこともあったわ。でも、いつもあの人は助けてくれた。だから、今こうしてるんです。大丈夫、きっと助けになってくれますよ、皆川さんは」
いきなり皆川の名が出てきて、ほたるは真っ赤になって顔をあげた。
「なっ、何であいつが出てくんのよぅ」
「あら、ちがうの?あいつって」
「〜〜〜〜〜〜」
狼狽するほたるに、栞は、
「…………素直になることも大事ですよ。大丈夫、勇気を出して」
「…………うん」
こくん、とうなずいたほたるに、栞は安心したように微笑んだ。
ふっと遠くを見つめるようにして、栞は、
「……冷めちゃいましたね。お茶はまたにしましょう。それとも…」
栞の言葉をはかりかねてほたるがいぶかしんでいると、玄関のベルが軽やかな音で来客を告げた。
いったん持ち上げたカップが載ったトレイをテーブルに置くと、玄関へと歩いていった。
玄関先で二言三言の会話の後、栞が戻ってくる。
「先輩、迎えにきましたよ」
栞の変わりに現れたのは皆川だった。全身汗だくで、息も上がっている。
「探しちゃいましたよ。駐屯地にいないんですもん」
ほっとした顔で、皆川は肩の力を抜いた。
それを見てほたるはなんだか安心したが、その一方で少し後ろめたい気持ちもあった。
玄関から戻った栞と、皆川の肩越しに目が合う。栞は微笑んでうなずいた。がんばれ、といっているように。
工場の敷地の中に、カーキ色のオフロードバイクがとめてあった。
ヤマハXLR250R改。陸上自衛隊がしばらく前まで偵察や連絡に使っていたバイクだ。物好きな誰かが民生品とつき合わせてレストアしたのを拝借してきたものだ。
「やべ…」
「どうしたの?」
「ガス欠です…駐屯地まで戻れません」
「まあ…どうしましょう、純一さんもいませんし…」
ほたるは笑って、言った。
「歩こ。押すの手伝うから」
「でも、4,5キロは楽にありますよ」
「いいじゃん、たまには」
いくらか明るさを取り戻したほたるに、皆川はなんとなく安心した。
荒川にかかる大きな橋の上を、二人は歩いていた。
橋を通る車はほとんどなく、人影もなかった。
栞と分かれてから程なく日は沈み、背後には街の明かりが宵闇を切り裂いている。
「先輩、聞いても、……いいですか?」
躊躇いがちに皆川が口を開いた。
「………何?」
「昼間のことなんですけど……もし、俺にできることがあれば…」
「ああ、あれか」
やっぱそのことか、という顔をして、ほたるは言った。
「あたし嫌いなんだ、ああいう連中。相手のことをあんまり考えないでずかずか踏み込んでくる奴。…あたしもさ、ほら、こんなことしてるじゃない?そんなもんだからさ、目立つらしいの」
横目でほたるの表情を伺うが、身長差とほたるがうつむいてるのとで見えなかった。
「誰にだって、知られたくないことって、あるわよ」
ため息混じりの一言。
「…………」
「あ〜あ、やめちゃおうかな……」
「え?」
皆川は思わず足を止めた。ほたるは歩みを止めることなく、先に行ってしまう。
「やめちゃって、普通の女の子みたいに普通の仕事やって、誰か素敵な人と一緒になって…幸せをつかむの」
本気とも冗談ともつかないその言葉に、皆川は息を飲んだ。
「先輩…」
ほたるは足を止めた。
「……皆川は……あたしが辞めたら、どうするの?」
「…………俺は」
ほたるは踵を軸にくるりと回って皆側と向かい合う。その顔にはいたずらっぽい笑顔が浮かんでいる。
「な〜んてね、冗談よ、冗談。辞めるわけないじゃない。あんたみたいな半人前をほったらかしにしたまま辞めるなんて、あまりにも無責任じゃない?」
ほたるは言葉を切って、再び皆川に背を向けた。
「……あたし…記憶、ないの。昔のこと、何も覚えてないの。覚えてるのは、…覚えてるのは義父さんに…奴らから助け出されてからのことだけ。だから…あたしには過去も…未来もないの」
一言一言、自ら噛み締めるように言った。
「……普通じゃ…ないの、あたしは。普通の女の子に、できやしないもの、こんなこと。あたしには、普通の生き方なんかできないから……だから、やめられないの。あたしにはこれしかないの。あたしの夢は、奴らを滅ぼすこと。そして、死ぬこと。奴らとの最後の戦闘の、最後の一撃で死ぬの。それがあたしの夢。あたしの生き方」
暴れ出しそうな感情を必死で押さえながら、自分の中にたまった毒を吐き出すように、ほたるは言葉をつむぐ。
二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
「……なぜです?……なぜ、死ななきゃならないんですか?」
「………言わなきゃ…だめ…?」
皆川は口をつぐんだ。
ほたるの肩は小刻みに震えている。
それ以上は聞けなかった。
かわりに、ほたるが背を向けたままたずねる。
「こんなあたしでも、助けてくれる?」
轟音を立てて、脇の車道を大型トラックが通り過ぎた。
皆川は少しの間迷い、答えた。
「…俺は、助けますよ。ただし、生きるためなら。生き残るためならいくらでも手を貸します。全部終わった後に、何か問題を解決するために手を考えればいいでしょう。…俺たちは、チームじゃないですか」
「………うん」
月明かりの下に照らされたほたるは、いくらか翳りのある笑顔を浮かべながら頷いた。
確かにそこにいるのに、ひどく儚げで、まるで夢か幻のようだった。
|
掲示板に感想を書く
戻る