(注)『田中クンの災難』第四話と同時進行
「ふう……。今日の晩メシは何かねえ………」
一日の労働を終え、自宅に戻る。あれから、貴代子は3日間泣き通しだった。
だがその心の傷もようやく癒えたのか、今は普通どおりに暮らしている。
もしかしたら、忘れようと振る舞っているだけ、なのかもしれないが。
「う、うわっ!?」
アパートの入り口に差し掛かったとき、出会い頭に何かとぶつかり、声をあげてしまう。
「………っ!」
「あ、あれ? だ、大丈夫かい?」
ふと見ると、それは隣の家の女の子だった。いつもなら「ごめんなさい!」と元気に
謝罪の言葉を述べてくるはずだが、今日に限っては何も言わずに、俺の隣を駆け抜けて行く。
よく見ると、いつもの愛嬌のある笑顔とは違って、頬っぺたをぷくっと膨らませ、
泣いていたのか、目はうっすらと赤くなっていた。
……ううん、泣いている顔でも結構可愛いかったな……いや、そうでなくてよ。
でも、何か抱えてたな……あれって……そういえば?
思わず女の子の後ろ姿に向かって、声を掛けながらそんなことを考えていた。と、
「う、うわっ!?」
「あ、す、すみません! 大丈夫ですか!?」
再び誰かにぶつかり、思わず悲鳴を漏らす。振り返ると、そこには隣の奥さんがいた。
ううむ……本当、親子そっくりだねえ……。しかもあんな大きい子がいるにも関わらず、すげー若いし。
「い、急いでいますので、これで失礼します!」
「あ…は、はい」
俺に向かってぺこりと頭をさげ、奥さんは駆け出した。……こりゃあ、娘を追っかけてるのかな?
駆け出す奥さんの後ろ姿を見送り、そんなことを考えながら、礼をしたときに一瞬だけ見えた、
奥さんの胸の谷間を思い出す。………本当に同じ女なのかね?
我が家に転がり込んでいる鬼、貴代子の胸を思い浮かべ、俺はそんなことを考えていた。
「あ、すみませ〜ん」
玄関のカギを開け、中に入ろうとする俺に向かって、何者かが声を掛ける。
声のした方向を見ると、包みを抱えたポニーテールの女性が立っていた。
えっと……どっかで見た記憶があるけど……誰だっけ?
「丁度よかった、お届け物です」
ああ思い出した。貴代子が買った変な本を届けにきた、バイク便の姉ちゃんだっけか。
……にしても……この姉ちゃんは自給自足か、それとも本の指示に従ったのか……。
ジャケットのおかげで、くっきり浮き出た彼女の胸の大きさを前にして、そんなことを考えていた。
というか貴代子のせいで、女性を見たら胸を見る習慣が、身についてしまったような……。
「あ、お帰り。丁度出来上がった頃だよ………なんだい、そりゃあ?」
「えっとさ、いつだかの宅配便がまた着てたよ」
「そ、そうか! ど、どうもありがと! も、もらっとくな!」
部屋に入ると、貴代子が台所でカレーの入った鍋をかき混ぜていた。
が、件の宅配便の話をすると、大慌てでこちらへ飛んできて、俺の手から荷物をひったくった。
……まあいいけどさ。今度は何を頼んだんだ? いったい?
「しっかし…お隣さんも飽きないねえ。また喧嘩してたみたいだけど」
「はあ? またかよ……ったく、喧嘩するほど仲がいい、とは言うけれど、よくネタが尽きないなあ」
カレーを食べながら、先ほど隣の親子とぶつかったことを思い出し、貴代子に話しかけた。
貴代子は苦笑いを浮かべながら、自分の皿に福神漬けを追加している。…カレーが真っ赤だよ。
「あはは、そだね。でも今度は多分、ペットを飼う飼わないじゃないのかな?
さっき、家を飛び出す娘とぶつかったんだけど、フェレットみたいなの抱えてたし」
ガチャン
「な、何? どしたの?」
俺の何気ないひとことに、貴代子はえらく動揺して、手にしていたスプーンを取り落とした。
突然の出来事に、思わず俺は目を丸くして、貴代子をじっと見つめていた。
「……悪い! ワタシ、ちょっと出掛けてくる! 後片付け頼むな!」
「ちょっと! 本当にどうしたのさ!?」
貴代子は、ぱっと立ち上がったかと思うと、食事もそのままに玄関へ向かう。
わけが分からない俺は、再度貴代子に問い掛けた。
「時間が無い! 後で帰ってきたら説明するよ!」
振り向きざまに俺に向かってそう叫びながら、貴代子は飛び出していった。
まったく……何があったって言うんだよ……。
「はあ…はあ…はあ……」
裕二から、隣の女の子がフェレットを抱えながら飛び出したと聞いて、反射的に駆け出していた。
まさかとは思うが、美沙ちゃんが面倒を見ていたフェレットかもしれないと思って。
それに、美沙ちゃんを殺した犯人は、未だ見つかっていないのだ。
関係が無かったとしても、こんな時間に一人で出歩くのは、危険な状態なのは間違いない。
だが、しかし……。
「どこに……行ってしまったんだろう……?」
肩で息をさせながら、ポツリとつぶやく。思わず飛び出していたが、女の子がどこに行ったのか、
まったく見当がついて無かったのだ。……それも無理も無い。
何せ隣の娘とは、回覧板をやり取りする程度で、面識があるわけじゃないのだから。
かと言って闇雲に探すのも、体はひとつしかないのだから、無理がある。
「………まさか…まさか、な………」
先ほど自分が思いついた、突拍子も無い可能性を思い出し、ワタシはある場所へと足を向けた――
ガサッ、ガサガサ……
木々の擦れあう音が、静寂を破るように響き渡る。ワタシの姿は山の中にあった。
既に日は落ち、辺りは闇に包まれている。女が一人で立ち入るような場所や時間では無かった。
ましてや、ひと月ほど前に殺人事件が起こった現場、なのだから。
そう、ここは山は山でも、美沙ちゃんが殺された山だ。
美沙ちゃんのフェレットがどうなったのかは、新聞でもテレビでも取り上げてなかった。
もしかしたら、ここに連れ去られる途中で、投げ捨てられたのかもしれない。
それ以前に、あの娘が抱えていたフェレットが、美沙ちゃんのと同じフェレットだとは限らない。
だがそれでも、ワタシは何かに突き動かされるかのように、山の中を歩き続けていた。
まるで、美沙ちゃんがワタシを呼んでいるかのように………。
「……あああっ!!」
木々の擦れあう音の中、かすかに聞こえる………これは…悲鳴? ワタシは思わず駆け出していた。
「へっ。まったく、しゃあねえな。………さて、オマエは口で一回ヤったんだし、俺から始めるぞ」
声のした場所へと駆け寄ると、二人の男が横になっている女の子に前で、ニタニタ笑っている。
次の瞬間、ワタシは思わず、女の子に覆いかぶさろうとしている男目掛け、とび蹴りをかましていた。
ドカッ
ワタシの足は、寸分たがわず男の横っ面に命中し、弾みで男は吹き飛んでいた。
「な…何だあ?」
「手前ら……こんな小さい娘に、何やってやがんだあ?」
娘の手を押さえていた男が、呆気に取られた声をあげる。
言わずもがなのことだが、ワタシは男たちに向かって声を掛けずにはいられなかった。
「まったく……まさかこんな時間に、しかもこんな場所に人が来るとは、ね。
ま、いいか。……ハヤテ兄さん、動ける?」
「ぐ……くく…。せっかくイイところだってのに、邪魔しやがって……」
だが、男は大して動揺する様子も無く、ワタシが蹴りを見舞ったほうに声を掛ける。
ハヤテと呼ばれた男は、首をコキコキ鳴らしながら、ゆっくりと起き上がった。……な、同じ顔!?
「痛つつ……このアマ……容赦しねえぞ」
ワタシが呆気に取られている隙に、ハヤテが猫背になり、両手をだらりとぶら下げた。
「!? …………痛っ!」
かと思った次の瞬間、ワタシの視界は天地が逆転していた。同時に、左腕に鈍い痛みが走る。
「ぐ……な、何だ……?」
尻餅をついたワタシは、ゆっくりと体を起こそうとしたが、
不意に全身を痺れと痒みが襲いかかり、思うように体が動かせなくなっていた。
「……おいおいハヤタ、傷の入りが甘かったんじゃないかあ? まだ動いてるぞ?」
「うわ、ホントだ……可笑しいなあ? ……ま、これなら大丈夫でしょ?」
物凄く緩慢ではあるが、体を動かし続けるワタシを見て、ハヤテはハヤタに話しかけた。
ハヤタは首を傾げながら、ワタシの両腕を頭の上で揃えて手錠を掛ける。
「な! き……貴様ら、いったい何をした!?」
「えっとね、俺たち3人は実は鎌鼬なのさ。今キミを転がしたのも、ハヤテの力。
でもって、その傷と痺れは俺の力なわけ」
自由の利かないワタシは、目だけをハヤタに向け、叫び声をあげた。
肩をすくめ、ハヤタは何気なく答える。
「……な……鎌鼬だって? じゃあ、3人目はどうしたというんだ?」
「あ〜。ハヤトなら、そこの草むらでおねんねだよ。
余程興奮してたのか、その娘に挿れるまえに気ぃ失っちまった」
ケケケッと笑いながら、ハヤトが肩をすくめて傍らの茂みを指差す。
つられてそちらを見ようとしたが、体の自由が利かないワタシは、そちらを向くことは出来なかった。
「くっ……こんなことして……何をする気だ?」
「たっく、ガキじゃあるまいし。こんな状態になったら、どんなことをするかくらい、分かるだろう?」
「ちなみに、今のあんたの傷と痺れは、ハヤトの力を使わないと、癒えないからね」
ハヤテが私の上に覆いかぶさり、ワタシの服を引き裂く。
同時にハヤタがワタシの耳元で、そっと耳打ちしてきた。
ワタシは思うように動かない体に歯軋りしながら、ハヤタに向かって唾を吐きかけた。
「気の強い姉さんだなあ……。ま、いいや。抵抗するのを無理矢理ってのも、キライじゃないしね。
ああそうそう、ハヤタは傷を癒やすついでに、その間の記憶も奪っちゃうから、
今どんな目に遭ったとしても、綺麗さっぱり忘れてしまうから、大丈夫さ」
頬についたワタシの唾を、シャツの裾でゴシゴシ擦り落としながら、
ハヤタはその笑みを崩すことなく、ワタシに向かって語り続けた。
最初に会ったときから、何ひとつ変わらない淡々としたハヤタの口調に、ワタシは言い知れぬ嫌悪感と、
滅多に感じることがない恐怖を覚え、背筋に冷たいものが走るのを感じていた――