■ 寄る辺なき悪魔-1-
厚い扉が閉まるのを見届けると、待っていましたとばかりにハイピクシーは少年の耳元に体を寄せて囁いた。
「本当に協力するつもりですの? 私は反対ですわ」
余りにも格の違う悪魔との対面を終えたばかりで、心ここにあらずといった人修羅は言葉無くうなずく。
小さい体は巨像が発したエネルギーに中てられてしまい、まともな思考力も残っていないように見える。
しかし、紅潮した頬と目を見れば、胸の中にたくさんの興奮が渦巻いていて、それに対処しきれず混乱しているだけなのだと誰もが理解できる。
少年はしばらくその場から一歩も動けずにいたが、ねぇねぇとしつこく食い下がるハイピクシーに耳を引っ張られて煩そうに手で頬の周辺を払う。
「誘われたのは僕だ、だから協力するかしないかを決めるのも僕だ」
人修羅の手に当たらないよう頭の上まで上昇したハイピクシーはその言葉にムッとしたのか、イーッと口を横に広げて可愛らしい舌を出した。
受胎前はイケブクロの名所のひとつとして日本国民に親しまれてきたサンシャイン。
高層ビルが立ち並び、サンシャインの屋上からの眺めがそう珍しいものではなくなっても、高い建物というイメージは人々の間から失われなかった。
高低関わらず多くの建物が衝撃で吹き飛ばされた受胎後のイケブクロにおいても、サンシャインはイメージに恥じない姿を保っている。
内部には腕に自信のある強者たちが集い、その悪魔たちをマントラ軍としてまとめて導く存在としてゴズテンノウが最上階に君臨している。
その、イケブクロを支配し、ニヒロ勢力と受胎後のトウキョウを二分する軍の長と、人修羅は謁見を済ませてきたばかりだった。
鎖につながれたマネカタの動きと共に燃え上がった炎にも似た光を目に灯し、謁見中ずっとゴズテンノウはちっぽけで生まれたての悪魔を見下ろしていた。
どこに顔があり自分に対しどんな感情を浮かべているのか確かめようと天井を見上げ、人修羅はそのままの姿勢で氷り付いてしまった。
主人だけではなく、従っていた仲魔たち誰一人として動くことはできない。
そんな状況の中、部屋中を揺るがす意志の声に求められるまま、少年は何の抗いも見せずマントラ軍に協力することを受け入れた。
「ゴズテンノウはすげぇ方だ、あの気迫には逆らえねぇよな?」
頭上で不貞腐れているハイピクシーの説得も兼ねているつもりなのか、額に浮かんだ汗を拭いながらモムノフが人修羅に訊ねる。
少年は奇妙な目つきで話しかけてきた悪魔を見つめ、首をすくめてため息を吐いた。
「分かってないなお前は」
あからさまな失望の反応に、モムノフは眉間に皺を寄せてムゥっと唸る。
「なら……」
何だというのかと不満げに地面を槍の柄で突く妖鬼の鼻の頭に指を突きつけ、人修羅は彼には珍しく嬉しそうな声で理由を語った。
「ゴズテンノウはトールを倒した僕の力を認めてくれた、その上で僕に軍に加われと求めてきた、この意味が分かるか?」
眉間の皺を困惑によりますます深め、それでも考えようとしているのか難しい顔で黙ってしまったモムノフから自分の仲魔たちへ少年は視線を移す。
人修羅たちの会話に興味を持っていなかった仲魔たちも、その顔つきを見ていっせいに主人に注目した。
自分に向けられた仲魔たちの視線ひとつひとつをしっかりと受け止め、首に角を生やした少年悪魔はゆっくりとした口調で言い聞かせる。
「あの方は、ボルテクス界で迷子になっていた僕の居場所を作ってくれたんだ」
主人がなにを言っているのか全く理解できない悪魔は不思議そうに首をかしげ、
理解できた悪魔の中にも共感して頷く悪魔と、表情を曇らせる悪魔の二種類がいた。
はっきりと主人に異論を述べる仲魔はいなかったものの、人修羅が言い終えてその場はにわかにざわついた。
そのざわつきを沈めるために不自然な咳払いをして少年は続ける。
「この先この世界がどうなるか分からないんだ、どこか安全な場所に所属しておかないと不安に……ならないのかお前たちは?」
途中から疑問に切り替わった言葉に反応する者はいない。
仲魔たちの話し声は収まり、不気味なほどの静けさを切り裂くように、空を旋回する鳥系悪魔のけたたましい鳴き声が響き渡る。
モムノフも、ハイピクシーも、そのほか少年に従うようになっても自分の生き方を崩さない悪魔たちが、みんな同じような表情を人修羅に向けていた。
沈黙が訪れたことで逆に気まずくなったのか痒くも無い首筋を掻き、少年は困ったように俯く。
「悪魔化しても精神は高校生の人間であることには代わりないか、僕には悪魔が分からない」
自虐的な笑いと共に呟き、人修羅は顔を下に向けたまま何度か首を横に振った。
少年は寂し気にも見え、下から回り込んで主人の表情を確認したハイピクシーが両手を腰に当てた格好のまま、
「私にも貴方がよく分かりませんわ、だって従うにしても、もっと大切なことがありますでしょう?」
と、詰まらなそうに唇を尖らせる。
「オノレノココト、ココダ」
正面のノズチがホースのような管を伸ばして、少年の頭と心臓をつついて示す。
仲魔たちは主人に状況に振り回されず、自分の信念をしっかり持てと諭したが、それに対する人修羅の反応は
「うん……」
という気の無いものだった。
まるで、マントラ軍を頼りにしようと決めた少年を突き放すかのように、ゴズテンノウは崩れ落ちていく。
激しい振動により、仲魔たちが落下する巨像の下敷きにならないよう壁際に避難する中、人修羅は両目を見開いたままただ呆然と立ち尽くしていた。
無念の想いというもので片付けてしまうにはあまりにも簡単すぎる血の涙が伝うような叫び。
頭の中に響く叫びは少年の人間としての感情と、悪魔として新しく芽生えた感情の両方を、激しく揺さぶった。
イケブクロに君臨したゴズテンノウが、どれほどの想いで力の国を待ちわびていたのか少年は知らない。
自らを受け入れてくれそうな圧倒的な力を持つ存在としての認識のみが、人修羅にとっての全てだった。
「そんなっ、そんな!」
言葉には、後悔の念が滲んでいる。
歯を噛み締めて深くうな垂れた少年は、きつく握った拳で自分の太腿を何度も叩く。
巨像の中に気が遠くなるほど長い年月をかけて蓄積されてきた、マグマのように熱くドロドロとした夢が、マガツヒとなって天に吸い上げられていく。
"消えてしまう"
夢が終わる瞬間に人修羅は立ち会っていた。
支えとなる精神を失った像の全体に亀裂が走り、不気味な音を立ててマネカタを押しつぶした頭部が転がり落ちる。
"終わってしまう"
巨像の崩壊と共に、自分の拠り所が消えてしまうことに対する不安がじわじわと少年の心を蝕み始める。
これほどの力を持つ者さえ失われてしまう恐怖、それは力を手に入れれば全てが上手くいくと信じていた人修羅に大きな衝撃を与えた。
少年は顔を上げ、太腿を殴っていた手を怯えた目で見つめた。
体の震えが腕に伝わり、指先までが細かく震えている。
「嫌だっ、僕は絶対に認めない!」
恐れを振り払うように、少年は激しく首を横に振る。
ゴズテンノウの頭部が崩れ落ちたことにより激しい振動は収まったが、人修羅の心の中ではその振動よりも激しい葛藤が続いていた。
主人の元へ戻ってきた仲魔たちは、気まずさを感じて声をかけることさえできない。
葛藤の末に少年悪魔は声を上げて泣き始めた。
声は次第に大きくなり、モムノフから変化したアラハバキが耳を押さえることもできずに困ったように目を細める。
初めのうち意味を成さなかった泣き声は次第にひとつの決意を形作り、嗚咽と共に人修羅は喉の奥から言葉を搾り出した。
「僕がゴズテンノウの夢を継ぐ、力の価値を証明してみせる」
少年は再び握った拳で涙を拭う。
体の震えはおさまり、金色の目に今までの少年のものとは違う、禍々しいまでの力が生まれた。
マントラ軍全体から吸い上げられた膨大な量のマガツヒは全てオベリスクへ向かったが、わずかに残った分が空間を漂っている。
ゴズテンノウの体の色にも似たマガツヒを身に纏わせ、人修羅はマントラ軍の頂点に存在していた大物悪魔へ、深々と頭を垂れる。
それは別れの挨拶にも見える行為だったが、少年が発した言葉は"またお会いしましょう"というひと言のみだった。