■ 賭け


"あの悪魔は興味深い"
なにかを指差しながら、闇の中で悪魔が笑う。
後方に控えている悪魔が、示された方向に目を向けずに、
"あれを見て面白がるのは貴方くらいだ"
と不満そうに断言する。
"そうかもしれない"素直に認める悪魔を見たもう一方の悪魔は、肩をすくめて屈めていた腰を上げる。
"もう行きましょう、他の者に迷惑がかかる"
そう言われても、もう片方の悪魔はすぐに腰を上げなかった。
まるで獲物を狙うように目を細めて前方を睨みながら、口元に愉し気な笑みを浮かべる。
"ただ見ているだけでは少々面白くないな"
不吉な言葉を聞いた悪魔は一瞬顔を顰めた。しかし、それだけだった。
"賭けをしないか?"
誘う声は非常に軽い。賭けには思い切りと慎重さが必要だが、そういった要素をひとつも感じさせない明るい声が提案する。
絶対に勝つ自信があるのだろう。賭けに参加すれば負けは必然とも思える。それでも提案を持ちかけられた悪魔は迷わなかった。
"よいでしょう"
すました声で同意した。

祈る姿勢というものは、数ある姿勢の中で見ているものに最も安らぎを与える格好である。
祈っている者の内面がどうであろうと、目を閉じ胸の前で手を組み合わせて加護を願う者は等しく清い心の持ち主に見えてしまう。
たとえ苦手意識を感じている相手であっても、祈りの瞬間だけは最も神聖な精神が全ての嫌悪感を清算してくれる不思議。
その祈りが自分の身を癒すための常世の祈りなら、なおさらそう感じずにはいられない。
「お前ひとりのためだけに、なぜ私が無駄な労力を費やさねばならぬのか」
追加。この悪魔に限っては、祈っているときだけは嫌味や愚痴を聞かずに済むことが、自分にとっては最も重要な利点に違いない。
祈り終えた魔神アマテラスに礼を言うことも無く、構えた剣に意識を集中させた鬼神オオクニヌシは前方の敵めがけて乱入剣を放った。

戦いが終わると、出番の無かった仲魔たちが息絶えた敵悪魔の腹を掻っ捌いてマッカやアイテムを拾い始める。
天使などはそういった光景を毛嫌いするが、"わざわざ開腹しなくても済むくらい敵を切り刻む"戦い方はどの仲魔より容赦ないと評判だ。
「どんなに綺麗に片付けてもこれだ、嫌になる」
プロミネンスでこんがり焼き上げたことを綺麗と評しているのか、アマテラスが濃厚な血の臭いに袖で鼻を押さえている。
"誰よりも好きなくせに"言葉にも表情にも出さず、オオクニヌシは魔神の発言に呆れて小さなため息を吐く。
嫌になると言う割に、仲魔に捌かれる敵を見る目は喜びに潤み、興奮しているのか呼吸は荒い。
武器を持たせてひとりにすれば、狂喜して丸焦げにした悪魔を彼流の最も残酷な方法で処理するに違いない。
そういった本性を抑制する理由はイメージを良く見せることにあるとオオクニヌシは推測しているが、
それ以外にも魔神にしか考えつかないような所でもっと大きな利益が絡んでいる可能性が強い。
オオクニヌシから見たアマテラスは、血の通っていない悪鬼そのもので、それが歪んだ認識である可能性など欠片も考慮していなかった。
好ましくない感情を向けられていることを敏感に察知したのか、それともただの偶然か、魔神の視線が鬼神に向く。
嫌悪感を隠すより反射的に視線を逸らしたものの、こちらの方が不自然な態度だったと思い直したオオクニヌシが顔を上げると、アマテラスの興味は別の悪魔に移っていた。
作り物の笑みを顔に貼り付けた悪魔が拍手で魔神を称えている。
その動作は生き物としての心を感じさせず、外見がいくら綺麗であっても親しみを持つことは難しい。
逆立たせた金色の髪と背中から生えた二枚の大きな羽。
先ほどの戦いで敵悪魔に天罰を下した大天使ラファエルは、芝居めいた口調でアマテラスに語りかける。
「常世の祈りといいプロミネンスといい、貴公の魔力は素晴らしい」
ラファエルの笑みに応えてアマテラスが表情を温和なものに変える。
作ったような笑みという表現で比べるなら、こちらの方が上手に見えた。
「祈ることなら貴方の癒しの力のほうが優れ、炎の技なら弟君には敵わない。私の実力などその程度のもの」
「謙遜が上手でいらっしゃる」
アマテラスは一瞬真顔に戻り冷めた目をした。心の底から面白くないと思っているらしい。
その変化に気付かなかったのか、相変わらずの調子でラファエルは続けた。
「弟と仰りましたが、それはもしやウリエルのことですか?」
アマテラスが頷く。
「背丈も格好も似ていてとても仲が良さそうに見えましたのでそう思っていましたが、違うのですか?」
ラファエルは面白そうに肩を震わせて笑う。体の震動が羽に伝わって小刻みに揺れる。
感情の無い笑顔に、初めて生き物らしい温度が宿った。
「その判断基準では……貴公とオオクニヌシ殿も兄弟ということになりますが」
話の流れから大天使の視線が自分に向けられ、離れた位置で聞き耳を立てていたオオクニヌシは誤魔化そうと適当に微笑む。
ラファエルに続いてアマテラスも鬼神を見たが、こちらは話し相手にいい顔をすることに飽きてストレスを感じているのか、
気の利いた言葉一つかけられずにただ相手に合わせて笑うオオクニヌシを小馬鹿にした嫌らしい目つきだった。
「私に兄弟はおりますがそれはオオクニヌシ殿ではありませんよ、彼はむしろ……」
そこから先の言葉はアマテラスが故意に声を潜めたため、オオクニヌシの耳まで届かなかった。
ただ、それを聞いたラファエルの自分を見る目が変化したので、ろくでも無いことを言ったのだろうと鬼神は決め付けて2体の悪魔に背を向けた。
親しみをもてない大天使と嫌悪を感じさせる魔神。
どちらもオオクニヌシにとっては似たもの同士で、その悪魔たちが揃って自分を指差して嘲笑う様は滑稽に思えた。
彼らは特殊な精神構造をしていて、自分とは一生相容れるものではない。
そう割り切ってしまえば後は簡単で、気の合う仲魔を探しその悪魔と付き合えば良いまでのことだった。
そして、その悪魔をすでにオオクニヌシは知っていた。
気楽に話し合える悪魔の姿はすぐに見つかった。オオクニヌシから数歩下がった位置から、何かをじっと凝視している。
表情は真剣そのもので、誰かが近付いても気付きそうも無い。
邪魔してよいものかと迷ったものの、急に声をかけて驚かせてやろうという悪戯心の方が優先されたのか、鬼神は足音を立てないようにその悪魔の背後に回りこんだ。
「何をしているんだ?」
肩をポンと叩かれ、意識を一点に集中させていた幻魔クー・フーリンは発しそうになった悲鳴を必死に飲み込みながら勢いよく振り返った。
鋭い槍先を喉の皮膚すれすれにつき付けられ、オオクニヌシは慌てて両手を挙げて降参の姿勢をとる。
1回、2回とゆっくり息を吐き出して気持ちを落ち着けてから、ようやく緊張で引きつった顔を緩め、クー・フーリンは警戒の姿勢をといた。
「なんだお前か」
「期待はずれだったか」
安堵の声にオオクニヌシが意地悪っぽく訊ねると、クー・フーリンは疲れた様子で首を横に振った。
「そんなに気を張り詰めてなにを見ていたんだ?」
訊ねる声に返答は無い。
ただ、クー・フーリンと同じ方向に目を向けると、つい先ほどまで自分が見ていたものと同じものに出くわして、鬼神は眉をひそめた。
「あんな奴らを見ていたのか?」
光る悪魔と羽の生えた悪魔、2体は腹の内はともかく表面上は穏やかに会話を続けている。
見ていたものを隠すつもりは無かったにしろ、あからさまに不快を訴えるオオクニヌシにクー・フーリンはばつが悪そうな顔をした。
「お前も見ていただろう、彼らはなにを話していたんだ?」
オオクニヌシの位置でも2体の話し声は集中していなければ聞き取れなかった。
アマテラスが声を潜めてしまってからは合わせるようにラファエルの声も小さくなり、クー・フーリンの位置からでは何も聞こえてこない。
「下らないことだよ、戦い方が素晴らしいだの、兄弟がどうだのこうだの……」
鬼神が吐き捨てるように教えると、幻魔は残念そうに俯いて"そうか"と短く呟いた。
その態度に興味を覚えたオオクニヌシは、軽い気持ちでカマをかける。
「それと、お前を襲撃する相談とか」
言った直後にクー・フーリンの体に緊張が走り、大きく見開かれた西洋悪魔の目が動揺の色を浮かべてオオクニヌシを見つめる。
その必死さに、ただ事ではないと感じ取ったオオクニヌシは嘘だと明かすことなく心配そうな表情で更に続ける。
「お前、なにか不味いことをやらかしたのか? 奴ら、本気だったぞ」
クー・フーリンが喉を上下させ息を飲む。
「力になれることがあれば、相談にのるが」
面白いことになりそうだと興奮に震えそうになる声で促すオオクニヌシの手を幻魔が強く握る。
"ここでは危険だ"と低く囁き、クー・フーリンはアマテラスたちから更に距離を置く位置に鬼神を誘導した。

銀座で得た情報を元に議事堂へ向かう人修羅たちが突破しなければならないユウラクチョウ坑道は狭く長く暗く、出口の光はまだまだ先なようだ。
坑道の内部は暗い。
闇を恐れない仲魔たちでも、自然と群れてまとまりを作る。
円形の広間に出たところで人修羅は仲魔たちに休憩の指示を出し、ライトマを所持する者を中心に輪になって悪魔たちは体を休めていた。
ラファエルたちは輪の中心、光の近くで話し合っている。
そこから離れるために、オオクニヌシたちはライトマの恩恵をぎりぎり受けることのできるところまで移動した。
薄暗く、敵の奇襲があったときに真っ先に盾にならなければならないその場所に他の仲魔たちの姿は少なく、クー・フーリンは周囲を一通り見回してから、ここなら大丈夫だろうとオオクニヌシに保証した。
「彼らは私を消そうとしている」
誰がと訊ねようとして、オオクニヌシはすぐに言葉を飲み込んだ。
訊くまでもなく、アマテラスかラファエルかその両方か、が自分を邪魔に思っていることを感じて警戒しているのだろう。
代わりに鬼神は何故と訊いた。
仲魔うちでのクー・フーリンの評判はこれでもかと言うほど良い。
年下悪魔の面倒見がよい好青年、かつ容姿のためか女性悪魔から絶大な支持を得ている。
その幻魔が疎まれる理由という物が、オオクニヌシには全く想像がつかなかった。
「ミフナシロでの戦いの前、アマテラスが暇さえあればマスターの傍でなにか話しかけている場面を目にして不審に思ったんだ」
オオクニヌシはクー・フーリンの証言に合わせて記憶を遡らせた。
そのころの人修羅は聖や勇に裏切られたショックにより、誰が見ても辛そうな精神状態になっていた。
話しかけても返ってくる言葉は気の抜けた返事のみで、多くの仲魔たちは主人の状態が落ち着くまでそっとしておこうと気を使い接触を避けていた。
そんな中、確かに1体だけ熱心に人修羅に声をかけていた悪魔がいた。
それまで自発的に主人に話しかける姿を見たことが無いせいか、オオクニヌシの記憶には珍しいこととして残されていた光景。
そのときは単純に励ましているのかと思うだけで、クー・フーリンのように不審に思うまでには至らなかったが。
「なにを話しているのか注意して聞いてみると、あの魔神、落ち込んでいるマスターに早くミフナシロに行ってマネカタを保護するべきだと訴えていたんだ」
わなわなと握り拳を振るわせるクー・フーリンを見て、オオクニヌシは妙に納得した。
普段から人修羅が創る世界を見てみたいと夢見がちに語っている幻魔のこと、アマテラスが主人に選択する暇を与えず、自分の考えを押し付け実行させようとしていたのが気に入らなかったのだろう。
「アマテラスを止めたのか?」
その質問が無意味であることをオオクニヌシは理解していた。
恐らくアマテラスに言われるまま、人修羅はミフナシロでの行動を決定し、ヨスガの指導者に逆らったのだろう。
フトミミを救うこともできず、友人だったヨスガの指導者と対立することになり、選んだ道を後悔して目の下を腫らした主人の顔をオオクニヌシは覚えている。
「あの魔神に決定を左右されたせいでマスターは多くを失ったんだ、私はこれ以上アマテラスの思い通りに事が進まないように監視することにした」
それでアマテラスとラファエルのやり取りを見張っていたのかと、オオクニヌシは無言で頷いた。
「ミフナシロ事件の後、マスターはラファエルを召喚した。恐らくアマテラスにとってそれは良くないことだったのだろう。
ラファエルはアマテラスと全く逆の方向に物事を進めたいようだからな」
「そうなのか?」
アマテラスが何らかの目的を持って主人に接していたことはもちろん、人修羅に心酔しているようにしか見えないラファエルまでその裏で何らかの目的を持って動いているとは俄かに信じられず、オオクニヌシは首を捻る。
「何のためかは知らないが、彼らはマスターを裏から操ることで、自分の望む創生後の世界を実現させようとしているんだ」
そう断定するクー・フーリンの気迫は凄まじく、まだ納得できない部分はあるものの、オオクニヌシは否定する気にはなれなかった。
幻魔は怒りに任せて吐き捨てる。
「愚かなことだっ! 我々はマスターの理想に共感したからこそ仲魔になり忠誠を誓ったのではないか? マスターの信頼を踏みにじり、干渉し、自分の思い通りにしようなど、許されるはずがないっ!」
クー・フーリンほど主人の理想に対して熱くなることのできないオオクニヌシには理解に苦しむ激しさであったが、内容には同意した。
オオクニヌシ自身も人修羅が選ぶ世界というものに興味があり、それを見届けるために従っているからという理由と。
実のところ、アマテラスやラファエルという自分と相容れない悪魔の都合の良いように物事が進んでいくことを受け入れたくないという理由の方が大きかった。
「それで、奴らの干渉を止めようと動いていることに気付かれて、疎まれているのか」
クー・フーリンは深呼吸をするように大きくたまった息を吐き出した。
その表情からは先ほどまでの激しい怒りは消えていたが、警戒を続けてきたための疲れが見えた。
「そうだ……」
機会があれば友人として幻魔を助けてやりたいとそのとき鬼神は強く思った。
そのチャンスが、想像以上に早く訪れることまでは予想していなかったが。

坑道は暗いと同時に地上よりずっと寒い。
休憩を終えて戦いを繰り返したのち、ユウラクチョウ坑道を抜け出すことが出来ないまま再び人修羅は仲魔たちに休憩の指示を出す羽目になった。
その理由は敵悪魔が使ってきた広範囲に被害を及ぼす氷結魔法により、多くの仲魔の衣類がびしょびしょになってしまったからだった。
元から服を着ていない悪魔や獣悪魔はともかく、寒い地下では濡れた部分が気になって戦闘に集中できないという褌着用悪魔からの抗議が相次ぎ、着物を乾かすための時間が必要になった。
あちこちでアギ系の魔法を唱える声が聞こえて火が点るなか、オオクニヌシとクー・フーリンも鎧の中を乾かすために、自分たちの休憩場所を探していた。
「髪から爪先までびっしょりだ」
長い髪の毛を鎧から出して絞るクー・フーリンの横で、
「氷が背中に入って気持ちが悪い、早く乾かそう」
と、オオクニヌシが鎧を脱ぎながらぼやいている。
その悪魔たちが、揃って口を閉ざしてある一点に目を向けた。
火による明るさとはひと味もふた味も違う強烈でありながら柔らかい色の光が満ちている。
前回の休憩中はずっとラファエルの相手をしていて休むことができなかったせいか、上衣と装飾品を炎の傍に置いたまま、壁にもたれてアマテラスは眠っていた。
ぎゅっと、クー・フーリンの手がオオクニヌシの手首を握った。
幻魔が自分に言うであろうことを予想しながら、鬼神は強張った顔を幻魔に向ける。
クランの猛犬という意味の名を持つ悪魔は炎に照らされるアマテラスの顔に目を向けたまま息を飲み込んだ。
眩しい光の大部分は装飾品から発せられているのか、額飾りと首飾りを取ったアマテラスは光を纏わず、オオクニヌシそっくりの顔を晒している。
「お前とあの魔神は本当に似ている」
背丈から顔から……と、アマテラスとオオクニヌシ双方を見比べながら、予め用意しておいたような言葉を慎重に口にする。
そう言うことで、鬼神が自ら自分の意図を察して協力を申し出ることを望んでいるような、そんな期待が幻魔の目にこもっている。
オオクニヌシは迷っていた。クー・フーリンを助けてやろうと思ったばかりだというのに、すぐに協力を申し出ることはできない。
困ったように視線を外すオオクニヌシの手を、幻魔は縋るように両方の手で強く握り締めた。
「頼む、アマテラスと入れ替わって、ラファエルから情報を聞き出してくれ!」
想像した通りの要求にオオクニヌシは力なく首を振る。
あらゆる面において余りにもリスクが大きく、聞き出すことに成功したとしてもオオクニヌシが戻ってくる前にアマテラスが目覚めてしまえば、そこでこの目論見は失敗という結果に終わる。
請け負うことで自分の身に降りかかるあらゆる災難を想像しながらも、痛いほどの力で自分の手を握る幻魔の必死さを前に断ることは、鬼神には出来なかった。
曖昧に横に振っていた首を覚悟を決めたようにはっきりと縦に振る。
「良かった、ありがとう」
言葉通りに喜んでいるように見えないのは、オオクニヌシに危険なことをさせてしまうという申し訳ない気持ちが強いせいだろう。
足音を立てないよう火のそばに近付き、盗ってきたアマテラスの着衣と装飾品を鬼神に渡す。
装飾品からの光に眩しそうに目を細めながらオオクニヌシは着替え始める。
サイズは合っているが、武器を扱えるように鍛えたオオクニヌシと、魔力を中心に鍛えたアマテラスの体では筋肉のつき具合が違うせいか、少々きつめに見える。
それでも首飾りを付けて額飾りをすれば、その姿は誰が見てもアマテラスそのもので、眩しさに慣れない目をぱちくりさせながらオオクニヌシはクー・フーリンに告げた。
「そいつをしっかり見張っていてくれよ」
鬼神が脱いだ水が滴る着衣と鎧を受け取り、その点だけは任せてくれと力強くクー・フーリンが頷いた。

アマテラスになりきるために自分に足りない要素は多いとオオクニヌシは思う。
姿や顔が同じであっても、中味はまるで正反対だと感じているからだ。
黙っていても態度や仕草で勘の鋭いものにはばれる。喋ればその危険は一気に増すだろう。
せめて外見で違和感を感じさせることが無いようにと、靴を脱いだ状態で地面を踏む足の裏は尖った石と擦れ引っ掻き傷が出来上がっている。
ラファエルから情報を訊き出して魔神が目覚める前にクー・フーリンの元に戻れば良いのだが、それだけのことがいかに困難かオオクニヌシは体感中だ。
目当ての大天使の姿はなかなか見つからず、すれ違う仲魔に声をかけられる度に鬼神の心臓は跳ね上がった。
「待ってください、アマテラス」
後方からの切羽詰った女性の声に呼び止められて仕方なく歩を止める。
パタパタと軽い足音をたてて駆け寄ってきたのは、仲魔女性の中で一、二位を争う美しさを持つ回復のエキスパート、女神ラクシュミだった。
どんな男も誘惑する踊りを可能にするすらっとした白い腕を鬼神の腕に絡ませる。
自然体を保とうとしても、ラクシュミのような美人とアマテラスにどんな接点があるのかまるで分からないオオクニヌシは逃げ腰になる。
「もっと早く伝えるべきだったのだけど怖くて……、でも、今の貴方なら大丈夫な気がして……」
絡み付いた女神の腕は柔らかく、ほのかな体温まで布越しに伝わってくるようだった。
首すじや髪の辺りから漂ってくる甘い香りに頭の芯がぼうっと痺れるような感覚に陥りながら、鬼神は口を閉ざしたまま立ち尽くしている。
しばらく身を預けるようにしていたラクシュミは気が済んだのか腕を放し、深々と礼をする。
「ごめんなさい。でも、このご恩はいつか必ず返しますから、どうか私のことを迷惑だと思わないで下さいな」
なにか深い事情があるのか優雅なイメージに似つかわしくない必死な様子のラクシュミに声をかけてやりたいが、下手なことを言えば疑いを持たれる可能性もある。
どうしようか迷いオロオロする鬼神へ、顔を上げた女神は口元を手の甲で押さえて目を伏せる。
「冷たい御方。でもそんな貴方に私は救われたのです。今はどうか礼の言葉だけでも受け取ってくださいませ……」
そう告げると、女神ラクシュミは舞うように華麗な礼をして立ち去った。
オオクニヌシは無言のまま数歩歩いた。歩いた先で立ち止まり、胸を押さえて深く息を吸い込む。
ラクシュミだけではなかった。ここまで歩いてきた中で4体くらいの仲魔にすれ違いざまに礼を言われたり足に縋り付かれたりした。
どの仲魔もアマテラスに対して並ならぬ恩があるようだったが、礼を言われるたびにオオクニヌシは混乱し、それが収まると決まって気分が悪くなった。
魔神に感謝している仲魔がみな、詐欺師を聖人と崇める哀れな被害者に思える。
いったいあの悪鬼のどこを見れば善き物と思えるのか。出来の良い表面に騙されているだけではないのか。
そう叫びたい思いを必死に堪え、今はそんなことに動揺している場合ではないと頭を振ってムカムカする胸をさする。
オオクニヌシは自分が孤立したような感覚に襲われた。
アマテラスに対して自分と同じ感情を抱いている者など本当は自分とクー・フーリンだけで、そのたったひとりの味方も魔神が人修羅に干渉しなければ嫌悪感など無いのではないかと。
「気分が優れぬご様子ですな」
急に声をかけられ、オオクニヌシは危うく飛び上がりそうになった。
激しい動揺を訝しく思ったのか、声をかけたオーディンの眉間には皺が寄っている。
「その、申し訳ない。考えごとをしていたものだから」
咄嗟の対応で声をアマテラスに似せる余裕などなかったが、その点に関してオーディンは怪しんだ様子を見せなかった。
「いや、こちらこそ驚かしてしまったようで申し訳ない」
妙に恐縮するオーディンを見て、オオクニヌシは対応を誤ったことを悟った。
アマテラスは他者から謝られることには慣れていても自分が謝ることには慣れていない。
オーディンが急に声をかけてきたことに不快感を示すことはあっても、過剰に驚いたことを謝る確率は無に等しい。
後からやって来て成り行きを見ていたのだろう。ロキが小声で珍しいこともあるものだと呟いたのを、オオクニヌシは背中に冷や汗を感じながら聞いた。
「心配は無用です」
平然を装い、鬼神はオーディンとロキヘ告げた。
ボロが出ないうちに早くこの場を離れて目的を達成しなければならないという焦りがその表情を険しくしている。
オーディンは納得して頷いたがロキは首をかしげている。
その反応を見たオオクニヌシはまた対応で失敗をしたのかと舌打ちしたい気分にかられたが、今はラファエルを探すほうが先だった。
「それならば我々としては問題は無い……」
オーディンに続き、ロキがさり気なく付け加える。
「お前に簡単に負けてもらっちゃ面白くないからな」
ロキ、とオーディンの咎める声が、何をと聞き返そうとした鬼神の口を封じた。
黙ったままのオオクニヌシへ、ロキは意味あり気な笑みで片眉を吊り上げてみせる。
「分かっている」
そう言い残すだけで精一杯だった。
自分が知らないアマテラスに関する情報に押しつぶされそうで、オオクニヌシは落ち着かない気分を引きずってラファエルを探す。
「あっ、ちょっと待って、アマテラス……」
今は一番出会いたくなかった声が、オオクニヌシを呼び止める。
対応することは避けたかったが、この悪魔にとってはそれが最も不自然な態度に見えるだろうから逃げることはできなかった。
人修羅はただでさえ背丈が低くひょろっとした体つきをしている。それが地面に胡坐をかくとさらに小さくなって主人の威厳とは程遠い。
そのままの格好で、オオクニヌシが身に着けているアマテラスの装飾品から溢れる光に淡く顔を照らし出された主人は和やかに笑う。
悪気の無い純粋に頼りにしている仲魔へ向けたものと判断できる少年の笑み。
この悪魔なら自分を疑うことも無いだろうと思わせる無邪気さに、オオクニヌシは気を許して肩の力を抜いた。
「御用ですか?」
訊ねると人修羅は慌てて手と首を否定の形に振る。
違うとひとこと言えば済むだろうに、そういった仕草が面白く笑いを誘う。
「いつも僕のためにいろいろ頑張ってくれてありがとうって言いたかっただけなんだ」
変かな?と照れたように鼻の頭をかき、おっかなびっくりオオクニヌシの反応をうかがう。
騙されやすい人だろうと誰もが思う、だからこそその性質を利用して利益を得ようとする者を許し難く思う。
そんな感想を持ち、オオクニヌシはクー・フーリンの憤りを少し理解できたような気がした。
「そうですか、ありがとうございます」
礼を告げる鬼神の視界の端っこに白い羽が映る。
その羽をアマテラスの振りをしたオオクニヌシを手招きするようにふわっと動かし、ラファエルは坑道の闇へと消えていく。
「それでは私は用事がありますので失礼させていただきます」
まだなにか言いたそうな人修羅を残し、オオクニヌシは誘われるがままラファエルの後ろ姿を追って闇にのまれた。

距離にしては短いが、羽の生えた背中を追って歩いた時間をオオクニヌシはとても長く感じた。
付いてきている悪魔がいることを認識したゆっくりめの歩調を保っていたラファエルの足がぴたりと止まる。
同時にオオクニヌシも動きを止め、装飾品の揺れが止まると共に辺りを照らす光も安定した。
「主殿への干渉は賭けが終わるまでお互い無しにしようという約束をお忘れですかな?」
鬼神の方へ振り向いた大天使は言葉の割りに温和な表情を浮かべている。
そうにも関わらず厳しく責められているような印象をオオクニヌシは受け、緊張して手を強く握り締めた。
本人は気づいていないが、企みを聞き出さなければという使命感と正体がばれないようにと気持ちの張り詰めたオオクニヌシは挑むような目を相手に向けている。
その視線をどう解釈したのか、ラファエルの口元がフッと皮肉っぽい形に歪められた。
「人修羅殿は私に労いの言葉をかけただけです、誤解なさらぬよう」
慎重にオオクニヌシは言葉を選ぶ。
"賭け""干渉""約束"など、第一声から気になる単語の並ぶ大天使の発言に、頭の中は早くも次なる情報を引き出すための言葉探しを始めていたが、アマテラスが人修羅をどんなふうに呼ぶのかなど不自然さを見せないための気遣いも同時にしなければならなかった。
"本当なら構いませんが……"と疑っているのか言葉を濁し、ラファエルはオオクニヌシの全身に視線を這わせる。
舐めるような目の動きに居心地の悪さを感じ、鬼神の指は無意識に首飾りを弄った。
「賭けの結果が出るまであと僅か。どうです、勝つ自信はありますか?」
眩い光を封じるように、ラファエルの手がオオクニヌシの指先ごと首飾りを包む。
触れ合った部分がちりちりと痛み、肌の表面に焼けるような熱を感じる。
「貴方こそ勝算はあるのですか?」
大天使のもう片方の手がオオクニヌシの背部に触れる。
鎧と違い布数枚だけという頼りない防御を容易に越えて、ラファエルの手のひらが接触する一点に体中の熱が集中する。
鬼神はそういった変化を初めの内は錯覚だと思い、気をしっかり保つように集中しようとした。
しかし集中しようとすればするほど体中の力がどこかへ流れ出ていくようで、体内のバランスがどんどん崩れていく。
「勝算のない賭けを私が持ちかけるとは思っていないと仰ったのは、貴公ですよ」
オオクニヌシを正面から見つめるラファエルの笑みが深くなる。
その目に縛られてしまったかのように、鬼神は動きをとれず焦点の定まらない目を向けている。
膝がふるえ、今にも倒れてしまいそうな不安定なオオクニヌシの身体をラファエルが羽で包み込むように支えた。
「その考えは正しい。だから私は知りたいのですよ、なぜ自分に勝算がないと知りながら、貴公は賭けに応じたのですか?」
生気を吸い取られ、苦しそうに眉を痙攣させるオオクニヌシの耳に顔を近づけ、耳朶を唇で弄るようにラファエルは訊ねる。
「"童"と呼び存在を軽んじている"主人"がどの世界を選ぶのかということはそれほど重要なことですか? 賭けに負ければなにを要求されるのか知らぬ貴公ではないでしょう?」
全ての生気を急速に喪失する感覚に鬼神は低いうめき声を上げる。
意識を保つ力まで失い、自我が消失するような危機感を感じながらも、オオクニヌシは抵抗らしい動きをひとつもとれず、眩暈を起こして大天使の腕に倒れこむ。
耳元でラファエルが囁いている言葉を聞き取ることはできるが、それがどういう意味なのか全く判断できない。
弱った鬼神の体重を腕に感じながら、大天使は天使らしからぬ邪な感情で目を細める。
「何故でしょうね、何故だと思いますか……オオクニヌシ殿?」
「少なくとも、神に捧げる理想郷を建設するためという狂った理由よりは正常な動機でしょう」
疑問にオオクニヌシ自身が応えることはできなかったが、別の声が応じてラファエルを驚かせた。
ラファエルは声のした方へ目を向けることなく、
「……なるほど」
と納得したように頷く。
同時に大天使の腕の支えを失ったオオクニヌシの身体がどさっと地面に崩れ落ちる。
鬼神の危機を救った悪魔はその様子を感情の窺えない目で見ていた。
「ふざけた真似を」
大天使と鬼神、どちらに向けられたものか判断のつかない冷たい声を聞き、隣にいるクー・フーリンが気まずそうに顔を伏せる。
「アマテラス殿が気分が悪いと仰るので、助けて差し上げようと思っておりましたが、貴公に任せた方がよろしいようですね、オオクニヌシ殿」
そこで初めてラファエルは声のした方を確認し、鬼神オオクニヌシと幻魔クー・フーリンを視界におさめた。
オオクニヌシはラファエルの言い訳を小馬鹿にしたように薄く笑い、
「私には良くわかりませんが、そうなさった方がよろしいのなら、そうして下さって結構ですよ」
と回りくどい言い方をする。ラファエルの顔に、一瞬怒りの感情がわいてすぐに消えた。
「ならばお任せしましょう」
にこやかに応じ、早足でオオクニヌシとクー・フーリンの横を通り過ぎていく。
すれ違うときに鬼神と大天使は挑戦的な視線を交わしたが、どちらとも無言のままだった。
ラファエルの姿が消えるとクー・フーリンはすぐに倒れているオオクニヌシの元へ駆け寄った。
「オオクニヌシ! オオクニヌシ!」
幻魔に抱き起こされて肩を激しく揺すられ、鬼神はやっとの思いで覇気のない顔を上げる。
力のない目に自分の姿が映り困惑したが、それが黒い鎧を着た別人であると少ししてから理解した。
「アマテラス……」
はっきりとした発音にはならなかったが、唇の動きを見てオオクニヌシの格好をしたアマテラスは侮蔑に満ちた表情で鬼神を見下す。
「私の名を騙り品位を著しく低下させただけでも許しがたいというのに、よりによってあの羽虫の前で醜態を晒すとはなんと無様なことよ」
ひとつひとつの言葉を吐き捨てるのではなく強弱を付けてオオクニヌシの心に突き刺すようにはっきりと口にする。
あんまりな言い方にクー・フーリンは怒りで歯をかみ締めたが、鬼神はその評価を受け止めたのか、否定することなく聞いている。
「そこの犬になにを吹き込まれたかは知らぬが、力及ばぬお前がどう足掻こうがなにも変わらぬ。その程度のことも分からぬ愚か者ではないと思っていたが、間違いだったようだな」
呆れたというふうに肩をすくめてため息をつき、アマテラスは幻魔の腕に抱えられたままのオオクニヌシに近づく。
クー・フーリンが警戒して睨むのを無視し、手を差し伸べる。
「その首飾りはとある御方から頂いた大切なもの、汚さぬうちに返してもらう」
言われてすぐにオオクニヌシは首飾りを外そうと、手を持ち上げようとした。
しかし生気を失い過ぎて力が出ないのか、少し上がった腕は力なく膝の上にパタッと落ちる。
クー・フーリンがすぐに手伝おうとするのを首を振って制し、オオクニヌシは再度腕を持ち上げようと努力し、失敗する。
アマテラスは手を差し出したまま同じ動作を繰り返す鬼神を無表情のまま観察していたが、挑戦が10回を越えるに至り、きつい目元を少し和らげた。
「ずっとそうしていられても困るのでな。全く、なぜ私が無駄な労力を費やさねばならぬのか」
同じ言葉をどこかで聞いたなとオオクニヌシは変に懐かしさを感じた。
それは嫌な種類の懐かしさであったが、どう頑張っても憎むことはできない懐かしさでもあった。
膝をつき、手を胸の前で組み合わせ、目を閉じて傷ついた誰かを癒して下さいと一心に祈る。
その姿勢の神聖さが憎しみを消し去り、安らぎをもたらすものだから。
アマテラスの常世の祈りにより失われていた暖かさが体内に満ちていくことを感じながら、オオクニヌシは祈る魔神にその瞬間だけ魅入った。

人修羅は十分な休息をとって敵と戦う体力を蓄えた仲魔たちに集合の合図を出した。
今度は一気に坑道を抜けるぞと全ての仲魔に宣言する主人の隣にはラファエルの姿が見える。
「本当にもう大丈夫なのか?」
訊ねられて、ラファエルとは別の悪魔の姿を探していたオオクニヌシは軽くうなずく。
それでも心配そうな表情を変えない幻魔に意地の悪い響きの混じった声で
「お前が襲撃されるかどうかの計画を確かめに行った私が襲撃されてしまうとは、もうお前を助けることは止めにしよう」
などと怒ってみせる。
すぐに冗談だとフォローが入ったが、真面目の塊のようなクー・フーリンは責任を感じてすっかり落ち込んでしまった。
「ラファエルは、賭けの結果が出るのはもうすぐだと言っていた」
クー・フーリンの気分を変えるためにも、オオクニヌシは休憩中に危険を冒して得た情報を整理しようと話題を変えた。
生気を吸われて冷静にひとつひとつの言葉について考える余裕がない状況であっても、鬼神の耳は大天使の意味深な台詞を聞き取っている。
賭けが誰と誰のものであり、なにを賭けて行われているのか、断片的な情報を繋ぎ合わせようと顎を指で撫でながら深く考え込む。
「アマテラスとラファエルの間で成立した賭けに違いない、その目的は……」
同じく思考するクー・フーリンの言葉の先を、オオクニヌシが補う。
「恐らく主と彼らが望む創生後の世界に関することだろう」
ひとつの推測が出たところで、幻魔はそうだろうなとラファエルへ視線を向ける。
人修羅から指示を受けているのか、金髪の大天使は先ほどのやり取りで去り際にアマテラスへ向けた好戦的な態度を取ることなど不可能だろうと思わせる柔らかな物腰で接している。
「ほかの者の前では仲良さそうに見せかけて、裏では対立してどろどろだったのか」
明らかになった魔神と大天使の関係をクー・フーリンが言い表し、酷く苦いものを口にしたような顔でうへぇとオオクニヌシが舌を出した。
たった2体の悪魔を中心に物事は賭けという形をとって水面下で進行していた。
多くの仲魔そのことに気づかず、当の人修羅さえ存在を知ること無く決着を迎えようとしている賭けが。
「いつ決着を付けるつもりなのだろうか?」
どのような形で決着が付けられるのかということより、その方が気にかかりオオクニヌシは軽く爪を噛む。
「アマテラスが動いたのはヨスガ勢力とマネカタの間でマスターが決断を迫られる直前、となればコトワリ勢力が絡む直前……」
幻魔と鬼神はハッとして顔を見合わせた。
「この坑道を抜けたところで決着を付けるつもりか」
先頭の人修羅が動き出したのか、集まりだした仲魔たちが後について移動を始める。
その動きに遅れないようにとりあえず敵の襲撃に備えて気持ちを切り替えようとクー・フーリンから目を離したオオクニヌシは、ようやく探していたものを見つけて目を留めた。
魔神アマテラスがそこに立っていた。
期限の迫った賭けのことを考えているのか、それとも全く違うことを想っているのか、遠い目はどこかを見ているようで何も見てはいないようだった。
その目が閉じられ、再び開かれたときにはアマテラスらしいとも思える強さが滲んでいた。
やはり何事にも動じることの無い傲慢なまでの強さを持つ神だと再確認すると共に、魔神が祈る姿が鬼神の脳裏に浮かぶ。
強さと無縁の姿勢をとるアマテラスから鬼神は、光を纏わず俯き気味のため顔に影がかかったせいか頼りない印象を受けた。
それは、普段がしっかりしているだけに、見ている方が不安になるような表情だった。
アマテラスに変装して動き回っている間、オオクニヌシは他の仲魔が魔神に対して抱いているイメージを知ることとなった。
それはオオクニヌシが感じているイメージと全く違うもので、"あの魔神に限ってありえるはずがない"と否定したいものばかりだった。
しかし、祈るアマテラスから強さと逆の印象を受けた後の鬼神には、それらのイメージを認める余裕がほんのわずかだが生じていた。
「突っ立っていると遅れるぞ」
ロキに注意され、オオクニヌシは我に返った。
前を見ればクー・フーリンのマントは仲魔と共に暗闇の中に消えかかっていて、見かけたはずのアマテラスの姿もいつの間にか消えていた。
「あ……、申し訳ない、考え事をしていて……」
そう応えるオオクニヌシの背中を押し出すように叩き、ロキは妙に楽しそうな口調で
「お前、演技が下手くそだな」
と貶す。
「あいつはな、"申し訳ない"とか"心配は無い"だとか言う以前に、俺が話しかけようとすると厄介者扱いして追い払うかしかめっ面で避けるんだ」
アマテラスに変装して接していたとき、ロキが不思議そうにしていた理由が判明して思わずオオクニヌシは顔を赤くした。
魔王はその反応を見てにやっと笑う。
「奴らの賭けに決着がつく前に、どちらに付くのか決めておけよ」
"簡単に負けてもらっちゃ面白くない"というロキの言葉が即座に思い出され、鬼神は白いマントの背中を急ぎ足で追いながら、"賭け"の事実を知っているのが自分とクー・フーリンだけではないことを悟った。
ロキだけでなく、咎めたオーディンも知っているだろう。
もしかしたら賭けの存在を知らなかったのは自分とクー・フーリンと人修羅だけで、他の仲魔たちは口に出さないだけでとっくに知っていたのかもしれない。
刻々と終着点に近付きながら、賭けの決着も近付いていることを知ったオオクニヌシの心は落ち着きを失いざわつき始める。
坑道の闇は長いが、それもいつかは終わりが来る。出口を示す光はすぐそこまで迫ってきていた。

「空気が変わってきた、もうすぐ出口だね」
鼻をひくひくさせる人修羅の横で、ラファエルが素早く後方へ目配せをする。
いよいよ賭けの決着を付けるときが来たのだと告げる視線を受け、無言でうなずき返すアマテラスを確認したオオクニヌシは息を飲んだ。
隣からもゴクっと音が聞こえてきたのは、クー・フーリンもオオクニヌシ同様に緊張を感じたからだろう。
「主殿、坑道を抜ければシジマの悪魔どもが群れを成して待ち構えているかも知れません。念のために準備の時間を我ら仲魔に下さいませんか?」
ラファエルの発言に人修羅はうーんと唸ったが、そう深く悩むこともなくすぐに
「分かった、最後の休憩にしよう」
と、追いついてきた仲魔たちも含め、全体に指示を与えた。
また休憩かなどと愚痴る悪魔は1体もいない。みな一様に緊張した面持ちでラファエルを中心に集まり始める。
「主よお疲れでしょう。準備は私たちが行いますので、貴方は安全な場所で休んでください」
仲魔たちの間に漂う異様な雰囲気に気づくことなく呑気に腕を伸ばして伸びをしている人修羅の背中をそっと押しながら、アマテラスが休息することを勧める。
「えっ、ホントに? じゃあそうさせて貰おうかな……」
嬉しそうに表情を綻ばせ、人修羅は遠慮がちに何度か仲魔たちの方を振り返りながら、こちらへと誘導する女神ラクシュミに連れられ闇の奥へ姿を消した。
ラファエルは主人の気配が完全になくなるまで目を閉じて腕組みをしていたが、その姿勢を解いてアマテラスへ鋭い視線を向けた。
少しざわついていた仲魔たちの声がいっせいに静まり返る。
「知る者も多いと思うが、私とそこにいる魔神アマテラス殿は賭けをしている。主殿の創生への選択に関与する権利を賭けて」
賭けが明かされたとき、何体かの悪魔は騒ぎ出すだろうとオオクニヌシは予測していたが、それは完全に裏切られた。
不気味なほど静まったままの坑道に、大天使の冷たい声だけが響く。
「私は主殿がシジマと共に創生を行う道を選ぶことを望む。アマテラス殿は……」
ラファエルの動きに従ってほぼ全ての仲魔の注目がアマテラスに集まる。
眩い光に包まれた魔神は普段通りの表情を崩さず、落ち着いた声で告げた。
「シジマと手を組まず、別の道を模索することを望んでいる」
対立する主張が出揃ったところで、ラファエルは勿体つけるように輪のように主役である自分と魔神を取り囲んでいる仲魔たちをぐるっと見回す。
事の成り行きを見守る気難しい顔が多い中、ロキなど一部の悪魔は賭けの勝敗に対して賭けをしているのか、数枚のマッカを手の中でカチャカチャ鳴らしている。
不愉快な光景を目にしたラファエルは眉を顰めたが、アマテラスが先を急かすように主人がラクシュミと共に消えた方に目を向けていることに気付くと、気を取り直して笑顔を作った。
「私とアマテラス殿のどちらの考えが正しいか、貴方がたに判断していただきたい」
ショーを盛り上げる司会者のような軽快な動きで両腕を広げ、最後に丁寧なお辞儀をする。
背中を飾る羽まで天井に向かってピンと伸ばされ、一連の動作はため息が出るほどの優雅さを伴っていた。
「実に下らない賭けだ、判断する価値もない。私は棄権させてもらう」
クー・フーリンは最初からそのつもりだったのだろう。話が進んでいく間に何度も下らないと激怒し槍を握り締めていた。
そのたびにオオクニヌシは大天使に飛びかかって行きそうな幻魔を宥めなければならず、自分がどう動くことが最良か周囲の仲魔の反応を観察して見極める機会を逃してしまった。
「それは良かった。12体の仲魔では決着が付かないので困っていたところだ」
11体なら勝敗が付くと、予めクー・フーリンが棄権することを計算に入れていただろうに、さも意外で喜ばしいことのようにラファエルは微笑む。
オオクニヌシは焦った。これでは自分が棄権したいと言い出せば人数の関係から断られることは明らかだ。
「そ、そうだ、ラクシュミの分は?」
かなり上擦った声で主人を連れて行ったまま戻ってこないラクシュミのことを訊ねる。
残り11体で多数決で結果を出すとして、ラクシュミがいなければ5対5で引き分けになる可能性がある。
バランスを崩すためにもう1体抜けてもらわなければという言葉をオオクニヌシは期待したが、アマテラスが幾分気の毒そうに首を振った。
「女神ラクシュミは私の考えに賛同している。それはラファエル殿も承知している」
同意を求められ、ラファエルが頷く。
「その通り。よってオオクニヌシ殿の心配は無用だ」
きっぱりと言い切られ、鬼神は言葉を失い下唇を噛む。
結局クー・フーリンは最高のタイミングで棄権を宣言して忌わしい賭けと無関係になることに成功したが、オオクニヌシは逃れられなくなってしまった。
"どちらに付くのか決めておけよ"というロキの言葉がいよいよ現実となって重くのしかかる。
この賭けに決着が付くとき、そこには勝者と敗者が存在することになる。
"賭けに負ければなにを要求されるのか知らぬ貴公ではないでしょう?"と生気を吸い取りながらラファエルは言っていた。
敗者は勝者の要求に従わなければならない。その要求がどんなに残酷なものであったとしても。
結果が出たその瞬間から、ラファエルかアマテラスのどちらかが敗者の立場に立たされるのだ。
少し前のオオクニヌシなら自分と相容れない悪魔がどんな酷い目に遭おうと気にしなくて済んだかもしれない。
しかし、賭けまでのほんの少しの期間がオオクニヌシの意識に今となっては余計な変化をもたらしてしまった。
自分の判断が良くも悪くも大天使と魔神の運命を変えるという責任の重さ。
その重圧を取り払うことのできる悪魔は存在せず、クー・フーリンでさえ困ったようにうつむく。
最後の希望に縋るような気分でオオクニヌシは中央の悪魔たちに判断を求める。
最初に視線が合ったのはアマテラスだった。
オオクニヌシが相当心細そうにしていたのか、すぐに嫌な物を見てしまったというように顔を逸らす。
いったいどうすれば良いのかと目で訴えかける間もなく突き放され、鬼神は途方にくれる。
結局、迷い苦しむオオクニヌシに最後の安らぎを与えたのは、親しみを欠片ほども感じさせないラファエルの頷く姿だった。
「それでは、私の方針に賛同なさる方は私の方に、アマテラス殿の方針に賛同なさる方はアマテラス殿の方に、それぞれ寄ってください」
ラファエルの指示に従い、仲魔たちが未だにどちらに付くか決まらない鬼神から見れば迷いのない動きで移動を開始する。
大天使側に向かう仲魔、魔神側に向かう仲魔、数はほぼ同数に見える。
オオクニヌシの頭の中が真っ白になっていく。足が鉛の固まりになってしまったような錯覚さえ覚える。
「ほら、だからあの悪魔は興味深いと言ったのです。我々のように自分の利益のみを考えて行動することが出来ない故に迷っている」
なかなか移動することの出来ないオオクニヌシを眺めながら、ラファエルは愉快そうに目を細める。
アマテラスは首を横に振った。
「そのような悪魔、扱い難いだけで面白みなど……」
珍しくため息で言葉尻を濁すアマテラスの耳に、ラファエルの喉を鳴らすような耳障りな笑い声が入り込む。
オオクニヌシは迷いを払うために目を瞑った。吐き気がこみ上げてきて、喉がひりひりと熱い。
右に進めばラファエル、左に進めばアマテラス、薄く目を開いて最後にそれだけを確かめ、もう開かないようにときつく閉じる。
そしてオオクニヌシは、


■ 左(アマテラス)の方へ進んだ

■ どちらにも進まなかった

■ 右(ラファエル)の方へ進んだ




■ 左(アマテラス)の方へ進んだ

沈黙がずいぶん長い間続いたようにオオクニヌシは感じた。
ただひとつ分かったことは、自分が下した決断を快く思う者が少ないということ。
誰かの舌打ちと重苦しいため息、アマテラス側に集った悪魔たちから感じ取れる戸惑い。
恐る恐る目を開けた鬼神は光の眩さに怯み、目が慣れてくると光の中で自分を見下ろす冷たい目に怯んだ。
「ラファエル、この賭けは私の勝ちだ」
アマテラスが宣言すると共に、わなわなと全身を震わせていたラファエルがその場に膝をつく。
赤っぽい肌は青ざめることはないが、アマテラスが浮遊しながら近づくと、怨念のようなものが噴き出して黒く濁って見えた。
賭けの決着は、オオクニヌシの選択によって付いたといっても良いような状況だった。
オオクニヌシを除く悪魔はアマテラス側へ4体、ラファエル側へ5体分かれた。
ラクシュミの分を入れればちょうど5対5で、オオクニヌシがアマテラス側に加わったことにより大天使の敗北が決定した。
目を開ける前に舌打ちしたのはロキだった。恨みのこもった視線をオオクニヌシに向けて、再度舌打ちする。
マッカを賭けていた仲魔たちの中でただ1体ラファエル側についたロキは、アマテラス側に付いた仲魔たちに多額のマッカを支払う羽目になるのだろう。
「要求を、言え」
ラファエルのイメージからはかけ離れた老人のような嗄れ声が敗北を認める宣言となる。
集まっていた仲魔たちは一部の悪魔を除き決着の付いた賭けに興味を失い去っていった。
アマテラスは上空からじっと無残な大天使の姿を見下ろしていた。
賭けに勝ったことを嬉しいとは思っていないのか、むしろきつく結ばれた口元からは面白くなさそうな感情が見て取れる。
「勝つ可能性まで考えていなかったから、どんな要求をすればよいのかすぐには考え付かない」
とぼけているのではなく、本当に悔しそうにアマテラスがそう言ったので、ラファエルは半ば自棄になって大声で笑い出した。
魔神はあまりにも豪快に笑われたので、不貞腐れたように腕組みをしてそっぽを向く。
「仕方なかろう、お前はあんなに勝つ自信があるような態度をとっていたし。私の味方などラクシュミ1人だと思っていたからな」
それならいっそ負けてから引っくり返す方法を考えた方が早いと思い、そればかり考えていたとアマテラスは正直に白状した。
オオクニヌシも、共に残ったクー・フーリンもただただ呆気にとられて、壊れたように笑う大天使と困った様子の魔神をぽかんと口を開けて見ていることしか出来なかった。
「おいでオオクニヌシ」
ラファエルの笑いが止んで再び静寂が訪れると、アマテラスは何か思いついた顔でオオクニヌシを手招きした。
嫌な予感はあったものの、賭けの結果はアマテラスの計算外でそんなに酷い仕打ちがラファエルに対して行われる様子も無いことが鬼神をすっかり油断させていた。
「要求と言っていたが、今考えついた」
「え、嘘?」
と言ったのはラファエルでもオオクニヌシでもなくクー・フーリンで、その場に居合わせた3体全員の気持ちを代弁していた。
すぐにラファエルが警戒し、緊張がみなぎる。
「敗者が逆らえるわけがないのだから必要は無いと思うが、念のために準備をさせてもらおう」
それだけ言うと、アマテラスは左手の指をラファエルの頬から首筋までツッと這わせ、その感覚に表情を硬くする大天使へ妖しく笑いかける。
右手が首の後ろを擦る左手の真上で停止し、長細い棒状のものが指の隙間から伸びるのをオオクニヌシの目は確認した。
「うッ」
瞬間的な痛みにラファエルの首が反る。
「針を使いましたね?」
すぐに問いかけるオオクニヌシに、
「麻痺針だ。しばらくご自慢の羽さえ満足に動かすことは出来ないだろう」
と説明し、刺したばかりの針を指で弾いてみせる。
「さて、前の休憩中に私の格好をしたオオクニヌシの生気をお楽しみだったようだが、今度はご自分の生気をオオクニヌシに分け与えてみてはいかがかな?」
ギョッとした顔をオオクニヌシはアマテラスへ向けた。
麻痺の効果が素早く全身に回ったのか、縺れる舌を動かしてラファエルが"貴様"と怒りの声を出す。
そんな大天使を魔神は鼻で笑い、ラファエルの生気を吸えと目でオオクニヌシを促した。
「生気など……。今はそれほど飢えを感じていないので必要ありません」
横目でラファエルを窺うと、普段は穏やかな色彩の目を怒りで赤くして魔神をにらみ付けている。
「そうか?」
オオクニヌシに断られたことで気分を害した様子は無い。
膝をついたまま硬直しているラファエルと同じ目線になるようにアマテラスは膝をかがめた。
血の滲むような大天使の怒りの目とは違う、見た者が引きずり込まれそうな禍々しい紅色の目が真正面から敗者を捉える。
「剣を貸せ」
命令が、一連の動作を見ていることしかできない悪魔たちを動かす。
「貸すのは止めておけ、ろくな事にならないぞ」
クー・フーリンの忠告は聞こえていたが、紅い目の魔力に自分には無縁だと思っていたある感情を揺り起こされてオオクニヌシの背筋が冷たくなる。
「オオクニヌシ!」
叫ぶだけではなく力ずくで止めてくれればよいのにと、ただ名前を呼ぶだけの幻魔に小さな苛立ちを感じる。
剣を受け取ったアマテラスは、グイっとラファエルの顎をつかんで顔を上向きにさせる。
大天使の首筋が恐怖によってひくひくと動く様を、鬼神は珍しいものを前にしたときのような目つきで見物した。
実際ここまでラファエルが追い詰められている姿をオオクニヌシは見たことはなく、これからも滅多に見られるものではないだろう。
剣が首筋にぴたりと宛がわれる。刃先があたるように角度がつき、皮膚の上を滑る。
薄く切られた首の表面に血がじわじわとしみ出してマガツヒ色の線になる。
怒りと恐怖の感情により血と共に放出されるラファエルのマガツヒからは濃い香りが漂い、無意識のうちにオオクニヌシは唾を飲み込む。
「遠慮はいらない、気が済むまで啜っても良いのだよ」
オオクニヌシの飢えを感じ取ったのか、首筋から剣をひいたアマテラスがひどく優しい声で促す。
祈る姿と同じ安らぎに導く魔力が鬼神の警戒心を解いていく。
クー・フーリンが必死に叫ぶ声が聞こえたような気がしたが、その声はあまりにも遠く感じられ鬼神の意識を引き戻すには至らない。
舌が伝える旨味とマガツヒを吸うとき特有の恍惚感に、悪魔の本能が理性の箍を緩め貪欲を生む。
満足そうに大天使の生気を啜る鬼神の揺れる頭を見下ろしていた魔神が険しい表情の幻魔へ視線を移す。
「諦めろ、お前の思い通りになるものなどここには何ひとつ無い」
「……違う、そんな嘘がまかり通ってなるものか!」
クー・フーリンが激しく頭を振って否定する。理屈の通じない幼児を突き放す冷たさでアマテラスは応じた。
「そう思うのなら構わない。現実は変わらずここにあるのだからな」
それを否定するだけの根拠を幻魔は見つけ出すことができなかった。

駅の構内から地上へ出ると、闇と狭さからの解放感が人修羅を含めた悪魔たちの心を歓喜させた。
しかし、一部の悪魔たちの心は晴れず、坑道内の暗い雰囲気を引きずったままだ。
「自分だけが正しいことをしているとでも言いたいのか。見ているだけで何ひとつ行動できなかったくせに」
そう非難するのはオオクニヌシで、言われた方のクー・フーリンは喉元まで出かけていた言葉を詰まらせる。
「さっさと棄権して逃げたお前に私を責める資格があるのか? あのとき私がどんな思いで選択したと……なぜお前は……!」
助けてくれなかったのかと訴える鬼神の目に、幻魔はなにも言い返せずに顔を伏せる。
アマテラスにつき付けられた現実はクー・フーリンに屈辱を与えた。
鬼神を責めるのは間違っていると頭では理解できていても、惨めさや歯痒さが自分への怒りになり、その怒りをなにかに向けて発散しなければ気が治まらなかった。
怒りの矛先を向けられたオオクニヌシもそれまで感じていた不満を幻魔にぶつけ、険悪な雰囲気は周囲の仲魔たちが距離を置くほど激しい。
噛み付くような喧嘩状態がしばらく続いたが、時間が経つにつれて苛立ちが発散されて双方とも気持ちが落ち着いてきたのか、激しいやり取りは沈黙に変わった。
「すまない……」
先にクー・フーリンが謝り、オオクニヌシは自分も気持ちを切り替えなければと手のひらで額を押さえた。
「私もすまなかった。お前をここまで非難する資格は無かったというのに」
互いに謝罪はしたものの、全てがアマテラスの思い通りに運んでしまったという現実が目の前から消えることは無く、重い足取りで仲魔たちの背中を追った。






■ どちらにも進まなかった

目を瞑ったまま、オオクニヌシはどちらに進むこともできなかった。
自分が選択をしなくても勝敗は決まるのではないかという期待もあったが、それ以前に足が動かなかった。
その場に居合わせている仲魔全員のものと思われる皮膚を刺すような視線が痛く感じられる。
他の仲魔たちは自分が支持する方へ移動し終えたのか、足音ひとつ聞こえなくなった。
焦りを伴う静寂が場に広がり、その間、オオクニヌシの心臓は賭けの主役である悪魔2体に握られているような錯覚と苦しさを主張し続ける。
「さて、どうしたものか」
状況を楽しむような声はアマテラスのものだ。
「早くしていただきたいのだが」
逆にラファエルの声には余裕が無い。
オオクニヌシに動きが無いとしても、支持する仲魔が同じ数でなければどちらかの負けは決まっているに違いない。
それにもかかわらず自分の判断を待っているということは、オオクニヌシを除く悪魔のうち4体はアマテラスにつき、5体はラファエルについていることになる。
ラクシュミがアマテラス側に付いているのだから、ちょうど半々で引き分けの状態だ。
考えが正しいか確かめるために薄目を開くと、状況はまさに鬼神が予測したとおりになっていた。
あんまりだとオオクニヌシは天に向かって叫びたい気分になった。
「まったくその通りです。早く決めなさい」
結果を待つ者とは思えないほど落ち着いた魔神の声がオオクニヌシを叱る。
態度もいつも通り偉そうなもので、どんな精神構造をしていればあそこまで落ち着いていられるのか鬼神は理解に苦しむ。
「あなた方はそう言うが、私の判断が勝ち負けを決めるのですよ、もっと時間をかけて選ばせてもらわないと」
正論に違いないが、アマテラスは渋い顔だ。
「人修羅殿を我々の都合で待たせるわけにはいかないのだよ、遠慮はいらないから急ぎなさい」
"誰の都合で待たせているつもりだ"とラファエル側についたロキが毒づく。
オオクニヌシは頭を抱えた。全ての仲魔からの視線が痛いが、特にラファエルの何が何でも自分側に付けと訴えるような強烈な意思が1番痛い。
「分かりました、恨みっこなしですよ!」
自棄になって鬼神が大声でそう宣言した瞬間、
「待てっ、ちょっと待てって!」
その場にいた悪魔たちは慌しく飛び込んできた者が誰であるか判明したとたんに騒然となった。
相当急いで走ってきたのだろう、胸を大きく上下させて息をしながら青白い模様を纏った少年はその場を厳しい顔つきで見渡す。
「マスター!」
真っ先に喜びの声を張り上げたのはクー・フーリンだった。
追い詰められていくオオクニヌシを見守っていたときの青白い顔色が嘘のように溌剌とした表情で槍を掲げる。
逆に表情を失ったのはラファエルで、予想外の人物の出現に動揺した気配を見せず涼しい顔のアマテラスを見て歯軋りをした。
そんな2対のそばへ、慌てている仲魔たちをかき分けながら堂々とした歩調で人修羅は近づく。
「全部聞いたよ、ラクシュミから」
オオクニヌシが気配を感じて隣を見ると、いつの間にか姿を現していたラクシュミが深く頷いた。
人修羅は珍しく本気で怒っているように見えた。感情に任せて足を踏み鳴らせば地面に亀裂が走りそうな気迫が全身に漲っている。
「何か言い訳はあるか、アマテラス?」
訊ねられた魔神は大人しく"いいえ"と否定し、直後に硬い握り拳に殴り飛ばされて後方の壁に叩きつけられる。
「お前はどうだラファエル?」
見苦しく言い訳をしたところで今の人修羅の気持ちを動かすことは不可能だと判断したのか、大天使も唸る拳に吹っ飛ばされた。
賭けを企てた張本人たちを成敗したところで少年は急に静かになった仲魔たちを見回して怒鳴りつける。
「お前たちも、主人を甘く見るとどうなるか、よく肝に銘じておけっ!」
嬉しそうに返事をしたのはラクシュミとクー・フーリンだけで、後の悪魔はオオクニヌシ含め、鬼に変貌した人修羅の迫力に驚きで目を丸くすることしかできなかった。
壁に叩きつけられて地面に蹲っていたアマテラスが微かに笑い、腫れ上がった頬を恐る恐る指で突付いてダメージを確かめていたラファエルが顔を顰めて"痛っ"と悲鳴を上げた。

結局人修羅は詳しい話は後で聞くと言ったきり、駅の構内を抜けて外に出ても賭けの件については黙ったままだった。
なにも語らないアマテラスの代わりに、ラクシュミがことの真相をオオクニヌシだけに語った。
オオクニヌシがどちらも選べず賭けが引き分けの状態になったら人修羅に賭けのことを報せて連れて来るように魔神から頼まれていたことを。
人修羅の信用を失うことになるというのに何故だろうかと首をかしげる鬼神に、女神も分からないと首を振った。
「けれど、そうなることが自分にとっても最善の結果なのだろうとアマテラスは仰っていましたわ」
ラクシュミが最後に告げた言葉どおりだとしても、オオクニヌシにはアマテラスの真意が分からず終いだった。
ただ、それでも構わないと鬼神は思う。
賭けは終わり、人修羅は改めて自分の意思で創世を目指すことの大切さに気付いたに違いない。
全ては終わった。これ以上ラファエルとアマテラスの思惑を知ろうとしたところで、それはなんの意味も成さないだろう。
「主も容赦なく殴ったな、当然と言えば当然だが」
ふくれたアマテラスの顔を見たオオクニヌシは、思わず自分の頬を押さえる。
常世の祈りで早く治せば良いものを、魔神も大天使も反省の態度を見せているつもりなのか痛々しい顔をさらしている。
「これで少しは懲りただろう。マスターは本当によくやって下さった」
"お前もよくどちらも選ばずに耐えてくれた"と感謝され、くすぐったい気分を隠すようにオオクニヌシは"当然のことをしたまでだ"とまじめ腐って応えた。
「いやいや、本当に今回の件ではお前を見直したんだ。お気楽でぼーっとした悪魔だと思っていたが、凄い悪魔だよお前は」
「言ってろ」
クー・フーリンは悪意無く純粋に褒めているのだが、鬼神の態度はそっけない。
しかし、突き放すような態度とは裏腹に、褒め言葉に耐性の無いオオクニヌシの顔は次第に熱を帯びていき、湯気が出そうになっている。
それを分かっているのか、鬼神を褒めちぎる幻魔は最高の笑みを浮かべていた。
気の合う友の心配事が片付き快活さを取り戻したこと、その事実だけで自分は十分だと鬼神は晴れやかな気分で天を見上げた。






■ 右(ラファエル)の方へ進んだ

問題を避けるため、今後、これはダメかなと思うものは表に置かないことにしました。
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