■ 烈風_1
すぐ脇を陽気な歌を歌いながらトロールが通り過ぎていく。
いつもに増して機嫌が良いのか、つき出た腹を太鼓のように叩いてリズムを取る姿は迫力ある巨体に似合わず愛嬌がある。
セタンタは息を止めてトロールが完全に通り過ぎるのをじっと待った。
怪しむ様子もなくセタンタが待機している通路の奥の分かれ道で立ち止まり、左右をキョロキョロ見渡して首をかしげ、どちらの道に進もうか迷っている。
水色をした風船のような妖精の注意が完全に自分に向いていないことを確認したセタンタは、
足音を立てずにトロールとは逆の方向へ歩き出した。
カグツチが1周するまでにセタンタは妖精たちが占拠する代々木公園を抜け出さなければならなかった。
何故タイムリミットが存在するかといえば、自分よりレベルの低い悪魔たちから気配を隠すエストマという魔法の効果が
カグツチが1周した時点で切れてしまうからだ。
「トロールまでは大丈夫か」
頭上を鉄骨が覆い、上空から隠された地点にたどり着くと、セタンタは安心して肩の力を抜く。
代々木公園に留まっている悪魔の中でセタンタよりレベルの高い悪魔は限られている。
そのうちの1体、持ち主の体格と比較して考えれば大きな蝶の羽が生み出す力強い羽ばたきの音が無いか注意深く耳を澄ます。
「ティターニア王妃は賛成してくれたから味方だ、敵はオベロン王のみ」
頭の中で状況を整理したセタンタは覚悟を決めたのかひとつ頷き、迷路のように複雑な工事現場の出口を目指した。
そもそもセタンタがこのような状況下で代々木公園からの脱出を試みる理由はいたって単純なものだった。
東京というひとつの都市が受胎という生まれ変わりの時期を迎え、新しい世界が生まれる準備段階の卵のような世界が誕生した。
ボルテクス界と呼ばれるその世界に集った西洋問わず様々な悪魔たちと力比べをしてみたい。
自分の力がどの程度通用するのか試してみたいと、セタンタの戦闘本能は疼いた。
しかし代々木公園を占拠したオベロンは逆に妖精たちが外に出て面倒を起こすことを嫌っていた。
ピクシーのような影響力の少ない妖精ならまだしも、力の強い妖精が下手に騒ぎを起こすことを恐れていたのだ。
「外の世界を見てみたいのです、偵察として私を行かせて下さい」
頭を下げて頼み込むセタンタの要求をティターニアは笑って許したが、オベロンは渋い顔をして頷こうとはしなかった。
「私はどんな状況におかれても上手く切り抜けてみせます、決して王に迷惑がかかるようなことはいたしません!」
強く訴える少年妖精に、鉄材を積んで造った簡素な椅子に腰を下ろしたオベロンはため息混じりの声で告げた。
「分かっている、お前ならきっと面倒なことは起こすまい、それは私も分かっている……」
しかし、と続け、困ったように王冠ののった頭を横に振って、頬杖をつく。
「この外界の面倒ごとから隔離された我々の土地を守るための力が、今はひとつでも多く必要なんだ」
協力を求める妖精王の目に見つめられ、セタンタは悔し気に目をかたく瞑る。
心の中で王の要求と自分の要求が激しく争い、その一方がセタンタの首を縦に振らせなかった。
「それでも私は外の世界を見に行きたいのです。どうか許可を!」
要求を曲げない妖精にいよいよ頭を抱えてオベロンが悩み始めると、隣で成り行きを見守っていたティターニアが華やかに微笑んでひとつの提案をした。
「それなら、自力で夫から逃げてみなさいな。それができればこの人も文句は言えないでしょうから」
勝手に話を進められてオベロンは焦って王妃を睨んだが、
「本当ですか?」
とはちきれんばかりの笑顔で訊ねる少年と、耳にコソコソ自分の弱みをティターニアに吹き込まれ、
両サイドからの攻撃の前に抵抗しきれなくなり、ついに条件を呑んだ。
そういった経緯があり、セタンタはどうにかオベロンと彼が率いる妖精部隊に捕まらずに、代々木公園から脱出する必要があった。
妖精王オベロンは工事現場の一区間全体を見渡せる見晴台の柵に腰かけ、
セタンタがピクシーやトロールといった妖精部隊の目をごまかして少しずつゴールに近付いていく様子を観察していた。
自分の気配を探して上空を警戒しながら進む姿を見て楽しそうに笑い、
「頑張ってはいるがまだ未熟だ」
と、見晴台の存在までは注意を払っていないセタンタのうっかりした行動を指摘する。
それと同時に投げ出した足をぶらぶらさせて、深刻そうに呟く。
「この見晴台は外部からの侵入があったときに防御の弱点にもなり得るな……」
その言葉を聞いて、王の隣で逃げる黒髪の妖精を応援しているティターニアが、
「あら、この場所は私のお気に入りですのよ、壊したら氷付けにしてしまいますからね」
と脅しをかけてオベロンの顔を青くさせた。
夫が自分の言動に影響されていることに満足感を得たのか、それ以上は苛めずにティターニアは再びセタンタの応援を再開する。
オベロンが配置したピクシー部隊の包囲網を、上空から眺めた時に目印になる妖精の黒い頭が気配を隠して突破していく。
不貞腐れたように頬をふくらませてセタンタの動きを目で追う王に、責めるような言葉が投げかけられた。
「許してあげなさいな、貴方はあの子の小さな望みまで摘み取ってしまうおつもりですの?」
それは、いつも陽気で楽しいことのみを追求している王妃にしては珍しく真面目な問いかけだった。
オベロンはますます頬を大きくふくらませたが、ティターニアに睨まれてすぐに子供っぽい仕草を止めて見晴台の柵から飛び立った。
工事現場の出口付近にどうにかカグツチが1周する前にたどりついたセタンタは焦りを隠せなかった。
押しても引いても代々木公園から外界への出口がある広場へ続く扉は開かず、妖精の行く手を阻んでいた。
槍技を使って扉を壊すことも可能だが、その選択肢には危険が伴う。
風もないのにガタガタ音を立てる扉を怪しんで妖精たちが集り始めている。
急に扉が破壊されようものなら、セタンタの仕業だとバレてすぐに包囲されてしまうだろう。
しかし脱出を試みる妖精に残された時間は少なかった。
このまま立ち往生していてもいずれエストマの効果が切れて発見されるだろうし、第一オベロンにはセタンタの姿が丸見えなのだ。
上空からの視界を遮るものもない扉の前で捕まるのは時間の問題だった。
「ここまできて、私に羽があれば柵を飛び越えて逃げ出せるというのに……!」
鉄製のフェンスをよじ登ることも試したが、滑りやすくつかまるところの無い壁を登ることはセタンタの能力を持ってしても不可能だった。
ティターニアの提案に困った顔をしながらも、どこか余裕を感じさせる態度で自分が逃げる後ろ姿を見送っていた妖精王を思い出し、
セタンタは悔しさから歯軋りをする。
捕まることを覚悟で扉を破壊して逃げ出すか、素直にオベロンの要求を受け入れるか。
選択を迫られ鬼気迫った顔の少年妖精を更に追いつめるかのように、タイムリミットを告げる羽音がだんだんと近付いてくる。
手袋をした手の平に汗が滲んでいく。
頭の中で選択肢がぐるぐる回り、心臓の音がどんどん早く大きくなっていく。
体温の上昇、慎重さの喪失とそれに代わって押し寄せる興奮の波、体中の血が駆け巡る感覚。
セタンタの目に絶望の色は欠片も無く、獲物を前に理性が働かなくなった猛獣にも似た高揚に全身が支配されている。
そしてついに外界の強敵と戦うことを夢見る妖精の本能は、夢の実現より先に内部の敵に牙を向けることを選択させた。
もうあと数メートルというところまで近付いた妖精王を見上げ、槍を強く握り締めて大きく体をねじる。
セタンタが攻撃に転じる瞬間を、オベロンだけでなく集まってきていた他の妖精も目撃することができた。
エストマの効果は失われ、トロールたちが王を狙う反逆者を取り押さえようと慌てて駆け寄る。
しかしトロールたちが巨体を揺らして必死に走ったところで、セタンタの行動を阻止するにはあまりに遅かった。
放たれた槍は少しの狂いも無く空中で動きを止めたオベロン目がけて猛スピードで突き進む。
槍を放った妖精を見つめる表情に驚いた様子はない。
ただ、そこまで追いつめてしまった自分の言動を反省して結果を全て受け止めようと、逃げずにその場に止まる妖精王の姿があった。