蜜柑と青空


黒機





「――だからさ、幹也はだな、もうちょっと、妹とは仲良くしてやれよ」
「いや、式の言うこともわかるが、お互いいい歳だろう。そんな、仲良くって言ったって、小さい子供じゃあるまいし、今さらどうすればいいんだか……」
 黒桐幹也はコーヒーカップをテーブルに置き、いつものような悪意のない穏やかな口調で、同じく、少々ぶっきらぼうな雰囲気ながらやはり悪意はない口調で喋る、傍らの席に座った和服の少女に答える。
「さあ、オレにもよくかわらんが――ええと、ああ、まあ、女の子どうしのきょうだいなら、一緒にお風呂に入ったり、一緒の布団で枕を並べて寝たりするんだろうが……」
「おいおい、男と女の兄妹でそれはないだろう……」
 と、背後の扉が開き、やや苦笑まじりに気だるげな女の声がした。
「おや、意外だな、鮮花は式のことを好ましく思ってないというのに」
 黒桐幹也と両儀式は顔を上げる、そこに現れたのは、この廃墟のような事務所の主、冷徹がネクタイを締めて眼鏡を掛けたような才媛、人形師蒼崎橙子だ。
 彼女は数日前から冬木市に出かけていて、それが今帰ってきたというところである。
 なんでも、彼女の腕なくして不可能な仕事を依頼されていたそうで、依頼主は冬木の地を管理する名門魔術師で、それなりの報酬も約束され、赤字続きで慢性金欠のこの事務所としては、断る理由はなかったという。
 式は頭上の橙子の顔に向かって答える。
「おかえり、トウコ――ああ、そりゃ、幹也の妹がオレを好いてないのは知ってるよ。オレが言ってるのは一派論だ。オレだって織がいなくなった時は、本当に、文字通り、胸に穴があいたような気分になった。だから、小さい頃から一緒だったきょうだいは大事にしてやれ、って」
 両儀式は自分のことには無頓着でぶっきらぼうなくせ、他の人間は、幸福に、良く生きるべきだなどと考えているところがある、相変わらずの不器用な偽悪家ぶりだ。
 橙子が、軽く苦笑しながら式の顔も見ずに「はいはい」と相槌を打っていると、横から黒桐が、同じく軽く溜息をついて苦笑してから、上司に挨拶する。
「おかえりなさい、橙子さん。とりあえず、任されてた分の仕事はやってあります。詳しい報告は――どうしますか? お疲れのようだし、明日にしますか」
「ああ、それでいい。お前らも帰っていいよ。お疲れ様」
 蒼崎橙子は抑揚ない口調で答えてから自分の机に向かい、黒桐はそそくさとコーヒーカップを片付け、事務所を後にする、と、少し遅れて事務所を出ようとしていた式が、橙子の背中に声を掛けた。
「ああそうだ、トウコに手紙が来てた、机の上に置いてある」
 橙子は、書類の山積みになった机の上に、一通の封筒を見つけて手に取る。裏返すと、そこには、たった四文字、こう書かれていた。
 Blue
 橙子は、一瞬立ち止まってその筆跡を確かめ、微かにずり下がりかけた眼鏡を押し上げ、封筒を灯りに近づけ、もう一度その筆跡をよく確かめる。と、背後から、式の声が続いた。
「そういえば、トウコもきょうだい、いたんだろ? 確か、妹だっけ……」
 蒼崎橙子はその言葉に無言のまま、答えない。封筒を手にしたまま、沈黙している。
「おいトウコ、どうした?」
 式はやれやれと橙子のすぐ背後にまで歩み寄り、軽くその肩に手を触れた。橙子は不意に振り返り、視線が合ったが、橙子は式の顔を見ながら、式を見ていない、うつろな表情をしていたかと思うと、目を伏せる。
「ああトウコ、姉さんだったんだよな――」式は何気なしにそう口にした次の瞬間、橙子に堅く抱きしめられていた。
「! っ、おっ、おい、トウコ……なっ、何だよ?」
 式はいきなり、橙子の体温と髪の匂いを間近に感じさせせられ戸惑いながら言葉を漏らす。と、橙子は我に返ったかのように式の躰を放し、軽く指先で自分の額を弾いて言った。
「――すまない、式、どうかしてた。ああ、じゃあお帰り、また」
「じゃあな、トウコ、また」
 式はどこか違和感を残しながらも、そそくさと人形師の事務所を後にする。外では黒桐が待ってるだろうし。

 一人事務所に残った橙子は、封筒を胸に抱きしめ、その瞳には涙を浮かべていた。
「青子……」
 そうつぶやく橙子の顔は、名状し難い表情に彩られている。悔恨、安堵、憎悪、歓喜、愛惜……相互に矛盾した、さまざまな感情が、彼女の貌を駆け巡っていた。


 「焼肉大帝都」の奥の席には、白いTシャツにジーンズ姿の、赤い、長い髪の女が座っていた。その足元には大きな革のトランク。卓の上には、すでにビールの瓶が数本空になって置かれているような気がするが、まあ無視しよう。
 相変わらず、髪も、スタイルも豊かで女らしく、その顔、特に眼には、自分と同様、強気でありつつ、しかし同時に、自分とは違って優しげな光も宿ってる、くそ――
「姉さん、久しぶりね。嬉しいわ」
 蒼崎青子は、慇懃な虚飾か、本心からなのか、姉に最高の笑みを浮かべて言った。
 蒼崎橙子は、誰がお前なんかに心を許すものかと抑揚ない口調を作って答える。
「ああ。ここにはよく来るようだが、直に会うのは……何年ぶりだろうな」
「さあ……。それより、例のお願い、聞いてもらえるのかしら?」
 橙子はその言葉に、最大限に卑屈で皮肉げな笑みを作って応じる。
「ああ『魔法使い様』が、私ごとき二流の魔術師に頼みこんでるんだからな、引き受けてやろう。ふん、気にするな。私のほんのささやかな優越感のためだ――まあ、今さらこれぐらいで、お前より少しでも優位に立てるなんて自惚れはないがな……」
 青子はやれやれと軽く溜息をつきながら、姉のグラスにビールを注ぎながら言った。
「とりあえず、引き受けてくれるなら、姉さんの本意はどうあれ、行動には感謝するわ。じゃあ、依頼の謝礼とは別に、今夜は私が奢るから――」
 橙子は注がれたビールを一気にあおってから、妹に冷めた視線を向け、はっきりと宣戦布告した。
「別にいいわ。妹の金で食事するほど困ってもいないし――それより、ねえ、いい機会だわ、この場で勝負にしない、3時間でお互い、何人前いけるか。貴女が勝てば、依頼の謝礼なんていらないわ――その代わり……」
 青子は望むところだと無邪気な笑みを浮かべて身を乗り出し、姉に顔を近づける。
「いいわよ! その代わり……なに?」
 まったく、この子も、自分と同じくお互いいい歳だというのに、こういう時だけ、あの頃とまるで変わらない貌をする、くそ――
 橙子はやけのように続けてビールをあおり、軽く頬を赤らめながら、意を決して言った。
「その代わり……今夜一晩だけ、妹して、言うことを聞きなさい」


 少し遅れて来れば、きっと妹は痺れを切らして先に飲み食いを始めているに違いあるまい、その時点で勝負を吹っかければ、その分のハンデがあれば勝てる――そんな姑息な発想を自分でも子供みたいだと思っていたが、それが本当に通用してしまうとは……
「いやあ、今日は姉さんの勝ちね、ああ、しょうがないわ」
 青子は眼前に山積みになった、空の、カルビ、ロース、タン塩、ミノ、モツ、レバー、豚トロ、ホルモン、軟骨、豚足、豚耳、カクテキ、ユッケ……その他の皿を見下ろしながら、爪楊枝を手に無邪気な笑みを浮かべて答える。その顔には満腹の喜びしかなさそうだ。
 陰湿な姉の作戦に気づいていたのかいないのか、こいつ本当にあの頃と変わってない……その妹の顔を見ると、こんな姑息な戦術で勝利を手にした己を、また一抹の劣等感が襲う、くそ、私は大食い勝負ひとつ、こんな手を使わなければ、妹にも勝てないのか?
 自己嫌悪の思考は既に自己目的化していた、いつは冷静な橙子も、たった一人の妹のことだけは、そのそのクールな大人らしさを保つことができない……って、たかが焼肉でなに真剣に自己嫌悪してるんだ!?
「じゃあ行きましょう――あ、はい、会計は別々で」
 橙子は店員に伝票を渡すと、一時的にウェストが××センチほど増えた腹を軽く押さえながら立ち上がった。
「で、姉さん、どこへ行くわけ?」
「貴女の部屋。ここしばらくは、この近くのホテルに泊まってるのよね。そこで、私も一晩過ごさせてもらうわ。文句はないわね?」
 青子はトランクを引きずりながら、満腹にほろ酔い加減の上気した顔で、意味ありげな笑みを浮かべて答える。
「で、『妹として』どう姉の言うことを聞くわけ?」
 橙子はその言葉に答えず、会計を済ませると(これまた万年金欠で金にうるさい依頼主から報酬をせしめた直後とはいえ、一食で黒桐の1ヶ月の給与に近い額が飛んだのは秘密だ)、人形師は魔法使いの顔を見ずに歩き出し、ひとりごとのように喋り出す。
「この前、冬木の新しい管理人に会ってきたわ」
「へえ。今度のは、まだ若いのに、けっこう強気で、しっかり者らしいわね」
「ええ、少し――貴女と似てたかもね」
「ふうん」
 青子は何を思ってか、短く、感慨深げに相槌を打つ。二人はお互いの顔を見ないまま歩き、言葉を続ける。
「遠坂の後継ぎ娘、じつは妹がいたそうでね。私が会った時は、仲良さそうだったわ」
「知ってる。間桐に養女に出されてたんでしょ」
「よくご存知ね。さすが魔法使い様」
「姉さん、その『魔法使い様』ってやめてよ!」そう言って青子は姉の前に出て、正面から姉の眼鏡の奥の瞳を見据え、続けて言った。
「今日、一度も『青子』って呼んでくれてないわよね、姉さん?」
「貴女、その名前、人から言われるの嫌いじゃなかった?」
「苗字も含めた時だけよ。それに、姉さんからは、他に呼ばれようないでしょ」
 そこで二人は、青子の泊まっているホテルに着いてしまった。二人は無言のまま、ロビーに向かう。


「くすくす、姉さん、すっごいお腹……なんだかまるで、妊娠八ヶ月、って感じ」
 青子は白い裸身の全身を水滴にまみれさせながら、無邪気な声で笑う。
「何言ってる、お前だって今は一時的に同じじゃないか……それにしても、食ったばかりの腹だけじゃなくて、あちこち出っ張りやがって……」
 橙子は、この場に妹を自分から誘っておきながら、さりげなく自分の腕を、自身の、妹に比べればいまひとつ貧相な裸体を隠すように動かす。
「姉さん、何か言った?」
 青子は、瓶から出したぬめりのある液体を手につけ、姉の背後に歩み寄った。
「おい、それぐらい自分でするよ、やっぱり――」
「いいから……あ、私の方も姉さんがしてね、仲の良い姉妹だったら、お互いにするんでしょ、こういうこと」
「ああ、わかったよ。好きにしろ」
 橙子はそう言って、妹の白い細い指先に、自分の、細い毛に覆われた重要な部分を任せた。青子は繊細な手つきで姉の緊張をほぐしてゆく……橙子としても、断ろうとしたものの、実際青子に任せてみると、なんだか気持よくなってきたのも事実だ――洗髪は。
 シャンプーにまみれた青子の指は優しく姉の頭をなぞってゆく。
 それにしても、酒の勢いを借りてのこととはいえ、こんなこと言うのは失敗だったか。
「小さい頃みたいに、仲の良い姉妹らしく、一緒にお風呂に入って、一緒の布団で枕を並べて寝よう」
 などとは。
 熱くもなく冷たくもない、ほどよいぬるま湯で髪を漱ぐと、青子の声がした。
「じゃ、私の番ね。手間から言って、私のほうがぜんぜん楽させてもらったけど」
 橙子は言われた通り、入れ替わりに妹の髪を洗ってやろうと、椅子に座った青子の背後に回る。
 「痛んだ赤」と呼ばれる半端な自分とは違う、妹の、赤い、さらさらとした長い髪……生まれたままの無防備な後姿、細い頚は、今自分がその気になれば、軽々と捻じ切ることも不可能ではないかも知れない。どういうつもりか、青子は自分から、幼い頃に戻ったように、警戒心を解いている――あるいはこの姉など警戒するまでもないという不敵さか。
「青子……」
 橙子はその指で妹の濡れた髪をたぐりながら、恥辱と苛立ちの混じった顔のまま、背後から声を掛ける。だが、その後の言葉が続かない。青子も無言のまま、数秒が過ぎ、橙子ははっと我に返って、抑揚ない口調で取り繕うかのような言葉を口にした。
「……髪、きれいだな。やっぱり」
 口に出してみて思ったが、この言葉は嘘ではない。ああ、幼い頃からそう思ってた。
「あ!」
 不意に青子が短く小さな叫び声を上げる、橙子が、自分の内心を見透かされたかと思い、背筋を震わせると、青子は少し嬉しそうな口調で言った。
「『青子』、って呼んでくれたね」
 お互いの髪を洗った後、橙子が湯船につかると、続けて青子が湯船に入ってくる。一瞬、橙子の視界を青子のたわわな乳房がよぎったかと思うと、湯船からは大量の湯が溢れる。
「あーいい気持ねえ、お姉ちゃん♪」
 まだ酔いが残ってるのか、軽く赤らんだ顔の青子は上機嫌な声で、姉にほよよんとした柔らかて温かな肌を押し付けてきた。
 青子の声に邪気はない。ああ、本当にまだお互い幼かった頃は、その頃から姉妹喧嘩も絶えなかったけれど、それと同じぐらい、こんなふうに無邪気にじゃれ合うこともあった。
 くそ、いい躰しやがって、こっちの方が歳上なのに……こいつに抱っこされたとかいう魔眼持ちの子も気持良かったのかな、自分が式を抱きしめてやっても、式は戸惑うだけだが……橙子は瑣末なことまでいちいち妹と自分を引き比べ、かすかな自己嫌悪を繰り返す。
 と、青子の背中、左肩に近い場所に、湯温で浮かび上がったかすかなピンク色の跡が視界に入った。
「この傷痕、まだ残ってたんだな……」
 橙子は抑揚のない、しかし感慨深そうな口調でぽつりと言った。その言葉に、青子はにやりと悪戯っぽい微笑を浮かべ、正面から姉の眼を見据えて答える。
「あの時は本っ当に、熱かったわよ、姉さん」
「悪かったな。幾つの時の話だ、小学生だろう? 火焔魔術の調節方法なんてまだちゃんと覚えてなかったんだから」
「あ、姉さんも、この傷痕、まだあったんだ」
 青子は橙子の左腕の肘近くを手にとって、微かな引っかき傷の跡を見て言う。
「ああそうだ、お前の風呪の失敗喰らった時は、腕がちぎれるかと思ったよ、ったく」
 青子はくすくすと微笑を浮かべながら、姉のうなじに顔を近づける。
「ここのも残ってた。これは、何歳の時だっけ? 私が、お爺さんの本を勝手に真似て、錬金術の実験に失敗した時、姉さんが、私のこと、かばおうとしてついたのよね」
「はあ――? ああ、そんなこともあったよな」
 橙子は、気恥ずかしさもあって青子の顔を見ずにぶっきらぼうな口調で答える。と、青子は軽く姉の首を押さえ、その傷痕にそっと口づけした。青子の細い舌先が、ちろちろと、橙子のうなじのかすかな傷痕を愛撫するように優しくなぞる。
「ちょっ? なっ、何やってるんだよ?」
「だって、私のせいで、私がつけた傷痕だもの――」
 そう言う青子の瞳は、心なしか、微かに潤んでるように見える。まさか、今さら、後ろめたさを感じているのか? この手の傷痕は、とうに消えてしまったものまであげれば、お互いの躰に、まだまだあるはずだ。だが、考えてもみれば、それが姉妹の絆だった。
 橙子は、思い出したかのように、その自分のうなじの傷痕を軽く指先で弾いて言った。
「……それにしても青子、見事な再現だろう? その気になれば、消すこともできたが、やっぱり、この躰に刻み込まれた傷痕あってのわたしだったからな」
「ああ、これ、全部、わざわざ造ったのね……本当に、ちょっと信じられないけど」
「ふふん、私が並の人形師と違うところを、やっと理解したようだね」
 そう、今、青子の目の前にある蒼崎橙子の躰は、橙子自身が造った、このうえなく精巧な模造品だ。それは今はないオリジナルの本体の特徴を完全に再現している、十数年前の微かな傷痕までも――いくら稀代の「魔法使い」でも、そんな技術はない――ああそうだ、こればかりは、神に選ばれた天才の妹にだってできない、つまらない地上の秀才の自分の、それでもこの妹に勝る、わずかな優位のひとつだったんだ――
 自己嫌悪に沈みかかけていた橙子は、自尊心を取り戻し、余裕ゆえの皮肉げな笑みを一瞬浮かべて妹に言った。
「まあ、どうせ自分の躰を造り直すなら、青子みたいなナイスバディにしたかったがな、こればかりは嘘はつけないし、くく……」
「姉さんだって、スレンダーできれいなのに……」
 青子は微かな声でぽつりとつぶやく、その口調に皮肉や嫌味の色は無い。橙子はその妹の瞳を見つめているうちに、何を思ったか、またどこか沈痛な表情に戻り、沈黙する。
 不意に青子がばしゃっと橙子の顔に湯を浴びせた。
「ちょっと、どうしたの? 姉さん。黙り込んじゃって」
 その言葉に、不意に橙子は泣きそうな顔になり、強く妹を抱きしめる。湯船からはしずくが飛び散り、青子は一瞬驚きながらも、そのまま姉に体重を預けた。
 橙子は、青子の躰を抱きしめ、妹の左肩に残る微かな傷痕を優しく指先で撫でながら、ゆっくりと語りかけた。
「ごねんね、青子。この傷さ、本当は――わざとつけたんだよ」
 青子は無言のまま、姉の言葉を聞いている。
「ずっと、青子のことが可愛くて、大好きだった。でも、青子はどんどん、勝手に成長していって、私は、取り残されちゃうんじゃないかって思って、それで、お前に『青子はお姉ちゃんの物だ』って印を刻み付けてやりたくなって、わざと、あの時、手加減なしで火を放ったんだ……」
 橙子はそこで、青子から躰を放し、正面からその眼を見て続ける。橙子の瞳はかすかに涙に濡れ、震えていた。
「最低な姉だな。変態だよ。軽蔑するだろう。ああ、魔法使い様とは大違いだ。……でも顔に傷が残らなくて良かった、本当に良かった……今さらこんなこと言っても赦してくれないだろうけど、本当に、済まなかったな、青子」
「ばか……なに言ってるのよ」
 青子は姉の顔に自分の顔を近づけ、舌先で優しくその涙を舐める。と、姉の躰ががくりと倒れこんできた。
「ちょっと? 姉さん!」」
 浴室には青子の声が響く、しかし返事はない。


「お姉ちゃん、大好き! えへへ、大きくなったら、凄い魔法使いになって、いつでもお姉ちゃんが危なくなったら、あたしが助けてあげるんだーっ」
「ちっちっ、大丈夫、それより、あたしの方が先に凄い魔法使いになって、いつでも青子のこと、守ってあげるんだからっ」
 ――まったく、よく偉そうに言ったものだ。そのていたらくがこれか? それにしても、青子も青子だ。何が「お姉ちゃんを助けてあげる」だ? 一人で勝手にお偉い魔法使い様になって、遺産も独り占めして、好き勝手にあちこち飛び回って……勝手にうちの魔眼封じまで盗み出して……魔眼封じ……ちょっと待て? そう、魔眼封じ、ああ、そう、こんなこと考えてる場合じゃない、あの魔眼封じ……ええと……


「姉さん、大丈夫? ……」
 橙子が瞼を開けると、そのすぐ前には、まだ少し濡れた髪を垂らした妹の顔があった。その肌には、もう酒に酔った色も、湯で上気した色もない。冷静な魔法使いの眼だ。
「……よかった。もう、勝手にのぼせちゃって。大食い勝負、勝ったのは姉さんだけど、ひょっとして無理し過ぎだった?」
 橙子は、ベッドに横たわった自分の額を優しげに撫でる青子の声に、はあと溜息をついて答える。
「すまないな。青子、まったく、姉なのに、ぜんぜん駄目で……」
 また、ひとりでに涙が溢れかけた。今日はこれで何度目だ? こんな顔、黒桐や式には、絶対見せられない。
「何言ってるのよ? 今さら。じゃ、もう寝ましょ」
 青子は笑って電気を消そうとする。青子は既に寝巻に身を包んでいたし、橙子も、浴室から運び出された後、寝巻を着せられた状態だった。
「おいおい、このまま一緒に寝るのか?」
「あら、そういう話だったでしょ。小さい頃みたいに、ねっ、お姉ちゃん」
 青子はそう言って、まだ湯上りの熱の残る柔らかな躰を押しつけて来た。橙子はもうどうにでもなれという気分のまま目を閉じる。
 数秒の沈黙のあと、青子が、ふと口を開いた。
「姉さん、姉さんの腕を信用してないわけじゃないけど、本当に大丈夫なの? 壊れてしまった魔眼封じを修理するなんて。私も無理だろうとは思ってる、でも、どうしても直さないといけないの。他に頼める人間なんていないから、無理を承知で手紙を出したんだから……」
 その声は、幼児期に戻って姉に甘える妹の声ではない、冷徹な魔法使いの声だ、自分と対等以上と認めた相手にしか、こんな語り掛け方はしないであろう口調。
 橙子は、にやりと口元に笑みを浮かべ、傍らで寝ている青子の頭を撫でて答えた。
「ああ、まさかあの魔眼封じが壊れるとはな。でも、お前があの魔眼封じをあげた相手、お前にとっては、本当に、大事な子だったんだろ。お前個人のための頼みじゃない、その子のために、姉に頭を下げて頼む手紙をくれたんだ。私は、そういうのに弱いんだよ。
 私も、式のことを――ああ、これも魔眼持ちの子だよ――どこか妹みたいに思って、心配して見守ってる、それとよく似たことを、お前もしてるって知った時は、なんだかおかしくなって笑ったよ。いや、馬鹿にする気はないけど、私たちも、やっぱり姉妹だなって。
 魔眼封じを直す方法は、手紙を受け取ってから、私なりによく考えたさ。お前は壊すしかとりえが無いが、お前も知っての通り、造る方なら私の領分だ。壊れた魔眼封じの破片さえ残ってれば、複製の技術を使って、まあなんとかできなくはない。
 もっとも、私が一番うまく複製できるのは人体――生き人形造りだが、幸い、ついこの前、私のその技術で生き返らせてやった子が、類の無い投影魔術の使い手でね、もっとも、基本的に、投影できるのは刃物だけというが、少々無理なこじつけだけれど――割れたレンズは刃物といえなくない、私の技術と、その子の魔術をうまく合わせて、遠坂の跡取り娘姉妹にも協力してもらえば、魔眼封じを元通りの形で複製することは可能だ。
 ああ、もう協力の約束はとりつけてある。先方も喜んで引き受けてくれる様子だ」
「凄いわ、姉さん……でも、遠坂の子も、よくそんな協力、引き受けてくれたわね」
 青子は本心からの驚きの口調で答える。姉の言葉は、魔法使いさえ驚かせるものだった。
「ふ、それがね、先方にも、魔眼封じを必要としてるのがいてね、まあ、一度やり方さえマスターすれば、充分な魔力量さえあれば、ひとつ複製するのも、ふたつ複製するのも、変わらないだろうからな」
 橙子の口調は、また先ほどの自己嫌悪など忘れたように楽しげだ。魔術の話になると、個人の劣等感など消えうせてしまうのか。
「でも、姉さん。本当に、ありがとう。私じゃこんなこと、できないから。まったく、志貴には、きつく言っておくわ。いったいまた、何をしてあの眼鏡を壊したのか……」
 青子は、ほっと安堵してか、姉に語りかける妹の口調に戻って答える。橙子は、暗闇の中、正面から傍らで寝ている青子に顔を近づけて言った。
「遠坂の姉妹、仲良さそうだったけど、本当は、なんか色々、あったらしいよ。でも、姉の方が身を張ってちゃんと仲直りしたって……私なんかよりずっと若いのに――それ見て、思ったんだ、ああもう、私も、そろそろ肩肘張るの、やめようかな、ってな――」
 橙子が優しげな口調でそう語ると、その唇に、青子の唇が重ねられた。暗闇の中、二人の躰が重なる。
「! ちょっと、何?」
「お礼の前渡し。残りは、魔眼封じが直ってからあげるわ」
 青子はそう言って寝返りを打ち、二人は眠りに就いた。

 ――冬木市の衛宮家に、眼鏡を掛けた長身の美女が姿を見せるようになったのと、とある事情から、一時的に眼鏡無しで不安な日々を過ごしていた三咲町の少年の許に、敬愛する「先生」から修理の済んだ眼鏡が届いたのは、それから数日後のことだった。
 さらにその後「焼肉大帝都」では、たった二人の女性客のために、一週間分の食材を使い果たす日があったといわれるが、定かではない……



(おしまい)

※はい、すみませんでした。「こんなの橙青じゃねえ!」という声が聞こえてきそうですが、一方的脳内設定です。ごめんさい。もうベタ甘。シロップかけ蜜柑。
月姫読本に載ってた青子のスリーサイズはかなり良いのですが、一方橙子はスレンダーで、というのは外見の印象からの偏見。二人の幼児期は……勝手ながら、わたしの脳内ではこんな感じとさせていただきます。それでは。








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