木陰だというのに、うだるような暑さが悠理の意識を朦朧とさせていた。
まったく風を通さないこのジャングルの中は、まるで蒸し風呂のようだ。
暑い気候にもかかわらずこの島が心地よかったのは、海風の涼しさにあったのだと、
悠理はだんだんと汗として、自分の身体の中の水分が確実に失われていくのを目の当たりにしながら思った。
りゅう・・・りゅう・・・助けて・・・
意識が完全に途切れそうになったその時、何かにぎゅっと身体を抱きしめられた。
日に焼けた肌に熱い雫が零れたような気がした。
「・・・よかった、見つかった・・・」
悠理の唯一、待ち望んでいた声だった。
その声を聞いた途端、悠理の身体が脱力した。
・・・りゅう・・やっぱり・・助けに来てくれたんだ・・・
龍之介は鬱蒼としたジャングルの中を、悠理が残していったであろう、
わずかな痕跡をも見逃さないように、一歩ずつ慎重に進んでいった。
上に羽織ったシャツが暑さでじっとりと肌に張り付く。
コテージのある海岸沿いとのこの気候の違いに、龍之介の脳裏にいやな予感が走った。
・・・悠理は水着のままだ。
この暑さの中で迷ってしまったんだとしたら、脱水症状を起こしているかもしれない。
かつて龍之介は、幼い頃に夏目に連れられて富士の樹海でキャンプをしたことがあった。
キャンプといっても、大した道具も食料も渡されないサバイバル的なものだった。
自分一人の力だけで生き抜くことを覚えたその場所で、
龍之介は、以前は人間であったと思われる“もの”をいくつも見つけた。
暑さが妙な記憶を呼び起こしてしまった。
じっとりとした汗が顔を伝いぽとりと足元に落ち、地面に沁みていった。
昔、樹海で自分が見つけた“もの”と、悠理が重なりそうになる。
・・・まさか。バカなことを考えるな・・・今は一刻も早く悠理を見つけるんだ。
いやな予感が龍之介の胸をきりきりと痛めつけ始めたその時、
大きな木の木陰で小さくうずくまる悠理の姿を見つけた。
龍之介の胸には、安堵と言うよりも触れるまでわからない、という恐怖のようなものが去来し、
悠理の前に屈むと、わずかに震える手でそっと悠理に触れた。
悠理が焦点の合わぬ視線で龍之介を見上げた。
言い知れぬ感情がこみ上げ、龍之介は悠理を思い切り抱きしめた。
「・・・よかった、見つかった・・・」
しかし、安心はしていられない。やはり、悠理は脱水症状を起こしているようだ。
はやく、涼しい場所へ連れていって、何かしらの水分を与えてやらなくてはいけない。
ジャングルを来た道を通ってコテージに戻るより、三日月型をしたこの島の湾へと出た方がいい、
そう判断し、龍之介は悠理を抱きかかえ、
来た道ではなく、この島に大きく入り込んだ湾へと向かうため、ジャングルを抜けた。
海の匂いがした。
そして、キスをされた。寝ている間に幾度となく口の中に含まされた甘い液体。
熟れたマンゴーの味。
悠理はゆっくりとその瑞々しい果肉を嚥下すると、閉じていた目を開いた。
龍之介の心配そうな顔が見えた。
その顔にそっと手を伸ばす。
「・・・りゅうう」
「悠理、まだ寝てなきゃだめじゃないか」
「もぅ大丈夫だから・・・」
悠理が龍之介の手を借りながら身体を起こすと、すでに島の太陽は沈みかけていて、
龍之介の顔は、赤い夕日に照らされてやはり心配そうに悠理を見つめていた。
「ここ・・・どこ?」
「島の湾だよ。悠理のことあまり動かさないほうがいいと思って、コテージには戻らなかったんだ」
悠理のおでこから何かが落ちた。
「これ・・・龍之介のシャツの切れ端・・・」
悠理は、龍之介が自分のシャツを裂いて海水で濡らし、自分の頭を冷やしてくれていたのだとわかった。
それをじーっと見つめていると、龍之介に顔を覗き込まれた。
「本当に・・大丈夫なのか?」
「だいじょうぶー!そんな心配そうな顔すんな・・・」
悠理が龍之介の首に両腕を回して身体を預けると、
「・・・よかった」
そんな自分に言い聞かせるような深い実感と安堵のこもった小さな呟きをもらしながら、
龍之介は悠理をぎゅっと抱きしめた。
「悠理の調子がよくなったら、コテージまで負ぶって帰ろうと思ってたんだけど、
こんなに暗くなったら海岸を歩くのは少し危ないから、今晩はここで野宿することにしよう」
「やったー!野宿っ!これこそ無人島に来たってカンジ!」
「こーら、はしゃがないの。病み上がりなんだぞ?悠理は・・・」
「もう全然へーキだもん!あっ・・・」
悠理は、わずかに俯いてふらついた。
「どーしたっ!?」
龍之介が慌てて悠理に駆け寄り身体を支えると、悠理は少しだけ困った顔で龍之介を見上げた。
「りゅう・・・おなかすいたぁ。今夜の晩御飯、やっぱりマンゴーだけ?」
龍之介は思わず脱力しかけながらも、それだけ体力の回復した悠理に安心し、やっと笑みをこぼした。
「そーかそーか、腹減ったか。そりゃ、たんまりと食わせてやんないとなー」
おどけたようにそう言うと、龍之介は悠理の髪に留めてあったヘアピンをひとつ外した。
「それ、どーすんの?」
龍之介は木の枝に丈夫な蔓を結び付け、その先にそのヘアピンをくくりつけた。
即席の釣り竿の完成だ。
「そんなんで釣れるのかー?」
「まぁ、見てなって」
半信半疑で見つめる悠理を後目に、龍之介は砂浜を歩いていた小さな蟹を捕まえてヘアピンに引っ掛けると、
湾に釣り糸(?)を勢いよく投げ入れた。
よくよく見ると、湾にはきらきらと輝く魚がたくさん泳いでいる。
しばらくゆらゆらとしていた釣り竿が急に弓を張ったようにしなりだした。
「うっそ!?マジで!?」
「うわ、これかなりの大物だな、竿が折れなきゃいいけど・・・」
数分の時間がまるで何時間のように感じた。
側で見ている悠理の方が手に汗を握るような、龍之介と魚の攻防は、
ようやく疲れて観念した魚が海岸に引き寄せられて終結を迎えた。
嬉々として魚をつかみにいった悠理が驚いたように声を上げた。
「龍之介ー!この魚、もんのすっごく真っ青だよー!?」
「おー、ホントだ。青武鯛みたいだな」
「水族館の魚みたい。こんなの食べられるのか?」
「もちろん食えるさ。まかせときな」
椰子の葉の上に乗せられた、マンゴーと一緒に焚き火で蒸し焼きにされた青武鯛もどきの魚。
真っ青な魚の中は普通の白身魚と一緒で、
何度も振り掛けられた海水の塩味とマンゴーの甘味が、魚の味を引き立てている。
「うまいーっ!すっごくうまいぞっ!」
龍之介に、熱いから気をつけろよ、と言われたものの、
冷ますひまも惜しいほどに、悠理は夢中で魚を貪った。
あっという間に大きな魚が骨だけとなる。
「ごちそうさまーっ!はーまんぷく、まんぷく!」
満足げに自分のおなかをぽんぽんとたたく悠理の様子を見て、龍之介はくすっと笑った。
「・・・何笑ってんのぉ?」
「んー?すっかり元気になったなー、と思って」
「何だよー!元気でわーるかったなー!」
「わるいなんて、一言も言ってねぇだろ・・・」
龍之介は大事なものに触るように、嬉しそうに悠理の頬にそっと触れた。
キスをされるのかと思って、悠理が少し俯くとその髪をうりうりとかき混ぜられた。
「あーもぅ!何すんだよぉ〜!」
「ふふっ・・・」
髪の毛をぐしゃぐしゃにされて、悠理が口を尖らせて龍之介を見上げた。
「・・・悠理が元気になって、本当によかった」
焚き火の明かりが龍之介を照らし、その本当に愛しい者を見つめる優しい眼差しに、
悠理は、自分がどれだけ龍之介に愛されているのかを感じた。
そして、自分もどれだけ龍之介を愛しているのかを思い知った。
悠理はたき火に枝をくべる龍之介の側に寄り添うと、小さくささやいた。
「りゅう・・・抱っこ」
「・・・ん、おいで」
悠理は龍之介の膝に乗ると、子供のようにぎゅっとその胸にしがみついた。
龍之介はその細い肩をそっと抱きしめた。
お互いの体温がゆっくりと溶けていく感じに、例えようのない安心感を覚えながら、悠理は言った。
「りゅう・・・あたいはずっと龍之介と一緒にいたいだけなんだよ。
・・・それって、我が侭なことか?」
「悠理、オレだって悠理とずっと一緒にいたいって思ってる。だけどな・・・」
龍之介は、悠理の髪を優しく撫でながら、自分の思いを伝えた。
「・・・離れている間、オレの心の中にはいつもずっと悠理がいた。それは悠理も同じだろ?
オレたち2人のうち、どちらかが居るところには、必ずオレたち2人がいるんだ。
だから、オレたちはいつだって一緒なんだよ。
・・・愛し合ってるって、多分、そういうことなんじゃないかな」
龍之介の言っていることは、きっと、心のことなんだろうと悠理は思った。
お互いにお互いの愛を信じていれば、多少の距離なんか関係ない、そういうことなんだろう。
離れていても、心は一緒・・・。
そうだね・・・そうかもしれない・・・。
夜の空に、ひときわ大きな満月が浮かんだ。
「龍之介、あのお月様、湾にくっきりと映ってて、なんかお月様がふたっついるみたいだ」
悠理の言うとおり、満月は凪で波の静かな島の湾に、美しい分身を映し、
まるで、双子のように海岸にいる二人を見つめているようだった。
「ほんとだ・・・きれいだな」
悠理は無意識に龍之介とつないでいた手を軽く握った。
龍之介が、どうした?とたずねると悠理は言った。
「龍之介・・・結婚したときにさ、誓いの言葉を言っただろ。あれって、まだ覚えてる?」
「もちろん、今でもちゃんと言えるぐらい覚えてるよ」
「じゃぁさ・・・今言ってみて」
「・・・今、か?」
「うん、あのおっきな二つのお月様の前でもう一回誓って・・・」
月の光を吸って潤んだような悠理の眸に惹きつけられながら、龍之介はゆっくりと誓いの言葉を唱えた。
「・・・千歳鶴龍之介は、剣菱悠理を妻とし、今宵この時より、良きときも悪しきときも、
豊かなるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、傍らにいるときも離れているときも、
この世に生を受け、百億の砂の中で出遭えたことを奇跡と思い、永遠にこの女を愛し続けることをここに誓います」
まだ、記憶に新しい誓いの言葉を耳元でささやかれながら、
悠理はその中に、聞き慣れぬフレーズを見つけた。
「・・・あれ?傍らにいるときも・・・ってやつ、前は無かったよね?」
「ちょっと入れてみた。いいだろ?」
「うん、今のあたいたちに合ってる。じゃ、今度はあたいの番だな。
・・・剣菱悠理は、千歳鶴龍之介を夫とし、今宵この時より、良きときも悪しきときも、
豊かなるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、
・・・傍らにいるときも離れているときも、
この世に生を受け、百億の砂の中で出遭えたことを奇跡と思い、永遠にこの男を愛し続けることをここに誓います・・・」
悠理が誓いの言葉を言いきると、再び龍之介が続けた。
「カレン島の二つの月を証人として、オレと悠理が夫と妻であることを宣言し、
ここにおいて、互いへの愛の誓いの証であるくちづけを交わします・・・」
二人はお互いを見つめ、そっと目を閉じてくちびるを重ね合わせた。
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