―御神の言葉は 前に進むなり 我らの内には 清き御霊あり 主の正義 この身に翳し 恐れなく 闇を討たん
鮮やかな夕暮れの空に、物悲しげな聖歌の合唱が響く。
城門から城下街の道を警備隊や街の人々が、項垂れて敬礼している。
領土最端の城壁門に、聖騎士団達が整列していた。
「フィルシス…」
濃紺のシスター服を纏った少女の口から、震える声音が聞こえる。
彼女は今にも泣き出しそうだ。
「必ず…必ず帰ってきてね……」
夕焼け空にそよぐ風に、淡い栗色の柔らかな髪がなびいている。
女神のような微笑みを、橙の光が照らした。
「私、いつまでも…待ってる…みんなと一緒に待ってるから…」
最後だから、悲しくても笑顔でいようとする彼女の顔を、頬を伝う涙が包む。
「ありがとう…ローナ…」
遠い遠い古…
この世界は、善を美徳とする創造神によって生み出された。
しかし、人が増え、歴史が積み重なっていくにつれ、やがて、創造神に反発する者が現われた。
自己の欲ばかりにに駆られた彼は、世界を自らが支配し、暗黒神を名乗り始める。
それに怒った創造神は、暗黒神を別次元の位相へ封印し、彼につき従った仲間もろとも、そこに閉じ込めた。
彼らには罰として、位相内の刻の流れを遅らせて永い命を与えた。永い悔恨をさせるために。
だが…
熾烈を極めたこの戦いで、創造神も力を失い、眠りに入った。
監視が緩くなり、数百年の時がたった頃…
暗黒神についた者達は次元を破る方法を見付けた。
彼らの中には、罪を悔いた者もいたが、野心を捨てきれなかった者もいたのだ。
そして次元の裂け目から創造神の世界へ侵入してしまった。
もう一度世界を手に入れようと…
未だ力の戻らぬ創造神は、せめてもの助けに、人々に聖なる武器を授けた。
その武器が発する眩しい輝きを見るだけで、暗黒神に付き従った者達を怯ませることができ、
彼らの邪悪な攻撃も、その光ではじく事ができ、彼らに対しては通常の武器より絶大な威力を発揮する聖なる剣。
そして聖騎士団が結成された。
しかし、創造神自ら作った聖なる武器は、真に汚れのない心の持ち主しか使いこなせかった。
邪な念や、憎しみや妬みに心が染まれば、その美しい輝きは生み出されない。
創造神が眠りについてから、その教えは忘れられたり、歪曲して伝わったりしてしまっていたのだ…
今、この時代にはただ一人、聖剣を使いこなせる者がいた。
聖剣の真価を引き出すことのできる者は、百年に一度現れるか否かと言われている。
―大国レンドラントの聖騎士団長、フィルシス・クロフォード
わずか十八歳にして聖騎士団をたばねる、英雄と詠われる騎士。
彼は今、旅路の途中だった。
長く続く戦争の諸悪の根源、暗黒神官を殺そうと、暗黒神側の世界の入り口へ向かう旅。
もしかすると、帰り道はないかもしれない覚悟で。
柔らかな明るい茶の髪、透き通るような青い瞳と白い肌…
その天使のような顔に、今は敵地で厳しい表情を見せているが、表情によっては、実際の年齢よりも幼く見えることもある。
フィルシスが華奢な印象を与えていることは事実だった。
騎士の割には小柄で、制服を着ていなければとても聖騎士には見えなかっただろう。
だが、数々の功績を生み出した頭脳と剣技は本物だ。
「シャーレン、今日は最低どこまで行けば良いだろうか…」
フィルシスは一緒に来た部下に向かって呟いた。
深い青の目が見返す。
シャーレンは二十年前からレンドラント国に仕えている宮廷魔術師の団長だった。
陶磁器のように白い肌の中性的な顔立ちをしている。
制服の白いローブをまとった細身の美貌は、とても三十を越えているようには見えなかった。
この国では珍しい水色の長い髪が、絹糸のように馬上で風になびく。
「城内の図書館に遺されていた文献によると、あちらの世界への入り口へは一週間かかるようです。
今日は砂漠の手前辺りまで行ければ良いでしょう」
宮廷魔術師達は日頃から聖騎士達を魔法に慣れさせるため、
少年達が騎士団に入団したての頃から彼らに魔術の特徴を教えていた。
フィルシスは戦災孤児で幼くして聖騎士団に入団したため、
その頃からシャーレンに育てられ、よく面倒をみてもらった。
だから他の同年代の騎士と違って、親のようにも思っている部分もあった。
「…うん、わかった、調べてくれてありがとう…」
いつもは騎士団長として堅実な言葉使いのフィルシスも、今はシャーレンと二人きりだったため、
つい十八歳本来のくだけた言葉に戻る。
フィルシスは一度も振り返らずに、それきり無言で馬を走らせた。
視界に映る風景の一つ一つに思い出が宿っている。
本当は、ずっとここにいたかった…
離れたくなかった…
だが、この世界を守るためにも、一刻も早く暗黒神官を倒さなければならない。
日が沈み、夜になると、夜営の場所を決めた。
「大丈夫ですか?」
心配そうに、シャーレンに尋ねられる。
先程から一言も話していない。ただ、涙をこらえるのに必死だったから。
今回は、今までの戦争とは違うのだ。これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
「…ああ」
俯いて返事をした。
顔を上げたら、泣いてしまいそう。
「本当に?」
「本当だ」
嘘だった…
出発の前に覚悟を決めたはずなのに、こんなにも怖い。
生きて帰ってこれるだろうか?
いや、刺し違えてでも、もしも、倒せなかったら…?
この世界を守りきれるだろうか…?
そんな不安に押し潰されそうな時、不意にそっと抱きしめられた。
「私は大丈夫じゃないから、しばらくこうしていても良いですか?」
穏やかで優美な笑顔。
違う、大丈夫じゃないのは自分の方だ…
それをわかって、自分から言い出せないのをわかって、慰めてくれたんだ…
「…シャーレン……っ」
我慢できなくて、押し殺した声ですすり泣いた。
胸にもたれてしがみつくと、優しく頭をなでてくれる。
「シャーレンに出逢えて良かった…」
腕の中でフィルシスはぼそっと呟いた。
「今度はいきなり、何を言うんですか」
「言えなくなる前に、言っておきたかったから…」
そっと顔を上げて、寂しく笑う。
いつも、いつも、側にいてくれた。未熟な自分を支えてくれた。
今も…
「戦う前から死ぬと決め付けてはいけません。
あなたには、待ってる人が大勢いるでしょう?」
「……うん」
”待ってるから”
泣き出しそうなのをこらえた顔が浮かんでくる。
そうだ、ローナも辛いのを堪えて、笑顔で自分を送り出してくれたのに、
肝心の自分がこんな心構えでいるわけにはいかない。
「…シャーレンはどうして、ついて来てくれたの…?
故郷の人には、言わなくていいの?」
「いいんです、別に。私もあなたに出逢えて良かったから、あなたのためにするのですよ」
「うん…ありがとう……」
愛する人を残して死にたくなかった、こんなに優しい人を死なせたくなかった。
絶対生き延びて、もう一度、みんな一緒に幸せに暮らしたい…
シャーレンの胸に顔を埋めながら、心からそう思った。
一週間後には、ついに暗黒世界への入り口へついた。
真っ黒な穴のような空間を抜けると、灰色の空が広がっていた。
昇っている太陽は、黒いもや越しに見ているようだ。
植物や生き物はうなだれて、美しいものもあるがどこかおぞましい。
建物は全て壮麗だが、恐ろしいほど漆黒の大理石からできていた。
「シャーレンがいて良かった…こんな所、一人で歩きたくない」
「こんなに黒一色の風景では、気が滅入りますね」
穏やかな口調でシャーレンが答える。
それだけで、フィルシスは幾分か安心することができた。
二人は、灰色の景色の中を木々に隠れながら、誰かに見つからないよう歩いていく。
まがまがしくも壮大な暗黒神官の神殿の前につくと、立ち止まった。
全体は闇に溶け込むような漆黒の石造り。
二本の巨大な尖塔が天に向かい、取り囲むように翼廊の小尖塔が続く、刺々しいシルエット。
柱や窓下に、蝙蝠のような翼を生やした魔物が無数に掘られている。
ステンドグラスはたくさんの種類の灰色だけが使われている。
中は見えない。
「門が、四つある……?」
「暗黒神官には四天王と呼ばれる幹部がいるそうです。
暗黒騎士団長、暗黒の幻術師、召喚術師、魔術師…」
シャーレンが、数十年前にも今の二人のように暗黒神の領域に侵入して戦った聖騎士達の遺した記録を言ってくれた。
彼らは聖剣を使えなかったため、暗黒神官を倒しきることは出来なかったようだが。
「今までの戦争を見る限り、例え四天王と呼ばれる程の強さの相手でも、
聖剣さえあれば、その光だけで十分勝てるはずです。
暗黒神官に加勢される前に、四天王を先に足止めしておきましょう」
「うん…」
確かに、今までの戦争では、聖剣の光だけで、敵は怯み、その隙を簡単につくことができた。
二人は、神殿の、暗黒騎士団長と暗黒の魔術師が警備している門から別々に潜入するために別れた。
「気をつけて、シャーレン…」
名残惜しそうに、フィルシスは声をかけた。
「あなたもですよ」
フィルシスは慎重に黒い神殿の内部を進んでいった。
人影が行く手を阻む。
たくましく、右手に髑髏の彫刻の掘られた剣を持ち、黒い甲冑に身を包んだ男。
背が高いと思っていたシャーレンよりも、長身だった。
赤い髪に、真っ黒な瞳で目つきは悪かったが、鼻筋の通った精悍な顔つきをしている。
「もしかして、あんたがレンドラントの聖騎士団長フィルシス・クロフォード?」
その男が怪訝な表情で尋ねてきた。
「そうだ」
明らかに舐められているのを感じて、フィルシスは厳しく言い返した。
「なんだ、まだ子供じゃないか。あいつにしては意外だな…確かに容姿は……」
ぶつぶつと独り言を言う暗黒騎士の言葉はよく聞こえなかったが、子供という単語だけははっきりと聞き取れた。
「俺は暗黒騎士団長のラーク・ジル・ライズ」
暗黒騎士団長…
四天王の一人だ。
フィルシスの手に緊張が走る。
「今引き返すなら、許してやるぜ?ぼうや」
しかしフィルシスは挑発に乗らず冷静に剣を構える。
「子供かどうか、試してみるか」
二人の騎士は黙って刀礼し開戦した。
フィルシスが鞘から聖剣を抜くと、暗黒騎士は怯んだ。
「本当に聖剣を持っているとは…嫌な光だ…!」
剣の腕だけだと、二人はほぼ互角だった。
だが、聖剣を持つフィルシスの方が有利ではあった。
「ふっ…見かけより遥かに強いな」
突然暗黒騎士が身をひいた。
「何より、その光が敵わん、今回は俺の負けだ」
そう言うと、フィルシスが止める間もなく、暗黒騎士はいきなり何かの名を呼んだ。
すると、額に一本角の生えた漆黒の馬が現れる。
彼はそれに乗って、神殿の外に去っていった。
後で不意打ちされるかもしれないと思ったが、
暗黒神官の部下のはずなのに、何故かそんなことをするような感じではないような気もした。
どちらにしろ、もう追いかけようもないので、奥に進むしかなかった。
次に出てきたのは血のような赤い眼を持つ白銀の狼だった。
「この先に行かせるわけには行かん、聖騎士。ここが貴様の墓場となるのだ!」
鋭い牙と爪、俊敏な動きのこの獣も、手強かったが、なんとか勝った。
フィルシスは暗く高い神殿の廊下を、十分用心して進んだが、その後は何も出てこなかった。
罠かもしれないと思ったが、先に進むしかなかった。
神殿の祭壇らしき場所に出た。
威圧するように立ち並ぶ黒檀のような石柱にも、魔物の彫刻が神殿の主を守護するように飾られていた。
高々と見上げる身廊の中心、大きな黒い水晶の中に、封じられた暗黒神が眠っている。
その水晶の下、祭壇の真ん中に、立派な体躯で漆黒の法衣に身をつつんだ人物がいた。
聖騎士の純白の制服を着込んでも、小柄で華奢に見えるフィルシスとは正反対だった。
肩につく手前で切り揃えた髪も、こちらを侮るように見ている瞳も、漆黒だった。
邪悪な笑みを見せたその顔は、長い時を過ごしてきたはずなのに全く老いてはいないが、
年月を重ねてきたように思わせる威厳に満ちていた。
他には誰もいなかった。
シャーレンは無事なのだろうか…
まさか…死んでしまったのだろうか…。
「暗黒神官…?」
フィルシスが我知らずつぶやく。
「そうだ、ようこそレンドラントの聖騎士」
次の瞬間、二人の戦いが始まった。
暗黒神官は、暗黒騎士よりも遥かに手強かった。
なにせ彼のすぐ後ろには、封印された暗黒神の体があるのだから。
彼の神への闇の祈祷で、闇の力があふれ出す。
幻術や暗黒魔法を駆使して襲ってくる。
―それでも、勝たなければならない…。
例え命を犠牲にしてでも、守りたかった。
大好きな故郷。
温かい太陽、澄んだ空、そよ風に揺らぐ緑の木々。
その中で、一生懸命生きる人達。
楽しそうに笑ったり、時にはくじけたり、立ち上がれないほど悲しい時も、支えあえる。
そんな人達の姿が、とてもとても好きだった。
そして、殺された両親、聖騎士団の仲間や今まで死んだ仲間のためにも負けるわけにはいかなかった。
その想いがフィルシスの聖剣を輝かせ、暗黒神官の闇の力を打ち破っていく。
熾烈を極める争いの中、不意に暗黒神官の動きが止まった。
肩で大きく息をつくような姿勢…まるで力を使い果たしたように。
それが、床に膝をついた。
勝ったのか…?
フィルシスが疑いながらも、そう思った瞬間、後ろから、何かが突き刺さった。
「ぐっ…!?」
漆黒の錫杖が、フィルシスの胸を貫いていた。
暗黒神官が投げつけたのだった。
胸から血があふれ出す。
フィルシスの前に倒れた暗黒神官は幻影だった。
「くくく…!油断したな聖騎士団長!これで暗黒神様は…」
霞む視界に、騎士団の皆や、国民達の顔が浮かんでくる。
最後の力を振り絞ったフィルシスの聖剣の刃が、暗黒神官の目をくらませる。
「うぐ…!」
瞬間、その刃を胸に突き刺さした。
輝く光が、漆黒の衣を裂いた。
そのまま左胸を貫き、鮮血が激しく散る。
「ぐああぁ……!」
暗黒神官の悲鳴が、神殿に響いた。
最期の力で、致命傷を負わせることができた。
「これで…終わりだ……」
胸から流れる血が止まらない。
同様に致命傷。
相打ちだ。
ごめんね、ローナ…
もう一度、会いたかった…
大好きだったあの笑顔を、泣かせてしまう…
癒えない傷を、心に残してしまう…
本当にごめんね…
わかってる、自分を犠牲にして、世界を救うことが、必ずしも立派なことではないと。
大切な君を、悲しみに染めてしまう。
ごめんね、シャーレン…
一緒に帰れそうにない…
今まで戦で何度も無茶をして、その度に叱られた。
そして最後に、無事で良かったと、抱きしめてくれる…
きっとまた、怒るだろうな…
独りで迎える最期は、こんなにも切なくて、無性に側にいて欲しくなる。
幼い頃、両親が殺された時の夢を見て、怖くて眠れなかった夜に、頭をなでてくれたように…
「これで終わりではない…暗黒神様は甦る…」
淀んでいく意識が、その声で、再び目覚めた。
「絶対に、させない…!」
力の抜けていく手に、再び聖剣を握りしめた。
だが、暗黒神官の方も、死ぬ前に暗黒神を甦らせようとしているのだ。
その前に、なんとしてでも倒さなければ。
「お前は、暗黒神様が…どうすれば復活するか…知っているか…」
不意に、暗黒神官が問いかけてくる。底知れない笑みを浮かべて。
「…どういう……」
もう動くことさえままならない状態で、聖剣の切っ先を向けられているというのに、
全く失望する気配のない暗黒神官を見て、フィルシスの胸に得体の知れない不安が生まれた。
「暗黒神様の宿敵……
聖剣を使える者の死が…仇敵の生贄が…
その憎き清らかな魂の供物こそが…封印を解く鍵だ!」
「な…っ!」
動揺の余り、フィルシスは叫んだ。
深手を負った胸が苦しくなって、すぐに咳き込む。
「…絶対に…死ぬものか…!」
大変な誤算。
自分のせいで、故郷を壊してしまうことになる。
「お前は死ぬ」
青ざめたフィルシスの表情を見て、暗黒神官は不敵な笑みを浮かべた。
「お前の仲間には裏切り者がいるのだから…」
失血のせいで、倒れこみながら暗黒神官が告げた。
話すのも苦しそうだが、声は笑っていた。
フィルシスの後ろをみて微笑む。
「何…?」
大量に失血して、同じく床に座り込んだフィルシスが問う。
一瞬、言葉が理解できなかった。
「私が死んでも暗黒神様さえ甦れば、私も再び甦る…」
声が小さくなっていく。
不吉な言葉を残して、今にも消えそうに。
「私が死んでも、お前に止めを刺すのは……」
言いながら、暗黒神官は恐ろしい形相で絶命していった。
―お前の仲間には…
死に際のその言葉が、ゆっくりと胸を浸食していく。
―私が死んでもお前に止めを刺すのは…
裏切り者…
「本当に暗黒神官を倒すなんてね」
後ろから声がした。
とてもよく知っている声。
はっとして振り向くと、視界に入る。
神官の部下の魔術師がよく纏う、漆黒のローブ。
「…シャーレン……!」
白いローブではなくて。
「まさか…シャーレンが…四天王の一人…暗黒の魔術師…」
フィルシスの顔が青ざめた。
厳しく見えていた顔が、泣き出しそうな子供の顔になる。
信じられなかった。
いや、信じたくはなかった。
自分が一番長く一緒に時を過ごした人が、親のように思っていた人が、一番信頼していた人が、裏切り者だったことを。
「そうですよ、フィルシス様」
近づいて、上官の背に刺さる錫杖を抜く。
「うっ…!」
シャーレンは、血を流し倒れたフィルシスを抱きとめて、床に下ろした。
「どうして…どうして……!」
フィルシスの目じりに涙がにじみだす。
痛みのせいではなく。
「暗黒神官は私に言いました」
淡々とシャーレンが語り始める。
「聖なる武器を使える純粋な魂の持ち主を、こちらの世界につれてこいと。
こちらの世界で善なる魂が消えると、暗黒神を封印する結界に影響し、封印を解くことができるからです」
フィルシスは先程の暗黒神官の言葉と、シャーレンの提案を思い出した。
「だから…私を…自然にこっちに来させるように…あの提案を…」
絞りだした声が震えた。
―聖剣を使えるなら、これ以上侵略が酷くなる前に、一刻も早くこちらから乗り込んで、暗黒神官を倒してしまおう
国のためを思ってくれたのではなかったのか。
「そうですよ」
彫刻のように整った顔に、シャーレンが冷酷な微笑みを浮かべた。
あんなに何度も、自分に優しく微笑みかけてくれたのが嘘のように。
フィルシスの心は砕けた。
もう何も聞きたくなかった。
せめて真実を知ることなく、シャーレンを信頼したまま死にたかった。
でもこんなことを聞かされては、ここで死ぬわけにはいかない。
「そんな……」
なのに、確実に自分の死を感じた。
血を失いすぎている…。
かすむ目から涙が流れた。とめどなく。
シャーレンに大きな憎しみと、それと同じぐらい大きい愛を感じながら、声を振り絞った。
初めて出逢った時の事、二人で過ごした日々の事、共に戦った事、温かな励ましをくれた事…
今までの思い出が出てきては崩れていく。
「どうして…シャーレンなら…話し合い…でも…解決できたはずなのに…」
確かに正体を明かすのは、賭けとも言える程、危険だったかもしれない。
それでも、せめて自分にだけは、信頼して、相談でもしてくれていたら…
暗黒神官を殺すようなことにはならなかったかもしれない。
「私は暗黒神官は蘇らせはしない」
嘲る様な口調。
まさか、シャーレンの真意は…
「あんなに優しくして…色々なこと…教えて…それは全部……
いつか、ここに、連れてきて……暗黒神官も始末して、自分がここを…支配する…つもりか……」
「間違ってますよ、フィルシス様」
闇の魔術師は微笑むと、血だまりの中で倒れている上官を抱き上げた。
子供の頃から育て、教え、ずっと見てきたフィルシスを。
愛しそうな眼差しで見て。
「私は世界征服なんてどうでも良いのです」
不意に、シャーレンは膝の上のフィルシスの頭をなでた。
びくりと、フィルシスの体が強張る。
「私はいつも思っていたのですよ。あなたを私だけのものにしたいとね!
善人の演技なんてする必要のないこの世界で」
「な…に…」
そう言って、シャーレンが呪文を唱えると、目の前に白い獣が現れた。
それは先ほどフィルシスが倒した白銀の狼だった。
「これは私の幻獣。あなたが倒してしまったけどね。
彼の体と命をあなたに合成させましょう。あなたは人間ではなくなってしまいますけど。
そして、幻獣がそうであったように、あなたは私に逆らえなくなる」
宮廷魔術師団の純白のローブを着て、穏やかに微笑んだ時のシャーレンは、誠実で優しく見えたが、
漆黒のローブを纏って、意地悪く微笑む今は、妖艶だった。
切れ長の目がじっとこちらを眺める。
「なに……っ!」
自分の家族を殺したものと、仲間を殺したものと、自分が今まで敵として戦ってきたものと、
同じになってしまわなければならないというのか。
「そう、これからは、闇から生まれる永遠の命で生きるんですよ」
「そんな…嫌だ…やめろ……!」
「ふーん……いいのですか?
あなたがこちら側で死ねば、暗黒神は甦ります。
でもあなたがこっちの世界で生きれば、逆に封印は強くなり、裂けた次元もなくなるでしょう」
「……」
そう言われると、頭に、恋人のローナや、聖騎士団の部下達を始め、故郷のみんなの顔が浮かぶ。
薄れていく意識の中、止まらない涙を流して、シャーレンが唱える魔法を聞いた。
聞いたことのない暗黒の魔術の呪文を。
魔物と融合させられるなど、そんなにおぞましい魔術をシャーレンが使うことが悲しかった。
本当に、四天王だったのだ。
今度はシャーレンと戦うことになるかもしれない。
それは当然ではないか、ずっと自分をだましていたのだから、創造神の敵だったのだから。
でも…
自分にはできるのだろうか、ずっと慕ってきたシャーレンを殺すことが。
今こんなに憎みながらも、まだ思い出の中のシャーレンの笑顔を拭いきれずにいる自分が。
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