「もう九時ですよ」
寝顔をしばらく眺めた後、すぐ隣で寝ているフィルシスを起こした。
普通なら聖騎士も暗黒騎士もとっくに起きている時間だ。
「まだやだ…」
少し寝呆けているのか、懐くようにきゅっと擦り寄ってきてまた目を閉じた。
「ほら、ラークに話があるんでしょう?」
そのまま動かない頭を、白い耳を、しばらくなでた後促した。
少しの沈黙の後、何か思い立ったような声が聞いた。
「……怒るかな」
弱々しい、聞き逃してしまいそうな声だった。
「どうして?」
「あの霊が言ってた、自分を殺したのは先代の…団長だって」
いつも言いあいばかりしているのに、心配しているフィルシスの様子を見て、シャーレンは苦笑した。
「ラークが仇とかはお互い様だから、もう気にしないって言ってたんですから、大丈夫ですよ」
白い騎士の制服に着替えて部屋を出た。
すでに暗黒騎士は起きていて、訓練場からの声が聞き取れた。
もう戦争は終わったけれど、まだ戦闘練習を止めるわけではないようだ。
「暗黒騎士の任務は戦に行くだけじゃない。こっちの世界にだって獰猛な獣はいるし、魔物もたくさんいるからな」
客室の隣にある団長室にいたラークがそう言った。
その、各地区の魔物の被害状況の調査報告をまとめていたようだ。
机の前で図面を眺める姿を見て、少しだけ感心したけれど、似合っていなかった。
「で、もう帰るのか?シャーレンは?」
「もう少し寝てるって…」
本当はあの頼みごともシャーレンに言って欲しかった。
「シャーレンが?珍しいな…あいつはいつ見ても起きてて、人の寝言を聞いてるような嫌なやつだぞ」
「え…!」
この世界に来て、今まで自分が見た夢を思い出した。
昔の思い出の夢や、あの全てが崩れた恐ろしい瞬間の夢ばかり見た。
夢の中で、何度もシャーレンの名前を呼んだこともあった。
自分は寝言を言っているのだろうか…。
毎日シャーレンと同じベッドで寝ているのに。
「…もしかして、昨日、夜遅くまで何かしていたのか?お前は酔ってたしなぁ…?」
夢の記憶から、楽しそうな声で現実に引き戻された。
「違う!」
あの夜を事細かに説明するなんて恥ずかしくてできない。
でも何か言わなければ、ラークが思っているようなことで納得される。
仕方なく、フィルシスは心を決めた。
「昨日の夜は…暗黒騎士の先代団長の霊に伝言を頼まれた…」
恐る恐る声に出す。
不審そうな声が返ってきた。
「…お前、まだ酔ってるのか?大丈夫か?俺が悪かったよ」
こっちはこんなに決心してまで言ったというのに。
でもあれは夢ではない、確実に。
「嘘じゃない、召喚術師に気をつけろって、お前に言えって言われたんだ」
゛召喚術師゛と言うと、さすがに真剣な目になった。
「…本当か」
少し考えるように下を向いて、呟いた。
赤い髪が揺れた。
「私がお前にそんな気の利いた嘘をつくと思うのか」
「それもそうだが、そんなにはっきり言うことないだろ。
でも…そうか、団長が…」
ラークが今まで見たことないような穏やかな微笑を浮かべた。
昨日、あの霊が最後に見せた眼差しを、どこで見たのか思い出した。
遠い昔に、本当の父親が自分に見せたもの。
「お前は…お前は恨んでないのか…私のこと…」
切なくて悔いるような声が出た。
短かったのか長かったのかわからない間、部屋が静寂に包まれた。
「……最初は」
沈黙を破って、ラークは下を向いたまま呟いた。
「…最初はもちろん恨んでいた」
最初はただ、面白そうだから興味があっただけ。
大切なもののためにどこまで耐えられるのか、冷酷な悦びを抱いていた。
簡単に死ぬよりも、生きていく方が辛いのだ。
すぐに折れると思っていた。
「でも…」
顔をあげて、濁りのない黒の瞳でフィルシスを見た。
幼さの残る顔、線の細い体、そんな彼に宿る強さを。
「でもお前が馬鹿すぎて、いつの間にか忘れていた」
「…どういう意味だ」
「そのままの意味だよ、馬鹿は馬鹿だ」
少し笑って呟いた。
だって馬鹿じゃないか。
自分だけが不幸な目にあうのを覚悟の上で、誰かを助けた。
殺されかけても、その相手を殺さずに許した。
例え憎い相手でも、困っていれば、その憎しみをすぐに忘れて手を差し伸べようとした。
今だって、自分も仲間を殺されて哀しいはずなのに、何故その殺した相手のことを気にかけられる。
ただの偽善者なら、折れるまで潰れるまで、打ちのめしたかもしれない。
しかしそうではなかった。
「それに、こういうとこが、馬鹿なんだよ」
油断していたのだろう。
一瞬反応が遅れて、細い腕を容易くつかめた。
自分が何もしないと、信用していたのか?
昨日の夜も同じようなことをしたのに。
「…嫌だ…!」
つかまれた腕を振り切ろうと、フィルシスは身をよじって暴れた。
でも単純な力勝負で自分が負けるわけがない。
「好きな男以外には抱かれたくないって?」
ラークはフィルシスの腕をつかんだままささやいた。
「違う…別に好きじゃない…」
「誰を別に好きじゃないんだよ?俺はまだ何も言ってないぞ」
的外れなフィルシスの返答に苦笑して、からかった。
放してやると、赤い目に睨まれた。
「お前って、思っていたよりも単純なんだな。」
「本当に別に好きじゃない…。シャーレンは…私のことなんかどうでもいいんだ…」
目を逸らして、ぼそっと言った。少し哀しそうに。
そんなに気にしている時点で好きだと言ってるみたいなものだと、何故気付かないんだ。
「何でそう思うんだ。あいつは世界を手に入れられたかもしれないのに、それを捨ててまでお前を助けたんだ。
そんなことまでするのは、好きだからだろ?」
「でも、ひどいことばかりするんだ…」
フィルシスは何度も無理矢理犯されたことを思い出した。それでも感じる自分を思い出した。
自分は好きな人なら、その人に好かれているのなら、何をされても受け入れてしまうのだろうか…
「そうだな、あいつは確かにちょっと変ってるけどな。
自分はお前しか抱きたくないけど、お前が他のやつに抱かれてよがるのを見るのは楽しいと言っていたからな」
例えそれでも最後に帰ってくるのは自分の所だと言って。
その時とても嬉しそうに話していたシャーレンを思い出しながら、ラークはフィルシスに説明した。
「………ちょっと?」
「まあ、世の中はお前みたいに、好きな人には誰よりも優しくするってそんな単純なやつばっかじゃないんだよ。
お子様にはわからない、大人の愛の駆け引きってのがあるんだよ、多分」
「誰がお子様だ…!それに多分って何だよ」
そう言い返しながらも、フィルシスは頭に色々な物語が浮かんだ。
昔、レンドラントの宮廷の図書室で読んだ古典劇、暗い愛の物語…。
無垢な王女が堅実な聖者に恋をしたが彼は王女に振り向きすらしなくて、
でもどうしても彼が欲しかった彼女は父王に頼んで聖者を死罪にし、その生首に口付ける話…
美しい乙女に恋をした神が、逃げ惑う乙女を葦に変えて、その葦で笛を作って永遠に持ち続ける話…
好きな男を魔法で作った茨の中に永遠に閉じ込める魔女の話…。
今でもわからない…好きな人に何故そんなことをするのか。
多分ラークの言うような大人になってもわからない。
「でもお前、知らないだろ?」
「何を…」
「お前が俺と戦った時、シャーレンはイグデュールと戦っていたんだぞ、お前を殺させないために。
お前がここに潜入する前だって頼まれたんだ、シャーレンに。お前を殺すなって」
「お前は…それで良かったのか、シャーレンの頼みが…」
「俺は、信者に何も与えてくれなかった神より、親友をとっただけさ」
「そんなにシャーレンと長く付き合ってるなら…」
昨日の霊のもう一つの言葉を思い出した。
「何だよ、やきもちか?」
「そういう意味じゃない!最後まで聞け!」
「はいはい、わかったよ。何だ?」
「…シャーレンには…恋人がいるんじゃないのか…」
何でこんなことを相談しているんだろうと思ったが、何故か気になった。
「いや、いないぞ。お前に会うまでは。
だいたい、あいつ、俺としか自分から話そうとしなかったし。
あいつを好きだという女は何人かいたがな。シャーレンがそう言ったのか?」
「違う、あの団長の霊が…リュシアンという人の失踪がハウゼンという人のせいだって言って、
その時シャーレンが悲しそうな顔をしたんだ。」
しばらく黙って、我慢できないという風に、ラークがふきだした。
「はは、お前って、本当に面白いな。
その女とシャーレンが愛し合っているなら、俺はお前の家来になってもいいぜ」
そこまで言い切るラークの言葉に少し安心した。
それで自分の気持ちが何故安心するかは、目を背けていたかった。
二人一緒に団長室を出て客室に戻ると、シャーレンはもう起きていた。
「やっとお前の寝言を聞けると思ったのに」
ラークが残念そうに冗談を言った。
「ラークが文無しになる夢でも見ようか。どんな寝言になるかな」
「お前はそういうやつだよな」
騎士団の宿舎の正門までラークは送りにきた。
「馬、貸してもいいんだぞ」
「別にいいさ、そんなにたいした距離じゃないし」
「そうか、じゃあ、またな、二人とも。
まあ、頑張れよ」
フィルシスの肩を叩くと、ラークは宿舎の方に戻って行った。
「何でそんなに後ろから来るんですか」
少し離れて歩いているフィルシスに振り向いて、シャーレンが聞いた。
「別に…」
さっきからずっと離れて歩いていた。
暗黒騎士に見られるのが恥ずかしい。
宿舎を横切る時はもちろん、今もまだ遠くからこっちを見ている騎士もいる。
見せ付けているようなものだ、自分はシャーレンだけのものと。
こんな姿にされて。こんな首輪をつけられて。
胸が締め付けられる。
隷属させられることの屈辱に。
なのに、気づいてしまった…
独占されることの歓びに…
本当はずっとわかっていた。
自分がまだシャーレンを好きでいることを。
神殿でゲートを壊した時も…イグデュールに幻術を見せられた時も…
あの霊にたずねられた時も…ラークに言った時も…
ただ、認めるのが悔しかった。恐ろしかった。
あんなに何度もひどいことをされて、それでもシャーレンを好きでいる自分が。
あんなにひどいことをするシャーレンが、もしも自分を嫌いだったらと。
そして、無理矢理犯されても、感じる自分を。
でも、故郷にいた時と同じように、シャーレンがまだ自分に使う敬語が、
もう失われた昔の自分を思い出して辛いけれど、それでも昔と同じ何かにすがっていれた。
あの日々がただの過去になって、時間に埋もれて忘れられていくだけの過去にならないように、
失ったものの胸を刺すような寂しさを埋めるように。
ただ、忘れたくなかった。忘れてほしくなかった。あの時を。
この世界で同じ想い出を持つただ一人の人だから。
たった二人でも覚えていればあの過去は消えないから、きっと。
シャーレンにとっては演技だったのかもしれないけれど…
あの日、これから独りで歩くと思ってた。
でもいつも側にいてくれた。
これからも二人でどこかに歩いて行ける。
それだけは変わらなかった。
昔、二人で故郷の街を歩いたように、異国を旅したように、
あの日、二人で暗黒の世界に向かったように。
戦争でたくさんの人が死んだ。
自分の家族も、国の人も。
団長も、自分の部下も死に、暗黒神官もヴァインの友人も死んだ。
死を哀しんでくれる誰かがいて、生きたくても生きれなかった人たちがいる。
生殺与奪の上に成り立ってきた人生で、聖騎士としての誇りのために、魔物としての生を忌み嫌ったこの胸に、
ただシャーレンが自分を死なせないように立ち回っていた事実だけが染み渡る。
急速にあの腕の中が恋しくなった。
騎士団の宿舎が豆粒のようになった頃、結局足を踏み出してシャーレンの背に駆け寄った。
前を歩くローブの色、闇に赴く。
憎しみも、哀しみも…愛しさも…、その暗黒の魔術師に向かう自分の心と一緒に。
追いついた瞬間、シャーレンが立ち止まってこちらを向いた。
「今頃隣に来るんですか?
私はもっと見せつけたかったんですけどね。暗黒騎士達に、あなたは私の奴隷だということ」
「そんなの…やだ……」
意地悪な言葉に弱弱しい抗いを返す。
だが、甘えるように、服の裾をそっと握ってしがみついていた。
生きてるから、また手を繋げられる。
「家まで待てないんですか?」
抱きしめられて耳元に口づけられる。
「だって、あなたを幸せにできるのは私だけ」
「ずるいよ…」
そんなことを言われても、もう離れられるわけ無いじゃないか。
他にどうしようもないじゃないか。
一人ではいられない、こんな体にしておいて。
やさしくして、ひどくして、こんなに心をかき乱しておいて。
「でも、私を幸せにできるのもあなただけだ」
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