フィルシスが何気なく、後ろを振り替えると、暗黒騎士団の宿舎に明かりがつき始めていた。
煙も昇り始めていた。
きっと、夕食や入浴の準備が始まったのだろう。
聖騎士団でも、そうだったように。
羨ましく思わずにはいられない。
来る時に見た、暗黒騎士達の訓練の様子や、楽しく笑いあう様子が。
自分には、もうできない。
今頃、故郷の聖騎士団はどうしているだろう。
ローナは、城や街のみんなは無事に過ごしているだろうか。
過ぎていく風景に、ひっそり佇む暗黒神官の神殿が見えた。
幾月も前、この世界で、自分が初めて足を踏み入れた場所…
一人でただ何事もなく歩いていると、気付けばあの時のことを思い出していた。
出立の前日、優しい陽が落ちてくる頃に、敬愛していた先代騎士団長と、
幸せだった家族の墓で、最後の別れを告げた。
橙から茜、そして青紫へ…
夕暮れに向かっていく空の色が、これからの運命を暗示するようだった。
それでもやらなければならなかった…。
墓地から一歩踏み出して、もう見ることはないかもしれない街を歩いた。
涙の止まらない街の女性達に抱擁されて、
口を結んで涙をこらえる男の住民達と、堅く握手をした。
暗くなり始めた空間に、ぽつぽつと灯り始めるあたたかい明かり…
城下街にこだます夕食の用意の音…
母親が子供を呼ぶ声…
家族の談笑…
肩を寄せる恋人達…
大切な日常を、失わせたくなかった。
城に戻って、聖騎士団の仲間と、最後の晩餐を取った。
その夜、涙を流して眺めた美しい街の夜景は、愛した故郷の風景は、今も忘れない。
一生涯忘れない。
旅立つ日の朝、昇ってくる眩しい朝陽の元、神の祝福が如き光があふれた。
”御神の言葉は 前に進むなり 我らの内には 清き御霊あり
主の正義 この身に翳し 恐れなく 闇を討たん”
教会から聖歌隊の歌声が聞こえる中、ローナと最初で最後のキスをした。
「フィルシス…どうか…無事に…」
帰ってきてと、小さく呟いても、わかってたのだろう、彼女にも。
二人とも涙をこらえた。
これが最後に見ることになる顔を、笑顔にしておきたかった。
美しい聖歌の合唱と、声を殺した泣き声の中、白馬に乗って、街を通り過ぎた。
国の門に集まった、教皇様や、聖騎士団や、他国の大使達に、今生の別れを告げる。
きっともう二度と踏み入れることはないと、その時わかっていた故郷を後にした。
シャーレンと一緒に。
朝の光が舞い降りて、緑の木々に抱かれて、小鳥達のさえずりが包む美しい国…
決して思ってはいけないことだけれど…
心の奥底で、本当はもう、戦争が続いてもいいから、ここにずっといたいと思ってしまっていた。
たくさんの思い出の眠るあの地に。
本当にこれから死にに行くのだと、思っていた。
それでも自分にしかできないこの力で、大切なものを守りたかった…。
大切な人達に、幸せになって欲しかった。
シャーレンがいて良かった…
この地に足を踏み入れて、あの時言ったことを今も思うのに。
側にいてほしい…。
自分がそういう風に思うことを知ってるくせに。
放っていって、自分だって後で抱きしめにくるくせに。
なんて幼稚なんだ。
そして、そこまでする程、愛されているんだと、納得しそうな自分も、単純だ。
ため息をつきながら、そんなことを考えていると、目の前に何かが着地した。
ぎくっとして、思わず立ち止まった。
そこにいたのは、黒い虎の幻獣に乗っている幻術師…
「イグデュール…」
あの気味の悪い森や、恐ろしい幻覚のことを思い出して、フィルシスは厳しい表情を見せた。
無意識の内に、帯剣している柄の方に手を動かしていた。
今持っているのは聖剣ではないから、どこまで通用するかわからないが、仕方ない。
「何もしないよ」
イグデュールがまたがっていた虎から降りた。
「いい事を教えてあげようか?」
一歩、フィルシスに歩み寄る。
「いい事…?」
警戒したまま、聞き返した。
「君はゲートを壊したんだよね」
フィルシスは黙って頷いた。
「君が壊したのは偽物だ」
「な…っ」
思わず驚いて、言葉につまった。
「僕も最初は気付かなかった。
それ程精巧な偽物を誰がどうやって作ったか知らないが、とにかく、本当のゲートはまだあるってことだよ」
「どうして…そんなこと、教えるんだ…」
ゲートを使いこなせるほどの力を持っているのは、暗黒神官だけだと聞いたが、
まだ、本物が存在するなら、もう一度、向こうの世界を攻めることができる可能性があるのに。
シャーレンやラークと違って、イグデュールはそれを望んでいるはずだ。
「シャーレンにも暗黒騎士にも、誰にも言ってない、僕しか知らない」
また一歩、イグデュールが近づいた。
手をのばせば届く程。
「今の僕には神官様程のようにゲートを使いこなせる力はないけれど、
いつかもう一度、開いて君の世界に連れていってあげるから…
僕はそんな首輪をつけたり、犯したり、君が嫌がることは絶対にしないから…」
頼むように、優しく言い聞かせられる。
意外な言葉にフィルシスは戸惑った。
「……一緒に来て…」
少しの間を置いて、言い放たれた。
「……!」
驚いて、フィルシスはすぐには何も答えられなかった。
「どうして君は…そんなに私がいいんだ…?」
しばらくの沈黙の後、それだけ聞き返した。
「僕は君の優しさが好きだ…」
ぽつりぽつりと、イグデュールは話を続けた。
「幻獣との契約だって、シャーレンが弱っている時なら奪い取れる…
君が聖剣を使えばできるでしょ?だから早く…あの人が来る前に…」
一瞬、あの人、という呼び名が気になったが、フィルシスはそこで話を切った。
確かに、恨まれるよりは、好かれる方が良かったが、そんなこと、できるわけない。
「…別に君が好きだから、あの時、殺さなかったわけじゃないんだ…」
この間、シャーレンが言っていた、イグデュールのことを思い出した。
トラウマを持っている彼に、安らぎを与えることができても、
自分には、好きだった人を、いきなり嫌いになれないのと同じように、
誰かにいきなり好きになって欲しいと言われて、好きになれるものではない。
「あんな幻術を見せたこと、怒ってる…?」
それでもイグデュールは話を続けた。
「僕の幻術は何でも見せることができるんだ。
君に初めて見せた幻術は、見る人の最も恐れていることを映し出すものだったけれど、
いつでも見せてあげられる、幸せだった頃の光景を」
フィルシスが止める間もなく、イグデュールがそう言って、手を振りかざすと、
目の前に、先程思い返していたレンドラント国の風景が広がった。
「……!」
白い石造りの街並み、王城の尖塔、大聖堂に掲げられた十字架…
夢にまで見た故郷の風景だった。
本当は例え戦乱の時代のままでも、この国にいたかった。
飲み込まれてしまいそうな鮮明な幻覚が、現実を浸食していった。
その風景の中で、気が付けば、街を歩いていた。
大広間の噴水の泉に映った自分の姿を見た時、人間の姿に戻っていることに気付いた。
幻術だということも忘れ、あちこちから、人々の談笑が聞こえる中、懐かしさにあたりを見回しながら歩いた。
「まあ、聖騎士様、お元気ですか?」
目が合うと、会釈を返す婦人達、小さな手を大きく振る子供たち…。
教会の前に着いた。
美しい花壇の中に、恋人が立っていた。
「ローナ…」
きれいな手に触れるとあたたかかった。
「見て、フィルシス、新しい花を植えたの」
幸せそうに、可愛く笑う彼女の視線の先には、満開の花が咲き乱れていた。
「フィルシスに、贈るね」
魅力的な笑顔、愛らしい瞳。
「ありがとう…」
きれいな花を受け取って、城に戻った。
自室の花瓶に飾った。
窓からあふれる光に照らされて美しい。
聖騎士団の仲間に会いに行こうと、廊下に出た。
そこで、誰か前から歩いてきた。
「シャーレン…」
「ここにいたのですか?」
整った顔立ちに、優しい微笑を見せてくれた。
白い宮廷魔術師の制服を着て…
不意に、幻と現実が混ざった。
「皆が探していましたよ、訓練場で待っています」
抱き寄せて犯そうとしない。
「シャーレンに、会いたいよ…」
城の中では抱きしめてなでてくれない。
「何を言っているのですか?ここにいるでしょう?」
優しく笑う、白い制服のシャーレンが、揺らめいた。
「本物の、シャーレンにだよ…」
幻覚が薄れていった。
夢から醒めるように、色の無い世界に戻っていた。
あんなに動き回っていたけれど、現実ではただ一歩も動かず、立っていただけだった。
「幻術がいらないの?幸せじゃなかったの?」
フィルシスが自力で幻覚を破ったことに、イグデュールは驚いた。
「確かに、あの時は幸せだった…」
いつも楽しみにしていた。
訓練の合間の休憩時間にローナに会うことを。
稽古の後、みんなで食事する時間を。
「でも、今のは幻だ…」
大好きだった故郷の幻を見て、滲みそうになった涙をこらえながら、強く言った。
「…そんなにシャーレンが好きか。君は最初、創造神に仕えるって、言っていたのに」
必死な言葉が、心を抉った。
そうだ、あの時は、自分が信頼していた人が、親のように思っていた人が、
第一に信仰していた神の敵だったのが、哀しくてどうしようもなかった。
それでも自分には、側にいてくれる人が、シャーレンしかいなかった…。
それだけが、今と昔で、ずっと同じ、たった一つのことで、こんなにも大切なことはなかった…。
そして、シャーレンが自分をそんな風にした…。
「本当に好き?一人になるのが怖い?他に愛してくれる人がいないからでしょう?」
すがるようなイグデュールに、フィルシスはどこか物哀しげに微笑んだ。
「君は出会えなかったんだな…
同じ思い出を持っていられる人に、昔から見知っているような友人達に」
辛かった、暗黒騎士達が楽しそうに話しているのを見るのが。
自分はもう、そんな聖騎士の仲間には二度と会えないから。
今は故郷の世界と断絶されてしまったけれど、昔と変わらないものが一つでも、あってほしかった。
何かを懐かしく思い出した時に、確かにそれが存在したことを、もう一度確かめられるように。
どんなに時が流れても、みんなと…ローナと…シャーレンと…
一緒に過ごしたあの日々が、確かに真実だったと、思い返せるから。
「……そうだよ僕は、昔から誰もいなかった…」
しばしの沈黙の後、苦しそうに、イグデュールが呟いた。
「両親は僕を暗黒神への生贄にして殺そうとした。
僕は、シャーレンよりも、暗黒騎士よりももっと年上だけど、
ずっと若い外見をしているのは、そのトラウマのせいだよ」
確かに彼は、身長も、自分より少し高い程度で、20を越えていないような姿をしている。
「だから、幻でもいいから…誰かいてほしかった…」
イグデュールの声が小さくなった。
「こんなことを、言ったのも君が初めてだ…君ならきっと、聞いてくれるからなんだけどね」
以前もシャーレンに聞いた過酷な境遇に、フィルシスはもう一度、胸を痛めた。
「…一緒には行けないけど、友達にならなれるから…」
そう言って、崩れ落ちそうなイグデュールの手を取った。
「…友達…」
初めて持ちかけられた言葉に、イグデュールははっと顔をあげた。
しかしその嬉しさも、フィルシスの背後を見て、どこかに消えた。
見てはいけないものを見た時のように、凍り付いた。
「…ハウゼン?」
イグデュールが驚いて叫んだ。
その視線の先、フィルシスも背に悪寒を感じて、そっと後ろを振り向いた。
ラークに囮と言われたのは、イグデュールがあの人が来る前にと言ったのは、この人のことだったのだ。
目に入ったその姿は、フードのついた黒い外套をまとい、目を隠すように白い仮面を被った男だった。
ラークと同じぐらい背がありそうだったが、不健康そうに細い体と、頭から被った黒いフードの中で、そこだけ白い仮面が、不気味だった。
仮面から覗くその肌は、火傷でも負ったかのように醜かった。
名前だけ聞いたことのある召喚術師は、同じく頭から黒い外套をまとった、もう一人の人物と一緒に、
コウモリのような翼を持った、鮮血のように赤い体の竜にまたがっていた。
その毒々しい血の様な色の瞳がこちらを見た。
「……!」
フィルシスは戦慄した。
目の前に現れたその姿は、まさに幼い頃、生まれ故郷の街を襲い、街の人々や家族を、次々と殺していった人物と同じだった。
足が震えた。
止まない悲鳴、血の海と化した街、蔓延した腐臭…
目の前で、惨殺されていった人々の顔は、今でも思い出せる…。
きっと、街の人や家族を喰い殺していったあの魔物達は、この召喚術師が召喚したものだったのだ。
もちろん、あの時自分は幼い子供で、ハウゼンにとっては大勢の中の一人だったのだから、向こうは自分を知らないだろうけれど。
「久しぶりだな、イグデュール。初めまして、聖騎士様…」
まるで人のものではないような、低い声でハウゼンが口を開いた。
フィルシスは、恐ろしい記憶に耐えるのと、震える足を抑えるので精一杯だったが、それでも震える手で、剣の柄を握った。
「どうやって、死んでもらおうか…」
ハウゼンの目元は不気味な仮面で見えない、だが、口元は醜い笑みが浮かんでいた。
フィルシスは、自分が嫌な汗をかいているのを感じた。
「イグデュール…お前はどうする?」
ハウゼンに気を取られすぎて忘れていたが、まだイグデュールがいた。
「もちろんオレにつくだろう?世界を手に入れたいだろう?ゲートを偽物とすり替えたのはオレだ…」
ハウゼンの言葉に、フィルシスの背筋を冷たいものが走った。
今、自分の背後にいるイグデュールが、ハウゼンの味方につくとまずい。
そして、ついてもおかしくない。
「僕は…」
イグデュールの答えを、息を殺すようにして待っていたその時、何か不思議な音がフィルシスの耳に入った。
まるで、魔法が使われた時のような。
それと同時に、ハウゼンと共にいた人物は何かに反応したらしく、後ろを向いて手を掲げた。
フィルシスの位置からでは、赤い竜が邪魔で、ハウゼンの後ろが見えなかったが、
ハウゼンが、はっとそちらを向くと、その仮面の下の瞳に殺気がこもった。
忌々しげに歪めた口を開いて、吐き捨てるように叫んだ。
「シャーレン…!」
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