その日は、フィルシスがハウゼンと出会った日から、数日経過していた。
目が覚めた時、シャーレンが側におらず、フィルシスは少し驚いた。
いつもは、シャーレンは先に起きている時でも、自分を起こすか、自分が起きるまで側にいる。
「……」
上半身を起こして窓を見ると、外は暗かった。
まだ夜なのかと思ったが、そうではなく、この日は朝から曇っていた。
元々、晴れていてもあまり明るくはないこの世界が、さらに暗かった。
そのまましばらく窓を眺めていると、寝室の扉が開いた。
「シャーレン…」
白い耳がぴくりと動いたのを見て、シャーレンは微笑んだ。
「もう起きてたのですか」
まだぼんやりと、ベッドの上に座っているフィルシスの側に、シャーレンも座った。
「シャーレンがいなかったからだよ…」
そのまま体を引き寄せられて、フィルシスは無意識の内にしがみついた。
ベッドに腰掛けたシャーレンの膝の上に、頭を乗せて寝転ぶと、頭を優しくなでられる。
「いつも、隣にいないとだめなんですか?」
「…うん……」
そう返事をすると、体を起こされて、抱きしめられた。
耳をなでられると気持ち良くなって、そのまま身を任せた。
「もうすぐラークが来ます。真剣な話をしに」
しばらく胸にもたれているとシャーレンが切り出した。
「……わかった…」
真剣な話という言葉に不安になったが、顔を上げて仕方なく返事した。
シャーレンがそっと立ち上がった。
洋服棚から騎士団の白い制服と聖剣を持ってくる。
「話の後きっと、出かける事になるでしょうね」
着替え終えると、そう言われて聖剣を渡された。
「……」
気のせいだろうか、久しぶりに持つその剣は、一瞬何か違う気がした。
「一つ、聞いてもいいですか」
一瞬のその違和感を、口に出す前に先にシャーレンにそう聞かれた。
そのまま、久しぶりに持ったからだからだろうと、忘れてしまった。
「もしも、まだ向こうの世界にいた時に、私の正体を明かしていたら、あなたはどうしていました?」
「……」
笑顔で聞かれたが、いきなりそんな事を聞かれて、戸惑った。
「神の名の下に裁いていましたか?この剣で。」
「わからない…けど…」
自分が許したとしても、上層部には、そういうわけにはいかなかったかもしれない。
それに、自分が全てを許せたのかどうかも、明確にはわからない。
今は、シャーレンのお陰で向こうの世界を救えたとわかっているけれど、
あの時はシャーレンのせいで死んだ仲間がいる、事実はそれだけなのだから。
「…でも、あの時は、シャーレンが助けてくれるって、知ってないから…だから…」
言葉に詰まっていると、優しく微笑まれる。
「この剣を見るのが久々だったので、ちょっと聞いてみただけですよ」
悲しそうにしていると、抱き寄せられて、耳をなでられた。
「……」
そっとしがみつき返すと、頬に擦り寄る黒いローブの、柔らかな感触がする。
自分の知らない内に、尾がゆらゆらと揺れていた。
このままずっと、こうしていられたら、どんなに幸せだろう…。
もう戦いには行きたくなかった。
それでもその思いが消されるように、呼び鈴が鳴った。
「下に行きましょう。」
側にいたシャーレンの体が離れる。
部屋を出て行くその後を、気持ちを切り替えてついていった。
「この部屋で待っていてください。」
フィルシスは一階の客間に入れられて、シャーレンは玄関の方に向かった。
「シャーレン…」
やって来たラークは、明らかに狼狽していた。
「…とりあえず、入ってくれ」
ラークの悲しみぶりに、シャーレンも驚いた。
客間に案内されて、フィルシスとシャーレンの座ったソファの、テーブルを挟んで向かいに座らされたラークが話し始める。
「部下の一部が離反して、ハウゼンについた…」
「それはいつだ?どのくらいだ?」
「今朝、突然いなくなっていた…だいたい部下の三分の一だ…」
話しているうちに、ラークの声の調子はどんどん下がっていった。
「俺は団長失格だ……」
「…ラーク……」
こんなに深刻に落ち込んだラークに、何と声をかけたらいいものか、シャーレンは迷った。
「それでも今まで、いや、今も…確かにお前についてくる騎士はいるじゃないか…」
今まで見たことない程、弱気なラークに、フィルシスは堪らなくなって声をかけた。
それに、原因はほとんど自分にある上に、そういうラークだったからこそ自分は生きてこれたのに。
「……フィルシス…」
一緒に悲しそうな表情をするフィルシスに、ラークはやっと、それが苦笑でも、微笑む事ができた。
「そうだラーク、分からず屋の部下の事なんか、気に病む必要はない」
「お前はもう少し、気に病んでみた方がいいぞ…」
相変わらずなシャーレンの様子に、ラークはぼそっと呟いた。
「折角励ましてやったのに」
「そうだな、ありがとう、悪かったよ」
少し残念そうな表情のシャーレンに、ラークが今度は、いつものように微笑んだ。
慰めるのが下手な友達。
「それで、突然いなくなっただけで、他に何もなかったのか?」
少し調子を取り戻し始めたラークに、シャーレンはもう一度聞き直した。
先ほどまでの、言葉を呟くような話だけでは分かりにくかった。
「ハウゼンの手紙が置いてあった。
今日の夜、神殿の暗黒神の体の前で待っている、部下との最後の別れをさせてやる、そして俺にも話があると」
ぼそぼそと、ラークは話し始めた。
「本当に離反した者達は、宿舎のどこにもいなかったのか?」
「ああ…あいつらの馬もなかった…」
せめて、一言ぐらい相談して欲しかった。
反発してもいいから、黙っては行かないで欲しかった。
「何の話があるんだろうな」
「部下の事か、それとも部下達と一緒に俺を味方につけようと思っているのか…」
「…本当はハウゼンの方につきたいのか?」
試すようにシャーレンが聞いた。
「もしさ、そうだって言ったら、どうする?」
少し元気の出てきたラークも、からかうつもりで聞いてみたが、真顔でシャーレンが答える。
「真っ先に、お前もよく知っている呪いを、手土産に贈ってやる」
「冗談だって。やめてくれよ、あんな事…」
昔、シャーレンに言い寄って、逆鱗に触れて、暗黒の魔術で不能にされる目に遭った女達や男達を思い出した。
「だが、その手紙通りに、神殿に行くつもりはあるんだな」
少し寂しそうにシャーレンは呟いた。
この場の全員がなんとなく感じる一抹の不安。これからへの。
「ああ…どう考えても罠だろうけどな…」
それでもラークは行くしかなかった。
何も言わずに去った部下に、こんな形で別れたまま、終わらせたくはなかった。
せめて最後に何か言わなければならない気がした。
尊敬する先代の団長が大切にしていた、暗黒騎士団だから。
団長から与えられた自分の義務を果たす事が、死んだ団長への餞だと、いつも思っていた。
「そうだな。どの道、向こうの居場所は全くわからないのだから、仕方ないな」
そう答えたシャーレンを見て、不安そうにフィルシスは聞いた。
「勝算はあるの…?」
今まで聞いた話と、自分の幼い頃の記憶で、ハウゼンは恐ろしく、とても手強そうに思えた。
「離反した暗黒騎士達が集団でかかってきても、ラークの腕ならおそらく、全員をいなせるでしょう。
ハウゼンが強力な魔物を召喚しても、私の魔術で対処できると思います。
あなたがその隙に、ハウゼンを倒せばいいはずでした。
ハウゼンは、見た目どおり、特に体術に長けているわけでもない…だが…」
「トゥリ…いや、あの魔術師か…問題は…」
不意に冷たく無表情になったシャーレンの代わりに、ラークがそっと答えた。
「…私はあいつと互角ではない。あいつのように、古に使われていた魔法までは知らない」
魔力は同等かもしれないが、知識の量は段違いのはずだ。
あの女は自分よりも遥かに長い年月を生きてきて、それを魔術の研究に没頭していたのだから。
自分は、あまり魔術を好きになれなかった。
現在主に使われる精霊魔法と、暗黒魔法しか学んでいない。
「…その人は何者なの…?」
「…ただの、ちょっと強い魔術師ですよ」
不思議そうに聞くフィルシスの背をなでながら、シャーレンはそっと微笑んで答えた。
仮にも自分の実母である人物と戦う事になると、フィルシスが知ったら、また余計な心配をさせる事になるだろう。
自分の心は、あの女に何も感じないのに。
相手も自分に何も感じないのに。
「シャーレン、他にも話があるって、言ってなかったか?」
その問答から、察したラークが別の話を切り出した。
「…あいつの虎が、昨晩遅くに、私の所に来た」
この屋敷には、自分が認めた以外の者が近づくと、自分に分かる魔術の罠がかけてあった。
その罠が反応した事に目を覚まして、見に行くと、あの幻獣がいた。
「鬼虎だけが?」
そう聞くラークに、結論を答えた。
「主人がハウゼンに捕まったと、言いに来た」
「イグデュールが?味方したんじゃなくて、捕まったのか?」
「そうだ、捕まった事以外、居場所も何もわからないと言っていた」
「なあ、お前、前に一回あの虎を魔法で打ちのめしてたよな」
思い出したようにラークが言った。
「ああ」
ラークは、フィルシスが暗黒神官と戦っていた時の事を言った。
あの時シャーレンが、フィルシスの邪魔をさせないように、イグデュールと戦っていた時の事だった。
「それでも、お前に言いに来るなんて、主人思いのやつだなあ…」
自分の記憶が正しければ、容赦ない攻撃だった事を思いながら、ラークが呟いた。
「どうせ血がないと困るからだろう。私があいつを助けてやるとでも思っているのか」
「助けてあげないの?」
ぼそっと呟いたシャーレンに、そっとフィルシスは聞いた。
「…助けて欲しいんですか?」
面倒そうな答えが返ってくる。
「助けるというか…どうせハウゼンの所には行くじゃないか…」
しゅんとし始めたフィルシスに、シャーレンが小さくため息をつく。
「そうですね、この辺で一つ、恩を売っておくのもいいですね」
「お前は、素直に助けに行くと、言えんのか」
やれやれという風に、ラークが苦笑した。
夜に着くように、三人は昼をだいぶ過ぎてから屋敷を出発した。
日が沈む頃に、神殿の前に着いた。
主人を失っても、未だ佇んだままの、黒みの強い灰色の大理石でできたそれは、フィルシスにとってはいつ見ても不気味だった。
初めてこの世界に足を踏み入れた時のことを思い出す…
神殿の、本殿に入る前に、四つある門の一つをくぐり抜ける。
「…罠とか、かかってると思うか?」
それまでは、特に何も起こらなかったが、正面の門に入る前に、立ち止まってラークがシャーレンに聞いた。
「調べてみるか?」
そう言って、シャーレンは呪文を唱えた。
もしも、以前に自分が使ったような魔法の罠がかかっていれば、これで解除できる。
「…罠の魔術はかかっていない」
「そうか。なら、進んでみるか?」
「だがもしも、私の知らない魔術による罠が仕掛けられていたとすれば、ここで終わりだ。
あいつのことだ、それは十分にあり得る」
進もうとした二人に、立ち止まったまま、シャーレンは注意した。
「……」
三人共、しばらくの間黙った。
「どうせ、最初から、罠みたいなものなんだ…」
その沈黙を破ったのはラークだった。
「それに、罠があろうとなかろうと、進むしかないんだ…行こうぜ」
恐る恐る進みだす。
フィルシスもラークも、いつでも剣を抜けるように柄に手をかけながら、慎重に進んだ。
かつかつと、床を蹴る音だけが暗い内部に響く。
その音以外、何の物音もしない中、やがて正面の扉にたどり着いた。
「この扉を開けた瞬間に、襲われたりすると思うか?」
大きな両扉の前で、立ち止まったラークが誰とは無しに聞いた。
「有り得るな」
シャーレンはそう返事して、再び三人は黙り込んだ。
「安心しろ、最初は何もしない。話があるだけだと、手紙にも書いただろう」
足音で気づいていたのか、戸惑う三人に、中からハウゼンの声が招いた。
「最初は、かよ…」
それでも進むより他はなく、ラークは扉を開いた。
「いた…」
そっとラークが呟いた。
何度見ても、フィルシスはその姿を恐ろしく思った。
本殿の壁の燭台に、赤い光が灯って内部を不気味に照らす中、ハウゼンが立っていた。
あの日、闇に溶け込むように、暗黒神官が立っていた場所と同じ場所。
彼らの神の眠る、大きな黒い水晶の下に。
白い仮面を光が赤く照らし出す。
血塗られたように。
「やはり来たのか、三人で…ご苦労な事だ」
後ろには、すでに彼が喚び出していたのか、あの赤いドラゴンや、他の魔獣達数匹が牙を向いていた。
「あいつらは、どうした!」
ラークはハウゼンに向かって叫んだ。
幻獣や魔物はいるが、部下達の姿はどこにも見当たらない。
「まあ、そう慌てるな」
ハウゼンが低く笑うように、そう答える。
ラークとフィルシスの注意がハウゼンに向いている間も、シャーレンは辺りを見回した。
あの女の姿が、どこにも見えない。
それを不思議に思った時、はっとした。
「この呪文…!」
シャーレンだけは、聞き覚えのある女の声が息を潜めるように、どこかで呪文の詠唱をしているのに気づいた。
その声は小さすぎて、細すぎて、魔術の詠唱を知らない者なら、それが唱えている声なのだとわからなかったかもしれない。
それに、どこにもその声の主の姿は見えないのだ。
あの女は姿を見えなくする魔法で、最初から隠れていたのだ。
唱えられた文句は、他者を意のままに操る呪文だった。
それを止める呪文を、シャーレンは唱え始めたが、気づくのが遅かった。
「な…何…!」
フィルシスと、ラークの驚く声が重なった。
鋭い剣の切っ先が、シャーレンの心臓に向けられて当たる。
…暗黒騎士団長だけが持つ事を許される、髑髏が彫られた柄の美しい剣が。
「……ラーク」
シャーレンがそっと剣の先を見ると、ラークが困惑した表情をしていた。
「…体が勝手に…」
ラークは震える声で呟いた。
「動けない…?!」
フィルシスの方も、驚いて叫んだ。
「そのまま動くなよ、シャーレン…その剣で貫かれたくないならな…」
ハウゼンが、音も無く近づく。
「また会ったな、聖騎士様…」
動けずにいるフィルシスをハウゼンが後ろから、引き寄せた。
「…フィルシス様…!」
振り向いて、シャーレンは思わず叫んだ。
ハウゼンが口元に笑みを見せた後、すぐに二人の姿が消えていった。
未だ見えない女魔術師が、フィルシスとハウゼンにも姿を見えなくする魔法をかけたのだ。
「く……っ!」
動けない体をどうにかしようと、フィルシスは必死に力を入れたが、魔術は解けそうにない。
ハウゼンに引っ張られて、そのままシャーレンとラークの隣から引き離された。
「……!」
かけられた呪文せいか、声も出せなかった。
「近くで見ると、随分とおきれいな顔をしているのだな」
低く、囁くような暗い声が響く。
後ろから手を伸ばされて、ハウゼンに顎を持ち上げられる。
ラークと同じぐらいの背の高さのハウゼンに、上を向かされれば、覗き込むようにして見ている、彼の顔が見えた。
仮面の下の暗い瞳が、こちらをじっと眺めた。
「……っ」
その目は、ラークのような、輝きを持った黒ではなかった。
ずっと見ていると、見られていると、吸い込まれて戻っては来れなくなりそうな、奈落の底の瞳だった。
「怯えているな。オレが恐いのか?」
くっくっと、ハウゼンが低い声で笑う。
フィルシスは、もしも魔法をかけられていなくて、体が自由なら、足が震えていたかもしれないと思った。
暗黒神官を前にした時とは少し違った。
ハウゼンを見ていると、どうしても、大切な家族を失った時の、悲しくて恐ろしい記憶を思い出してしまう。
「お前の相手は、後で嫌という程してやる」
そう言って、ハウゼンは視線をフィルシスから外した。
不気味な仮面の奥から、シャーレンの中性的な顔を睨む。
そこには様々な憎しみが混ざっていた。
惚れた女を手に入れるのに、別の男に先を越された証。
体中に火傷の跡の残る自分とは違う優美な容貌。
自分とは違って、好きなものを手に入れたこと。
憎いのに、好きな女と同じ顔。
「だが、シャーレン……お前が神官を裏切らなければ、こんな風に、聖剣使いは手に入らなかったな。
その礼として、一つだけチャンスをやろう。三十秒だけ時間をくれてやる」
ラークの剣の切っ先は、シャーレンの胸に向けられたままだ。
フィルシスはその光景を、ハウゼンに後ろから押さえ付けられたまま見た。
自分の死より、もっと恐ろしい事がある。
それは、大切な人が殺される事だ。
![]()
![]()